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魔物とは、一体如何なる存在であるのか。
この地に生きる者には―――少なくとも、人間の中にはそれに答えられる者はいない。
他のどんな生き物とも異なる狂った生態系。
血に飢え、戦に狂い、目につくものすべてに襲い掛かる凶暴性。
彼らは明確な人類の天敵だった。
過去の歴史を紐解けば、魔物の大量発生による国家の崩壊など「天災」とも呼ぶべき事態は幾度も発生している。
魔物の脅威は誰もが知っている。けれど、魔物には謎が多い。
先ず、彼らが普段どこに生息し、どのように生活をしているのか。
洞窟や森の中など、多くの魔物は人目につかない場所でよく目撃される。
だがそこで彼らが何を食べ、どのように生きているのか。
知る者はいない。知ろうとする者も、またいない。
誰もがそれに触れることを本能的に避けているように、魔物について知ろうとすることを誰もが忌避してきた。
触れてはいけない。知ろうとしてはいけない。
ただ不可避の災厄として、一つ残らず絶滅させてしまえばいい。
それは大地に染みついてしまった呪い。いつか誰かが、世界を呪ったが故に残された澱み。
怨嗟の声は絶えることなく、憎悪の炎が消える日は来ない。
救いはない。
神のいないこの世界では、救いに値する希望はない。
千を超える魔物の群れを前にして、絶望に膝を屈しない者などいるはずもない。
それだけの数が一体どこから現れたのか。
答えられる術を持つ者はいない。
ただ現実として、ありえない数の魔物が大地を埋め尽くそうとしていた。
食人鬼や岩妖、雑多な小鬼達。そして太陽を遮るような、巨大な影。
亜巨人だ。神話の種族とされる伝説の巨人とは異なる。
多くの魔物の群れを従えて、人を襲ってその肉を喰らう醜悪な偽の巨人。
その頭上を飛ぶのは、前足が大きな羽になったトカゲのような奇妙な生き物。
こちらは飛蜥蜴と称される、竜に似た姿を持つ魔物だ。
大きな翼で空を自在に飛び回り、口からは炎の吐息を、尾には猛毒を滴らせる毒針を有している。
デミ・ジャイアントやワイバーンは数こそ少ないが、それでも十匹以上はその姿を確認できる。
どちらも一匹でも現れれば小さな町ぐらいなら壊滅するような怪物だ。
それが複数存在する上に、他の魔物達を含めれば千にも及ぶ群れ。
交易都市ナインテールを護る守備兵達は遠くにその群れの姿を見た時、最初は我が目を疑った。
あり得ないと、次に見えているはずものを否定し、現実を受け入れると共にその胸中を絶望が支配していった。
暫く前にも魔物による襲撃はあったが、その時でもこれほどの数はいなかった。
数も多く、災害級の魔物まで多数存在している。
無理だと、誰もが諦めていた。
魔物達はその絶望の臭いに釣られて、その進行を早めた。
誰も気づいていない。魔物の群れに絶望する人々も、その絶望を啜ろうと這い寄る魔物達も。
ただ一人、大地に立って退かない男がいることを。
あり得ないものであるが故に、その時までは誰も気づかなかった。
男はただ不敵に笑う。恐れなど知らぬと誇示するように。
群れの先頭が間近に迫る頃、男は右手に握る棍棒を軽く空に掲げてみせた。
走る。トールは手綱を握り締め、出せるだけの速度を振り絞って戦車を走らせる。
助けた行商が口にした、ナインテールへと向かう大規模な魔物の群れ。
トールが蹴散らしたのは、その群れから逸れただけの小物でしかなかった。
「なぁ、間に合うと思うか………!?」
「間に合わせるしかなかろうがよ………!」
御者台に乗るロキの言葉にトールは答える。
ベルリンドと従者の二人は、今は戦車には乗っていない。
助けた行商人は怪我こそ治療したが、いつ何時魔物が現れるかもわからない状況で置き去りにするわけにもいかない。
だが都市に魔物の大群が迫っている以上は、可能な限り急がねばならなかった。
トールの戦車が本気で走れば、ただの人間では乗っていることも厳しい。
そのためベルリンド達に行商人のことを一旦任せて、トールとロキの二人のみで戦車を全力で走らせていた。
その姿はまさに地上を走る稲妻だ。
戦車を牽く二頭の山羊。雷神の神器でもあるタングリスニとタングニョースト。
手綱を通してトールの神気を受け取る二頭は、常識では考えられないような速度で疾走する。
全身の毛を逆立たせて、頭部の角からは稲光がこぼれる。
地を蹴る蹄の音は雷鳴そのもの。世界を揺らすような轟音を従えて、トールは目的地へと一直線に向かった。
やがて見えてくる。地を覆うが如き黒の群れ。
悪神が支配していた死の山を思い起こさせる醜悪な光景だ。
トールもロキも、むせ返るような呪いの気配に思わず顔を顰める。
「それより、街の様子は………!」
視線を群れの方から、その向こう側にあるはずの都市ナインテールへと向けた。
幸い、魔物の大群はまだ都市にはたどり着いていないようだった。
高い城壁は健在であり、門が破られた様子もない。
そう、目的の都市を目の前にして、魔物達は何故か足踏みをしているようにも思える。
すぐにでも雪崩れ込めそうな距離だというのに、何故――――?
「………? あれは………?」
その原因は、すぐに見つけられた。魔物達がその足を止めている理由。
都市を守るように魔物の群れの前に立ち、それを蹴散らしている者がいるからだ。
雷神の眼が、その勇姿を確かに捉えた。
「鬱陶しいぞ、有象無象がァ――――!」
男は吼える。吼えて、右手に持った巨大な棍棒を振り回す。
棍棒。いやそれは棍棒というよりも、石柱と言った方が正しいかもしれない。
特に魔力が宿った様子もない、ただ太くてデカいだけの長い石の塊。
申し訳程度に削りだされている持ち手をしっかりと握り締めて、男は渾身の力で魔物達を薙ぎ払う。
逞しい男だった。身の丈は優に2mを超えるだろう。
極限まで鍛え上げられた筋肉を皮膚の下に限界まで詰め込んで、それをさらに圧縮したかのような金剛石の肉体。
その身体を頭のついた美しい獅子の毛皮だけが覆っている。
逆立つ髪は獅子の鬣そのもの。彫りの深い精悍な顔立ちは、黄昏を迎える以前のトールに似ていた。
男は笑っている。
笑いながら、手にした棍棒と己の肉体のみで魔物の群れと戦っている。
人間ではあり得ない。これほどの魔物を相手に、絶望せずに戦い続けられる人間はいない。
あの男は神だ。間違いなく、トール達の知らない何処かの神格だ。
けれど同時に、奇妙な感覚もあった。
「何か妙な奴が暴れてやがんな、オイ。神の気配は隠そうともせずプンプン撒き散らしてんのに、そこに人の臭いも混じってやがる」
「あぁ、お前も同じように感じたか。あの力、間違いなく名のある神ではあるんじゃろうが………」
ともあれ、その疑問は一旦棚上げにする。
男の強さは凄まじく、押し寄せる魔物を尽く打ち払ってはいるが、流石に敵の数が多すぎる。
魔物達も興奮状態で暴れる男目掛けて殺到しているが、あの中の何割かでも街に押し入れば相当な被害が出る。
トールは即座に決断した。
「ロキ」
「あいよ、突っ込むんだろ? オレは空飛んでる何匹かの面倒見とくから、下は責任もって片付けろよ」
言うが早いか、ロキはその背に黒い翼を生やして御者台から飛び上がる。
口にせずとも自分の意図を察してくれる悪友に、トールは何とも言えない笑みを送った。
「そら早く行けよー、あの筋肉男に手柄全部持ってかれちまうぜぇ?」
「言うとれ。お前こそ、すっ転んでいらん怪我をするなよっ!」
手綱を再び強く握り締めて、トールを乗せた戦車は走り出す。
先頭で暴れる男に気を取られている魔物の大群。その後方へと真っ直ぐに、巨大な稲妻が突き刺さった。
轟く雷鳴は城壁の向こう、都市にいる人々の耳にまで届いただろう。
そして当然、魔物と戦う獅子の男の耳にも。
「雷だと………!?」
男は驚き、今まさに雷鳴を轟かせる者へと視線を向ける。
その胸中には「まさか」という思いがあった。
雷とは男にとって慣れ親しんだもの。この見知らぬ地に落ちて、まさか再び見えることができるのか。
しかしその目に映ったのは、男にとってこの世界と同様に見知らぬ相手。
故に男は先ほどとは別種の驚きでその目を見張った。
赤く長い髪を風に靡かせる、美しい女戦士。
裸身に黒い帯のようなものだけを巻きつけて、二頭の山羊に牽かせた戦車を巧みに操っている。
山羊の蹄が魔物を蹴れば、放たれた雷が容赦なく相手を焼き焦がす。
戦車の車輪はゴブリン達を轍へと変え、立ち塞がるデミ・ジャイアントは女が振るう稲妻の大鎚であっけなく吹き飛ばされた。
強く、そして美しい。獅子の男はかつて見た女戦士を思い出した。
彼の女王と同じく――――いや、強さも美しさもそれ以上だ。
「名も知らぬ勇者よ! 無粋は承知だが、助太刀させて貰うぞ!」
戦車を駆り、魔物を蹴散らしながら女戦士はそう叫んだ。
その声に、獅子の男は笑う。良き出会いとは運命だ。
今日この場に居合わせたことは偶然だが、それもまた大いなる運命の一部なのかもしれない。
「おぉ、助太刀感謝する! 雷鳴と共に来た女よ! 先ずはこの無粋な連中を片付けようぞ!」
「無論!」
今この場で交わすべき言葉は、それだけで十分。
雷神と獅子の男は、恐るべき魔物の群れの蹂躙を開始した。
トールはそのまま手綱を操り、戦車の疾走で魔物達を次々と轢殺していく。
戦車では潰せないほどに大きな魔物に関しては、右手に呼び出すミョルニールの一撃で容易く粉砕する。
トロールもデミ・ジャイアントも、多くの力を取り戻したトールの敵ではない。
トールはそのまま空の様子に目を向けた。
空中で翼を広げるワイバーン達。本来は空を支配する魔物であるが、今制空権を握っているのは彼らではない。
「―――ちょっと羽根生やしただけのトカゲがよぉ。図に乗って貰っちゃぁ困るねェ!」
ロキの嘲笑が空に響き渡る。
空を支配する者。それはロキが化けた大きな黒鷲だった。
その爪で子牛ぐらいは易々と吊り上げてしまうワイバーンに比べても尚大きい。
黒い翼で風を操り、乱れた気流の中を飛ぶのもやっとなワイバーン達を次々とその爪と嘴で葬っていく。
トールはその姿を知っている。フレーズヴェルグと呼ばれる、かつては世界樹の梢を住処としていた怪物だ。
無論、あくまでロキが化けたものに過ぎないのでそのものではない。
本来のフレーズヴェルグはもっと強大な存在だが、劣化した姿でも魔物を屠る程度には十分だろう。
流石は変幻自在の道化の神。信用ならない場合も多いが、やる時はやってくれる。
トールは視線を戻す。戻して、今度は別の方へと向ける。
戦車で蹴散らしている自分とは違い、己の五体のみで魔物と戦っている男の方へ。
その戦いぶりは、文字通りの獅子奮迅。余りの凄まじさに、さしものトールも息を呑んだ。
「ふんっ!」
振り回す。ただ、手にした棍棒を振り回す。
そこには凄まじい膂力が込められているが、決して単純な力任せなどではない。
向かってくる魔物の数や、その大きさ。それに対して最適な角度と速度で得物を叩きつける。
足は止めない。常に細かく移動を続けることで、有利な立ち位置を維持している。
敵の動きを把握し、群れ全体の意識を可能な限り自分の方へと引き付けるように立ち回っていた。
まったく見事と言う他ない。
粗野な格好からは想像もつかない程に、男は熟達した戦士だった。
凄まじい豪腕と技量、何より戦術眼も兼ね備えている。
そして驚くべきことはそれだけではない。
「おうおう、そんなんじゃあ俺は殺せないぜェ!もっと気合入れて来ぉい!」
自ら四方を敵に囲まれた状況に飛び込み、かつすべての敵を相手にするように戦っているにも関わらず。
その身はまったくの無傷。
トールのように、ミョルニールが持つ治癒の魔力で傷を塞いでいるというわけではない。
全方位から押し寄せる有象無象の攻撃。
そのすべてを一身に受けても尚、獅子の男は一切の傷を負っていない。
一体それは何故か。
その答えをトールはすぐに目にすることになる。
「………そうか、あの獅子の毛皮か」
男がその身体に纏った、美しい獅子の毛皮。
魔物達が持つ粗末な武器、あるは爪や牙。そのすべてを受け止めて、獅子の毛皮はまるで傷つかない。
あの毛皮こそが男の有する神器なのだろう。敵の攻撃を巧みに毛皮で防ぎながら、獅子の男は無傷のままに戦い続けている。
良き戦士だ。いや、むしろ戦神と呼ぶべきか。
トールの雷のような特別な力は使わず、ただ無双の肉体を絶対の武器としている。
―――仮に戦ったとしたら、果たしてどちらの方が強いのだろうか。
そういう状況ではないと分かっていながらも、戦士の本能をどうしようもなく刺激されてしまう。
獅子の男も同様。あちらも魔物の群れを蹴散らしながら、視線だけはトールが操る戦車を追い続けていた。
やがて敵の数は減り、その分だけトール達の自由度も上がる。
減れば減るほどに殲滅する速度も上がっていき、魔物の大群は風に吹かれた霧のように散っていく。
街の守備兵達は己の職務も忘れて、ただその夢幻の光景に見入っていた。
不可避の絶望が容易く砕かれていく、その信じがたい光景を。
「………思ったより早く片付いたの」
御者台の上に立って、トールは軽く辺りを見渡した。
まるで小さな山のように、あちこちで無数に折り重なる魔物達の死骸。
これらは土に還らないので、後々纏めて焼き払う必要がある。
「よ、ご苦労さんっと」
大鷲から再び侍女姿に戻ったロキが、軽い足取りでトールの隣に着地した。
まともな戦闘など久しぶりだったためか、どこかオッサン臭い仕草で軽く肩を回したりする。
「これで全部か?」
「あぁ、蚊トンボ片付けた後は空から観戦させて貰ってたが、逃がした奴は一匹もいないはずだな」
例えオーガやトロールの一匹でも、どこかの村に辿り着けば大きな被害を出しかねない。
すべて倒したのなら問題ないと、トールが一息吐いた時。
「――――なぁ、アンタ!」
まるで雷鳴のようなその声に、トールはそちらを振り向いた。
そして絶句する。
声の主は当然、あの獅子の毛皮を纏った男だった。
男はトールやロキが乗っている戦車の前まで来ると、喜色満面の笑みで言葉を続けた。
「猛り狂う稲妻が如きその戦いぶり、見せて貰った! いや、実に見事だった! 戦いの神とは斯くあるべきだという姿を堪能させて貰った!」
手放しの賞賛に対しても、トールは反応することができない。
どうしたんだと釣られてみたロキもまた、やはり同じように絶句してしまった。
そんな様子に気づきもせず、男はさらに言い続ける。
「何処の神であるかは存ぜぬが、今日この日の出会いは運命であったのだと確信している。
…………と、すまない。ついつい興奮して言葉が過ぎてしまったが、まだ名乗りの一つもしていなかったな。失礼した」
存外礼儀正しいようだが、トールやロキが見ているものに比べれば大したことではない。
男は小さく咳払いをしてから、右手を差し出しながら自らの名を口にした。
「俺の名はヘラクレス。オリュンポス十二神が一柱にして、その頂点たる主神ゼウスの息子。雷神の血脈を受け継ぐ者として、アンタの美しい雷に敬意を表する」
雄々しきネメアの獅子、その毛皮を纏いし戦神ヘラクレス。
その毛皮だけを身に着けた丸出しのままの姿で、彼は心からこの出会いを喜んでいた。




