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 魔物達にとって、その女はまさに青天の霹靂に他ならなかった。



 彼らがこの村を襲ったことに理由はない。

 ただ“主”そう命じられて、目に付いた人里を無差別に襲っているだけ。

 だからこの村を標的にしたのも、山を下りて適当に彷徨っている途中で偶然見つけたからに過ぎない。


 平和でのどかな、魔物の脅威など殆ど知らないような、小さな村。

 格好の獲物だった。醜悪な小鬼(ゴブリン)も、愚鈍な岩妖(トロール)も一様に歓喜した。

 すべて奪え、そしてすべて殺せ。

 “主”は獣に等しい魔物の群れに、例外なく同じことを命じた。

 だから彼らはその通りに、悪食と暴食の本能のままに暴れだした。

 長いこと大きな危険に晒されてこなかった村々では、抵抗のしようがなかった。


 幾つかの村が焼かれ、殺され、しかし情報が他の村に伝わるよりも早く、魔物の群れは次の獲物に辿り着く。

 殺して、奪って、焼いて。何回繰り返したのかは、彼らは数を数えられないので分からない。

 そうして何番目かの獲物となった―――なるはずだった、森にほど近いその村で。

 魔物達はその女と出くわした。


 美しい女だった。

 艶やかな赤い髪に、青みがかった金色の輝きを灯す瞳。

 黒い帯のようなものを巻きつけた身体は、しなやかでありながらもこぼれ落ちそうなぐらいに豊満だ。

 その肉は食めば美味いだろうし、慰みものにしても最高だろう。

 意志の強そうな顔を恐怖と屈辱に歪ませたなら、どれほどの快楽を得られるだろうか。

 その女の姿を目にして、先ず魔物達の欲望がそのように猛った。

 だがすぐに、それらを打ち消して余りある光景が展開されることになる。


「少々派手にやるから、お前達は下がっていろ」


 赤髪の女―――トールは、自分を呆然と見上げる少女にそう告げた。

 みしみしと、右手で掴んでいる棍棒が耳障りな音を立てる。

 掴んで、その細い五指をめり込ませている棍棒を、トロールが何とか動かそうと足掻いている。

 両手でしっかりと握り締め、押したり引っ張ったり、渾身の力を込めて繰り返す。

 しかし棍棒の方が傷んでいくばかりで、トールの手は小動もしない。


「ギッ、ギィ!」


 一体何が起こっているのか、トロールにはまったく理解できなかった。

 大人の男を頭上から見下ろすほどの体躯に、岩石で出来た表皮を持つ魔物、トロール。

 その動きは鈍重であるが、その怪力と刃物も弾く皮膚から、熟練の戦士でも決して油断ならない相手だ。

 トロールも足りない頭を持つなりに、己が大抵の生物よりも強いことを本能的に理解していた。

 だから彼にとって、目の前で起きているのは完全に未知の事態だ。


 猪だろうが、熊だろうが、あるいは武器を持った人間だろうが、自分は潰してその肉を食べることができた。

 なのに目の前の人間は潰れない。ひ弱な人間の、しかもさらにひ弱な女であるはずなのに。

 わからない。わからない。なんなんだ、こいつは。

 恐怖と焦りから、トロールは渾身の力で掴まれたままの棍棒を引っ張る。


 そうした瞬間に、トールは掴んでいた棍棒をあっさり離した。

 当然、トロールは勢い余って後ろにひっくり返る。

 トールは地を蹴った。仰向けになったトロールの上を飛び、拳を固める。

 森で試した時とは違う、メギンギョルズで倍加している渾身の力を込めた握り拳。


「ぅおぉぉらぁぁぁぁぁッ!」


 それを気合と共に、倒れたトロールの胸板に叩き込んだ。

 岩石の肌を砕き割り、めり込んだ拳骨をぐりっと捻ってさらにねじ込む。

 感触からして、胸骨は折れるどころか砕けているはずだ。

 衝撃は確実に内臓を幾つか潰しているし、地面に挟まれる形になったことで背骨まで折れている。

 つまるところ、ほぼ即死だ。

 血の泡を吹きながら、トロールの濁った眼球がぐるりと白目を向く。


「………す、ごい」


 弟を抱えて、安全なところまで下がろうとしていた少女も、余りのことに思わず見入ってしまう。

 少女だけではない。

 逃げようとしていた他の村人も、あるいはそれを追っていた他の魔物達も。

 岩の魔物を拳の一発で殴り殺した女の姿に、我を忘れて見入っていた。


 そしてトールは、その空白を見逃さなかった。


 すぐに死んだトロールの上から跳び去ると、次は一番近くにいたゴブリンの頭を鷲掴みにする。

 驚き抵抗するが、そんなものは指で摘んだ羽虫が暴れているようなものだ。

 トールはまったく意に介さずに、そのままゴブリンを片手で持ち上げる。

 そして勢いよく振りかぶって、何匹かで固まっている他のゴブリン達へと投げ放った。

 風を切る音と、甲高いゴブリンの悲鳴が尾を引いた。

 激突した仲間の身体に押される形で、ゴブリン達はそのまま無様に地面へと転がる。

 転がり倒れ、無様に折り重なっている彼らの上に、無慈悲な追撃が降り注ぐ。


「雷霆よ!」


 トールは叫び、抜き放った大鎚を振るう。

 青白い雷光が閃いて、地に伏したゴブリン達を一瞬で焼き焦がしていく。

 断末魔の声をあげる暇さえない。

 全身を焼く雷により、彼らは瞬時に絶命した。


 トールの攻撃は終わらない。

 振り下ろしたミョルニールを、その勢いのまま後方へと投げつける。

 手元を離れた大鎚は、再び青白い輝きを纏い、横に走る稲妻となって大気を切り裂く。

 胴体を雷に貫かれ、心臓を焼かれたトロールが膝から崩れ落ちる。

 そうやって倒れたトロールの死体に、傍にいた一匹のゴブリンが圧し潰された。


「どうした」


 低く、囁くような雷神の声。

 それを口にする間にも、一匹のゴブリンの頭蓋骨を拳で中身ごと粉砕している。

 投擲したミョルニールは、トールが一つ念じるだけで瞬時にその右手へと戻ってくる。

 雷鳴の残り香を纏わせた大鎚を握り締め、雷神は笑う。


「この程度かよ、お前ら」


 傷はおろか、返り血一つも浴びぬままに、雷神は熱く笑った。

 己が理不尽を、暴虐を振りまく側だと信じて疑わなかった魔物達に、それはどうしようもない「恐怖」を刻んだ。


 逃げようと背を向けた何匹かのゴブリンは、その背を狙い打った稲妻の投擲に吹き飛ばされた。

 狂ったように向かってくるトロールは、真正面から迎え撃つ。

 ミョルニールは投げ放ったばかりて手元にない。

 だから、滅茶苦茶に振り回している棍棒に拳を合わせ、それを砕き折る。

 衝撃でバランスを崩したトロールの膝に蹴りを叩き込めば、関節が砕ける感触と共に巨体が倒れる。

 あとは引き戻したミョルニールの一撃で、その愚鈍な頭蓋の中身を焼き焦がす。


 猛る。猛る。猛り狂うような熱を感じる。

 完全には遠いが、それでも森の中で試した時とは比べ物にならない程の力が総身を巡っているのが分かる。


 先ほどまでは無力な村人達を襲っていた魔物が、例外なく恐怖と絶望に震え上がっている。

 それが何故か、堪らなく心地よいと感じてしまう。

 己が雷霆を振り回し、それに魔物が吹き散らされれば、更に力が沸き上がってくる。

 恐れよ、畏れよ、怖れよ。我は戦神。我は雷神。

 この稲妻は悪しきものを討ち滅ぼす。我が振るうは裁きの大鎚。


 一匹たりとて逃がしはしない。

 さぁ、無力な愚者の群れよ。お前達は、我が糧に―――――




「―――待って!」




 その声と、力と呼ぶには余りにか弱い力が、トールの意識と身体を繋ぎ留めた。

 右手に掲げたミョルニールが、パチリと不発した雷を火花として散らせる。

 見れば、先ほど自分が助けた少女が、今は後ろから腰の辺りに両腕を回して抱きついている。

 その細い身体は、ひどく震えていた。


「もう、逃げたから。魔物は、逃げ出したから。大丈夫、だから……!」

「……………」


 身体だけではない。

 その声もまた震えていて、言葉は途切れ途切れで、それでも意思を伝えようとしている。

 熱く猛っていたはずの心は、背に縋った小さな温もりに冷やされていく。

 力に溺れ、戦に狂って我を失うとは、なんという失態か。

 改めて周囲を見渡せば、半分以下になった魔物達が逃げ去っていく姿が見える。

 あとに残るのは事切れた魔物達の屍と、その中心に立つ自分を遠巻きにする村人達の姿。


 向けられる視線には、怯えの色が強い。

 当然と言えば当然。村を襲った魔物の群れを、それ以上の力で瞬く間に薙ぎ払ってみせたのだ。

 そんな相手に怯えるな、と言う方が無理がある。


「………おい」

「え? あ、はい。な、なんでしょうか!」

「離れろ。もう落ち着いた。それと危ないから、今度からは戦ってるワシに抱きついたりするな」


 少しの間。それから慌てて、少女はトールの身体から跳ねるように飛び退く。

 どうやら向こうも、我を忘れた末での行動らしい。

 勇敢と言えば勇敢だが、雷の余波を食らっていた可能性もあるのだから、無謀と言った方が正しいだろう。

 トールは軽く深呼吸をしてから、少女の方へと向き直った。


 年の頃は、十代半ばぐらいだろうか。

 亜麻色の髪を短く切った、可愛らしい少女。

 その顔は年相応の愛らしさと共に、見た目の年齢以上に大人びた理知も感じられる。

 身につけている丈の長いチュニックは、今は襲撃を受けたせいで薄く汚れてしまっていた。


「あ、あの、すみません! 私、失礼な真似をしてしまって……!」

「良い、あれはワシが悪かった。気にするな」


 平謝りする少女へとトールは手を伸ばし、服についた埃を軽く払ってやる。


「それより、怪我はしとらんか? あるなら治せるが」

「え、あ、私は大丈夫です。弟は、逃げようとした時に足を捻ってしまって………」

「そうか」


 見れば、姉に似た顔立ちの少年が、離れた場所で地面に座り込んでいる。

 トールは真っ直ぐそちらへと向かう。

 驚く少女と少年に、やはり遠巻きでざわめく村人達。

 それを気にせずトールは少年の傍へ膝をつくと、その手に持ったミョルニールを軽く示して。


「今から怪我を治してやる。痛むのは足だけか?」

「う、うん」


 怯えがまだ残っているのだろう。

 頷くのがやっとの少年の足へと、トールはミョルニールの柄頭を軽く触れさせる。

 稲妻を放った時とは違う。力を注ぎ、もう一つの魔力が発現する。


「………あ、れ………?」


 暖かい光が少年の足を包めば、あっという間に痛みが引いていく。

 不可思議な現象に驚き戸惑うその様子が面白くて、トールはにやりと笑ってみせた。


「どうだ、まだ痛むか?」

「う、ううん。痛くない。さっきまで、動かすだけで痛かったのに……!」

「良し。とはいえ、まだ癒したばかりだ。少しの間はおとなしくしておけ」


 ぱしりと少年の足を軽く叩いてから、トールは立ち上がって他の村人達へと視線を向ける。


「おい! 他に怪我人はおらんか! 死んでさえいなけりゃ、ワシが助けられる!」


 戸惑う村人達のざわめきが、一際大きくなる。

 急激に流れる状況に、彼らの常識の許容量を完全に突破してしまっているのだろう。

 助けられたのは事実だが、その相手は素性も知れない上に、魔物達を一方的に虐殺するような怪物だ。

 魔物達の襲撃で、怪我をしている者は少なくない。

 中には急いで処置をしなければ助からないような、命に関わる大怪我をしている者もいる。

 だが親しい隣人を、大切な家族を、その命運を得体の知れない相手に委ねていいものなのか。


 その戸惑いをトールも感じてはいたが、こればかりはどうしようもない。

 もう少しスマートに追っ払っていれば良かったかもしれないが、やりすぎてしまった事実は変わらない。

 上手く行かんものだと、助けようとしている側のトール自身が諦めかけていたが………


「みんな、見て!」


 声を上げたのは、やはり先ほどの少女。

 彼女は弟に手を貸して、両足できちんと立ち上がったのを示しながら、村人達に訴える。


「逃げようとした時に挫いてしまった弟の足が、もう治ってる! この人が治してくれたわ!」

「そ、そりゃあ、本当かね?」

「そんなことで嘘なんて吐かないの、分かってるでしょう!」


 問い返してきた老人に、少女は声を大にして答える。

 恐らくは、この少女は日頃から村人達の間で信頼を築いてきたのだろう。

 今までは怯えと戸惑いに右往左往するばかりだった村人達が、少女の言葉に意識を向ける。


「この人は、私たちを助けてくれた! それを信じて! この人の善意を、助けられた私達が裏切ってはダメよ!」


 強く、そして聞く者の心にまで届く、優しい言葉だった。

 それは村人達だけでなく、トール自身の胸の内にまで、確かに届いていた。


「……おい、怪我してる奴。しゃべれる奴は声に出せ!」

「こっち、トロールに殴られちまった奴がいる!」

「こっちもだ! まだ息はあるが、目を覚まさないんだ!」


 一度流れができたなら、人の数だけそれは力強く後押しされていく。

 怪我人の数を把握し、危険な状態にある者をはっきりさせる。

 俄かに動き出した村人達を見ながら、トールは勇敢な少女へと言葉を投げかけた。


「助かったぜ、お嬢ちゃん。名前はなんて言うんだ?」

「私は、ヨルサと。こちらは、弟のウルル。………そういう、貴方の名前は?」


 ミョルニールに癒しの魔力を込めながら、トールは村人達の方へと向かう。

 名を問いかけられ、通りすがりの身分不詳の自分が、どう答えるのが正しいのか。

 それをほんの少しだけ悩んで。



「ワシはトール。雷と戦の神。雷神トールだ」



 ヨルサとウルルに背を向けたまま、己の思う通りに名乗りを上げた。




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