3
誓いはしたものの、特に進展もないままに3日ほどが経過した。
相変わらずの森の中。
気持ちの良い陽気からして、今の時季は春なのだろうか。
「ふーむ………」
小川の辺に転がる岩の一つに腰を下ろして、トールは難しい顔で唸る。
神器に不備がないかを確かめてからこれまで、今の自分の性能は概ね理解できた。
先ず身体能力だが、残念ながら万全の時と比較すれば大きく見劣りする。
メギンギョルズの加護もあるので大分マシだが、これでは下っ端の巨人を殴り倒すのが精々だろう。
ヤルングレイプルは特に大きな問題はなく、ミョルニールも同様。
稲妻を呼ぶこともできるし、癒しの力もちゃんと発動する。
ただ持ち手の能力が弱まっているせいか、天候操作などの大規模な能力行使までは行えない。
ここまではいい。
一先ずこの三つの神器が無事であれば百人力だ。
「しかし、やはり戦車を呼べんかったのは痛いなぁ」
「メ゛ェ゛ェ゛ェ゛~」
小さくため息をつくトールの横で、一頭の山羊が返事をするように鳴く。
それは頭に一対の立派な角を巻いた、美しい毛並みの山羊だった。
肉付きも極めて良く、人によっては大金を積んで欲しがってもおかしくはない。
トールは焼いた肉―――焼いた山羊の腿肉を齧りながら、隣にいる山羊の方へと視線を向ける。
「戦車があれば空も飛べて楽なんだが、ないものねだりは仕方あるまい」
「メ゛ェ゛ェ゛ェ゛~」
「それにまぁ、お前らさえ呼び出せれば、飯や飲むものには困らんし、それはそれで良しとするか」
「メ゛ェ゛ェ゛ェ゛~」
非常食扱いされたことを抗議するように、山羊――タングリスニは大きく鳴いた。
この山羊ともう一頭、タングニョーストを合わせた二頭の山羊もまた、トールが所有する神器の一つ。
トールが有する戦車を牽く役目の他に、この山羊は皮と骨さえ残っていれば、例え食べても翌日には蘇生することができる。
一頭は肉を取ってその日の食料に、一頭は乳を搾って飲料に。
移動手段としての戦車は使えないが、この二頭がいれば食事には困らない。
大きく口を開けて、トールは焼けた山羊肉をがぶりと頬張る。
羊の肉もそうだが、山羊の肉にはかなり独特の臭みがある。
通常は香草などでそれを抑えるのだが、トールが食べているのはミョルニールで熾した火で丸焼きにしただけの肉だ。
神々の所有物なだけあって、その山羊肉は焼いただけでも十分脂の旨みで味わいがある。
酒があればもっと良かったがと考えながら、鼻に抜ける臭みも味の一つと楽しむ。
「………ふーむ」
骨には傷一つ付けずに肉だけを完食すると、トールはまた一つ唸ってみる。
どうにも、どうにも良くない状況だ。
神々の黄昏で死した後、見知らぬ土地に放り出されて、混乱しつつも初日は困難へと立ち向かうことを誓った。
次の日は現状の自分の力を完璧に把握するために、森の中であれこれ暴れてもみた。
その最中、熊や猪、鹿などの動物も多く見かけた。
食せる木の実や薬草も多くあり、軽く見て回っただけでも豊かな森であることが窺い知れる。
そして現在、3日目。
「なんも起きんなー……どういうことだー……?」
何も起きない。森は大変穏やかだ。
神であるはずの自分がこうまで弱まり、しかも一人で謎めいた異郷の地に現れた。
そこには間違いなく、何らかの必然性があるはずだ。
偶然などという言葉は、運命に向き合えない者の言い訳に過ぎない。
あるいは黄昏を引き起こしたロキの仕業かとも考えたが、その線は薄いとトールは考える。
「アイツだったらまず、初日の段階でワシの前に出てきて一通り煽りまくってから逃げるだろうしなぁ」
それがないということは、ロキがやったとは考え難い。
身構えていた分、何も起こらないことで逆に気が抜けてしまい、ダラダラと肉を食ってるという有り様だ。
「メ゛ェ゛ェ゛ェ゛~」
雷神の戦車を雄々しく牽く役目から、山羊乳搾りサーバーと堕したタングリスニが鳴く。
そういうご主人様こそ堕落してませんかね?とでも言っているようだった。
堕落。堕落なのだろうか。
気が抜けているのは、異常な環境で何も起こらないことだけが原因ではないかもしれない。
トールの脳裏に描かれるのは、己の神話の結末。
あの天を黒く閉ざす世界蛇との死闘。
全身全霊をぶつけ合った、これ以上ないほどの戦いだった。
あれよりも心昂ぶらせる戦など、もしかしたら今後二度とないかもしれないと、そう思える程に。
「……燃え尽きとるなぁ、ワシ」
あの戦いで、トールは完全燃焼してしまった。
思い至ってしまえば、それはトール自身にも否定のしようがない事実だった。
すべてが終わって、再び目を覚まして。
そして新たな脅威がやってくるかと思えば、何も来ない。
無理やり火を付けようとした火種が、燃え上がる前に消えてしまったような気分だ。
いっそこれが本当にロキの企みであったなら、昔の気分に戻って追い回すこともできただろうか。
「未練、よなぁ」
自嘲気味に笑いながら、小さく呟く。
ヨルムンガンドと戦っていた時は出てこなかった感傷も、穏やかな時であれば顔を出してしまう。
傷口がひとりでに開くように、様々な感情が雷神の胸の内に去来する。
いっそ本当に、燃え尽きた心のままにこの森で隠棲するのも、悪くはないかもしれない。
半ば本気でそう考えかけた、まさにその時。
「………ン?」
声が、聞こえた気がした。
トールは顔を上げて、辺りを見回す。
風の音。鳥の鳴き声。小川のせせらぎ。やや遠くになれば、他の動物の声も混じる。
それだけだが、断じてそれだけのはずはない。
トールの耳の奥で響いたのは、既に聴き慣れてしまった森の声ではない。
「なんだ、誰だ?」
声。もう一度、耳の奥で直接響いた。
間違いなく、それは人の声だ。
本来ならば届くはずのない距離から、誰かの声が雷神の耳に届いている。
消えたはずの火が、胸の中で揺らめくのをトールは感じた。
故に目を閉じ、耳を澄ませて、そのあるはずのない声を捉えんと集中する。
“―――助けて、お願い……助けて……!―――”
それは呼び声であり、神へと捧げる祈りであった。
絶望の淵に立たされて、助けを求める者の声。
災禍の中にあって、それでも生きることを諦めない者の、切なる叫び。
それは間違いなく、雷神の心の芯へと届いていた。
「ッ―――――!」
トールは叫んだ。
何を叫んだのかは、トール自身にも分からない。
ただ猛る何かを吐き出すように叫んで、その姿が宙を舞う。
一歩。メギンギョルズで倍加した力で踏み出した一歩。
先ほどまで座っていた岩に亀裂を刻みながら、トールの身体は森の中を跳躍する。
ぶち当たってくる太い枝を逆にへし折り、足が地に着いたと同時に走り出す。
走る。走る。走る。
雷速には程遠いが、それでもその疾走は風よりも速い。
先ほどまでの弛緩していた気持ちなど、吹き散らしてしまうように。
雷神の疾走は森の中を駆け抜ける。
「ふっ、ハハッ!」
何と自分は愚かだったのだろうか。
走る速度は緩めず、トールは自らの浅慮を笑い飛ばす。
あの世界蛇との戦いで終わりだったのならば、それで良かった。
燃え尽きたまま消え去るのであれば、それで終わりなのだから、それで良かっただろう。
だが黄昏を過ぎても、雷神トールの物語は終わらなかった。
異郷の地で、弱まった力は万全には程遠く、ミーミルの預言も今は無い。
運命は未だ白紙であり、今こうして助けを求めて祈る誰かがいる。
ならば十分だ。
トールが神として黄昏の先へ進むには、それだけのきっかけで十分過ぎる。
「待っておれよ……!」
距離が近づいているのか、声は一層大きくなっていく。
先ほど聞こえたのは少女のものだったが、今はより多くの声が聞こえてくる。
そのすべてが助けを求める祈りであり、次の瞬間には掻き消えてしまうかもしれない儚い声だ。
焦りはしないが、どうしても心は逸る。
思っていた以上に森の深い場所にいたようだが、それも間もなく抜ける。
「………見えた!」
森の外へと通じる光。
それが見えると同時に、トールは一気に駆ける。
抜けた。そしてトールの視界に飛び込んでくるのは、予想していた通りのものだった。
即ち、争いだ。
いやむしろ、争いではなく一方的な蹂躙と言った方が正しいだろう。
踏み躙られようとしているのは、トールがいた森のすぐ傍にある小さな村落だ。
本来ならばのどかな村だと暢気に言えるのだろうが、今は地獄の中心点。
逃げ惑う村人達を襲うのは、異形の魔物達。
濁った緑色の肌をした醜悪な顔の小人に、罅割れた岩のような肌を持つ大男。
群れの総数は30前後で、小人の方が大男よりも数が多い。
それらが錆びた槍や棍棒などの粗末な武装に身を固め、村の中を荒らし回っている。
悲鳴と怒号、魔物達の耳障りな雄叫び。
村の男達も農具を手にして何とか抵抗を試みてはいるが、残念ながら僅かな延命にしかなっていない。
明らかに人を襲い慣れている魔物と、森で獣を狩るぐらいしか経験のない村人とでは、殺し合いでの差は大きい。
殺意で血走った眼で睨みつけ、悪意の篭った得物を振り回す魔物に、ただの人間では身が竦んでしまう。
故に村の命運は、この魔物の群れが襲った時点で決まってしまっている。
抵抗は確かに無駄ではないだろう。それで何人か、逃げ延びることのできる者はいるだろう。
だが生きる糧を奪い尽くされ、人としての尊厳を踏み躙られるという結果は変えられない。
どうしようもない。
だから少女は、震える我が身を無理やり抑えながら、その場に立ち塞がる。
目の前には棍棒を振り上げる岩妖。
後ろには、逃げる途中で足を挫いてしまった、たった一人の弟。
抱えて逃げようとしたところで、追いつかれた。
間に合わない。どうしようもない。
だから少女は、恐怖に竦みながらもその行動を選択した。
ここでほんの一瞬でも時間を稼げれば、他の村人が弟を抱えて逃げてくれるかもしれない。
周りを見る余裕などないから、単なる希望的観測に過ぎないが、それでも何もしないよりかは可能性はある。
自分は間違いなく死ぬが、弟は助かるかもしれない。
「姉ちゃん……!」
怯えに引きつる声は、逃げてという言葉にまで繋がらない。
世界の動きが、酷くゆっくりに感じられる。きっと、死がすぐ傍まで迫っているからだろう。
トロールは下衆な笑いを浮かべながら、わざと大仰に棍棒を振り上げる。
最後の最後まで、恐怖と絶望に溺れさせながら殺したいのだろう。
まったく冗談ではない。
恐怖も絶望も、とうに限界まで振り切れてしまっているのだから、これ以上は余分だ。
余分だから気にせずに、少女は首だけで背に守る弟の方を振り返った。
自分はいいが、せめてほんの少しでも、幼い弟の恐怖を拭ってやらねばと。
助けを、都合の良い奇跡ばかりを祈り続ける弱い心を、どうにか押し殺しながら。
少女はたった一人の弟に、姉として優しく笑ってみせた。
「ほら、お姉ちゃんは大丈夫だから。泣いちゃダメよ」
自分こそ泣き出してしまいそうなのに、一体何を言っているのか。
むしろ弟に不安を与えてしまったかと後悔さえ感じながら、少女は両眼をキツく閉じる。
心はもう限界で、振ってくる乱雑な死をもう直視できそうにないから。
耳鳴りが酷く、もう弟の声もまともに頭に入ってこない。
閉ざした瞼は視界を闇に染めて、もう何も見えない。
どうせすぐ、この頭はトロールの一撃に砕かれて、聞こえる必要も見える必要もなくなるのだ。
ほら、すぐ。すぐだ。すぐに。もう。こわい。たすけて。
心が千々に乱れる。押し殺そうとした恐怖が、どうしようもなく噴き出してくる。
だから少女は祈った。都合の良い奇跡を。
今は亡き母に教えてもらった、小さな祈りを。心の中で、繰り返し。
意味はないと分かっていながらも、縋りつくように祈り続ける。
そして、頭を揺らす衝撃。
「…………?」
衝撃。軽く、ぽんと叩かれたような、それだけの衝撃。
理解ができず、少女はようやく両眼を開いて、降ってきたはずの死を見ようと顔を上げた。
「―――おぉ、良い根性だ。小娘」
そこにいたのは、赤い髪の女性が一人。
黒い帯のようなものを裸身に巻きつけただけの格好で、少女の前に佇んでいる。
美しい女だった。同じ性別であるはずの少女でも、一瞬ならず見蕩れてしまうほどに。
けれど、今はその美貌よりも驚くべきものがある。
女の右手。軽く宙に掲げるように持ち上げられた右手が、それを掴んでいる。
トロールが振り下ろした、無骨な棍棒。
それがまるで木の枝か何かのように、女の手が無造作に掴み止めていた。
「そっちのガキも、泣くんじゃない。男だろうがよ。……なぁに、安心しろ」
みしりと、何かが軋む。
軋んでいるのは、女が掴んでいるトロールの棍棒だ。
右手の五指が狭まる圧力に押されて、硬い木材でできているはずの棍棒が、真ん中から拉げていく。
「お前の姉ちゃんの言う通り。ワシが来たのだから、もう大丈夫だ」




