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最初に飛び込んできたのは、深く広がる空の青さだった。
青色。むしろ、藍色と言った方が近いだろうか。
海の青さとは異なる、空の青さ。
今日は雲は少なく、風も穏やかだ。日差しも暖かで過ごしやすい。
「………おぉ………」
思わず感嘆の声が漏れる。
こんなにも穏やかな青空を見たのは、一体いつぶりだろう。
大いなる冬と、神々の黄昏。
近い記憶にある空は、その青さを失って久しかった。
分厚い雲に覆われることも、墜ちる星々に焼かれてもいない空。
当たり前にあるはずのものが、当たり前にあること。
何も特別なことはない。
ただそれだけのことが、こんなにも尊いことだとは。
「……いかんな、これは」
寝起きで頭が霞がかっているせいか、柄にもないことを考えてしまった。
地面に手を付き、横たわっていた身体を起こす。
頭を軽く振ってから、改めて周囲へと視線を向ける。
どうやらここは、どこかの森の中らしい。
密林という程ではないが、鬱蒼と生い茂る森の木々は、この場に人の手が殆ど入っていないことを示している。
見覚えのない場所だった。少なくとも、あの三度の冬を越えた森など記憶にはない。
ならばここは、己の知らない何処かの土地か。
しかしだとすれば、どうして自分はそんな場所にいるのか。
分からないことばかりだ。
自分が生きているのも、見知らぬ森の中で目覚めたことも、何もかもが不可解だ。
あの黄昏の最中に、この命は世界蛇と共に果てたはずなのに。
「まぁ、ワシがものを考えても、頭痛が酷くなるばかり………?」
身を起こし、今度は立ち上がろうという段になって、ようやく気づく。
何か、こう………おかしくないだろうか、身体。
「………小さいな」
まったく今更の話だが、まず身体のサイズがおかしい。
あの世界蛇ほどではないにせよ、雷神の体躯は巨人達と比べても見劣りしないものだったはずだ。
そこらの森の木々など、立ち上がってしまえば見下ろせる程度には大きかった。
だというのに、視点が低い。
一瞬、森の方がバカでかいのかとも考えたが、それも直ぐに打ち消される。
「あと、細いな。細すぎる」
腕。数百年を生きた巨木もかくやという、鍛え抜かれた雷神の腕。
それが一体どういうことであろうか。
巨木であるべき腕のどちらもが、まるで白樺の若木のようにほっそりしてしまっているのだ。
おかしい。何もかもがおかしい。
両腕の惨状を確認していたら、もっとおかしいものが目に付いた。
「………胸?」
胸。いや、胸という表現では分かりづらいか。
胸は胸で、胸という位置を表す名称であり、それは雌雄の別で変わるものではない。
だから胸ではなく、その位置にあるソレの呼び名を使う必要がある。
「なんでワシの胸に、おっぱいがぶら下がっとるんだ?」
しかもかなりデカい。
たわわに実っている、という表現がこれ以上なくしっくり来る大きさだ。
「いや、待て。おい、なんだこりゃあ」
違和感と疑問は、巨人達の住処である雄大な山々の如くに積み上がっている。
それを一つ一つ確認するのも煩わしい。
森の草を踏みしめて、勢いよくその場に立ち上がる。
そうして改めて、自分の身体の状況を確認する。
「………なんでワシ、女の身体になんかなっとるんだ?」
神々の黄昏で命を落とした、偉大なる戦神トール。
彼―――今は“彼女”は、見知らぬ地の森の中、生まれたままの姿で呆然と立ち尽くした。
「よく見たらこれ、霜の巨人スリュムからミョルニールを奪い返す時にした格好じゃないか」
混乱したまま固まったところで、事態が動くわけでもない。
あれから我に返ったトールは、一先ず周囲に川がないかを探した。
幸い、それほど離れていない場所に綺麗な小川があり、その流れを水鏡の代わりにして自分の姿を改めて確認する。
そこに映ったのは見慣れた益荒男の姿ではなかったが、見覚えのないものでもなかった。
「アレを言い出したのはヘイムダルだったか? 真面目な堅物がとんでもないこと言い出したと、みな騒然としたもんだが」
小川を覗き込んだままの体勢で、トールはかつての騒動を懐かしげに思い出す。
ヨトゥンヘイムの霜の巨人、その王であるスリュム。
彼はトールの最も重要な宝である大鎚ミョルニールを盗み出し、それを返すのと引き換えに女神フレイヤを自身の妻に迎えることを要求した。
当たり前だが、そんな要求を神々がまともに頷くはずもない。
しかしミョルニールが奪われたままでも困る。ならばどうするのか。
その解決策として、虹の橋の番人たるヘイムダルはとんでもない案を口にしたのだ。
「ワシに女の格好させて、フレイヤの代わりに送り込むとか、今考えるとアホの極みだな。騙されたスリュムはいい面の皮だが」
当時は兎に角、奪われたミョルニールを奪い返すのに必死で、それ以外何も考えてはいなかった。
ロキがノリノリで侍女の姿に化けている横で、トールは呪いだの魔術だのを総動員して改造された。
今のトールの姿は、その時のそれとまったく同じものだった。
身体のベースは当然のように女神フレイヤだ。
女性としては長い手足に豊満な胸、美しい曲線を描く腰周りと、完璧な造形を誇っている。
肩甲骨の辺りにまで伸びた髪は、フレイヤの金色ではなくトールと同じ燃えるような赤色を宿している。
瞳もまた同様で、天を駆ける稲妻と同じ輝きが煌めいている。
顔立ちは、思わず自分でも見蕩れてしまいそうになるような美人だ。
少女の愛らしさと、女性の艶めかしさが自然と混ざり合った蠱惑の美貌。
これも美を司るフレイヤをモデルにしているのだから、当たり前と言えば当たり前のものであるのだが。
「まぁいい、それはいい」
現実逃避も程々にしなければ切りがない。
懐かしいものを見たことで、多少なりとも落ち着きは取り戻した。
事態は不明瞭で、我が身に起こったことも殆ど把握できてはいないが、何もしないままでは何も始まらない。
だからこそ、先ずは自分に何ができるかを確認する必要がある。
「………よし」
深呼吸。一つ、二つ。三つ目の息を吐き出しながら、意識を研ぎ澄ませる。
何故か女の身体になってしまったのは、まぁいい。
いや良くはないが、今は横に置いておく。
変化が起こっているのは、身体の見た目だけなのか、そうでないのか。
先ずそれを確かめるために、トールは自らが所有する神器を一つ一つ呼び出す作業から始めた。
「“倍加の力帯”」
主の呼びかけに応じて、その手に黒い腰帯が現れる。
軽く握ったり引っ張ったりして確かめてみるが、間違いなくメギンギョルズだ。
「特に問題はなし、か」
一先ず安心して、トールは小さく笑みをこぼす。
実際、この時点で躓くと割とどうしようもないので、本当に助かった。
とりあえず腰に巻いておこうとしたところで、トールは自分が一糸纏わぬ姿だったことを思い出す。
なので、腰周りに巻くだけではなく、胸や股の下など、隠すべきところは隠すようにしてぐるぐると巻きつけていく。
元々巨体に身に付けるものであり、長大で伸縮性が高いのも幸いした。
「全裸で腹巻だけ付けとるのでは、流石に間抜け過ぎるしなぁ」
腕や足にもサポーターのように巻きつけて、関節を軽く曲げ伸ばしてみる。
動作に大きな問題はない。メギンギョルズの魔力で、身体の底から力が湧き出してくるのも感じる。
ならば次に気になるのは、“現在の力”がどの程度のものであるのか。
手っ取り早く確かめるために、トールは手近な木へと固めた拳を叩きつけてみた。
「………ふむ」
結果として、木は見事にへし折れた。
男の胴体と同じぐらいの太さの幹が、殴った箇所からばっきりと。
その細腕からは想像もできないような、凄まじい怪力だ。
しかもそれは全力の拳ではなく、「とりあえず試しに殴ってみよう」程度の力を込めた拳での結果だ。
普通に考えれば十分だが、それを見たトールの表情は浮かないものだった。
「ダメだな、ろくに力が出せん。メギンギョルズで倍加してこの程度とは………」
仮にトールの持つ本来の力が倍加されていたのなら、こんな程度ではすまない。
少なくとも直接殴られた木は木っ端微塵となり、その余波だけで周辺の木々もまとめて薙ぎ倒しているはずだ。
まったくもって、弱体化も弱体化だ。
この程度では仮に全力を出したとしても、倍の太さの木をバラバラにするのが精々か。
「まぁ良い。とりあえず、今はこの程度の力が出せることは確認できた」
いつまでも気にしても詮無きことだ。
故にトールは、次なる神器を確かめる作業に入る。
「“黒鉄の手套”」
呼び声に応じて、今度は真っ黒い鉄甲がトールの両腕を覆う。
主の肉体の大きさに合わせてコンパクトになってはいるが、間違いなくヤルングレイプルだ。
肘の辺りまでを覆った篭手を、軽く握ったり開いたりして動かしてみる。
メギンギョルズと同様に、動作に問題はない。
「………よし」
ヤルングレイプルも無事に呼び出せた。
ならば次は、トールにとって最も重要な神器を試す時間だ。
呼吸を整えて、集中する。
メギンギョルズもヤルングレイプルも大事だが、次なる神器が呼び出せなければその価値は半減してしまう。
故にトールは慎重に、しかし何よりも力を込めてその名を呼ぶ。
「来たれ! “雷霆の大鎚”よ!」
その名を叫び、そして同時に大気が裂けた。
心地よく晴れた青空を切り開いて、一条の稲妻が森の中へと落下する。
美しい閃光と、荒々しい轟音。
トールはその右手を頭上に掲げたまま、目を閉じていた。
握る手に力を込めれば、返ってくるのは慣れ親しんだ硬い感触。
間違いなく、ヤルングレイプルは雷を握った。
メギンギョルズの加護を受け、それは宿す力を青白く煌めかせている。
「……………」
ゆっくりと、両の眼を開いて、その輝きを確かなものとする。
大きく無骨な柄頭に、それとは不釣り合いなぐらいに短い柄を持つ戦鎚。
他の二つの神器と同様に、持ち手に合わせて小振りになってしまっているが、宿す雷光は色褪せてはいない。
「………あぁ」
ようやく本心から、安堵の吐息が漏れる。
最強の戦神トールたる者が情けない話であるが、どうしても不安というものが拭い切れずにいた。
見知らぬ地で、我が身に何が起こったかさえも分からず、しかも自慢の力は見る影もないほどに弱まってしまっている。
けれどその輝きは、変わっていなかった。
共に数多の戦場を駆け巡り、あの黄昏では最大の世界蛇にも挑んだ無二の相棒。
雷霆の大鎚ミョルニール。物言わぬ雷神の盟友よ。
「お前さえいれば、ワシはどんな困難も打ち砕いてみせようさ」
最強の神たる名を背負う、己自身に誓う。
この手に掲げし戦雷の現し身たる大鎚に誓う。
そしてもう一つ。
「ワシがこの手で乗り越えし、数多の強者たる戦友らよ。お前達の勝者として、無様な姿は晒すまい」
一人の戦士の名誉に懸けて、雷神トールは偽りなく誓いを捧げた。




