第十一話 そして日常
月曜日。会社に行くと、いつものように周囲の冷めた視線が俺を迎えた。
以前なら、その一つ一つが針のように胸に刺さっていたものだが、今日はなんだか妙に軽やか。
——なんでだろう? 魔物と戦って生還した後だと、こんなの全然どうってことないな。
席に着くなり、後輩の高坂君が心配そうに声をかけてきた。
「大変でしたね、山川さん。急な入院だったとか……もう大丈夫なんですか?」
「ああ、ありがとう。ちょっと熱出しちゃってさ。もう平気だよ」
陰で俺をボロクソに言ってるくせに、と思いつつも、なぜか前ほど腹も立たない。
あの日を境に、自分の中で何かが変わったらしい。
あの日。
そう、アンジュに拉致同然に連れ出された、あの金曜の夜だ。
結果的に会社を無断で早退した形になった俺は、アンジュに何とかならないかと泣きついた。
彼女は「細かい! 細かすぎるあんたを見てるとイラつくわ!」とキレながらも、なんだかんだ言って「『急病で緊急入院した』ってことにしといたから」とあっさり解決してくれた
無敵すぎるだろ、この女神……。
「でも、どうせ一か月後にはいなくなるんだから、あんまり気にしても意味ないと思うけどね」
アンジュは、討伐後の帰りのタクシーでそう言った。
「どーせ、この世界だって壊れちゃうんだし。会社がどうなろうと、関係ないでしょ」
──すごい言い草だ。これが人々を導く女神の発言とは、到底思えない。
「でも、今回みたいに何とか勝てたんですから、この調子でいけば魔王討伐もできるんじゃないですか?」
「無理無理、絶対に無理。今回だって、シンがマグナフォルテを顕現できたから勝てたようなもんじゃない。あれがなきゃ、一か月どころか、あの場所で世界は終わってたわよ」
アンジュは、口に手を当てて大きな欠伸をする。
「それとも、まさか勇者ちゃんに最後まで付き合うつもり?」
欠伸で出た涙を指でこすりながら、彼女は俺に尋ねた
「それに……薄々分かってるかもしれないけど、今回倒した"あれ"は、魔王どころか四天王ですらないわ。単なる特攻隊長みたいな雑魚よ」
「じゃあ、本当の魔王はもっと強いんですか?」
俺の言葉に、アンジュはじっと窓の外を眺めながら答えた。
「……たぶんね。強い、なんてものじゃない。もしかしたら、かつての私達のパーティでも、勝てなかったかもしれない」
ただぼんやりと外を眺めているように見えて、アンジュの瞳は、何か言い知れぬものを見据えるように鈍く光っていた。
シンが斃した魔王より、強い。
もしそれが本当なら、シンの借り物の力よりずっと弱い勇者ルーリに、勝ち目があるとは思えない。
──ならば、一か月を待たずして、この世界は終わる。
「運転手さん! ここで降ります!」
三軒茶屋の駅前で、アンジュはそう声をかけタクシーを降りた。
しばらくは、ソニアの家に世話になるそうだ。
女神に家が必要なのか? とも思ったが、この世界で肉体を得ている以上、寝床も、食事も、全て人間と同じように必要らしい。
ちなみに、あの後ソニアと勇者ちゃんは、例の黒塗りの車に乗せられ、どこかへ行ってしまった。
▽▽▽
その日は、何事もなく仕事を終え、俺は急いで会社を出た。
周りの同僚たちは、珍しく定時ダッシュする俺を、驚いたように見ていた。
考えてみれば、こうして誰かとの約束のために会社を急いで出ることなど、入社してから一度もなかった気がする。
連中も、まさか俺の約束の相手が、ゴージャスな金髪美人とクールな銀髪美人だとは、夢にも思わないだろう。
自分の中で、気恥ずかしさと、ほんの少しの優越感が混ざり合った、不思議な気持ちがした。
——とはいえ、状況としては、何も喜ばしいことではないのだが。
今日の昼休み、めったに鳴らない俺の携帯に着信があった。
画面に異様なノイズが走り、一瞬スマホが壊れたかと思ったが、反射的に通話ボタンを押すと、あの陽気な声が聞こえた。
「ヤッホー! 生きてるー? アンジュだよ! 今日の十九時、作戦会議するから来てね。ソニアと勇者ちゃんも来るから!」
一方的なアポ取りは、さすが女神様と言うべきか。携帯の異常な挙動は、きっとアンジュ自作のスマホ、通称『A-PHONE』からかかってきたせいだろう。
こうして俺は、有無を言わさず参加することになったのだ。
待ち合わせは、渋谷駅から歩いて十分ほどの、小洒落た個室居酒屋だった。
店に入るなり、奥の方から「こっちこっち!」と手を振る金髪美人の姿が見えた。
テーブルに着き、アンジュの隣に座ろうとすると、向かいに座っていたソニアが慌てて席を立ち、「ど、どうぞ!」と自分の席を勧めてくる。俺がその席に座ると、彼女はアンジュの隣ではなく、俺の隣にすとんと腰を下ろした。
その一連の様子を、アンジュが「ムフフ」と含み笑いを浮かべて見ている。
「な、生中でよろしいでしょうか……?」
ソニアが、やけに緊張した顔で聞いてくるので、俺もつられておどおどしながら「は、はい。お願いします」と頭を下げた。
彼女は小さく手を上げ、「すみません」と店員を呼ぶと、生中一つと芋焼酎の水割りを一つ、そして自分のためにはカルーアミルクを注文した。
「カクテルがお好きなんですか?」
俺が尋ねると、彼女は「いえ、あまりお酒が得意な方ではなくて……」と可憐に微笑む。
──先日は、店に来るなりジョッキの半分を一気飲みしていた気がするが……。
向かいで、アンジュがグラスを手にニマニマと笑っている。
一方で、ソニアは前回とは打って変わって肩をすぼめ、両手を膝の上に乗せて、やや俯き加減に座っていた。
「な、何かあったんですか?」
俺がおずおずと尋ねると、アンジュが我慢できなかったかのように、ブッと吹き出した。
「この子、こないだのシンは偽物か何かだと思ってたらしいのよ。でもほら、マグナフォルテを見ちゃったから、あの頃の勇者シンを思い出して、今更ガッチガチに緊張してるわけ」
アンジュが揶揄うと、ソニアが「そ、そんなんじゃありません!」と顔を赤くして怒る。
「まさか、シン様が仮初めの御姿でこの世界に御滞在されているとは、露知らず……」
「いや、これがまんま、正真正銘の今のシンだけど」
アンジュが真顔で訂正するが、「もーっ、先輩! なんてご無礼なことを!」と、ソニアは聞く耳を持たない。
——いや、結果的に、一番失礼なのはソニアさん、あなたです。
「ところで、勇者さんは?」
俺が尋ねると、ソニアが居住まいを正して答えた。
「今、アルバイトの最中でして、終わり次第こちらへ向かうそうです」
アルバイト? あの勇者が?
「へぇ、勇者をしながらバイトもだなんて、大変ですね。社会勉強か何かですか?」
俺がそう尋ねると、ソニアは悲しそうに首を横に振った。
「いえ……今では、アルバイトが本職で、片手間に勇者をしているようなものです。バイトも、三つ掛け持ちですから」
——三つ、掛け持ち? なんでそんなことに……?
「パーティの仲間たちへの『ギャラ』を、払わなくちゃいけないので……」
確かに、あの日、解散の時に名前や口座番号などを聞かれはした。まさか、あの報酬を、彼女が……?
「あれだけ人数を集めると、時給もバカにならないわよねぇ」
アンジュが、追加で頼んだ芋焼酎をうまそうに飲み干した。
マジかよ……!?




