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18




 それはまさに、荒れ狂う暴威そのものだった。



 障害物の殆どない草原をベルリンドは走る。

 巻き込んだりはしないよう、羊達が群れているのとは逆の方角へ。

 正確に言うなら、それはベルリンド自身の意思で走っているわけではない。


 追い立てられているのだ。

 人の姿をした、稲妻の化身に。


「どうしたどうしたァ! 逃げ回ってばかりじゃお話にならんぞッ!」


 全身に雷光を纏いながら、戦いの神であるトールは咆哮する。

 迫る気配を感じ、騎士はすぐさま黒剣を構えた。

 衝撃は直後。左側面から振り抜かれた拳を、一瞬早く刃で受け止める。

 トールの動きが見えていたわけではない。単なる勘だ。


 しかしその勘のおかげで既に五度、ベルリンドはトールが放つ致命の一撃を防ぎ続けていた。


「くっ………!」


 拳と刃が噛み合う。

 凄まじい圧力を秘めたそれに、吹き飛ばされないよう騎士は全力で踏み止まる。

 細い見た目からは想像もできない巨人の如き怪力。

 黒剣の加護を得たことで、ベルリンドは自身の力が以前より遥かに強くなっていることを感じていた。

 ともすれば全能感に溺れてしまいそうな程、かつてない力がこの身体に満ちている。


 しかしそれが単なる思い上がりに過ぎないことを、雷神の力が教えてくれた。


「良いぞ、よく耐える! だがっ――――!」


 黒剣の刃と正面からぶつかっている拳を、トールは引くどころかさらに押し込む。

 身に纏うは倍加の力帯(メギンギョルズ)。その大いなる魔力によって、拳に込めていた力を一気に増幅する。

 ギリギリで拮抗していた力関係が、一瞬で破綻した。

 拳の圧力に何とか耐えていたはずのベルリンドの身体が、あっさりと宙を舞う。


 突然のことに驚愕する、暇もない。


「っ!?」


 空を泳ぐベルリンドが見たものは、こちらを追って飛んでくるトールの姿だ。 

 ただ単純に跳躍しているわけではない。

 まるで見えない足場でもそこにあるかのように、恐るべき速度で真っ直ぐに空を駆け上がってくる。

 固めた拳には稲妻が宿り、先ほど自分を空に打ち上げたのと同等の力が込められているはずだ。

 当たり前だが空中では逃げ場もない。人は鳥のように空は飛べないのだから。

 そして足場もない状態では、身体に力を入れることもままならない。


 回避も防御も不可能。

 無防備な騎士の土手っ腹を狙って、雷神の拳が文字通り稲妻のように放たれる。


「まだ、だッ!」


 これで終わりたくはない。

 ただその一心に突き動かされ、ベルリンドは無我夢中で剣を構えようとする。

 本来ならばこれで終わりだ。飛ぶことのできない人間では、空に投げ出された時点で抵抗の余地はない。

 けれど騎士の手には四柱の神の加護が込められた神剣がある。


 一瞬脳裏に、黒い翼のイメージが過ぎった。


 同時に空中であるにも関わらず、ベルリンドの足は空気を硬い地面と同じように捉える。

 足場を得た騎士は、疑問など思考の外へと放り出しながら剣を防御の形に構えた。

 そのまま雷神の放った右拳を、直撃する寸前で受け止める、が。


 拳の衝撃と、纏っていた雷。  

 それらは防御を貫いて、槍の如くにベルリンドの身体を貫いていた。


「ッ………!?」


 意識を微塵に砕くような一撃だが、それだけでは終わらない。

 受け止めた拳の衝撃でさらにベルリンドの身体が押し出されるより早く、今度は左の拳が閃いた。

 威力よりも速度重視だったが、人間の身で受け止めるには十分重い。

 空の上ではなく地面の方へと吹き飛ばされて、ベルリンドは思い切り背中を打ち付けた。


 息が詰まり、意識が揺れる。

 容赦なくトドメを刺さんと、雷神も落ちてくる。

 拳ではなく足。高く振り上げた姿勢で、踵に稲妻が宿っていた。

 まるで落雷だ。衝撃で鈍った頭でそんなことを考えながらも、身体の方は反射的に動いている。

 直撃するよりも早く、無様に転がってその場所から離れる。


 一瞬遅れて、雷鳴。

 トールの稲妻付き踵落としは、草原を蹴散らして地面に大きな亀裂を刻んでいた。


「ふーむ、決まったと思ったんじゃがなぁ」


 呑気にそんなことを言いながら、トールは亀裂から足を引き抜く。

 その僅かな時間でベルリンドは立ち上がり、崩れ落ちそうな身体を強引に支えながら剣を構えていた。


 戦闘などとはとても呼べない。

 一方的という言葉では足りないほど、あまりにも一方的な状況だ。

 最初に出会った時は、力の差がありすぎて理解する余地もなかった。

 だが今は、トールの加護と手にした神剣の加護により、ベルリンドは曲がりなりにも英雄としての力を得ている。

 故に理解できる。理解できてしまった。


 目の前に立つ“稲妻の乙女”。彼女が一体、どれほどの力を持つ存在なのか。

 嵐というのは比喩でもなんでもない。その気になれば地上の一切を薙ぎ払ってしまえる暴威の化身。

 それがトールだ。こうやって対峙しただけでも分かる。刃を合わせれば尚更理解できる。

 人の身で届く存在ではない。

 伝承に語られる巨人か、あるいは古竜か。それともそれ以上に強大か。


 矮小な人間でしかないベルリンドには、そこまでのことは分からなかった。

 分からなかったが、諦めるつもりもなかった。


「………ふむ」


 トールは手加減はしていない。

 殺してしまわないようにと配慮はしているが、決して手は抜いていない。

 ギリギリ戦えると思わせたところでのメギンギョルズの使用。

 そのまま空中に放り出して、抵抗しようのないまま渾身の一撃で戦闘不能に追い込む。

 正直単なる力押しだが、トールはそれで終わると思っていた。


 けれど結果は見ての通り。ベルリンドは剣の加護によって空を歩き、必殺を防いでみせた。

 地面に叩きつけて身動き出来なくしてからの一撃も、やはり避けられてしまった。


 思っていた以上にやる。

 苦痛に喘ぎながらも、必死の形相で剣を構えるベルリンドを見て、トールは小さく笑った。

 このままジリジリ攻め続けるだけでも勝てるだろうが、それは戦神の振る舞いではない。

 全身全霊、相手の持てる力をすべて使わせた上で勝利する。


 その瞬間にこそ、戦の真価がある。

 ベルリンドもまたそうすることを望んでいるだろうし、そういうこちらの意図も理解してくれるだろう。

 それを示す意味でも、トールは先ず自身の両腕を軽く左右に掲げてみせた。

 拳を強く握り締め、同時に稲妻も強く握る。

 メギンギョルズで倍加された力が、両方の拳を雷の塊へと変えていく。


 それを見ながら、ベルリンドは動かない。

 力を溜めているところを邪魔したくなるのは山々だが、不用意に手を出せば逆に返り討ちだ。

 だから見る。見届ける。若き騎士は雷神の意図を正確に理解していたから。


「………よし」


 たっぷりと稲妻を溜め込んだ拳を、トールは改めて胸の前で構える。

 拳の高さはほぼ同じ。右から来るのか、それとも左で行くのか。

 相対する者を惑わすように、軽く拳を揺らしたりもする。


「…………」


 次の一撃で、トールは自分を仕留めるつもりだ。

 強者が弱者を相手に、勝負を長引かせる必要はない。

 そうやってジリジリと追い詰めた上で勝つことはできるだろうが、トールはそんな勝利に価値を見出すまい。

 分かっている。だから次に来る攻撃は、紛れもない必殺だ。

 防げば間違いなく防御ごと粉砕される。

 ならば回避が間に合うかと言えば、仮に拳を一発避けられたとしても、間髪入れずに放たれる次弾は確実に突き刺さる。


 ――――どうする。


 決まっている。考えるまでもない。

 向こうが勝負を終わらせに来ているのなら、それは千載一遇のチャンスでもある。

 ベルリンドは黒剣を正眼にではなく、右肩に担ぐようにして構えた。

 森の中の戦いで、豹頭の戦士を相手に行ったのと同じ。向こうの攻撃を捌いた上でのカウンター。

 地力で完全に負けているベルリンドが見いだせる勝機は、その一点にしかない。


 騎士が構えたのを見て、乙女の笑みも深くなる。

 何を狙っているのか、トールもまた理解しているはずだ。

 理解した上で、変わらずそのまま真っ直ぐ殴り抜くつもりだろう。


 ――――お前の全力を、ワシに見せてみろ。


 言葉にはせぬままに、その意思は明確に伝わってくる。

 一度だけ深く息を吸って、あとは浅く繰り返す。

 集中する。相手の一撃に対して、刃を正確に合わせるために。


 風が止む。音の失せた世界で、互いの存在だけは鮮明だ。

 地を蹴る。走り出したのはトール。

 両方の拳はまだ胸の前に構えたままで、雷鳴の速度でベルリンドへと迫る。

 ベルリンドもまた踏み出した。その動きは、トールと比べれば欠伸が出るような遅さだ。


 稲妻が走る。トールが真っ直ぐ放ったのは、右の拳だった。

 空間を槍のように貫く拳。ほぼ同時に、ベルリンドもまた担いだ剣を振り下ろしていた。

 相討ち狙いかと、トールは加速した思考の内で考える。

 しかしベルリンドの踏み込みは浅い。剣の切っ先がトールの身体に届くまでには、少しばかり距離がある。

 これではトールの拳がベルリンドを打ちのめす方が早い。


 何故、と。

 考えるまでもなく、疑問の答えは目の前に現れた。


「ッ!?」


 衝撃。受けたのは、今まさに振り抜こうとしていた右腕。

 正確には、その右腕の内側。

 ベルリンドが放った剣撃は、トールに対する攻撃を狙ったものではなかった。

 狙ったのはトールが伸ばした右腕。そちらで殴ってくることも、ベルリンドは予め読んでいた。

 ほんの一撃だけで終わってしまった最初の決闘。

 あの時もトールは右の拳でベルリンドを吹き飛ばしていた。

 だから来ると、同じ空気を感じ取った騎士は、その一点にすべてを賭けた。


 正面からではなく、力の流れを変える形で打ち込まれた剣は、その狙い通りの効果を発揮する。

 真っ直ぐ打ち抜くはずだった拳の軌道は歪み、ベルリンドの左肩を僅かに掠めるのみ。

 火花が散る。だがダメージはない。

 バランスを崩されたこと、また神業に近いベルリンドの技への驚きで、トールに瞬きほどの隙が生じる。

 この一瞬。それを唯一見い出せる勝機と断じて、ベルリンドの剣が走った。


 振り抜いた状態から、腰を捻って上半身の力だけで刃を跳ね上げる。

 渾身の威力を出すことはできないが、生じた隙を逃さないための最速の一撃。

 トールもそれに気づき、残った左腕で防ごうとするが、遅い。

 右の脇腹を狙って振り上げられた刃を防ぐには、ほんの少しだけ間に合わない。


 一太刀。永遠に届かないと思えた一太刀。

 それが今届こうとしている。

 これが自分に出せる力のすべてであり、例え一太刀浴びせたとしてもそれ以上は続かない。

 だが、それでいい。届かないと思っていたものに、自分の力で届かせることができるのだから。

 その価値は計り知れない。少なくとも、ベルリンドの中では。


「これで………!」


 騎士は叫び、その刃は雷神に届く。

 だがその手に伝わってきたのは、予想に反しての硬い感触。

 まるで、武器に受け止められたかのような――――。


「………ようやった。流石じゃな、オイ」


 互いの吐息が直に感じられるほど間近で、トールはベルリンドに対して微笑みかける。

 よくやったと賞賛し、惜しかったなと労う。

 届いた。いや、届かなかった。ベルリンドの目は、それを見ていた。

 トールの左手に握られたもの(・・・・・・)


 ミョルニールだ。雷神が携える稲妻の大鎚。

 それが間に合わなかったはずの僅かな空白を埋めていた。

 剣の切っ先は柄頭とがっちりと噛み合って、それ以上は進めない。


 紙一重。本当に紙一重だ。

 だがその僅かな差で、騎士の刃は稲妻の乙女に届くことはなかった。


「ミョルニールまで使わされるとは思わんかった。あと一歩じゃったな」

「………ええ、まったく」


 流石だと、尊敬を新たにする気持ちと。

 届かなかったと、己の不甲斐なさを悔やむ気持ち。

 その両方が、ベルリンドの胸中を満たす。


 何故届かなかったのか、気持ちが足りなかったのか、考えることは幾らでもある。

 だが今は、それは脇に置いておく。

 満足の行く結果ではなかったが、それでも確実に前進することは出来た。


 その事実にだけは納得しながら、騎士は己の想いを改めて言葉にした。


「貴女は本当に凄い方だ、トール殿。どうか私の妻になっては頂けないだろうか」

「…………」


 まさかこの場面、この状況でも尚求婚してくるとは。

 その絶対諦めない根性だけは、どうにも勝てる気がしない。

 いやそもそも、試練という無茶ぶりで諦めさせるという目的を果たせなかった時点で負けているのか。


 ため息一つ。

 受け止めていた剣を払いながら、トールはミョルニールを高く振り上げた。


「お前がワシより強くなったんなら、考えてやらんでもない」

「分かりました。約束ですよ? 必ず果たしてみせます」

「えーからもう寝とれ馬鹿」


 目を輝かせて食いついてくる男の頭に、そのまま振り下ろす。

 落ちた稲妻に焦がされて、騎士はそのまま背中から大の字に倒れ込んだ。

 微妙に危うい痙攣をしているが、神々の加護を受けた身体はこの程度で死ぬほどヤワではない。


「まったく」


 倒れたベルリンドを見下ろしながら、トールは苦笑いを浮かべた。

 余裕の勝利だったはずなのに、まるで勝った気がしない。


 まったく大した男だと、それだけは心の底から認めながら、倒れたベルリンドの身体を肩に担いだ。




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