2
草原の王国オルランド。
その歴史は、竜と巨人と人とが交わした“三者の盟約”まで遡るとされる。
円卓を束ねる偉大な古竜、“青”のグラスヴァインの加護を授かりし騎士達の王国。
大陸最大の穀倉地帯を有する肥沃な大地に、安定した気候。
先人達が何世代もかけて築き上げてきた交易路は、円卓を彩る他の九つの大国すべてに通じていた。
多くの人が、物が、毎日のように運び込まれ、別の国へと旅立っていく。
今は十あった円卓国家も半分にまで数を減らしてしまったが、その活気は決して昔と劣るものではない。
オルランド王国が誇る大陸交易の一大拠点。
九つの大国に通じる九つの街道に繋がることから、その都市は人々から“九つ尾の猫”と呼ばれた。
「………つまり、それが今からワシらが向かう街なわけか」
古い石畳の街道を、二頭の山羊に引かれた戦車が走る。
その御者台の上にて、トールは慣れた手つきで手綱を捌いていた。
最初の頃はかなり速度を出していたが、目立つし危ないということで今は大分抑え目になっている。
おかげで風景を楽しむ程度の余裕は出来て、御者のトールも時折周囲に目を向けていた。
青い空と流れる白い雲。
風に靡く草原に、遠くには麦畑が広がっているのも見える。
戦車の上で同じ景色を眺めながら、ベルリンドはこれから向かう先の話を続けた。
「はい。交易都市ナインテールと、その都市周辺の領地を治めるのが私の父、ローディニア伯爵になります。
様々な国へと繋がる道を持つ王国の中心。王都オルランドもそう遠くない距離にあり、あらゆる意味で重要な場所です。
だからこそかつての王は、武勇に名高きローディニア家に、伯爵の位と共にこの地を領土として下賜したと伝わっています」
「今さらながらお前さん、本当にいいとこの出なんじゃなぁ………」
本当に今さら過ぎる事実を確認し、トールは唸るように相槌を打った。
そんな相手に死ぬ危険があるような無理難題を吹っかけていたとか、冷静に考えなくても酷い話だ。
同じく御者台に座っている主犯は、まったく気にした様子もなく大きな欠伸をしているが。
「んで? まーとりあえずの目的地に関しちゃ分かったが、そっからどうするんだ?」
「ぶっちゃけノープランじゃな」
「……………」
一瞬の躊躇もない即答。
従者の二人は勿論、トールを“稲妻の乙女”として敬愛するベルリンドさえ思わず閉口してしまった。
直感で生きている人物だとは知っていたが、まさか本当に考えなしで飛び出してきたとは。
逆に付き合いの長いロキは、「知ってた」と顔に書いてあるような何とも言えない味のある表情をしていたが。
「え、なに。なんじゃいこの空気」
「あー、確かそう、東に行きたいって話だったよな?」
自覚のない生温い空気に戸惑うトールへ、従者の一人であるギーアが助け舟を出した。
トールに東の地で起こる異変について知らせた太陽の神テスカトリポカ。
ベルリンドの従者であるギーアとヤナルは、彼の神と繋がる別神格であり、当然その話についても知っていた。
「うむ、そうだ。その予定じゃな」
「だったら、ナインテールに到着した後は街道に沿って東の国スラーナへ向かえば良い。この戦車で走れば、そう時間も掛からんだろう」
「スラーナ?」
初めて聞く国の名前に、トールは小さく首を傾げる。
それに答えたのは、もう一人の従者であるヤナルだった。
「この大陸の東端には、“バジュリアム大熱砂”と呼ばれる広大な砂漠地帯が広がっているわ。
スラーナはその砂漠地帯にある唯一の国。かつては十あった円卓国家の一つ、砂漠の大国スラーナ。
東へ行って何をするにしても、先ずはスラーナに入っておくべきでしょうね」
「ふむ………成る程。いや、参考になった。すまんな」
東の地にある砂漠の大国スラーナ。
そこはどのような国で、どんな人々が暮らしているのか。
広大な砂漠というのもトールはあまりお目にかかったことがない。
その地にも、自分達以外の神は降り立っているのだろうか。
見知らぬ景色が、見知らぬ出会いが。
出来ればそれが良いものであれば良いと、トールは願った。
「………おい、トールよ」
「あぁ、分かっておる」
不意に、退屈と揺れで眠そうにしていたロキが鋭い声を上げた。
トールは気づいていたし、ベルリンド達も同様。今までは穏やかだった風の中に、異質な何かが混じり始めている。
ソレが何であるかは分からない。分からないが、トールやロキにとってその何かは覚えのあるものだった。
以前、悪神が支配していた死の山で感じたのと同じ。
それは“呪い”とでも形容すべきもの。
「飛ばすぞ、振り落とされんようにしがみついてろよ!」
そうトールは叫んで、手にした手綱を強く引く。
二頭の山羊は即座にそれに応じて、戦車は急激な加速を開始した。
その姿は、まるで大地を走る雷だ。
時折大気に青白い火花を残しながら、雷神たるトールの戦車は駆け抜ける。
風を切り裂き、風景は吹き飛ばし、時間さえも置き去りにして走る。
距離など無意味と一瞬で踏破した先で、それは見えてきた。
最初に見えたのは人だ。恐らくは旅の行商か何かだろう。
あちこち怪我をしてボロボロな風体のまま、それでも必死の形相で逃げようとしている。
背後から迫る、呪いを帯びた死の塊から。
それは魔物だった。醜悪な瘴気を纏う魔物の群れ。
主な構成は食人鬼達だ。赤黒く濁った肌を持つ大柄な魔物。
体型こそほぼ人型だが、敵意と狂気に爛々と燃える眼と肉や骨を容易く引き裂く爪と牙は、人間的なものは欠片も感じさせない。
恐るべき人喰いの鬼共と、それに混じる小鬼達。
数はすべて合わせて二十か三十か。悠長に数えている暇はないので、それは気にしないことにした。
「突っ込むぞ!」
トールはそう言って、返事は待たずに行動に入る。
加速する戦車。真正面から突如爆走する何かが現れたことで、行商の男は絶望に顔を引きつらせた。
逃げ場がないと、その場で固まってしまった男。
その頭上を、トールが操る戦車は勢いを殺さずに飛び越えた。
魔物達も突然のことでロクに反応も出来ず、宙を舞う戦車を呆然と見上げてしまった。
それで先頭集団は砕け散ることになる。
雷を纏った山羊の蹄と、追い討ちをかける戦車の車輪。
容赦なくオーガやゴブリン達の血肉を焼き潰しながら、加速した質量を叩きつけて容赦なく吹き飛ばす。
先ずそれだけで、あっさりと魔物の群れの三分の一近くが死んだ。
そして当然、トールの攻撃はそれだけでは終わらない。
戦車がオーガ数体をまとめて轢殺するのと同時に、トールは御者台から身を投げ出していた。
落下する先には、驚き戸惑うオーガが一体。
その脳天に拳をめり込ませ、首から上の骨を粉砕しながら着地する。
ギリギリと引き絞る弓のように、メギンギョルズの黒帯が裸身を締めつけ軋ませる。
倍加、倍加、倍加。神器の魔力により、細い身体の内で圧倒的なまでの力が渦巻きだす。
戦車を下りてから此処まで、一秒以下。
魔物達はまだ反応できていない。
光が弾け、一瞬遅れて凄まじい轟音が辺りに響き渡る。
いつの間にか右手に握られていた雷鎚、ミョルニールが放った一撃。
ただの一振りで、残っていた魔物の半分が消し炭となった。
そこまで至ってようやく、まだ生き残っていた魔物達の頭に恐怖の二文字が降って来た。
蹂躙という表現でも足らない。象が蟻を踏み散らすよりも尚一方的だ。
「ははッ!」
久々に何の気兼ねもなしに己の能力を振るいながら、トールは弾けるように笑った。
弱いものイジメは趣味ではないが、さりとてこの魔物達を見逃すつもりはない。
故にやるべきことは殲滅だ。一匹残さず、この場で始末する。
―――荒れ狂う暴風を見るような心地で、ロキはその様子を眺めていた。
この程度の相手、トールにとって物の数ではないだろう。
最初から自分が手を出す隙間などないと分かりきっているので、御者台の上で足を組んで気楽に観戦を続ける。
ただ、そうではないものもいる。ベルリンドだ。
若き騎士はどこか呆然と、目の前で繰り広げられる一方的な蹂躙を見ていた。
「………ビビッたか?」
「えっ!? あ、いや、それは………」
「いやいや無理しなくていいぜ、アイツがマジで殺しモードに入ってんの見るのは初めてだろ」
どこか萎縮してしまっているベルリンドに対し、ロキは変わらぬ笑みで応じる。
雷光が瞬いて雷鳴が轟く度に、魔物達は無残に蹴散らされる。
そこに慈悲は存在しない。魔物が容赦なく人を襲うように、トールは一切の容赦無しに彼らを屠っていく。
己の良識が普遍的なものであると信ずる者であれば、思わず目を逸らしただろう。
あるいはすべての事が終わったあとに、的外れな非難も口にするかもしれない。
ロキは笑う。その誰かにとって当たり前のことを笑う。
けれど荒ぶる雷神を目の当たりにし、それでもその目を逸らさない男のことは、決して笑いはしなかった。
「アレもトールだ。稲妻の乙女、弱き者を助ける英雄。その姿も間違っちゃあいない。だが一面でしかないのも事実だ。
戦いを愉しみ、血と狂気が交わる中で笑う。戦いの神。死を恐れぬ戦士達の頂きに立つ者。それもまたトールだ。お前が惚れてる女の、隠しようもない素顔だ」
「………あれも、トール殿の」
恐ろしいと思う気持ちは、当然のようにある。
ベルリンドが知るトールは豪放磊落ではあるが、決して粗野でも粗暴でもなく、優しさと慈しみを持つ偉大な英雄だ。
そう信じる心に一点の曇りもない。同時に、彼女は血を流して戦うことも是とする勇敢な戦士であることも。
今もこうして魔物達を蹴散らしているのは何のためか。血に酔うためでは断じて無い。
驚きに腰を抜かし、恐怖で動けなくなってしまっている旅の行商人。無力なその男を助けるために、トールは迷わず行動した。
魔物はもう殆ど生き残ってはいない。戦いに関して、ベルリンドが出る幕はない。
ならば今、自分に出来ることは何か。答えは目に前にある。
だから若き騎士もまた、迷わず行動に移した。
「ロキ殿、少し此処を離れます」
「おー、良いぜ良いぜ。早くしろよ。トールが直ぐにでも残り物を片付けちまうからな」
ベルリンドの意図を察してか、ロキは気楽に笑いながら応える。
そうして騎士は戦車の上から下りると、真っ直ぐに腰を抜かしている行商人の方へと走った。
余りの事態に怯えて動けない男に自らの視線を合わせ、身に着けた家紋などを見せながら優しく語り掛けている。
恐怖に囚われた心を解きほぐし、「助かったのだ」という安堵と安心を与える。
「その仕事は確かに、今この場じゃお前にしかできねー仕事だわな」
幾ら助けられたとはいえ、先ほどまでの死の象徴だった魔物達をあっさりと蹂躙したトールでは、同じようにするのは不可能だったろう。
道化の神たるロキなら口八丁でどうとでも丸め込めるかもしれないが、それはまた違うものだ。
ギーアとヤナル、テスカトリポカの別神格である従者二人も、ロキと同じことを感じていた。
「あー………ホントに良い男だなぁ、アイツ。街についたら無理やり既成事実を生んじまうべきか」
「待て、貴様。若に妙な真似したら許さんというか、そもそも一体何をするつもりだ………!?」
不穏にも程があることを呟くロキに、ヤナルの方がブチ切れた。
ナニするつもりに決まってんだろと馬鹿げたことをロキが返したせいで、そのまま軽い殴り合いに移行した。
ここ暫くで大分耐性のできたギーアは、そんな騒ぎを華麗にスルーする。
「………だがまぁ確かに、短い間に随分立派になられたもんだ」
行商人を助け起こしているベルリンドの様子を見ながら、ギーアは複雑な笑みを浮かべる。
森林帝国ゴロムトランの司祭として、彼を自分達のために利用しようとしている思惑と、個人として付き合う間に培われてきた感情。
それらは必ずしも相反するものではないが、だからといって単純な話でもない。
騎士の青年がいずれ英雄へと至ることは、ギーアもヤナルも確信していた。
確信していたが、それでも階段を何段も一息に飛ばすように至ってしまうとは思ってもみなかった。
何もかもが複雑だ。
人の心も世界も、神の思惑さえもままならない。
「―――よし、片付いたぞ。ベルリンドはどうした?」
返り血一つなく、残った魔物すべてを殲滅し終えたトールが戦車の方へと戻ってくる。
ギーアは軽く手を振ってから、怪我をした行商に肩を貸しているベルリンドの方を指し示した。
彼の働きのおかげで、この後の話もスムーズに進められることだろう。
これだけの数の魔物が発生することなど、あの悪神を討伐してから今までなかったことだ。
状況は正確に把握する必要がある。また大きな犠牲を出してしまう前に。
「一先ず、怪我を治してやりながら話を聞くとするか」
右手にミョルニールをぶら下げたまま近づくと、行商の男は微妙に腰が引けているようだ。
男が何をだらしないと思ったが、肩を貸してるベルリンドも微妙な顔をしている。
とはいえやることは同じなのだから、いらぬ手間をかけても仕方がない。
トールは笑って右腕を振り上げると、問答無用の治療を開始した。




