16
静謐であるはずの森の中は、今や戦の空気に満ち溢れていた。
ベルリンドは走る。一瞬でも足を止めることはできない。
その後を追うのは三つの影。豹頭の戦士だ。
それぞれが形状の異なる黒曜石の刃を手にし、木々の合間を縫うように駆ける。
最初に一体、次に二体。
突然襲ってきた戦士達を、若き騎士は悉く打ち払ってみせた。
最中に死を予感したのは一度や二度ではない。
勝利のすべてが薄氷の上。本当に僅かな差で結果は違ったものになっていただろう。
そんな綱渡りの状況が、先の見えぬままに続いている。
「(どうする、これをどう退ける………!?)」
窮地であればこそ冷静さを失ってはならない。
頭ではそう分かっていても、突きつけられた現実はあまりにも過酷だ。
一体ならば何とかなった。二体でも、上手く立ち回った上で運にも恵まれたからどうにかなった。
だが、今度は三体だ。力量も先ほどまで戦っていた戦士達と同等の。
完璧に連携の取れた動きで、三体の豹頭の戦士はベルリンドを追い続ける。
必死で逃げるベルリンドとは対照的に、彼らに焦りはない。
これた戦いではない、狩りだ。
苦々しく感じながらも、ベルリンドは自分の置かれた状況を理解する。
単純な身体能力だけでいえば、人間であるベルリンドよりも獣の如き戦士達の方が優っている。
今も追いつこうと思えば、いつでもその背に刃を届かせることができるはずなのだ。
だが、彼らはそれをしない。
逃げる獲物がその瞬間を狙っていると知っているから。
周りは遮蔽物の多い森の中。逃げて追われてのこの状況、仕掛けられるのは背中のみ。
囲まれてさえいなければ、一方向から来る攻撃にだけ対処すればいい。
その瞬間にすべてを賭けたカウンター。一体でも仕留めることができれば、圧倒的な不利を少しでも覆せる。
それを理解しているから、戦士達は焦らない。
互いの間隔をやや広げながら、見失うことだけはないように注意して追跡を続ける。
戦いの神テスカトリポカの加護を受けた人外の戦士に、スタミナ切れという常識的な概念は存在しない。
ペースを一切乱すことなく、不眠不休で走り続けることも可能だ。
一方、人の身に過ぎないベルリンドには物理的な限界がある。
最初から勝ち目のない鬼ごっこ。
こうして逃げ続けるだけでは、最後は敗北という崖に追い詰められるのみ。
ベルリンドもそれは分かっていた。分かってはいても、状況を劇的に変えるような上策が浮かぶわけではない。
だがどうする。ただ無力に諦めて、この足を止めてしまうのか。
脳裏に思い描くのは、“稲妻の乙女”の姿だ。
まだ日も昇りきらぬ早朝に彼女と言葉を交わし、乙女もまた超然としただけの遠い人ではないと知った。
自分と同じように悩み、苦しみながら、それでも諦めない勇気と理想を持った人だと。
この身は今、彼女に恥じぬ騎士であるか。
分からない。そう認めて貰えることを望んで、この試練に挑んだはずだ。
だからその答えは、自分では決して出せない。出すことはできない。
その答えを得るために、成すべきこと何であるか。
「………よしっ」
覚悟を決める。諦めないという覚悟を。
このまま逃げるだけでは何も変わらないのなら、足を止めて挑む以外に道はない。
それが超えられない絶壁であるかどうかは、その瞬間まで分からないのだ。
剣の柄を改めて握り、その場で勢いよく振り向く。
追ってくる三体の戦士達の姿が、改めて視界に飛び込んできた。
逃げる獲物が足を止めたことに少なからず驚きはあったようだが、予想の外を出たわけではない。
それは所詮、結末が訪れるのが遅いか早いかの違いだけだ。
先ず一体が足を速めて先行し、残る二体が左右を迂回するようにして走る。
正面から来る戦士を迎え撃つ形で構えるベルリンドの視界から、左右を回る二体の姿は死角に入って消えた。
一体の戦士がこちらを足止めしている間に、残る二体が死角から襲って好きなように料理すると、そういう形だろう。
そう来ると予想はできていても、実際にやられると焦燥に襲われる。
疲労が重く纏わりついているはずの手足は、その重さを感じさせぬように軽やかに動く。
視界は狭く、音は遠く聞こえない。ただ敵の姿だけがはっきり映る。
時間がゆっくりと流れているような錯覚を覚えながら、ベルリンドは地を蹴った。
何も考えずにその場で迎え撃っては、姿を見せない二体の戦士は防げない。
かといって後ろに下がれば、正面から来る戦士の一撃を受けきれない。
待つのは駄目、退くのも論外ならば、こちらから行くのみだ。
走りながら、ベルリンドは手にした剣を肩に担ぐようにして構えた。
両者の距離はもう殆どない。激突してその動きが止まるまでは、二体の戦士達も仕掛けられない。
一瞬。この一瞬だけは、騎士と戦士の尋常な決闘となる。
ここで目の前の敵を切り伏せられなければ、ベルリンドに勝機はない。
対する豹頭の戦士は、剣を真っ直ぐ突き込む構えを見せる。
ベルリンドの渾身の一刀を防ぎ、足を止めてしまえばいいなどという受けの姿勢は微塵もない。
相手が一撃必殺に勝負を賭けるのであれば、己もそのつもりで迎え撃つ。
時間の流れさえ遅れてしまう戦士達の空間。
人の視線と獣の視線とが絡み合い、目には見えない火花を散らせた。
一閃。黒曜石の刃を持つ剣が、鋭い風となる。
最短距離を貫いていく切っ先は、真っ直ぐにベルリンドの左胸へと吸い込まれた。
その身を守っているのは厚手の革鎧のみであり、竜を相手に用をなさない鋼の鎧は置いてきてしまった。
多少なりとも鋭さは鈍るかもしれないが、豹頭の戦士の力量であればそんなものは薄紙と大差はない。
防げない。このままでは貫かれる。
極限まで研ぎ澄まされた感覚が、その動きを緩やかに捉えている。
他には何も見えないし、聞こえない。確定した敗北を覆すために、若き騎士は己の全力で挑む。
「ッ…………!」
黒曜石の刃が革鎧の表面に触れ、それを裂くより一瞬だけ早く、ベルリンドは上体を大きく捻った。
頑丈な革が幾らか防具の役目を果たすものの、鋭い刃の先端は鎧を容易く切り裂きながら、その下の肉も容赦なく抉っていく。
激痛が頭の中で弾け、炎で炙られているような熱に胸元を掻き毟りたくなる。
その苦痛を強引に噛み潰しながら、ベルリンドはさらに踏み込んだ。
走りながら突きを放ってきた戦士とは、もう身体がぶつかりそうなほどに近い。
空間の余裕は殆どないため、お互いに剣を引くことも振ることもできない。
そしてその僅かな隙間しかできない程の距離が、ベルリンドが待ち望んでいた勝機に他ならなかった。
大地を踏み締め、走った勢いを殺さないまま戦士に向かって身体をぶつける。
剣は肩に担ぐように構えたまま。相手との距離が近すぎて、刃を当てることはできない。
だからベルリンドは、無防備な戦士の頭へと剣の柄尻を叩き込んだ。
鋭く尖らせてある柄の先端は、硬い頭蓋骨も構わず打ち砕く。
如何に人外の戦士といえども頭を砕かれては耐えられる道理もなく、その場に崩れ落ちながら影となって消え失せた。
紙一重の勝機をものにしたベルリンドだが、戦いはまだ続いている。
一体が倒された瞬間から間を置かず、視界の外にいた残り二体の戦士が動いた。
「ルゥゥオオォォォォォォッ!」
先ず一体の戦士が頭上から。
今までの沈黙を自ら破り、あえて注意を引くために獣の雄叫びを上げる。
ビリビリと大気を震わせる咆哮を一身に浴びながらも、ベルリンドは上から降り注ぐ戦士の一撃を避けようと動く。
だが、それを狙って最後の戦士が真正面から襲い掛かった。
しまったと考える暇さえない。
姿の見えない相手ならば必ず死角から襲ってくるだろうと、そう考えた思考の死角を突かれた。
頭上からの咆哮はその動きに意識を向けさせないためだったのだろう。
ギリギリで正面から振るわれた刃は受け止めたが、頭上に落ちる一撃までは間に合わない。
避けようのない衝撃がベルリンドの右肩を襲った。
真上から振り下ろされた刃は急所である頭を狙っていたが、それだけはギリギリ回避できた。
しかし戦士の放った一撃は肉を裂いて鮮血を散らしたのみに留まらず、筋肉も切り開いて鎖骨などの骨もへし折った。
当然のように右腕は力を失い、それを見計らってもう片方の戦士は、受けていた剣ごとベルリンドの身体を弾き飛ばした。
「ぐっ、ぅ………!」
抗うことも出来ずにベルリンドは無様に地を這う。
頭上から切りつけて来た戦士は、人を超えた身軽さで地面に着地している。
二体の戦士が動いたのはほぼ同時。倒れたベルリンドにトドメを刺そうと、それぞれの刃を振り上げた。
痛みと衝撃に、若き騎士の意識は揺れる。
はっきりとしない視界の中にも、向かってくる二体の戦士の姿は映っている。
思考は纏まらない。ただ必死に抗おうとする己を感じるだけ。
“稲妻の乙女”の―――トールの姿と言葉を思い、ただ夢中で自身の四肢に力を込めた。
黒曜石の刃で大きく断たれ、力など入らないはずの右手は、不思議と強く剣を握り締めていた。
敵の動きはその目で捉えている。だからベルリンドは、思う通りに動いた。
「ッ!?」
致命傷ではないにしろ、明らかに戦闘の続行は不可能なダメージ。
それを与えたはずの相手が、まるで何事もなかったようにそ跳ね起きる。
戦士達が予想もしなかった動きを、満身創痍であるはずのベルリンドは見せていた。
ほんの少しの動揺。騎士はそれを隙としてこじ開ける。
「おおおおぉぉぉぉぉッ!」
自分がやられたのと同じように、ベルリンドは腹の底から大きく吼えた。
傷口から血が溢れ出し、痛みに意識が消し飛びそうになりながらも手にした剣を構える。
小難しい理屈は何もない。
後はただ渾身の力を込めて、敵に向かって刃を振り下ろした。
直前にベルリンドを吹き飛ばした戦士は、それをまた自らの剣で受け止めようとした。
だがそれはまったく意味のない行動となる。
真っ直ぐ打ち込まれた剣に黒曜石の刃はまるで粘土細工のように砕かれた。
どれほどの力があれば、そんなことが可能になるのか。
あれほど苦戦した戦士の一体を、ベルリンドは受け止めた武器ごと一撃で両断したのだ。
残るは一体。片割れが瀕死の敵に一刀で仕留められた事実を前に、今度は動揺を見せなかった。
渾身の一撃を振り下ろし、無防備となった背中へと襲い掛かる。
鋭い突きを放ち、黒曜石の刃は若き騎士の胴体を貫く。
いや、貫くはずだった。間違いなく、回避が間に合うようなタイミングではなかった。
であるというのに、ベルリンドはその一撃を回避したのだ。
まるで後ろに目でもあるかのように身体を捻り、ギリギリのところで致命の一撃を避けてみせる。
何か言い知れない予感に身を委ねただけで、本人もどうして回避できたのか、その理屈は何も分からない。
分からないまま、ベルリンドは再び剣を振り上げる。
終わらせるつもりで放った渾身の突き。
それを避けられたことで、今度は豹頭の戦士の方が致命的な隙を晒すことになる。
振り下ろされた刃の切っ先は、阻むものもなく戦士の首を断ち切った。
時間を置き去りにした戦士達の攻防は、それで終わりを告げた。
「っ、は………はっ………!」
倒れた戦士が影となって消えると、ベルリンドもまた膝から崩れ落ちた。
限界だ。これ以上は戦うことなど出来ない。
不可能だと思われた堂々たる勝利を、ベルリンドは全身全霊でもぎ取ったのだ。
その結果に一番驚いていたのは、この試練を仕掛けた神とその様子を見守っていた神。
豹頭の戦士。それを一体倒しただけでも凄いというのに、続けて二体、三体とまともに戦って倒してしまった。
どういうことだと、驚き以上にトールは戸惑う。
逆にギーアはなるべく平静を装いながら、目の前の結果から導き出される事実を口にした。
「………間違いないな。若は、神の加護を受けてる。そうでなけりゃ、あんな人間離れした力を発揮できるわけがない」
神の加護を受けている戦士達。
それを力で打倒できるものがいるとしたら、神そのものか、同様に加護を受けた者以外にはない。
「いやしかし、神の加護を受けとるって、一体誰がそれを?」
「アンタ以外に誰がいるんだよ」
えっ、と。予想もしていなかった言葉に、トールは間の抜けた声を上げた。
まさかとは思っていたが、どうやら当の本人も何も気づいていなかったらしい。
ギーアは天を仰いで、深々とため息を吐いた。
思えば、今までの試練からしておかしかったのだ。
ベルリンドは確かに優れた力を持つ騎士だったが、それはあくまで人間の範疇での話だ。
純然たる物理的な限界を、根性論だの精神論だのだけで超えられる道理がない。
だがベルリンドは、明らかに限界を超えた力で試練を突破している。
その力は一体どこから来ているのか。答えは単純なものだった。
「推測に過ぎんが、恐らく若がアンタに向けてる気持ちが相当に強い「信仰」となってるんだろう。
アンタはその信仰を受け止めて、それを認めた。一柱の神として、その誓いを正当なものとして応えたって形になったんだ」
「………んで、その信仰を認めたから、それが無意識に加護となってベルリンドの奴に力を与えていた、と」
トールは戦神。戦士に加護を与える、というのは昔からやってきたことだ。
それをまさか本人が無意識のままにやっていたとは。
ならば今のベルリンドは、英雄の器どころか神に認められた紛れもない英雄だ。
もしこの場にオーディンがいたなら、そのまま戦士の館に迎え入れていることだろう。
トールとしては別に良いのだが、果たしてベルリンド自身にとってそれは良いことなのかどうか。
彼は己の力を認められたいという一心で、この過酷な試練に挑んでいる。
だというのに、その試練を超えられたのはトールが加護を与えて力を増していたから、というのは納得し難い気がする。
ベルリンドが抱く騎士の矜持を虚仮にしてしまっているのではないかと、トールは危惧した。
「………まぁ良い、その事は一先ず置いておこう。若もあの怪我じゃ流石に限界だ」
ギーアの言葉に、トールは一先ず思考を中断した。
悩ましのは確かだが、ここで考えても仕方のないことでもある。
「うむ、そうじゃな。ノックアウトしとる他の馬鹿二人も回収してやらんとな」
言って、半ば意識を失いかけている主人の元へギーアが向かうのを見送ると、トールも未だにダウンしているロキ達の方へと向かう。
ある意味予想していない結果となったが、これで四つ目の試練は完了した。
ロキが言い出した五つの難行も、残すところはあと一つ。
終わりはもうすぐそこまで来ていた。




