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 今日も風の音に乗って、人々の嘆く声が響いてくる。



 耳を傾けようとする者は誰もいない。

 その嘆きに応えてやれる者も何処にもいない。

 誰もが祈ることを忘れた世界で、苦しみ喘ぐ人々を救う神はいない。


 少なくとも、この地には。


 ―――永遠にも似た闇の奥底で、その神は鎖されていた。

 どれほどの年月をそうしているのかは分からない。

 神たる身には時間などさしたる意味はなかったが、神ならぬ者達にとっては重大事だ。

 吐息をこぼす。音はしない。すべて「外」で吹き荒ぶ砂塵の音に呑まれるから。


 ふと空を探して、視線を上へと向ける。

 けれど、空は見えない。分厚い岩と幾つもの鉛の扉に隔てられているから。

 まるで井戸の底だ。落とした者が二度と外へ出られぬように、厳重に封が施された井戸。

 正確に言えば、此処は掘り返された地面の下ではない。

 鳥籠とでも表現した方が正しいのだろうが、囚われている方からすればどちらも似たようなものだろう。

 井戸の中の蛙も、籠の中の鳥も。


 若木の枝にも似たか細い手足。それを戒める鎖も煩わしい。

 じゃらりと、わざと大きな音を鳴らして動かしてみた。

 引きちぎろうと試みた事は何度かあったが、あまり成果は上げられていない。

 錆の浮いた金属の表面を、指でそっとなぞる。

 そこには強固な魔術が十重二十重と念入りに施されているのが分かる。

 さながら巨木の年輪の如き重厚さ。太い鎖ではあるが、その強度は見た目の何百倍はあるだろう。

 捕らえた者の力を弱体化させる術式も含めて、実に完璧な封印だ。


 過去に何度も破壊しかけた末に築き上げられた封神の牢獄。

 その最奥にて繋がれた神。彼女の胸中にある感情に、怒りに類するものはなかった。

 彼女は怒りを感じてはいなかった。

 延々と囚われ続けていることへの煩わしさはあったが、怒りではない。


 ――――哀れな者達だ。


 胸を満たす憐憫は、汲めども汲めども尽きぬ水のように溢れてくる。

 無数の封印を病的なまでに塗り重ねて、この身を闇の底へと沈めた見知らぬ支配者達。

 今も砂塵の向こう側、果て無き苦海で溺れ続けるか弱い魂の群れ。


 そのすべてを、一柱の神は等しく哀れんでいた。

 彼女は知っている。支配者――――この地の遥か昔より在る古の竜達が、何故自分をこの獄に封じているのかを。

 彼女は知っている。その行為によって、どれほどの生命が犠牲にされてきたのかを。


 ――――分かっていても、私にはどうすることもできないが。


 破れぬ封印に戒められて、自由の意味など風の彼方だ。

 ため息を吐く。それも止まない砂塵にかき消されてしまうが。

 僅かに許された行動の範囲で、その少女は自身の下腹部をゆっくりと撫でた。

 その内にて感じられる、微かな胎動。

 胸を満たす憐憫に、抑えきれない愛情が混ざり込んだ。

 少女は――――いや、少女の姿をした大いなる神は、閉ざされたままの天を仰いだ。


 この世界は限界を迎えつつある。

 封印の牢獄に閉ざされて、気の遠くなるような歳月を利用され続けてきた少女は、誰よりも深くそれを理解していた。

 古竜達は恐れている。恐れているから、決して出られぬようにその神を封じた。

 彼らの大地に起こりつつある変化。

 不可逆であり、予定されていたその運命を、彼らは心底恐れていた。


 ――――今ある世界が変わってしまうことを、彼らは何処までも恐怖している。


 変化。重要なのはその一点だ。

 それらはすべてが悪しき事柄ではない。

 変わっていくものがあるように、変わらないものがある。

 変わるべきものがあると同時に、変わろうとしないものもある。

 大事なのは、その流れの中で自分を何処に置くかだ。


 それを見極める必要があった。

 この胸の奥にある、憐れみと愛しさのために。


「――――――」


 声。耳を傾ける者もいない声。

 鳥籠の外で唸る砂に吸われて、誰にも届くはずのない声。

 それ自体は意味のある行為ではない。

 ただ繋がれたままの身体を動かし、少しずつ馴らしていく必要があったから。

 肘から先以外は長らく放置していたため、随分と鈍ってしまっている。


「―――ぅ………ぁ、あ………あ、あー、ぁ」


 やがて、動作を忘れていた声帯が正しい機能を取り戻し、吐息のように細い声を奏でた。

 金糸雀のように美しく――――とは行かないが、別に詩を歌うわけではないのだから、これで十分だろう。

 今度は足。試しに立ち上がってみようとして、すぐに失敗した。

 暗闇の中で視線を落とす。目に映るのは太い釘。

 釘というよりも、細い杭と言った方が近い。

 それが何本も何本も、少女の足を貫いて石の床に縫い止めている。


 ――――そういえば、一度この「鳥籠」を踏み抜こうとした時に、足は念入りに封じられていたんだった。


 あまりに昔の話なため、やった当人も忘れていた。

 ともあれ、結果的に足は動かせないことが確認できた。

 ならばそれはそれで構わない。


 腕は何かと動かすことが多いので、問題は殆どない。

 繋ぐ鎖が邪魔ではあるが、それだけのことだ。

 目。元より地の底にあった神の眼は、暗闇であろうと昼間と変わらず見通せる。

 耳。風と砂の音、それに混じって聞こえてくる嘆きの言葉。

 近いものと。遠いもの。嘆きの声を上げるのは、大勢と一つ(・・・・・)


 この場所でこの耳に届くのは、それがすべてだった。


「………なんだ、思ったより自由じゃないか」


 声を出して、それを確かめる。

 自分が動く意味を見い出せないままに、気が遠くなるような年月をこのままで過ごした。

 月日の流れに意味はない。神たる身に時間は敵とは限らない。

 その流れに身を委ねて、時折自ら変化を起こせないかと動いてみたりしながら、とうとう変革の時が訪れた。


 大地の呪いと、呪いをかけた者達の底無しの憎悪。

 何処とも知れぬ場所から、さながら流れ星のようにこの地に降り注いだ無数の神々。

 支配者である古竜達が何よりも恐れていた、大いなる変革。

 最早それは誰にも止められはしない。

 それを止めるために(・・・・・・・・)封じられていたからこそ理解できる。


 止められない。止めることはできない。

 今この地を覆う死と絶望より、遥かに始末の悪い死と絶望が大地のすべてを呑み込む。

 あるいはそれは、虚無や破滅と表現するべきか。

 後には何も残らない。死の次に繋がる生も、絶望から這い出すための希望も、そこには何も残りはしない。

 かつての《三者の盟約》と呼ばれる過ち、その代償がそれだ。


「………ふ」


 少しだけ、少女の姿をした神は笑った。

 過ちを犯す者達の愚かしさも愛おしむように。


 ゆるりと腕を持ち上げる。 

 鎖にまとわりつく執念の重みを感じながら、指先で自分の唇をなぞった。

 その指に、乾いた舌を触れさせる。二度、三度と。

 薄く開いた唇。漏れる吐息は、燃え盛る炎の如き熱を帯びていた。


 指にその熱を絡めとり、舌をその指に絡ませる。

 どこか愛でるように触れ合いながら、やがて指の関節辺りに舌ではないものが触れた。

 歯だ。白く鋭い歯。肉の柔らかな感触と、骨の硬い感触。


 それを躊躇うことなく食い千切った。


「っ…………」


 痛みはあるので、少女は素直に眉を顰めた。

 ぼたり、ぼたりと。裂けた肉から熱い血潮がこぼれ落ちる。

 その様を、少女の姿をした神は無言のままに見つめる。

 ぼたり、ぼたりと。溶岩よりも熱い神の霊血は、床の上で音を立てて煙を上げた。

 変化は緩やかに、かつ劇的に起こった。


 床の上に落ちた数滴の血。 

 それがまるで生き物のように、ひとりでに動き出したのだ。

 最初は痙攣するような微かな動き。それが少しずつ大きくなっていく。

 ぽこりと、血液の表面に小さな気泡が生まれた。

 一つだけではなく、幾つも幾つも。

 泡立ち、大きく波打って、僅かな血液でしかなかったそれは形を変え始めた。


 這う。地を這いずる。生まれたばかりの赤子のように。

 事実それは赤子のようなものなのだろう。

 自らの血から生まれたばかりのそれを、神は慈愛を込めて見守っている。


「………さぁ、もう動けるな?」


 形も定まり、よろけながら立ち上がったそれを指で撫でる。

 先ほど、自分で食い千切った傷跡が残る指。伝う血を母乳の代わりとして、それの口に与えた。

 まだ分かれたばかりで殆ど力を持っていないそれは、飢えを満たそうと必死にしゃぶりついてくる。

 その仕草にもまた愛しさがこみ上げてくる。


「良い子だ」 


 十分な量の血を摂取したそれを、その腕で抱き上げる。

 生まれたばかりの無垢な魂。自我は希薄であるが、知性は決して低くはない。


「今からお前は、この牢獄の外に出る。私は此処から動けないから、お前が代わりに行くんだよ」


 本体と分体。魂で繋がる我が子に、少女は優しく語りかけた。

 それは何も答えない。何も答えないが、理解を示していることは彼女にのみ伝わってくる。

 相互の繋がりにも大きな問題はないようだ。

 確認を終えたら、それを再び石の床に下ろした。


「外の世界で、探してくれ。私以外の、この地に落ちてきた神を。変化をもたらすに相応しい者を」


 この風に乗って聞こえてくる、嘆きの声を止められる者を。

 永遠にも似たこの闇の奥底から、我が身を解き放ってくれる誰かを。


「さぁ、行け。小さなお前ならば、この大きすぎる鳥籠を出るのは容易いことだ」


 魂を分けたそれは頷くと、疾風の如くに闇の向こうへと走り去っていく。

 気配は順調に遠ざかる。程なく外の世界へ出られるだろう。

 過酷な環境で無事に使命を成し遂げられるかは運だが、そればかりは神の身でも祈る他ない。


 祈る。神たる者が、神の不在な地で天に祈る。

 それの何と皮肉な話だろうか。

 笑う。闇の底で、その神は笑っている。

 嘆きの声は今も止まない。吹き荒ぶ砂塵の音すら押し退けて、大地を揺るがすような嘆きの声。


「………何を嘆いているのだろうな、アレは」


 答える者はいない。そもそも、答えることなどできないだろう。

 暗闇の中で、彼女は視線を外へと向ける。

 分厚い石の壁と鉛の扉、そのすべてに阻まれているから、外の景色など見られるはずもない。

 だが、彼女には見えていた。魂を繋げた分体が、早々と鳥籠の外へ出たのだ。


 見える。封印を施された日より、更に荒廃した世界を。

 空に輝く太陽は、生命の存在を許さぬほどの光熱で地表を炙り続けている。

 逆に日が沈んだ後は、一転して零下の世界が生き物の温もりを奪い去っていくのだろう。

 激しい風が吹いていた。熱い砂を伴った死の風が。

 風は止む気配など微塵もなく、触れた者を引き裂く常となって吹き荒ぶ。


 まるで地獄だ。暗闇の中で想像こそしていたが、思っていた以上の地獄が広がっていた。

 地獄と化している大地が、大きく揺れる。

 それは大地そのものが揺れているわけではない。

 揺らしている者(・・・・・・・)がいるのだ。


「探しているのか。あの時から、いやそれよりも昔から、今もずっと」


 砂塵の向こうを見る。

 暗く巨大な影が、焼け焦げた大地を闊歩していた。

 それが何であるのかを、この世界に生きる多くの者は知らない。

 それが何であるのかを、闇に繋がれた神は知っていた。


 苦痛に喘ぎながら、嘆きの声を呪いに変えて彷徨い続ける、この地で最も哀れな魂。

 彼の者が救われる時も、いずれ訪れるのだろうか。

 それを祈る彼女にも分からなかった。


「………来い。来てくれ。私以外の稀人よ。百年だか、千年だか。月日に意味などないが、私は此処で待ち続けているぞ」


 聞く者のいない言葉。

 それが聞くべき者の耳に届くことを願って、神はただひとりで言葉を紡ぎ続ける。


「私ではもう限界だ。歪みはもう溢れ出している。呪いはもう波となって押し寄せてきている。

 この変化は止められない。百年か、それとも千年か。月日に意味などない。無理な延命を続けたところで、辿り着く結末は同じだ」


 未来は失せる。すべてが焼け落ちる。

 後に何も残ることのない、永遠の黄昏が訪れるのだ。

 それは彼女にとっても本意ではない。故にここで待ち続ける。

 大地の呪いを、無力な者達の慟哭を。

 そのすべてを一身に受けながら。


「私はここで待っている。――――『彼』も、ここで待ち続けている」


 そう言って、自分の下腹部をまた愛おしそうに撫でた。

 胎動は今も伝わってくる。解き放たれるその時を待ち望んでいる。


「早く来てくれ、稀人よ。すべての死せる者の魂が、その時が訪れることを待ち望んでいるのだから」


 永遠にも似た闇の底で。

 少女の姿をしたその神は、祈りながら待ち続けている。


 ―――闇が微かに波打った。

 その闇は、光を遮られたことで生じる影ではない。

 窓一つない、分厚い石壁で何重にも封じられた鳥籠。その中を満たす無明の闇。

 そのすべてが(・・・・・・)、この強大なる神の肉体だった。


 古の竜達が恐れて、犠牲を払いながらも封印の奥底に沈めた神。

 今や世界を支える柱石でもある彼女は、ただ祈り続ける。


 いずれ必ず訪れることになる、変化の時。

 自分自身と、我が身の内で眠る愛しい者の目覚めを。



 大いなる神は鳥籠の内で、ただ静かに待ち続けている。



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