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 ベルリンドは一人、岩肌にしがみついた状態のまま霧の中に取り残されていた。



 何が起こったのかはまるでわからない。

 気が付けば周囲を真っ白い霧に包み込まれてしまい、ろくに物を見ることさえできない状態だ。

 危険を感じて一先ずその場に留まっていたが、状況に変化はない。

 これもまた試練なのだろうかと、ベルリンドは訝しむ。

 執拗に襲ってきたあの青い燕も霧の向こうへ隠れてしまったのか、一向にその姿を見せない。


 わからない。若き騎士は何も知らない。

 どれだけ首を捻ってみても、誰かが疑問に答えてくれるわけもないのだ。


「………いかんな、このままでは」


 出口のない迷路のような思考に嵌りかけてるのを自覚し、ベルリンドは小さく頭を振るう。

 余計なことを考えたところで何の意味もない。

 自分にできることはただ一つ、試練に挑み続けることだ。

 霧に閉ざされて、足元も定かでないまま降りようとするのは危険が大きい。

 今は目指す先にあの燕の巣があることを信じて、上へ上へと登り続ける他ない。

 最悪、崖を登り切ることになっても今の状況よりはマシになる。


 思い立ったら即実行。

 ベルリンドは霧に閉ざされた崖を再び登り始めた。

 自然に発生したとは思えないほどに濃い霧は、まるで絡みつくようにすべてを白く閉ざそうとする。

 霧が出る様子などまったく無かったはずなのに、本当に不思議な話だ。

 “稲妻の乙女”――――トールの傍では、いつもこんな特別なことが起きているのだろうか。

 そう考えると、乙女への恋心とは別種の感情が騎士の胸を熱くする。


 物語や伝承に綴られる英雄達、そして彼らがくぐり抜けてきたという数々の冒険への憧れ。

 少年の頃に誰もがその胸に抱きながら、大人になると共に忘れていく夢。

 生死と隣り合わせの危険な状況にあることも忘れて、ベルリンドは笑みを浮かべる。


 彼女と出会ってからこれまで、次々と自分の知らなかったことが目の前に溢れ出してきた。

 父の下でただ騎士として生きているだけでは、決して知るはずのなかったもの。

 世界は広く、様々な顔がある

 トールはそのことを、遠い空に響く雷鳴のように教えてくれた。

 だからその輝きに恋をした。だからその姿に夢を見た。


 ベルリンドは理解している。

 それが届かぬ想いで、叶わぬ夢であることも。

 その身は“十竜の円卓”に連なる大国オルランド、その支柱の一つである大貴族の後継者。

 身体を流れる貴き血(ブルーブラッド)は唯一無二、誰も代わりにはなれない。

 自分にしかできない役目がある。その義務を果たす意思がある。


 不満はない。あるはずもない。

 どれだけ恵まれて育ってきたかなど、今更口にするまでもない。

 貴族として、騎士として。民のために国の礎となる覚悟はとうにできている。

 けれど、今は。今だけはただ。


「ただ、全力で………っ!」


 この試練に挑む。

 自らの想いのために、自らの夢のために。

 ロキが語った五つの難行。ベルリンドが知らない不可思議に満ちた試練。

 そのすべてを超えることができたなら、“稲妻の乙女”は未熟な騎士を一人前と認めてくれるだろうか。

 幼き頃に見た、数多の英雄達に少しは近づくことができるだろうか。


 想いと夢を胸に抱いて、騎士は白霧の中を登り続ける。

 相変わらず何も見えはしないが、ベルリンドは己の信じるままに進む。

 手を伸ばした先に、必ず望むものがあると信じて。


 ――――そうして若き騎士が見えざる困難に挑む最中。

 人の手では届かぬ遥か上空、二つの異なる翼が衝突を繰り返していた。


 一方は、道化の神ロキが化ける青い翼の燕。

 対するは、黒曜石の翼を纏う謎の鳥。

 どちらも音を置き去りにするような速度で、空を縦横無尽に飛び回る。


『めんどくせェェェェェェ!』


 埒が明かない戦いの状況に、ロキは早速飽きが来ていた。

 お互いに鳥の姿のままでの空中戦。

 燕に化けたロキは小回りが効くため機動力に優れ、黒い鳥はその体格と強靭な羽毛から防御力に優れる。

 翼を少し刃に変えたところで黒曜石の翼を傷つけることはできず、黒い鳥の攻撃を青い燕はひらひらと華麗に回避し続けている。


 傍から見ても完全なイタチごっこだった。

 別に鳥の姿のままで戦う必要性などないのだが、相手も似た姿で挑んできている以上、こちらだけ別の姿になるのは何か負けな気がする。

 だからメインの姿はそのままに、ロキは細かい変化を使って新たな攻撃を仕掛けた。

 何度目になるかもわからない刃に変えた翼による斬撃。

 結果は当然、先ほどまでと何も変わらない。

 硬く滑らかな黒曜石の表面を、ただ無意味に刃の先がなぞっていくだけ。


 変わらない。あくまでそこまでは。


『ッ!?』


 起こった変化に、黒い鳥は初めて沈黙以外の反応を示す。

 何かがどんどんと身体に絡みついていくような感覚。何事かと視線を巡らすが、もう遅い。

 それは白い糸だった。一本のか細い糸が、宙を舞う青い翼の先端に繋がっている。

 ロキの化けた燕は素早く黒い鳥の周りを旋回し、先ほどまでは刃になっていた部分から伸びる糸をどんどん巻きつけていく。


 ――――こんな細い糸で拘束などされるものか!


 まるでそう吼えるように黒い翼を大きく広げて、糸を千切ってしまおうと激しく羽ばたいた。

 だが、糸は切れるどころか広げた翼にまで絡みついていく。


『ヒハハハハ! 無駄無駄ァ!』


 間抜けな抵抗を見て、ロキはそれを腹の底から嘲笑う。

 ロキが変化して出している糸は見た目通りの代物ではない。

 その正体は蜘蛛が出すような粘着性の糸で、強度も含めて蜘蛛が出す糸よりも優れている。

 幾ら力を入れようとも粘つきながら伸びるばかり。獲物がもがけばもがく程に絡まっていく構図だ。


『このまま糸塗れにして、地面まで叩き落としてやるぜ!』


 既に翼も中ほどまで糸で拘束しながら、ロキは高らかに勝利を宣言した。

 慢心も油断もたっぷりで、本気で自分の価値を確信している。

 その期待に応えようというわけでもないだろうが、黒い鳥は糸に縛られた状態で反撃に出る。


 一瞬、黒い羽根を纏った姿が煌めいたと思うと、溢れ出すような強い熱風が周囲の大気を激しく掻き乱す。


『ちょっ、なんだ!?』


 驚き慌てるロキの眼に飛び込んでくるのは、赤々と燃える炎。

 見れば相手が纏っていた黒曜石の羽根が、今は一つ残らず真っ赤な炎を吹き上げていた。

 恐らくは羽根を炎の形に変化させたのだろう。

 巻きついていたロキの糸も、その熱に耐え切れずにあっさり燃え尽きていく。


『黒い鳥改め焼き鳥かよ! しかも全然美味そうじゃねェし!』


 何を馬鹿なことを言ってるのだと、突っ込んでくれる相手はこの場にはいない。

 代わりに燃え盛る鳥は、その嘴の奥からも炎を吐き出した。

 まるで身をくねらせる蛇のように、大気を焦がしながら炎の奔流がロキ目掛けて襲いかかる。


『いやいやいや、こっちは焼き鳥ノーサンキュー!』


 慌てて回避するが、燃える怪鳥は追いかけながら更に炎を吐きかける。

 あれ口の中熱くならないんだろうかとか、益体もないことを考えつつロキはひたすら飛び回った。


 お互いに姿形を変えるのは得意なようだが、どうも敵の方がパワーはある。

 身体の一部を炎に変えて振り回すとか、ロキもできないことはないが正直燃費が悪い。

 その状態を長々と維持できるということは、それだけ相手がロキより大きな力を抱えていることになる。


『力比べはトールの専門分野だからなぁ』


 ならば自分はどうするべきか。

 決まっている。道化の神であるならば、小狡く卑怯に振る舞うべきだ。

 思いついたならば、ロキはすぐさま実行に移す。

 正直上手く行くかどうかもわからないが、このまま尻に火をつけられるよりは良いだろう。

 

 逃げ回っていたはずの燕が唐突に反転し、また正面から突っ込んでくる。

 鳥はそれを確認すると、一瞬だけ躊躇した。

 また何か企んでいることは間違いないが、狙いがわからない。

 この身は半ば炎。吐き出す火炎は生き物を焼き殺して余りある威力だ。

 それをわかっていて、真っ直ぐ挑んでくる。そこに隠された意図はなんであろうか。


 このままぶつかれば、ロキの方が一方的に焼けて終わりだ。

 だからといって、何もせず無抵抗に衝突を許すことも危険を感じる。

 先ほどの糸のような小賢しい手を使ってこない保証もない。


 ――――ならば接触前に焼き殺す。


 そう結論づけて、向かってくるロキへ向けてその嘴を開いた。

 喉の奥からせり上がってくる炎は、さっきまでの倍以上の力が込められている。

 死者を焼き払う業火。まともに喰らえば骨まで灰と化す。

 それを知っているのか分かっていないのか、構わずに燕は真っ直ぐ飛び込んでくる。


 もう逃亡も回避も間に合うタイミングではない。

 大気を焼き焦がしながら、炎が解き放たれた。


『あっちィィィィィィィィッ!?』


 間抜けな悲鳴を上げながら、青い燕が火の玉の内へと飛び込んだ。

 炎は情け容赦なく燕の小さな身体を包み込み、まるで溶鉱炉のように唸りを上げて内側を焼き尽くす。

 轟々と渦を巻き、やがて大きく弾け飛ぶ。

 熱風が吹き荒れて、火の粉がまるで雨のように降り注ぐ。


 後には何も残らなかった。

 青い燕の姿は、炎が失せた後には何処にもない。

 あの火力だ、完全に燃え尽きて灰になってしまったのだろう。

 散ってしまったのならばそれを確認する術もないが。

 そう納得しかけたところで――――


『ヒ、ヒヒヒヒ、ギャハハハハハハハハハハハッ!』


 鳥の鳴き声に化けた耳障りな笑い声が、あろうことか霧の向こう側から響いてきたのだ。


『あーあーあー、やっべぇやっべぇ。上手く行ったぜ死ぬかと思ったァ!』


 白い霧の中を、再び燕の姿に戻った(・・・・・・・・・)ロキは爆笑しながら飛び回る。


 上手く行ったと、そう言葉にする他ない。

 一体どのようにしてロキが黒い鳥を出し抜いたのか。

 種は明かしてしまえば至極単純。

 ロキは相手が吐き出した炎に飛び込む直前、自分の身体もまた炎へと変化していたのだ。

 炎が炎で焼かれる道理はない。燃え盛る火の玉の中に紛れ込んだロキは、それが弾けると今度は火の粉へと姿を変えた。

 あとは自然落下を装って霧の中へと入り込み、また燕の姿に化けた。


『幾ら炎は炎に焼かれないったって、向こうの勢いに負けてバラバラになっちまう可能性もあったからなぁ』


 そうなったらそれまでのこと。ロキは何も気にしない。

 霧に包まれていることなど意にも介さず、ロキはそのまま真っ直ぐベルリンドのもとへ向かう。


『よくよく考えたら、別にオレがその喧嘩に勝つ必要性ってなかったし、さっさと用事済ませて帰らせて貰うわー!』


 喧嘩云々とか自分で言い出しておいて、この言い草である。

 何かに拘ったかと思うとあっさりそれを顧みず、どうでもいいようにしていた事にあっさり心奪われる。

 それこそが道化の神たるロキの在り方だ。北欧神話に名高いトリックスター。

 この神を相手にまともな勝負を挑んだところで、勝ちも負けもすべてあやふやにされてしまう。


『よし、いたな』


 もう真っ逆さまに落ちてたらどうしようかと思ったが、幸いにもベルリンドはまだ無事だった。

 どこまでも愚直に、ただ一点を目指すように岩壁を登り続けている。


『………ン?』


 そう、一点だ。近づいてきたことで、ロキもまた気づく。

 ベルリンドが登っている先に何があるのか。

 その場所にそれを置いたのはロキなのだから、気づかない道理もない。

 まさかと、流石のロキも驚きにその羽根を震わせた。


「もう、少し………!」


 限界寸前の身体を無理やり引き上げて、ベルリンドは必死にその手を伸ばす。

 霧に閉ざされた視界でも、何故かその光だけははっきりと見えた。

 岩陰に隠された小さな鳥の巣。

 その内に秘められた青色の輝き。

 手を伸ばす。

 それ以外は何も見えないから、ただ光に向けて手を伸ばす。


 身体はもうまともに言うことを聞く部分さえ稀であり、どこにどう力を入れているかも曖昧だ。

 今自分は落下している最中で、これは死の間際に見ている幻かもしれない。

 そんな思考が頭の片隅で浮いては弾け、それでも手を伸ばし続ける。

 指先に触れる硬い感触。それを無心に手繰り寄せた。

 握り締める。ようやく掴み取った青い石を、手放してしまわないように。


 ベルリンドは、心が沸騰するような歓喜に見舞われた。

 今まさに己の力によって、困難極まる第二の難行を乗り越えたのだ。


「やっ」


 た、と。言葉にするよりも早く、ぐらりと視界が揺れた。

 成し遂げた喜びが、限界を繋ぎ止めていた緊張の糸を断ち切ってしまったのだ。

 力は入らず、意識は遠のく。

 ベルリンドの身体は崖の壁面を離れて、白い霧の海へと落ちる。


『ヤバッ!』


 慌てて助けに動こうとしたロキのすぐ横を、黒い何かが駆け抜けた。

 あの正体不明の神格が化けた、黒い鳥だ。

 自分を出し抜いたロキのことなど一顧だにせず、落下する若き騎士の元へと一直線に飛ぶ。

 その羽根は炎ではなく、まして黒曜石でもない。

 ただの大きな黒鷲の姿で、その神は飛翔する。


「っ………」


 鋭い爪で胴体を掴まれて、意識も朦朧としたままベルリンドが小さく呻く。

 黒い鳥は気にせず、翼を大きく羽ばたかせながら、ゆっくりと霧の中を降りていく。

 ロキもそれを邪魔したりはせず、ただ警戒しながらその後に続いた。

 何か妙な真似をすればすぐに動くつもりだったが、同時に相手から害意の類を感じないことも理解していた。


 ベルリンドの身体をそっと地面に横たえると、掴んでいた爪を離す。

 それを確認すると、ロキはすぐさま人の姿に変化してベルリンドの傍に駆け寄った。

 黒い鳥は何もしない。ただゆっくりと高度を上げながら、ロキの様子を観察するように見下ろしている。


「………どういうつもりだ?」


 問いかけるロキの言葉に対しても、やはり無言。

 唐突に強い風が吹き、周辺を覆っていた白い霧が波のように荒れる。

 ロキは反射的に腕で顔を庇うが、風はすぐに止んだ。

 半ば予想はつきつつも、ロキは閉じた眼をゆっくりと開く。


 そこにはもう、白い霧も黒い鳥も、まるで幻のように消え去っていた。


「何なんだ、一体………?」


 どうにもすっきりせず、バリバリと頭を掻く。

 あの黒い鳥は何者で、一体何のためにこの場に現れたのか。


「………まぁいっか」


 今はそれよりも、消耗し切って気を失っているベルリンドの方が大事だ。

 小柄な女の細腕で、ひょいっと男の身体を抱え上げる。

 だらりと垂れ下がった頭を、猫が戯れるように軽く撫でた。


「さて、帰るとしますか」


 次の試練ではどんな風に苛めてやろうか。

 そんなことを考えながら、愛しい騎士を抱えて帰途に着く。



 愉悦と愛情を同じように感じながら、道化の神は心底楽しげに笑っていた。




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