10
ロキが用意した二つ目の試練は、かつて死の山と呼ばれた地で行われていた。
若き騎士が挑むのは、その山の一角に聳える断崖絶壁。
それは文字通り岩で出来た壁であり、天辺までの高さも尋常なものではなく、見上げた首が痛くなりそうだ。
もし途中で落下するようなことがあれば、間違いなく生命に関わる。
危険度で言うなら、鹿を追いかけるだけだった最初の試練とは比べ物にならない。
この崖を素手でよじ登り、何処かにある青い燕の巣からその羽根と同じ色をした石を持ち帰る。
それがロキから課せられた第二の試練。
「っ………やはり、思っていた以上に厳しいな。これは………!」
デコボコとした岩肌にしっかりと指をかけて、腕の力で全体重を持ち上げる。
幸い、崖自体はかなり起伏に富んだ形状をしているので、登る難易度自体はそこまで高くはない。
ただ広い壁面から何の目標物もなしに小さな鳥の巣を探す作業は、ベルリンドも予想していた通りに困難を極めた。
幾ら登りやすいとはいえ、崖をよじ登って這い回るのはかなりの体力を要する。
すぐに全身から汗が吹き出し、筋肉は溜め込まれた疲労によってどんどん熱を帯びていく。
またほんの少しでも集中力を乱せば、手を滑らせてあっさりと地面まで落下してしまうだろう。
死と隣り合わせの位置で、必死に生にしがみついている。
それが現在のベルリンドが置かれている状況だった。
加えて、もう一つの要素も存在する。
「また来たか………!」
風を切る音に、騎士はしっかりと両腕に力を入れて踏ん張りを効かせる。
飛来するのは通常よりも大きめな身体を持つ、一羽の青い燕だ。
この鳥がロキの言っていた巣の主だろう。視認するのさえ困難な速度で、燕は真っ直ぐベルリンドに向かってくる。
そして始まる激しい攻撃。ベルリンドの周囲を軽やかに飛び回り、嘴や爪で容赦なく手足を突き倒す。
攻撃は執拗に行われ、ピンポイントで岩肌を掴む指に集中することさえあった。
耳に心地よい可愛らしい声で鳴きつつも、その実態は容赦のない襲撃者だ。
「くそっ………!?」
壁面にどうにかへばりついてる状態では、追い払うことさえできない。
首筋を嘴で啄まれ、怯んだ隙に手指を爪で引っ掻く。
細かな傷から血が滲み、それが指と岩肌との接触面にまで伝う。
ぬるりとした感触が、指に込めた力をその表面で滑らせた。
「しまっ」
片手が岩肌から離れ、身体全体のバランスが崩れる。
それをもう片方の手で何とか堪えようとするが、燕はその隙を逃さない。
まるで流れ星のように美しい軌道を描き、残った腕を何度も爪の先で引っ掛けていく。
急に全体重が掛かった衝撃と、肌を削る爪の痛み。
堪えることができたのは、一瞬だけだった。
残った方の手も離れ、支えるものを失った身体は宙を泳ぐ。
ベリルンドはそのまま崖の壁面を滑り、無様に地面まで転げ落ちそうになる。
実際に、その寸前までいった。
「まだだ………!」
己を鼓舞するように叫び、ベルリンドは必死に手を伸ばす。
数メートルほど滑落しながらも、どうにか落下しきる前に岩肌を掴み直した。
腕が千切れそうな苦痛が両腕を襲うが、それは気合で耐える。
丁度良い位置にある壁の起伏につま先をしっかりと掛けながら、どうにかその場で一息吐いた。
「これで何度目になるか………」
見上げても、あの燕の姿はもう何処にもない。
試練の挑戦を始めてから、何度となく燕による襲撃を受けてきた。
地面に叩き落とされかけたのも一度や二度ではなく、その数だけ死線にも触れた。
指についた血をどうにか拭いながら、ベルリンドは上を見上げる。
最初は気付けなかったが、こう度々襲われればある程度の法則というものは理解できる。
あの燕は、ベルリンドが特定のエリアに入り込もうとすると、目敏くそれを見つけて攻撃を仕掛けてくる。
野生を生きる動物が、見知らぬ余所者に害を加える理由は限られている。
即ちその相手が、自らの巣や縄張りを侵そうとしているから。
燕が襲ってくるエリアの何処かに、ベルリンドが求めている巣が隠されている。
「単なる予想でしかないが、きっと間違っていないはずだ………!」
根拠はないが、確信と共にベルリンドは呟いた。
とはいえ、仮にその予想が当たっていたにしても近づけば燕の襲撃を受けることに変わりはない。
燕に襲われながら、それに耐えつつ巣を発見して目的の石を回収する。
考えるだけで眩暈がしそうなほど困難な作業だ。
だが、やるしかない。
冴えたやり方が浮かぶわけもなし、騎士にできることは愚直に前進することだけだ。
あるいは辿り着く前に、巣を守る燕によって地面へと叩き落とされてしまうかもしれないが、それも本望。
死ぬと決まったわけでもなし。死ぬつもりもないならば、後は登るしかない。
「これが、私の超えるべき試練なれば」
ただ全力を尽くして成し遂げるのみ。
固めた決意を力に変えて、ベルリンドは再び壁面を登りだす。
己の領域を守護せんとするあの青い燕と、“稲妻の乙女”に近づこうと熱意を燃やす若き騎士。
果たしてどちらの意思が強いのか。
これは試練でもあり、騎士として挑むべき決闘であると、ベルリンドはどこまでも真摯に受け止める。
――――そしてそれを、青い燕に化けたロキは喜色満面に見下ろしていた。
『ヒヒヒヒヒヒ、アハハハハハハハハハハッ! 最っ高、もう最っ高だねコレ! まぁじカッコイイー!』
人の耳では聞こえぬ鳥の声で、遥か空の高みでロキは笑い転げる。
自分の言葉に従って、必死な様子で断崖絶壁を這い上がってくる男の手を、自分の足で優しく蹴り落とす。
滑り落ちてく男を眺めて、大丈夫かと一喜一憂しながら、無事な姿を確認して安堵する。
そうしてまた諦めずに登ってくる様は、どこまでもこの胸を熱く焦がしてくれる。
本当に、これ以上の楽しみがこの世にどれだけあるだろう。
『こっちの意図にもちゃんと気づいてくれたみたいだしなー。いやいや良かった良かった』
巣のある辺りを目指して登るベルリンドを見ながら、ロキは満足げに頷く。
まったく関係のない場所で襲って向こうを勘違いさせる、というのも考えはしたが、そこまではやらないことにした。
間抜けをからかうのなら面白いが、惚れ込んだ男を虚仮にするのはロキの趣味ではない。
それをやりたい気分になる時もあるかもしれないが、少なくとも今は違う。
『これってアレだよなー、好きな子をついついイジめちゃうオトコノコの心理って奴ー? キャー、オレってば乙女ェー!』
トール辺りに聞かれていたら天罰の雷が落ちてきそうだが、残念ながら雷神様は謹慎中だ。
一晩どこで何をしていたのか興味はあるが、今はそれより目の前のことだ。
勘が良いのか運が良いのか、ベルリンドは巣を置いてある岩陰までほぼ真っ直ぐに向かいつつある。
どちらにせよ、やはり見所のある男だ。ますます酷いことをしたくなる。
空の上でくるりと円を描いて飛びながら、ロキは思案する。
ヒントを与える目的も含めて、先ほどまではベルリンドが一定の範囲に入り込んだ場合に攻撃を仕掛けていた。
向こうがそれに気づいた以上は、こちらも変化を加えるべきだろう。
ベルリンドが攻撃ラインを超えたのを確認しても、ロキは仕掛けずに様子を見る。
襲われることを予想していた騎士はその場で身構えるが、幾ら待っても燕の襲撃は来ない。
そのことに気づき、ベルリンドは警戒しながら周囲を見回す。
鋭く風を切る羽の音もなければ、飛び回る青い軌跡も見当たらない。
これはどういうことだろう。自分の予想が間違っていたのか、あるいは餌を取りに何処かへ行ってしまっただけか。
不審と好機を同時に感じながら、ベルリンドは登り続けることを選択する。
判断する材料がないまま愚直に前進することを選ぶ姿は、それを見守るロキの胸を熱くさせる。
『馬鹿な子ほど可愛いって言うが、まったく言葉通りだなぁ。馬鹿でイイ男で可愛いとか、最高だなぁ。ヒヒヒ!』
見ている者がいたらドン引き間違いなしのテンションでロキは笑っている。
不意に差し出された藁を恐る恐る掴む様子も堪能できた。後はギリギリのラインを待つ。
正解を探して右往左往するのなら、その間抜けな様子を楽しめる。
巣の在り処を見事に見つけ出したのなら、その直前に襲いかかって叩き落とす。
今までにないぐらい必死にしがみつく姿を拝んだら、楽しいのを通り越して絶頂してしまうかもしれない。
頭の中でそれを思い描いただけで、どうしようもなく笑いが込み上げてくる。
『さぁてさてどうかなぁ~? 巣をちゃんと見つけられっかなぁ~? あんま見つかんないなら、鼻先で飛んでやってもいいなぁ』
オレってば優しいー!とか無駄な自画自賛に酔い痴れるロキ。
しかしその辺りで、まったく予想もしていなかった異変が起こり始めた。
『あ?』
まったく唐突に、視界を真っ白いヴェールのようなものが過ぎる。
霧だ。真っ白い霧が風と共に流れ込むと、崖全体を一瞬にして覆い尽くしてしまう。
なんだこれはと、ロキは思わず目を見張る。
おかしい。これは明らかにおかしい。自然に起こった現象とは思えない。
今日の空は快晴で、周囲に霧なんてどこにも見当たらなかった。
何もない場所から唐突に沸いてきて、しかも風に吹かれて流れてきたと思ったら、今度はへばりつくように崖を覆って停滞している。
『おいおい、一体何処のどいつの仕業だ!?』
想定していなかった自体に若干焦りつつも、ロキはすぐさま霧の中へと突入する。
自分が意図していないトラブルを起こされたのも気に入らないが、ベルリンドの身も心配だ。
ただでさえ不安定な状態だというのに、突然霧に包まれるという異常に見舞われたらどんな危険があるかもわからない。
最悪、試練を中断してでも助ける必要があるかと、そう考えていた矢先。
『っ!?』
白い霧の中を、黒い影が襲いかかった。
寸前でそれに気づいたロキは、強引に飛ぶ方向を変えて紙一重で回避する。
道化の神たるロキは見る。霧を纏うようにして飛ぶその影を。
それは一羽の鳥だった。夜に似た、真っ黒い羽根を持つ鳥。
姿かたちはワシに似ているが、身体のサイズはふた回りも大きい。
正体不明の黒い怪鳥。それは瞳に青白い炎を輝かせながら、燕に化けたロキを見下ろしている。
その姿を見て、ロキは即座に悟った。
この鳥に化けている者もまた、自分と同じ何処かの神格であると。
『おいおい、こっちは忙しい身なんだ。邪魔して貰っちゃ困るんだけどよぉ』
声は通じているだろう。燕の姿のままで、ロキは威嚇するように黒い鳥を睨みつける。
対する黒い鳥は無言。答えないまま翼を広げ、進路を遮る。
この先へは行かせないという、妨害の意思はこれ以上なく感じ取れる。
だがそうする意図がわからなかった。
『(なんだ、一体どういうつもりなんだ? こいつ)』
わからないが、黒い鳥もまた何も答えない。
無視しようと飛んでも、すぐに反応してこちらを追いかけてくる。
『めんどくせェ………!』
つかず離れずで邪魔をしてくる黒い鳥に、ロキはあっさりとブチ切れた。
翼の先を鋭い刃物に変化させると、いきなり反転して追いかけてくる黒い鳥の正面から仕掛ける。
回避の間に合うタイミングではなく、刃と化した燕の翼が黒い鳥の身体を切り裂く。
切り裂くはずだった。
『硬っ!?』
まったく予想していなかった手応えに、思わずロキが叫ぶ。
切り裂いたはずの黒い鳥の身体には傷の一つさえ見当たらない。
刃を当てた瞬間に、返ってきたのは硬い感触。
石か何かをナイフで殴ったような。
『羽根を石に変えてんのか、アイツ!』
鳥がその身に纏うのは、黒曜石で出来た羽根。
鋭く硬いそれで鎧のように身体を包みながら、鳥は驚くほど機敏に空を舞う。
攻撃されたことで火が点いたのか、黒い鳥は明らかに戦意を滾らせながら青い燕を追いかける。
『ちっ………!』
相手にするつもりはないのだが、向こうも逃がすつもりはないらしい。
霧の中に取り残されたベルリンドのことも気がかりではあるが、それは一旦頭の中から追い出した。
折角の楽しみを邪魔された挙句に、喧嘩まで売られてしまったのだ。
仕掛けたのは相手でも、手を出したのは自分が先という事実を都合よく忘れて、ロキは怒りを燃え滾らせた。
『上等だコラァ! このロキ様に喧嘩売ったこと、すぐに後悔させてやるぜ!』
人間の耳で聞くと可愛らしい声で囀る燕に、黒い鳥はあくまで無言で返す。
白い霧を背景にして、青と黒の翼が虚空に舞う。
試練も何もそっちのけで、鳥に姿を変えた神々が激突した。




