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 闇夜に閉ざされた森の中、無数の火花が星のように咲いて散る。



 トールは右手に構えた戦鎚ミョルニールを構えて。

 獣頭の魔人は黒曜石の短刀を、まるで自らの爪のように操り。

 二柱の異なる神は、ただ正面から互いの力をぶつけ合っていた。

 人間の眼では、その動きを見ることもできない。

 トールにしろ魔人にしろ、音を彼方へ置き去りにするような速度で戦っている。

 戦力は総合的に見れば互角。

 だが当然、そこには細かな差があった。


「ちっ………!」


 光を映さず、闇に溶け込むように放たれる魔人の斬撃。

 それを両腕を覆う鉄の手套(ヤルングレイプル)で弾きながら、トールは小さく舌打ちする。

 速い。恐ろしく速い。単純な素早さという意味でなら雷神たるトールも引けを取らないが、相手は少々質が異なる。

 森に生えた無数の木々。その幹や枝を足場にして、上下左右の重力を無視した高速機動。

 奇しくも、牝鹿に化けたロキが試練で見せた動きに近いが、獣頭の魔人は足場を誤るようなミスは犯さない。


 まるで森自体を自らの身体の一部にしているかのように、その動きに淀みはない。

 巨体に似合わぬ圧倒的な速度と機動力で、獣頭の魔人は切れ間なくトールを攻め立てる。

 そのすべてを、トールはヤルングレイプルで、あるいはミョルニールで防ぐ。

 トールは雷神。その身体の中を走る微かな稲妻さえも掌握する。

 あらゆる感覚を研ぎ澄ませることで、獣の猛攻を残らず紙一重のところで弾き落とす。


 全速力での連続攻撃を防がれている事実に、獣頭の魔人は不快そうに顔を顰めた。

 だが、そこに焦りの色はない。

 防がれていても攻撃が途切れないのであれば、つまり敵は防戦一方であることを示しているからだ。

 事実、トールは魔人の連撃に反応して防ぐのが精一杯であり、反撃にまでは繋げられていない。


 良い敵だと、言葉にせず雷神は思う。

 獣の如き戦いぶりはあの死の山の悪神を思わせるが、大きく異なる部分もある。

 それは即ち、紛い物に過ぎなかった悪神とは違い、今回の敵は間違いなく真正の神であるということだ。

 何処の地に君臨した神威かは知らないが、その格においても自分に劣ることはあるまい。

 そう、劣ってはいない。つまりこちらも負けてはいない。

 ならばこのままやられたままではいられない。


「ワシを舐めんなよ、ドラ猫!」


 あえて挑発するようにトールは叫ぶ。

 それに応じたわけではなく、ただ流れを乱さぬままに獣頭の魔人は仕掛ける。

 丁度トールの真上にあった枝を蹴り、その首元を狙って真っ直ぐ振り下ろされる斬撃。

 恐らくは防がれるだろうが、何も問題はない。

 その後ですぐに地を這うような動きに切り替えて、膝から下などの末端部分を狙う攻撃に切り替える。

 急所への一撃が届かないのであれば、小さなダメージでも積み重ねて敵の消耗を狙う。

 獣としての戦意を滾らせながら、魔人はあくまで冷徹な戦士として判断を下す。

 だがそれは、手元に伝わる衝撃によって覆された。


「捕まえたぞ」


 笑うトールの言葉が、目の前に起こったすべてを物語っている。

 魔人が振り下ろした短刀の一撃を、雷神は防がなかった。

 防がず、その巨体の重みと落下の加速までが乗った斬撃を、己の身体で受け止めた。

 黒曜石の刃は鋭く、左肩の付け根辺りから心臓のある胸元まで一瞬にして切り裂いていた。

 切り裂いて、止まった。飛び散った血の量は、傷口の大きさに比べれば驚く程に少ない。


 予想外に与えた致命的なダメージ。

 魔人は衝撃を受けつつも、戦士としての本能で即座に刃を引こうとする。

 だが、動かない。深々と柔らかな肉を切り裂いた短刀は、押しても引いてもビクともしないのだ。

 捕まえたと、トールは言った。それは文字通りの意味だった。

 獣頭の魔人が振るう爪である短刀は、トールの身体にある筋肉と骨、そして巻きつけられた倍加の力帯(メギンギョルズ)で絡め取られていた。

 手放すという判断は、与えた傷の大きさにより一瞬遅れてしまった。

 それよりも、捕らえた側であるトールの動きの方が速い。


「ミョルニール!」


 右手に握り締めた、柄の短い戦鎚。

 一瞬にして最大出力の稲妻を纏ったそれを、魔人の胴体目掛けて叩き込む。

 回避は間に合わず、防御できるような威力ではない。

 雷光が森を包んだ闇を切り裂き、雷鳴は獣の咆哮のように響き渡る。

 地上から夜空へと貫く稲妻の一撃を受け、獣頭の魔人は大きく吹き飛ばされた。


「っし………!」


 手応えはあった。本来の力であるなら、世界蛇以外は耐え切れない最強の一撃だ。

 だが今のこの身は神としては不完全。敵も容易い相手ではない。

 ミョルニールの魔力を使い、トールはすぐに左肩に受けた傷を治癒していく。

 我ながら無茶をした。敵の動きが早すぎて反撃できないなら、その動きを止めてしまえばいいと思ったのだが。

 仮に敵の力がこちらの肉体強度より上だったなら、あのまま真っ二つにされていただろう。

 今までの攻防で単純な力ならこっちが優っているという確信はあったが、危険な賭けであったことに変わりはない。

 二度とやるつもりはないが、そもそも同じ手を二度許してくれるほど甘い相手ではあるまい。


『………やって、くれたな』


 獣が低く唸るような声が、闇の向こうから響いてくる。

 はてと、トールは首を傾げたが、浮かんだ疑問はすぐに余分な思考として追い払った。


「そちらも女の柔肌に己の逸物を無遠慮に突っ込んできたのだから、お互い様だろうよ」

『戯言を………!』


 不覚を取ってしまった己への怒りと、強敵への殺意と敵意。

 獣頭の魔人が燃やす熱を受けたかのように、木々の隙間を満たす闇が煮え滾った。

 一体何が起こったのか。波打つ闇へとトールはその目を凝らす。

 そして見た。闇の内に沸き出したモノを。


『目覚めろ、戦士達よ!汝らが神に心臓を捧げよ!』


 魔人に声に応えて、闇の中から無数の影が立ち上がる。

 それは戦士だった。まだら模様の獣の毛皮を頭から被った、奇妙な出で立ちの戦士達。

 体格は獣頭の魔人に比べれば大人しいものだが、それでも例外なく鍛え上げられた肉体を誇示している。

 手には黒曜石の刃を並べた剣を持ち、鬼火のような瞳をギラギラと輝かせながら、今宵の獲物であるトールを睨んでいた。


 その数は十か、二十か。あるいは百に届くのか。

 トールは彼らが何であるのか、一目で看破する。というよりも、よく知るものと酷く似ているのだ。

 軍神オーディンご自慢の死後の英雄達(エインヘリヤル)。間違いなく目の前の戦士達は、あれと同じ性質を持つ存在だ。

 戦いの神の加護を受けて、霊的に昇格した神の戦士達。

 一人一人は当然トールよりも劣るだろうが、集団となればどれほどの驚異となるのか。

 トールはそれをよく知っている。よく知っているからこそ、思わず笑みがこぼれた。


「見事じゃな、名も知らぬ神よ。それだけの戦士達を従えるなど余程のことだ」

『……………』


 切り札である豹頭の戦士達(オセロメー)を並べても臆することなく笑う雷神に、魔人はその眼を細める。

 強い。このトールと名乗る雷神は強い。忌々しいが認める他ない。

 あのまま我が身一つで戦い続けたならどうなっていたか。

 精強たる我が戦士達を使っても尚、勝利を掴めるかどうか。

 こんな辺境の小さな村に、これほどまでに強大な神が降りていたとは。


「なぁ、言葉が喋れるのであれば、そろそろ名も聞かせちゃ貰えまいか」

『………何故、そんなことに拘る』

「ん? そんな不思議なことか? 己が認める強敵の名ぐらい、知っておきたいと思うのは」


 何を当たり前なことをと、雷神は軽く笑い飛ばす。

 自分を狙って襲いかかってきた相手に、これほど馬鹿な話もあるまい。

 馬鹿な話だが、不思議と不快ではない。

 それもまたこの雷神が持つ器の大きさが故か。

 簡単にそう認めたくはないが、認めざるを得まい。


『この身に、打ち勝ったのならば、望み通りに答えよう』

「ほう、言うたな?」


 魔人の挑戦を、雷神は間を置かずに受け取った。

 会話をしている間にも、豹頭の戦士達は闇に紛れてトールを包囲しつつある。

 刃のように鋭い殺気を四方八方から受け止めて、トールは笑う。


「その言葉、土壇場で翻すような真似はするなよ?」

『貴様こそ、勝った気でいるには早すぎるぞ』


 魔人も笑う。今度は両手に黒曜石の短刀を抜いて。

 殺気と神気が森から吹き出し、目には見えない嵐となって渦巻く。

 ほんの一雫の静寂の後、今度は物理的な嵐が巻き起こった。

 先ずは十体の戦士達が跳躍し、剣を振り上げて頭上からトール目掛けて襲いかかる。

 タイミングをずらしてさらに十体、疾走する獣のように身を低くしながら闇の中を駆ける。

 残り十体はさらにその後を追って走り、包囲の隙間を埋める。


 戦士達で形作った檻を急速に狭めながら、その主たる魔人もまた動く。

 その場のどの戦士よりも遥かに素早く、両手の短刀を振り上げて雷神へと斬りかかった。

 自分以外の戦士を前面に押し出し、盾のように使う戦い方はしない。

 単純に数の利を使うだけの戦いをしては、恐らくそれを逆に利用してくるだろう。

 相手は一騎当千の英雄、という言葉すら生温い万軍にも匹敵する神格だ。

 従える戦士達が幾ら英雄であろうとも、ただぶつけるだけでは通用しない。


 ならばどうする。

 決まっている。同等の力を持つ自身で、雷神の動きを止めればいい。

 森の中での機動力ならばこちらが優っている。

 反撃を許さぬ速攻で雷神の動きを封じ込めて、その上で呼び出した戦士達の手数で押し包む。

 致命傷を一瞬で塞ぐような治癒能力もあるようだが、その身体を刃で切り裂けることは確認できている。

 たとえ治癒されようが、それよりも多くの刃で五体を引き千切ればどうなるか。


『逃がさんぞ………!』

「容赦ないのう、おい………!」


 高速の連撃を再度防いでいる間にも、戦士達の刃が迫ってくる。

 恐らくは自分も巻き込まれるとか、そんなことはまったく考慮していない。

 己の五体が刻まれようが、先にこちらの喉笛を噛みちぎるという決意が伝わってくる。

 戦士として、これ程までに強敵に思われているのは名誉なことだが、だからといって大人しく食われてやるつもりはない。

 完全に足止めされて、避けることはできない。

 多少防ごうとも、全方位を押し包む刃の群れだ。

 刻まれた傷やその痛みで隙ができようものなら、魔人は間違いなく雷神の首を刎ねに来る。

 

 これはまさに絶体絶命――――というわけではない。

 己の思考を加速させながら、トールは即座に対抗する手段を導き出す。


「ミョルニール!」


 叫び、右手に握る大槌に込めた力を弾けさせる。

 敵に叩きつけるのではなく、ただその場でミョルニールに宿った雷を解き放つ。

 半ば自爆のような攻撃で、力が拡散してしまうため大きな威力もない。

 だがこの状況での効果は覿面だった。


『っ!?』


 突然目の前で雷撃が爆ぜたことで魔人は怯み、四方八方へ出鱈目に走る稲妻に戦士達の動きも鈍る。

 光と音、そして雷に打たれたことによる痛み。

 それは一瞬のことだったが、トールが動くには十分過ぎる時間だ。

 雷神であるトールは、自身の雷で不利益を被ることはない。


「はぁッ!」


 メギンギョルズで増幅された渾身の力で、トールは魔人の身体を豪快に蹴り飛ばす。

 巨木すらへし折る一撃だが、魔人の巨躯は折れることなく大きく体勢を崩すのみに留まる。

 その隙間を埋めるように、最初の戦士達が刃と共に降り注いだ。

 それをトールは正面から受け止める。

 最低限の急所は守りながら、露出している腕や足に容赦なく黒曜石の刃が突き刺さる。

 鈍い痛みが全身を駆け巡るが、トールはその苦痛を噛み潰した。

 

 ミョルニールを消し、空いた手で仕掛けてきた戦士の腕を掴むと、そのまま渾身の力で振り回す。

 抵抗の余地などない。鈍器代わりにされた戦士は、他の仲間の戦士と共にもみくちゃになりながら吹き飛ばされた。

 それは後続を走っていた戦士らも巻き込む。


「どぉぉぉらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 体勢を立て直すような暇は与えない。

 叫びながら、今度はトールの方から戦士達に襲いかかる。

 拳を叩きつけ、蹴りを打ち込み、あるいは掴んでそのまま投げ飛ばす。

 しかし豹頭の戦士達も、ただ荒ぶる戦神にやられっぱなしでは済まさない。


「っ!?」


 さらに蹴散らそうとしたところで、その動きが強引に止められる。

 両腕と両足に、捨て身で飛び掛った戦士達が何人もしがみついているのだ。

 トールは即座にメギンギョルズの魔力を発動させ、倍加した膂力で無理やり振りほどこうとする。

 だがそれより一瞬早く、影が瞬いた。


 魔人の投げ放った黒曜石の短刀が、胸と腹に深々と突き刺さる。

 熱い痛み。腹の底から込み上げてくるものを吐き出すよりも早く、魔人の拳が顔面に叩き込まれた。

 地面に落ちていた戦士の剣を拾い上げ、胴体に叩きつける。一本ではなく、何本も連続して。

 その刃はメギンギョルズの帯までは切り裂けないが、肉を裂いて骨を砕くには十分だ。

 獣頭の魔人は決してその手を止めない。

 反撃を許せば呑み込まれてしまうと、これまでの攻防で理解したからだ。


『終わりだ………!』

「っ、舐めんな、ってぇ………」


 メキリと、何かが軋む音が響く。

 それがトールの身体の内から聞こえるものだと理解したのは、魔人が新たな剣を打ち付けた時。

 まるで巨大な鋼の塊にぶつけたような手応えを感じたから。


「言ってンだろぉがァ――――――!」


 力の爆発を受けて、獣頭の魔人も、雷神を抑えていた戦士達も、例外なく吹き飛ばされる。

 何が起こったのか。難しいことは何もないが、だからこそ理解しがたい。

 トールはただ、力任せに魔人や戦士達を振り払った。

 やったことはただそれだけだ。


 故にこそ恐ろしい。

 一体この雷神は、そのか細い身にどれほどの力を宿しているというのか。


「やれやれ、散々痛めつけてくれたなぁ」


 高速に治癒されていることで、トールの身体から微かに蒸気が立ち上る。

 魔人の攻撃によって受けた傷も多いが、肉体の強度を超える力を出したことによる反動も大きかった。

 メギンギョルズによる力の倍加。それを何度も重ねることによる超強化。

 悪神との戦いの後からできるかどうか考えてはいたが、実際に試すのは今回が初めてだ。

 予想以上に効果があったが、反動もまた想定以上。一気に限界値を超えて跳ね上がるため、維持や制御も難しい。

 その辺りは今後の課題として考えながら、トールは魔人の方を見据えた。


「さて、まだやれるだろう?」


 決着をつけようと、トールは笑う。

 それに対し、魔人は無言。いや、軽くその右手を掲げる。

 すると周囲に在った豹頭の戦士達が、溶けるように影の中へと消えていった。


「ん? なんじゃ、降参でもするのか?」

『………貴様は強い。このまま戦えば、勝敗に関わらず我が身もタダでは済むまい』


 敗けるつもりは微塵もなくとも、勝つこともまた難しい。

 それを望むのであるなら、この身を砕く覚悟が必要だろうと。

 魔人は認め、この場での“敗北”を口にする。


『我が名はテスカトリポカ。アステカの神々の中で、最も強大な力を持つ原初の太陽』


 名乗りながら、獣頭の魔人――――テスカトリポカもまた、ゆっくりと夜の闇へと沈んでいく。

 トールは退く好敵手の言葉に、黙って耳を傾けた。


『この場はお前の勝ちだ、雷神トール。だが………』

「おうとも、分かっておるさ」


 それはあくまで、この場においての勝敗の話。

 本当の意味での決着はまだついていないと、勝者たるトールもまた認めた。


「次はキッチリ、最後までやれることを期待しとるぞ」

『あぁ。この借りは、必ず返す』


 原初の太陽は夜へと姿を消して、後には静寂だけが残される。

 それを見届けてから、トールはその場に座り込んだ。

 大きく息を吐いて、ばたりと後ろに倒れる。


「きっつー………ギリギリじゃなぁ、オイ」


 実際、かなり危ういところもあった。

 自分やロキ以外にあれほどの神がいたとは、やはり世の中は広い。

 何の目的があるのかは未だ不明瞭だが、機会があればそれも問い質したいところだ。

 しかし、今はそれよりも。


「疲れた………」


 すぐ戻ると言っておいてなんだが、正直限界だった。

 このまま少し休むかと、トールは瞼を閉じる。

 ヨルサに叱られるのは目に見えているのだが、眠いものは仕方がない。

 ちょっとばかり眠って体力を回復し、それから家の方へ戻ればいいか――――――。



 そう考えながらトールが目を覚ましたのは、東の空が白み始めた頃だった。




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