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 最後の試練を終えてから、数日の後。



 トールはまたいつもの草原で、いつもの定位置である岩の上に座っていた。

 隣に座っているのはヨルサだ。

 大きなバスケットを抱えて、二人で昼食を取っている。

 今日もまた天気は良く、日差しは強いが吹く風はとても穏やかだ。


 羊達の様子を眺めながら、変わらぬ時間を過ごす。


「………それで、ベルリンド様は明日お戻りになられるんですか?」

「あぁ、向こうも満足したようでな」


 元より公務でもない私的な用事で、次期領主が長々と田舎の村に滞在しているのがおかしかったのだ。

 出来るだけのことはやって、ベルリンドも納得したのだろう。

 村長をはじめとした村の者達に礼などしながら、帰り支度を進めていた。


「そうですか………少しだけ、寂しくなってしまいますね」

「そうかもしれんな」


 どこか遠くを見ながら言うヨルサに、トールも笑いながら頷く。

 風が通る。言葉の空白を埋めるように。

 ヨルサはそれ以上、何も言葉に出さなかった。

 何かを待っているように口を閉ざして、ただ穏やかな表情で空を見ている。


 ――――本当に、聡い娘だ。


 トールの方から何か話があるのだと、何となく察しているのだろう。

 少女はそれを待っている。迷っているのはトールだけだ。

 トール自身の言葉で、言わなければならない。もう決めた事なのだから。

 息を大きく吸って、ゆっくり吐き出す。

 まるで緊張した小娘のようだなと、トールは苦笑した。


「………なぁ、ヨルサよ」

「なんですか、トール様?」

「うむ、実は。その、なんだ」


 いざ言葉にしようと口篭ってしまうのも、ヨルサは何も言わない。

 ただ、次に続く言葉を辛抱強く待ち続ける。


「………この村をな、出ようかと思っとる。明日、ベルリンドが発つのに同行する形でな」

「…………」


 ヨルサは何かを言おうとして、すぐに口を閉ざした。

 少しだけ長い沈黙。トールの言葉を自分の中で飲み込もうとするように。

 今度はトールの方が、ヨルサの言葉を待った。

 空を見上げて、軽く深呼吸。それから曖昧な微笑みを浮かべて、ヨルサは小さく頷いた。


「いつ、言い出されるかと思っていました」

「………すまん」

「何を謝ることがあるんですか?」


 笑って、ヨルサは少し項垂れるトールの頭を軽く撫でた。

 柔らかい手つきで、赤い髪を指で梳くように。


「トール様がそう決めたのでしたら、私はそれでいいと思います。止める理由も、咎める理由もありません。

 貴女は、この小さな村に留まり続けて良いような方じゃないって、分かっていましたから」

「ヨルサ………」

「………勿論、行ってしまうのは少し、寂しいですけど」


 本当は出て行って欲しくはない。

 幼くして亡くしてしまった母と同じぐらいに慕っているから。

 だからずっと、私達の傍にいて欲しい。

 その想いを、ヨルサは決して口にはしなかった。

 本心ではあるけれど、同時に強がりでもある言葉と共に少女は笑う。


 言葉にはしなかった。

 けれど、言葉にせずとも伝わる想いがあった。

 だからトールは、ヨルサの身体を強く抱きしめた。

 このまま胸に閉じ込めてしまいたい、そんな愛しさを込めて。


「許せ。寂しい思いはさせてしまうが、必ず戻ってくる」

「はい………私は、ずっとこの場所で待っていますから」


 泣き出してしまいそうになるのを堪えて、ヨルサもトールの身体を抱きしめ返す。

 ここで泣いてしまったら、トールの足を止めてしまうかもしれない。

 それだけは駄目だと自分を戒めて、想いだけは伝わるようにと身を寄せて。


 どれほどの時間をそうしていただろう。

 ほんの少しだけ気恥ずかしさを感じながら、二人はゆっくりとお互いの手を離す。


「どれほどの旅になるかはまだ分からんが、そう長くは空けないつもりだ」

「はい」

「必ず戻ってくる、だから心配せんでもいいぞ」

「はい、大丈夫です」

「身体に気をつけろ。ウルルの面倒もしっかり見てやれ」

「はい、分かってます。トール様は心配性ですね」


 これから外に出るトールの方が、危ないことも多いだろうに。

 残す子供達の身を第一に案じてくれる雷神に、少女は嬉しくて涙がこぼれそうになる。

 だからそれを誤魔化すように、ヨルサはまたトールに抱きついて。


「本当に、大丈夫ですから。トール様は望む通りのことをしてください。そうしてくれた方が、私も嬉しいから」

「………そうか」


 縋るような少女の身体を、今度は優しく抱きしめ返す。

 母が娘がするのと同じように、髪や背を柔らかく撫でた。


「もし危ない目に遭ったら、すぐにワシに祈れ。例え千里の先であろうと、お前の元にすぐに駆けつける」

「ン………約束、してくれますか?」

「あぁ、勿論だ。ワシの名誉にかけて誓おう」


 雷は必ず、お前の身を守る。

 愛しい娘のために、トールは違えることなき誓いを立てた。

 その意味を理解して、ヨルサは安堵と共に微笑む。


「なら、信じます。トール様は私たちのことを、絶対に守ってくださるって」


 どれほどの距離を隔ていようとも、心はいつも傍にある。

 それが嬉しくて、ヨルサは笑った。

 トールもまた微笑みながら、ヨルサの言葉に頷く。


「留守の間は任せた。いや、お前は本当にしっかりした娘だから、大丈夫なのは分かっとるんだが」

「もう、本当に心配性ですね」


 子離れできない親そのものなトールの頭を、悪戯を仕掛けるようにヨルサが撫でる。

 からかわれているようだが、悪い気はしない。

 お返しとばかりにヨルサの髪をわしゃくしゃ撫でたりと、互いに軽くじゃれあいながら時を過ごす。

 離れてしまったら、こんな触れ合いも暫くはお預けになってしまうから。

 今この時を噛み締めるように、少女と神は笑い合う。


「………よし。ヨルサ、お前はそろそろ村に戻れ」


 不意に手を止めて、トールは少女の背を軽く押しながら言った。

 普段とは違う様子を感じて、ヨルサは小さく首を傾げて。


「トール様?」

「心配せんでも大丈夫だ。ワシは行く前に、一つ野暮用を済ませなきゃならんでな」


 一体誰に、どんな用件があるのだろう。

 問いたい気持ちを抑えて、ヨルサは素直に頷いた。

 トールが大丈夫だと言うのなら、自分は信じるだけでいい。

 そうすれば言葉は確かなものとなる。ヨルサはそれを知っていた。


「あまり、遅くならないようにしてくださいね? お夕飯の仕度はしておきますから」

「おぉ、すぐ戻る。手伝いもしてやりたいしな」


 笑って頷きながら、トールは村へと戻るヨルサの背を見送る。

 それが完全に見えなくなるまで待ってから、改めてその場から立ち上がった。

 そして告げる。今もまだ、自分を伺っている存在に対して。


「さぁ、出てきたらどうじゃ。ワシに用があって来たんだろう?

 話であれば幾らでも付き合うてやるから、とっととその面を拝ませてくれや」


 何もいない。周囲にはトール以外の何者の姿もない。

 誰何の声はただ空しく草原に響くのみ。そのはずだった。


『…………豪胆なことだなぁ』


 果たして、応える者は在った。

 途端に穏やかな風が吹くばかりだった草原に、圧倒的な神気が満ち溢れる。

 心なしか中天に頂く太陽も、その輝きを増した気がする。


 何が起こっているのか、トールはそれを正確に理解していた。

 降臨だ。身に覚えのない神気―――いや、最近になって見知った相手のものと同じだ。

 万物をその光で照らし出し、逆らう不心得者を尽く焼き尽くすその神威。

 絶大な圧力は神々の王(オーディン)を思い起こさせる。


 そうして眼前に、一人の男が降り立った。

 浅黒い肌をした筋骨逞しい偉丈夫だ。腰に黒い毛皮を巻き、裸身に幾つもの煌びやかな装飾品をぶら下げている。

 身に帯びた宝物の美しさも眩しいが、何より目を引くのは男の顔。それを覆う奇妙なマスク。

 翡翠と黒曜石を組み合わせて作られた、髑髏を模した仮面。

 モザイクめいた奇妙な紋様はまるで生きているように表面を波打っており、見る者の心に不安を抱かせる。

 髑髏の眼窩、その奥にある眼は炎と同様に赤く輝いており、真っ直ぐトールのことを見据えている。


『奇妙な感覚だ。こうして互いに顔を合わせるのは初めてであるはずだが、我はお前のことをよく知っている』

「トールだ。お前さんも“テスカトリポカ”で良いんじゃな?」

『そうさな。我こそがテスカトリポカ、原初の太陽を司る者。そして今は森林帝国ゴロムトランの皇帝』


 ギーアとヤナル、あの二柱と根本を同じくするアステカの主神格。

 いや、同じくするのではない。この男こそが「テスカトリポカ」という神格の中枢なのだろう。

 ただその場に佇んでいるだけで、周囲のすべてを塗り替えてしまうような絶大な「格」を有している。


 ――――凄まじいな、これは。


 それを肌身に感じながら、トールは猛ったように笑った。

 吹きつける神気をものともせずに、堂々と原初の太陽神たる皇帝の前に立つ。


「まさか御大が直接出てくるとは思わんかったな」

『我も最初はそのつもりはなかったんだが、気が変わった。少々無理をしてでも、直接言葉を交わしたくなってな』


 言いながら、テスカトリポカはその右手をゆるりとトールの方へと向ける。

 手のひらを空に、そこへ重ねることを求めるように。


『我が同胞たる司祭らでも危うい、その力と格。何よりもその気質。奴らの耳目を通してすべて見させて貰っていた。

 故に、我自身の口で改めてお前に問いたい』

「敵となるか、味方となるか、か?」

『然り。答えを貰おう。お前ほどの神であるなら、どちらでも我にとっては有意義だ』


 敵となるのであれば、これほど歯応えのある好敵手はそうおるまい。

 味方となるのであれば、万の軍勢を得るよりもなお頼もしい。

 故にどちらでも構わないとテスカトリポカは言う。


 その皇帝の言葉に対して、トールは僅かに沈黙し――――。


「………どちらでもない」

『何?』

「どちらでもないと言うたのだ、テスカトリポカ。皇帝たる太陽の神よ。少なくとも今は、ワシはそのどちらでもない」

『我が問いを、はぐらかそうと言うのか?』


 それは侮辱であるのかと、テスカトリポカの纏う神気に怒りの色が滲む。

 たったそれだけのことで世界が震えるほどの衝撃だったが、トールは臆することなく首を横に振った。


「違う。お前を侮辱するつもりはない。ただそれを選ぶには、ワシはあまりにモノを知らなさ過ぎる」


 何も知らない。

 この世界に落ちてきてから幾らかの時間が過ぎたが、トールは多くのことを知らない。

 何故自分達がこの見知らぬ地に招かれたかを知らない。

 魔物達を突き動かす呪いが何であるのかを知らない。

 テスカトリポカが何と戦おうとしているのかを知らない。


 何も知らない。その身はあまりに無知だ。

 だから今はまだ、敵になることも味方になることも選べない。そうトールは告げる。


『ハハッ、何を言うかと思えば………知らぬのであれば、我が幾らでも教えてやるさ。少なくともこの地の事は、お前よりも熟知しているぞ?』


 テスカトリポカの言葉を、トールは首を横に振って拒否する。


「それでは意味があるまい。ワシは己の目で見て、この手で確かめたい。

 その上で、お前がワシの大切なものを戦火に晒そうというなら戦うし、手を取り合うことが出来るなら躊躇わずその手を取ろう」

『それまでは判断を保留する、ということか』

「いいや」


 差し伸べられていた右手に、軽く右拳を合わせる。

 叩くほどに強くはなく、むしろ親愛を込めるように柔らかく触れて。


「敵だの味方だのは、単なる立場の問題じゃろう。ワシはお前のことを、偉大な神であると認めている。

 お前さんも、ワシのことを気に入ってくれたからこうして顔を見せた。―――ならばワシらは“友”だ。杯を酌み交わせる」

『……………』


 予想もしていなかった言葉に、テスカトリポカは思わず口を閉ざした。

 虚偽でも虚勢でもない。目の前に立つ雷神は、本心からそんな戯言を口にしている。

 生贄を求める血腥き大神。テスカトリポカを相手に、まったく怖じることなく。


『………酔狂な奴よ。いや、だからこそ面白くもあるが』

「ふむ、怒らんのじゃな」

『我がそんな器の小さい男に見えるか?』

「気は短そうに見えるな」


 間違いなかったので、テスカトリポカは笑った。

 釣られてトールも笑う。笑って、こつりと拳に何かが当たるのを感じる。

 それはテスカトリポカの拳だった。

 差し出していた手を握り固めて、互いの拳が正面から軽くぶつかる。


 同時に、大気が炸裂した。


 爆心地は強大なる雷神と、原初たる太陽神が立つ場所。

 トールの拳からは稲妻が迸り、テスカトリポカの拳からはすべてを焼く熱風が吹き荒れる。

 両者一歩も退くことなく、互いの持てる力を真正面から激突させる。

 空間が軋むほどの衝撃。二柱の神の力はまったくの互角。


 いや、互角ではない。

 本当に、本当にごく僅かながら、トールの放つ稲妻の圧力にテスカトリポカの足が押されてる。

 トールは笑う。テスカトリポカも笑った。

 互いの力を理解して、二柱の異なる神は笑う。


『………惜しいな、この力。できれば今すぐにでも我が物としたいぐらいなのだが』


 そう言って拳を引いたのは、テスカトリポカだった。

 合わせてトールも雷を収めて拳を下ろす。


『我の完敗だ、雷神トールよ。力ずくでと思うたが、どうやらそれも叶わんらしい』

「よく言うわい。幾らワシが馬鹿でも分かるぞ、お前さんまだ本気を出しちゃおらんじゃろうが」

『それは誤解という奴だ、友よ(・・)。少なくとも、この身で出せる本気はぶつけた』


 友と、そう呼びながら。テスカトリポカは愉快げに笑った。

 トールは改めて、この太陽神の持つ底知れない力を実感していた。

 仮に持てる力のすべてを発揮したなら、一体どれほどの災禍を招くのだろうか。


『行くか、稲妻よ。この世界の何たるかを見届けに』

「あぁ。お前ほどの神がいるのならば、尚更にこの目で確かめたくなってきた。

 予言のないこの見知らぬ世界を。そしてワシらと同じように、この地に落ちただろう他の神々も」

『ならば東を目指すといい』


 東を目指せと、テスカトリポカは言った。

 意図が分からず、トールは小さく首を傾げながら問い返す。


「東? どういうことじゃ?」

『遠く東の地にて、異変が起きている。その詳細までは我の耳目にも届いていないが、何かが起きているのは間違いない』


 遠く、遥か遠く。

 東の空の果てを見ながらテスカトリポカは続けた。


『この地に起こる変化を探すがいい、猛々しき稲妻よ。そうすれば自ずと戦うべき“敵”の姿が見えてくる。

 その時に、共に手を取り合って戦える味方であることを願おう』

「………あぁ、そうさな。色々すまんかったな、テスカトリポカよ」

『礼を言われる程のことでもない』


 そう言って、テスカトリポカは踵を返す。

 周囲に満ちていた神気は波が引くように薄れて、その姿も同様に霞んでいく。


『ではさらばだ。トール、雷の神。己の心のままに、この見知らぬ空を駆けると良い。その自由なる姿こそ、雷には相応しかろう』

「………あぁ、さらばじゃ。太陽の皇帝テスカトリポカ。次に会う時は、酒でも呑みながら話がしたいの」


 雷神トールと、太陽神テスカトリポカ。

 太陽は遠く己の領域に去り、雷は静かにそれを見送った。

 二柱の神の最初の邂逅は、こうして幕を閉じた。


「東、か」


 果たしてその地に何が起こっているのか。

 如何なる神が降り立っているのか。

 死の山で戦ったあの悪神も、テスカトリポカが語る「世界の変化」の一部だったのか。

 分からない。トールは未だに多くのことを知らない。

 故に旅立つことを決めたのだ。

 守るべき者達を守る為にも、それは避けられぬ道だと予感しながら。



 雷神トールはこの瞬間、果てなく広がるこの見知らぬ世界に挑むことを決意した。




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