第25話 伴侶
ロズがこんなに真剣な顔をしているのを、初めて見た。
ミシェルは祈りの間で、いつもメリザンドが使っている椅子に座らされていた。大丈夫だと言っているのに、立ち上がることさえ自分でさせてもらえなかった。
床にいたミシェルを両手で抱き上げ、覚束ないけれど丁寧な手付きで手当をして、どんな話をするのかと思えば。
靄が晴れたような気分だ。
彼がロズノアテムを名乗った時、ミシェルの中に疑問はなかった。だって彼が神様ならば、腑に落ちることがたくさんあった。
視線を合わせるためだろうか、目の前で膝立ちになったロズは、まっすぐこちらを見つめている。
ミシェルがどんな答えを出そうと、ロズがやることに変わりは無いのだろう。時間の流れを元に戻す。それがロズの、今の使命なのだから。
手を伸ばそうとして、少しだけ躊躇った。宙に彷徨ったミシェルの手を、ロズが掴む。
「決められない?」
ロズか、メリザンドか。
メリザンドを選べば、これまで通りだ。彼女のために尽くし、意思も言葉もなく過ごす日々。
ロズを選んだら、どうだろう。忠誠を捧げたメリザンドを裏切ることになる。どれほどの怒りを買うのか、検討も付かない。それでもきっと、ミシェルは心安らかに生きることができる。
もう、前のようにメリザンドを信じることができない。いつ殴られるのかと怯えて、常に彼女の機嫌を伺い、下を向いていなければならない。
それは、この神殿で拾われる前に戻るのと同じだ。
「……わたし」
「ん?」
「お嬢様は、やさしいひとだと、おもってた」
「うん、そうだね」
「私のことを、殴らない、とじこめない。……殺そうと、しない」
ゆっくりと話すミシェルの言葉を、ロズは穏やかな顔で聞いている。
「でも、きづくべきだった。……お嬢様は、私を殺した」
一つ前の時間で、メリザンドはミシェルの首を切り落とした。はっきりと覚えている。
「おじょうさまは、めずらしく本を読んでた。『生贄の歴史』という本……。わたしを身代わりにして、助かろうとしたのだと、思う。……意味は無かったけど」
結局時間は壊れたままで、ミシェルが死んだ後に時間が巻き戻ったということは、またもやメリザンドは殺されたのだ。
けれどもし、身代わりが成功していたとして。メリザンドの代わりに死んだミシェルのことを、彼女が悼んでくれたとは思えない。
以前のミシェルならば信じていられた。あの人の為ならば死んでも良いと、自ら首を差し出すことさえしただろう。
今のミシェルには、無理だ。
「わたしが勝手に、あの方はやさしいとおもっていただけ。……それなのに、こんなに怖いの。たったいちど、折檻をうけただけなのに」
それだけのことでメリザンドへの忠誠が薄れてしまうなんて、自分の薄情さに虫唾が走る。
それでも。
「でも。……お嬢様のところにかえりたいと、思えない」
「……そっか」
ロズは、ただ頷くだけだ。
ミシェルが選ぶのを待ってくれている。それがどんなにありがたいことか、今なら少しだけ分かる。
「ロズは……」
目の前にある赤い瞳を見ながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
ミシェルの心にある、形を持たない気持ち。掴み所のないそれを、どうにかロズに見せたくて。
「すごく、やさしい」
ロズは、意地悪だ。わざとミシェルを困らせる。訳の分からない行動ばかり取るし、質問には大抵答えてくれなかった。
けれど。
彼はとても、そう、優しい。
そのことを、ミシェルはもう知ってしまっている。
お腹がいっぱいになる食事をくれた。神殿に部屋を用意してくれた。街に服を買いに行ってくれた。
ときどき自分のデザートを分けてくれるのも、春用の服を買いに行こうと言ってくれるのも、部屋が殺風景だから家具を増やそうと勝手に測量しているのも、全部ロズなのだ。
そして気づく。
この人は、メリザンド以上のものを、ミシェルに与えてくれたのだと。
「やさしすぎるから、どうしていいか、わからなくなるの。私は……、なにも、返せないのに」
ずっと、誰かに従うことで生きてきた。自分の意思など持ったこともない。持つことを、許されたこともない。
ロズはなんでもミシェルに選ばせようとする。朝に飲むお茶の種類から、これからの生き方まで。
そんな彼に、ミシェルが差し出せるものなどないのだ。
「あっさりお嬢様のことを好きじゃなくなるくらい、薄情で。じぶんのものなんて、何も持ってない。ロズのために、なにができるかもわからない」
少しだけ、ロズが目を細める。
「うん、それで」
「それで。……それでも」
ぐるぐると胸の中で渦を巻くこれが、どうか、ロズの望むものでありますように。
そう願いながら、ミシェルは微笑んだ。
「それでもいいなら、わたしは、ロズといっしょがいい」
優しくしてくれた。たくさんのものを与えてくれた。
だから応えたい。返したい。ミシェルに出来ることなど限られているけれど、この身の精一杯を捧げたい。
「そう。……かわいそうに」
ロズはふわりと笑った。
「僕なんかに捕まってさ。うん、でも、メリザンドなんかよりはまっとうに愛でてあげるよ」
分かりやすく上機嫌になったロズは、立ち上がってミシェルの頭を撫でた。そして、背後の神像を見上げる。
「でもこれで、心置きなく確認できる。……ね、ミシェル」
「なに?」
神像のある方を向いてしまったから、ミシェルからはロズの顔が見えない。けれどなんとなく、夜空を見ていたあの時と同じ顔をしているような気がした。
小さく息を吸い込む音がして、ロズは向こうを向いたまま言った。
「メリザンドは、ちゃんとここでお祈りしてた?」
「……? していた、はず」
「それを確認した? お祈りしてるところ、その目で見た?」
「……」
彼が言いたいことがなんとなく分かった。
急速に乾いていく口の中を自覚しながら、ミシェルは答える。
「見てない。……お嬢様が、お祈りをしているところ、見たことがない」
メリザンドはいつも、ミシェルだけを祈りの間に連れ込んでいた。そして、「特別に、ミシェルにだけお祈りをさせてあげる」と言って、ミシェルを床に座らせた。
お祈りをする間は、両手を組んで、目を閉じ、決して顔を上げるなと言われていた。ミシェルはそれを忠実に守っていたから、お祈りをしている間、メリザンドが何をしていたかを知らない。
「……ここでのお祈りには、ちゃんと意味がある」
顔を背けたまま、ロズが語る。
「一人の人間が、ここで祈りを重ねること。そうすることで、僕との繋がりを強くする。一年をかけて繋いだ縁で、祭りの儀式で力を使う僕を支える。それが伴侶役」
「えっと……、ロズの負担を、かるくするってこと?」
「そう、ミシェルは賢いね。伴侶役がいるから、年に一度の儀式だけで時間の流れが保たれる。別に、毎日欠かさず、なんて言わないよ。少しくらい休んだっていい。人間は体調を崩すこともあるし。……でも、一度も祈りを捧げなければ、役目は果たせない」
心臓がドキドキと音を立てる。
「お祈りって……、何をするの?」
「なんでもいい。ただ、ロズノアテムを思えばいいんだ。この部屋で僕の事を考えて祈る。それを重ねると、やがて花が咲くようになる」
「花……」
「この像が握ってる蕾がね、開くんだ。色や形は、祈りを捧げた人によって違うけど。花が咲けば、祈りが足りている証拠。祭りの日までに花が咲かなかったら、その伴侶役は使えない」
去年は花が咲かなかった、と、ロズは言った。
「メリザンドの代理を、先々代が務めてたんだけどね。限界だったんだよ。もういい年だったし……。だからこの一年は、僕が一人でずっと時間を守ってた。……それもあって、メリザンドの動向を把握しきれなかった」
先代の伴侶役であるメリザンドの母親は、彼女がまだ幼い時に亡くなった。それからは、先々代であるメリザンドの祖父が伴侶役を務めていた。だが、その先々代も去年の冬に体調を崩し、年を越してすぐに亡くなってしまった。
それはミシェルも知っている。メリザンドが、「やっとロズノアテムの伴侶になれる」と言っていたから。
「ミシェルが、」
小さく震えるロズの声が、名前を呼ぶ。
それがどんな感情から来る震えなのか、ただの人間であるミシェルには検討もつかない。
「ミシェルが祈ってくれてたんだね。メリザンドじゃなくて」
ようやく振り向いたロズは笑っていた。眉尻を下げて、唇を歪ませたその表情は、ともすれば泣いているようにも見えた。
「ねえ、祈ってみせてよ、今」
きらきらと赤く輝く星のような瞳を見上げて、ミシェルは頷く。
椅子に座ったまま、両手を組み、頭を垂れた。神像ではなく、両腕を広げて立つロズに向かって。
いつも、どうやって祈っていただろう。
(ありがとうございます。今の幸福な時間に、感謝します。……ロズ、あなたのやさしさに救われた。ありがとう、私を助けてくれて)
ありきたりな感謝の言葉しか出てこない。これで良いのだろうかと小さな不安が過る。
それでも一心に、ロズの顔を思い浮かべながら祈っていると。
「……見てよ」
頬を撫でる指先に促されるまま、顔を上げる。ロズが微笑んで、頭上にある神像の手元を指さした。
そこには花が咲いている。神殿の外壁にあるのと同じ、真っ黒に染まった薔薇だ。
伴侶役であるメリザンドは、今ここにいないのに。
「ロズノアテムの象徴はね、ただの薔薇じゃなくて、黒い薔薇なんだ。でも、今まで黒薔薇を咲かせた伴侶役はいない」
「それって、どういう……」
ロズはミシェルを抱きしめた。頭の傷には触れないように、けれどしっかりと、離さないと言わんばかりに強く。
「君が、僕の伴侶だ」
「わたしが……」
「そうだよ、かわいそうなミシェル」
言葉とは裏腹に、楽しげなロズの声が耳元で弾んだ。




