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ヨルサが語ったこの世界の昔語りは、大よそこのような内容だった。
遠い遠い昔、人がまだ大地に立っていなかった古の時代。
世界には大きな亀裂と、それを隙間なく満たした塩の水。
そして亀裂を満たす水の中に佇む、一人の偉大な巨人だけがあった。
それ以外には何もなく、その三つだけが世界のすべてだった。
ある時、巨人は自分の頭上を見上げたという。
そこには何もなかったが、巨人がそれを見上げたことで、何もない場所は「空」となった。
亀裂よりも大きな空は、塩の水の代わりに、巨人の吐き出す息で満たされた。
巨人の吐息で満ちた空には、いつの間にやら竜が翼を広げて飛んでいた。
大きな亀裂と、それを満たす塩の水、そこに佇む巨人。
巨人の吐息に満ちた空と、そこを飛ぶ竜。
それ以外には何もなく、その五つだけが世界のすべてだった。
やがて立っていることに疲れた巨人は、そこで初めて水の中に潜った。
そして時間をかけて、水の底から一つの大地を引き揚げた。
亀裂をぴったり塞いでしまいそうな、それは世界で最初の陸地だった。
満足した巨人は、そうして出来た大地に腰を下ろしたが、巨人はあまりにも大きかった。
その重みと衝撃により、大地は割れて幾つかの断片に分かれてしまった。
塩の海に幾つもの大地の欠片が散らばり、割れた断面から光輝く黄金が顔を覗かせた。
空で眺めていただけの竜が、その光に目を奪われた。
輝く黄金を自分のものにしたくて、竜は初めて分かれた大地に降り立った。
だがすべての大地は巨人が水の底から引き揚げたもので、巨人はそれは自分のものだと怒った。
竜はそれに納得せず、やがては巨人と竜の争いへと発展していく。
大きな亀裂と、それを満たす塩の水。その上に散らばった大地。
巨人の吐息で満ちた空の下で、争い合う巨人と竜。
とても大きな力を持つ両者の争いは、そんな世界をさらに引き裂いてしまうかもしれない。
そんな中で、亀裂の端から流れてきたのは、小さな人々。
巨人よりも竜よりも、遥かに小さなその人々が、巨人と竜の大いなる争いを仲裁した。
「……それが“三者の盟約”、か」
夜道を歩きながら、トールはヨルサから聞いた昔語りの題を舌の上で転がす。
その背には飲みすぎてすっかり酔い潰れてしまったヨルサが、小さく寝息を立てている。
それを起こしてしまわないように、ゆっくりと寝静まった村の中を進んでいく。
その昔話を聞いて先ず感じたのは、「似ている」という感想だった。
トール自身が知る、自らの世界の神話。
最初、世界には巨大な亀裂と、その中で生まれた原初の巨人ユミルだけがあったという。
その始まりの巨人を、神々の王オーディンを含めた三神が殺害したことにより、世界は広がったのだ。
「しかし似ているが、似てるだけではあるな……それにこの伝承には、神々が登場しない」
竜と巨人、それと人間。
重要なのはこの三つの種で、神々は現れない。
ヨルサの話によれば、竜も巨人も伝説上の生物ではなく、確かに存在するらしい。
この“三者の盟約”の後、最も大きな大陸を巨人が占有し、竜は多くの宝物を得て、人間達は肥沃な土地を住処にしたとされている。
巨人の大半は海の向こうの大陸に去ってしまったが、人間に混じって生きることを選んだ者も少なからずいる。
竜は自らの宝物と共に、人では容易に踏み込めない秘境で暮らしているとか。
ただ盟約を知る最も古い竜達は、“十竜の円卓”という取り決めの下、人間達との交流を続けているらしい。
その辺りは話半分に聞いていたが、これで大雑把にはこの世界の背景を知ることはできた。
やはりここは、トールの知る世界とは完全に別世界なのは間違いないようだ。
如何なる因果で招かれたのかは未だに不明だが、神が不在――というより、神という概念すら存在しないのは、少しばかり気になる。
「精霊だの、祖霊だの、そういう信仰が根付いとるって言うなら、まぁ分かるが」
聞いた限りでは、そういうものもないらしい。
日々の恵みや、ささやかな幸運。
そういったものに感謝はするが、具体的に何に対して感謝を捧げる、というのはないそうだ。
なんとなく不自然さを感じてしまうのは、果たして気にしすぎだろうか。
人は概ね、自分の理解できないものを、何か超越した存在に置き換えて理解しようとする。
神というものを己の上に置くのは、人の本能と言えるかもしれない。
当然、文化の違いは大きいし、ましてここは世界そのものが違うのだ。
だから神が存在しないのも、ただそういう世界であるからだけなのかもしれない。
「そんな世界に、神であるワシが招かれたのは、果たしてそれも偶然なのか………」
偶然というものを、トールは信じていない。
神である自分が、神のいないこの世界に落ちてきたことには、必然たる何かがあるはずだ。
それが運命と呼ぶべきものかどうかは、今のトールには知る由もないが。
「まぁ、現状じゃあ情報も足らんしな」
とりあえず前に進んでいれば、知るべきことは自然と耳に入ってくるだろう。
ならば不必要に悩んだところで仕方がない。
その辺りの思考をスパッと打ち切ると、程なくして目的地が見えてくる。
「ここか」
村の端にある、小さな木造りの家。
少々古びてはいるが、掃除や手入れはよく行き届いている。
家族で暮らすには少し手狭で、姉弟2人で過ごすには少し広い。
そんな確かな年月を感じさせる、小さな木造りの家。
ヨルサの背負った位置を直しつつ、トールは片手で玄関の扉を押し開いた。
「………お?」
そこは大きなテーブルと、石造りの暖炉が置かれた居間だった。
奥には台所もあり、食堂も兼ねているのだろう。
その暖炉の前、ランプの小さな灯りだけをつけて、椅子には小柄な少年が座っていた。
ヨルサの弟で、名はウルルと言ったか。
どうやら姉の帰りを待っていたらしく、寝巻きに毛布をかぶりながら、椅子の上で船を漕いでいる。
「風邪を引いちまうぞ、まったく」
トールは苦笑いを浮かべ、ウルルの頭を軽く指で小突いた。
ウルルは驚いて椅子から転げ落ちそうになるが、それはトールが片手で支えることで事なきを得る。
眠そうな目を擦りながら、ウルルは姉を背負ったトールを見上げた。
「トール、様?」
「おうよ。お前の姉ちゃんもちゃんと連れてきてやったから、寝室に案内してくれ」
姉と同じ亜麻色の髪をくしゃりと撫でてやる。
力強い手つき。姉のヨルサもよく頭を撫でてくれるが、彼女はいつだって柔らかく撫でてくれる。
慣れないはずのその力加減に、何故かウルルは奇妙な懐かしさを感じていた。
「ん、どうした?」
「あ、ううん、なんでもないよっ………です」
「良い良い、無理に丁寧に喋らんでも」
慌てて言い直したウルルを、トールは豪快に笑い飛ばす。
そして彼の案内で居間から繋がる扉の一つを開き、姉弟の寝室にお邪魔する。
小さな衣装棚と鏡台、それと二人で使うには少し小さいベッドがあるだけの部屋だ。
まずは熟睡しているヨルサをベッドに寝かして、続いてウルルをひょいと抱き上げると、その隣に下ろしてやる。
「姉ちゃんを酔っ払いにして悪かったなぁ。さ、もう夜も更けた。子供は寝る時間だ」
ぐっすり眠っているヨルサと、毛布に包まったウルルを、それぞれ撫でてやり。
さて自分の寝床はどうするかと考えたところで、小さな手がトールの指を軽く掴んだ。
「お? どうかしたか、ウルル」
「………あ、えっと………」
何か気になることでもあるのかと、首を傾げたトールに、ウルルは少し口ごもる。
どうしようかと迷って、迷惑ではないかと悩みつつも。
幼い少年は、今は美しい女性の姿である雷神に、その願い事を口にした。
「歌、聞かせて欲しい」
「………歌とな」
「よく眠れるように、って。姉ちゃんは、寝る前によく歌ってくれるんだ」
子守唄、というやつだ。
年齢から察するに、ウルルが母を失ったのはそれこそ乳飲み子の頃だったかもしれない。
姉のヨルサは母の代わりを健気に勤めているだろうが、彼女自身もまだ幼い。
自分達を助けてくれた頼もしくも美しい女性に、母の面影を求めてしまうのは無理からぬことだろう。
問題があるとすれば、トールが子守唄なんてまったく知らないことぐらいか。
どうする。どうするんだこれ。
物凄く純粋かつ真摯にお願いされてしまったが、子守唄とか知らないから無理とは言えない。
ちらりと様子を伺えば、幼い少年なりの葛藤があったことが、その表情からもよく伝わってくる。
これ断るとか鬼畜の所業だ。神様的にも無理。
悩み、悩んで、悩み抜いて、トールは結論を出した。
「………眠れるかどうか分からんが、ワシの知る歌でいいなら、聞かせてやろう」
それでいいか?と。
確認すれば、ウルルは本当に嬉しそうに笑って頷く。
ならば良しと気合を入れて、けれど眠るヨルサは起こしてしまわぬように、トールは静かに歌を吟じる。
神話伝承に語られる、自身――北欧の雷神トールの大活躍を。
本人でしか出せない臨場感たっぷりに。
―――寝かしつけるどころか、大興奮のウルルと共に朝を迎えてしまったのは言うまでもない。
雷神が、その手で守った人々と穏やかな夜を過ごしているのと、時を同じくして。
その地に渦巻いているのは、恐怖と、絶望と、死と、それらを等しく混ぜ合わせた混沌だった。
立ち並ぶ木々は枯れ果てて、足元の地面すら腐敗している。
そこに生き物の気配はない。
すべて死ぬか、歪んでいくから。
腐臭と悪臭。
その中を、雷神に打ち払われた魔物達が逃げ惑っている。
怯えて、恐れて、迫り来るものから逃れようと必死に足掻く。
そしてその足掻きを嘲笑うように、彼らの背に死神の吐息が触れようとしていた。
黒い煙か、あるいは雲か。
まるでそれ自体に意思があるかのように、逃げようとするゴブリンやトロールの周囲を漂う。
漂って、少しずつ身体に絡みつき、やがてはすっぽり覆ってしまう。
どさりと、また一匹のゴブリンが、それで絶命した。
見た目の上で外傷はない。ただ恐怖と苦痛に引き攣った死に顔は、ひどく壮絶だ。
そうやって見せつけるように、彼らの“主”は敗残者に制裁を加えていく。
泣いて地に伏し許しを請う者もいるが、それも同じように殺してしまう。
彼らは己の命を破ったが、それだけではない。
役割を満足に果たせないばかりか、彼らは主以外の「何か」を恐れて逃げ帰ってきた。
その恐怖に心折られている以上、こうする他ない。
【 恐 れ よ 】
それが我が力となる。
故にキサマらの生命を、我が糧にせよ。
【 怖 れ よ 】
その魂も何もかも、すべて供物として捧げよ。
末後に至る一瞬の苦痛は、何よりもこの身に染み渡る。
【 我 を 畏 れ よ 】
例外は認めない。
捧げられた生贄を、一匹たりとて逃がしはしない。
その命を等しくすり潰して、一滴残らず飲み干していく。
恐怖を、絶望を、死を。
……やがて、その場から動くものはいなくなる。
枯れた木々に、腐敗した大地。横たわる魔物達は、土に還ることはない。
やがてその肉は腐り、生命を拒む毒となって地を穢していく。
それは呪いだった。“三者の盟約”の頃より約束されていた呪い。
闇は哂う。屍の上で黒々と渦を巻きながら、呪いに招かれた闇は高らかに哂う。
力が漲る。力が溢れる。
この地に根付く呪いと共に、己の存在がどんどん強大になっていくのを感じる。
恐れよ、怖れよ、我を畏れよ。
我は神亡きこの大地に降り立った、新たなる神。
この地に生きるすべての者を呪う、禍いの神である。
闇は謳う。自らの降臨を、自らで言祝ぐ。
そうして闇から新たな呪いが溢れ出し、その呪いは大地を更に腐らせていく。
遠からず、そこからまた新たな魔物が這い出してくるだろう。
彼らが恐怖と絶望と死を振り撒き、彼ら自身が恐怖と絶望に塗れながら死ぬ。
呪いは廻る。世界のすべてを穢しながら。
闇は哂う。いずれ己が大いなる災厄になることを感じて。
ただ一つ、その闇にも気がかりがあった。
逃げ戻った魔物達が怯えていた、猛々しき雷光の輝き。
その輝きがいずれ、この禍いを切り裂くのではないだろうかと。
―――この地に、神たる者は二つも要らぬ。
そう考えて、闇は蠢く。
雷の輝きを、その暗闇で覆い尽くそうとするように。




