17
ベルリンドの意識は、草原に吹く風と共に目覚めた。
自分は何故こんな場所にいるのかという、そういう疑問は不思議と湧いてこなかった。
ただ穏やかな気持ちのままに、柔らかい草の上に横たえられていた身を起こす。
少し離れた場所では、白い羊達が群れをなしていた。
日差しは強いが、肌を撫でる風の感触は涼しげで心地良い。
空は青く、流れる雲は地上の羊達によく似ている。
視線に気が付く。
顔を上げて見渡せば、白い綿毛の中に羊以外のものを見つけた。
それは山羊だった。一頭の、いや二頭の山羊だ。
どちらも雄々しく立派な角を持ち、身体もベルリンドが知る普通の山羊と比べて一回りや二回りも大きい。
その山羊の内、片方は目覚めたベルリンドのことを見ていた。
やや離れた場所にいるもう片方は、それとは違う何かを見ている。
先ずベルリンドは、自分を見ている山羊の方を見つめ返した。
獣のものとは思えない、深い知性を感じさせる瞳。
その目が映す色は天を裂く稲妻の輝きであり、この山羊が誰と縁があるのかを、騎士はすぐに悟った。
山羊は何も語ることはしない。ただ静かにベルリンドのことを見つめ続ける。
――――見届けようと、しているのか。
脳裏に閃いた言葉に、何一つ根拠というものはない。
ただの思いつきでしかないが、ベルリンドはそれが勘違いではないと確信する。
そうして導かれるように、もう片方の山羊が見ているものを探した。
視線を辿り、すぐに見つける。
草原の中で大きく突き出した、一つの岩。
高さはそれほどではなく、椅子代わりに腰を掛けることも、上で寝そべることもできるだろう。
だが山羊が見ているのはその岩そのものではない。
正確には、その岩の上にあるもの。
それは剣だった。一振りの剣だ。
とはいえその見た目は、ベルリンドがよく知る剣とはまったく異なる。
柄から岩に食い込む剣先まで、そのすべてが夜を宿しているかのように黒い。
何者にも染まらぬ力を秘めた漆黒。陽の光を吸い込むその輝きは、目を奪われてしまいそうな程に美しい。
剣そのものに飾り気は殆どない。
正確な長さは岩に刺さっているためはっきりとはしないが、恐らくベルリンドが所持している長剣とそう差はないはずだ。
立ち上がり、一歩近づく。
吸い寄せられる虫のように、招かれている旅人のように。
疑問はない。ただそうするべきだという直感だけが働いている。
一歩、一歩と近づき、ついには岩の上に踏み出す。
黒い剣はもう目の前にあった。
その姿を改めて間近で見ることで、その刃には特別な力が宿っていることをベルリンドは感じ取った。
仮に剣をこの手に取ったならば、力もまた同時に我が物となるだろう。
それは素晴らしことのようにも思えたし、恐ろしいことのようにも思えた。
惹きつけられる魅力と、躊躇う恐怖。
その狭間で立ち止まっている若き騎士の背を、軽やかな笑い声が押した。
「それが最後の試練だぞ、ベルリンド」
誰の声なのかは、もう考えるまでもない。
ベルリンドはすぐに振り向いた。そこには“稲妻の乙女”が立っていた。
両脇にあの二頭の山羊を従えて、胸の前で軽く腕を組みながら、乙女は岩の上に立つ騎士の姿を眺めている。
「試練、ですか」
「そうじゃ、お前が挑むべき五つ目の難行だ」
トールはいっそ優しげな微笑みを見せながら、ベルリンドの前にあるものを指差す。
岩の突き立った一本の剣を、それこそが最後の試練だと告げる。
「お前さんも感じているだろうが、その剣には偉大な力が宿っている。
誰にでも抜けるわけじゃあない。抜くことができるのは、英雄となるべき器と、そうなる意思を持つ者に限られる」
英雄。
その言葉は、どこまでも蠱惑的な響きをもってベルリンドの耳を打った。
騎士を志す者の多くがそうなることを望み、けれど多くの者は届くことなく諦める道だ。
才が無かった、心が足りなかった、あるいは単純に機会に恵まれなかった。
理由は様々でも、届かなかったという結論は同じ。
多くの先人達がたどり着いた場所に、自分も行くのだろうとベルリンドは思っていた。
英雄と呼ばれるべき者は知っている。“稲妻の乙女”こそがそうだ。
だからせめて、彼女に自分の力を認めて欲しいと、五つの試練に挑み続けて。
今目の前には「英雄」という言葉が横たわっていた。
これが試練だと、乙女は告げている。
「挑むか?いや、挑めるか?」
お前に意思はあるのかと、トールは立ち止まった騎士に問いかける。
この試練に、英雄へ至るための門に挑む資格は、確かにお前にはあるのだろう。
だが、そこから一歩踏み出すための意思は、果たして其処にあるのか。
問われて、答えを出す。ただそれだけ。
それだけであるからこそ、ベルリンドは躊躇している。
選ぶことは常に重い。選ばざるを得ないのではなく、選ばないことも権利の内に含まれるのならば特に。
生まれた時から決められた道筋ではない。
むしろ自分の意思で、その道を踏み外してしまいかねない。
ここに来て迷いを見せるベルリンドに、トールは言葉を続けた。
「………無理をすることはないぞ? ワシの目から見ても、お前さんはここまでよくやった」
いっそ優しげな声で、諭すように。
今までの努力を認めた上で、ここで下りても良いのだと、足を止めた騎士に語りかける。
「それが必要なものであるかと言えば、そうではない。場合によっては重荷になることだってあるだろう。
ならば選ばないことも一つの勇気だ。決して臆病な話ではない」
「…………」
背を向けたままのベルリンドは言葉を返さず、ただ黒い剣を見つめながら思考に没頭している。
賢い男だ。自分なりの答えを出すために、考え続けているのだろう。
トールは相手にバレぬよう、小さく吐息を漏らした。
――――トールとロキ、そして二柱のテスカトリポカ。
ベルリンドの意識が戻らない内に話し合った結果、彼らの出した結論がこの形だった。
「もうこうなったら本人に選ばせれば良くね?」
と言い出したのは、道化の神のロキだ。
本人が望まぬ内に加護を与えてしまったのなら、別の形で本人に決めさせれば良い。
どの道、戦神たるトールの加護で強力な力を得てしまったベルリンドに、もう生半可な試練は意味がない。
そうして用意されたのが、あの岩に刺さった黒剣だ。
ギーアとヤナル、二柱のテスカトリポカの力で造られた黒曜石を、ロキが武器の形に加工し、そこにトールの雷を宿した剣。
伝説の武器、あるいは神器と呼んでも差し支えのない逸品だ。
凄まじい力を秘めた剣であるからこそ、それを握ろうとする者には大きな責任が伴う。
安易に力を求めず、それを前に先ず躊躇いを見せたベルリンドを、トールは改めて高く評価した。
「…………」
黙したままで、ベルリンドはゆっくりとその手を伸ばす。
指先が黒い剣の柄に触れる、そのギリギリのところで止まった。
トールは何も言わない。ただ黙って見守り続ける。
どれほどの時間が、風と共に流れただろう。
やがてベルリンドは、尊敬する“稲妻の乙女”に向けてその問いを口にした。
「………トール殿。貴女は、私のことを認めて下さるのですか?」
「結婚がどうのっつーのは流石に駄目だがな。お前を立派な男として、一人前の戦士としてなら、とっくの昔に認めとるよ」
少し冗談まじりに返しながらも、トールは偽りは混ぜずにそう答えた。
認めている。その言葉を望んでいたから、ベルリンドは困難極まる難行にも挑み続けた。
挑んで、それを乗り越えて。
今こうして、トール自身の口から望む言葉を得ている。
それでいいはすだ。
例えここで退いても、乙女の評価は揺ぎはしないだろう。
けれどどうしても、騎士は後ろに一歩下がることができないでいた。
「不思議なものですね。私は、自分の価値を貴女に認めて欲しくて、この難行に挑んだ。そして今、それは正に叶った」
「あぁ、そうさな。それが望みであるんなら、お前の望みは叶ったと言えるな」
「ええ。貴女は確かに、私を認めてくださった。その言葉に同情や偽りが含まれていないことも、私自身よくわかっています。
………けど、おかしな話ですが、その言葉だけではどうしても納得できない自分もいるのです」
足は下がることを拒絶し、その手は前に伸ばされる。
指が始めて黒剣の柄に触れた。
最初に伝わってくるのは、全身が痺れるような不思議な感覚。
身体の内側を稲妻が駆け巡り、それが全身を満たしていくような充足感。
次いで感じるのは炎だ。
一瞬、世界のすべてが炎に包まれている光景をベルリンドは幻視する。
世界を焼く炎が去った後に、残ったのは黒い毛並みを持つ美しい獣の存在だった。
実際にいるわけではない。
ただ、騎士は獣の在り処が己の内にあることを知る。
夜そのものに似た翼を広げる獣は、その勇気と獰猛さを若き騎士に与えている。
すべてが錯覚だったのか、ベルリンドには分からない。
ただ気が付けば、岩に深く食い込んでいたはずの剣があっさりと抜けて、その手の中に収まっている。
それを見ながら、安堵と歓喜、そしてそれ以外のすべての感情を綯交ぜにして。
ベルリンドはただ、穏やかに笑った。
「………私は、私が思っていた以上に欲張りなようだ。貴女に認められたい。それも、自分が納得できる形で」
「強欲な方が男らしかろう。無理に自分を繕わんでいいさ」
剣を手に取ったことで、ベルリンドの身体から神気が漂い始めている。
複数の神の加護を本格的に受け取ったことで、彼は常人の枠から大きく外れたのだ。
神の戦士。勇者、あるいは英雄。呼び名は様々だろう。
どういう言葉で表現しても良いだろうが、起こった事実は一つだ。
今ベルリンドという騎士は試練もすべて乗り越えて、己が決めた道へと踏み出していた。
「お前さんの決断もまた、ワシは認めよう。お前は今、誰もが歩けるわけではない道に、己の意思で踏み出したのだから。
その道がお前なりに正しいものであることを、過たずに歩み続けられることを願うばかりだ」
トールは笑う。そこには強い信頼が込められていた。
ベルリンドもまた穏やかに笑い返す。
絶対などという根拠のない曖昧な言葉を、今は誓いという形で口にする。
「絶対に、貴女の期待を裏切るような真似はしません。必ず」
「………そうか」
その誓いを受け取って、トールは微笑みながら頷いた。
五つの難行。ロキが言い出した神様からの無茶ぶりも、これですべて終わり。
最初の目的とか、何やら全部明後日の方へと飛んでいってしまってる気もするが。
終わりよければという奴だろう。
そう適当に自分で納得しながら、トールは改めてベルリンドに問いかけた。
「さぁ、これで試練はすべて終わりだ。お前は見事に五つの難行、それを残らず踏破してみせた。
誰でも出来ることではない。ベルリンド、お前が成し遂げるだけの器を持っていたからこそ、成し遂げることの出来た偉業だ」
偽りのない賞賛。
本心から、トールは若き騎士のことを認めている。
けれど、どちらも分かっている。それだけでは足りないということを。
お互いにそれを分かっていて、笑みと共に言葉を続けた。
「これで満足か? ベルリンド」
「いいえ、まったく足りません」
間を置かずに答え、ベルリンドは手にした黒剣を掲げる。
重さや長さを瞬時に確かめてから、それを真っ直ぐ正眼に構えてみせた。
「そうじゃろうな。一人前の男なら、あんな醜態晒したまんまじゃ納得できはせんだろうよ」
初めて出会った時、決闘を挑んできたベルリンドを一瞬で叩き伏せたことを思い出す。
認められさえすればそれで良い。そんなことを言っておきながらも、やはり男の意地は捨てられない。
「ええ、認められたという言葉だけでは足りません。私は己の手で、それを確かなものにしたい」
自分で納得できるものが欲しいと欲張って、若き騎士は二度目の決闘を申し込んだ。
男子三日会わざれば、しかしトールは試練に挑み続ける彼の姿を、ここまでずっと見守ってきた。
その意思を知り、強さを知り、成長を知っているからこそ、これ以上ない程に胸が躍る。
戦いの神たるトールは、戦士の魂を迎え入れるように両手を広げた。
「来い、ベルリンド。お前が今持てるだけの力を、すべて出してワシにぶつけて来い」
その身は既に雷を纏っており、青白い光が瞬く。
一つ前の試練に現れた、あの半獣の戦士達のことをベルリンドは思い出す。
素性は知れぬ彼らも恐るべき相手だったが、今目の前に立つ“稲妻の乙女”と比べれば案山子も同然。
自分では勝てない、それは確信している。
それでも挑みたい、そのつまらない意地だけは譲れなかった。
故にベルリンドは、求めに応じるように地を蹴る。
この想いも何もかも貴女に劣るところはないと、そう示すために。
「いざっ――――!」
挑んでくる騎士を待ち望みながら、雷神たる乙女は笑う。
新たな英雄の誕生を言祝いで。
「おぉ、来い。気合を見せてみろよ。そうしたら、力いっぱい抱き締めてやる」




