8
「で、オレってばあいつに惚れちゃったみたいなんだけど、どうしよこれ?」
「お前はマジでどうしようもない馬鹿じゃろ」
ベルリンドが最初の試練を終えた日の夜。
森から戻ってきたロキを迎えて、ヨルサの家では遅めの夕食を取っていた。
野菜とウサギの肉を煮込んだシチューに、川魚のムニエル。それに加えて柔らかな白パン。
ロキが身体を張るということなので、メニューの内容は普段よりも豪華なものだ。
よく煮込まれた肉は柔らかく、野菜と合わせて味もよく染みている。
川魚は香草と共に焼いてあるため、泥臭さもなく程よい塩加減で大変に美味だ。
パンをスープに浸してかじりながら、トールは思う。
折角ヨルサが手間隙かけて作ってくれた夕飯なのだから、何も思い煩うことなく楽しみたかったと。
「お口に合いますか?トール様、ロキ様も」
「おぉ、美味いぞ。美味いが、この馬鹿のせいで頭が痛い」
「しゃーないじゃーん、あんな良い男に惚れるなっつー方が無理じゃーん」
料理をもりもり平らげながら、ロキはケラケラ笑っている。
完全に危惧していた通りの展開になり、トールは頭を抱えずにはいられなかった。
「お前、親父殿にも言われとったが、どこぞで八年も女になって子供までこさえた時と同じようにやる気か」
「あー、それも悪くねぇなぁ。あの時もまぁ興が乗ってズッコンバッコン」
「言わんでいいわアホがっ」
ヨルサは聞こえなかったフリをして、ロキの横に座って黙々と食べているウルルは、そもそも意味がわからなかったが。
首を傾げる少年を横目に、トールは軽く悪友の頭を叩いた。
大げさに身体を揺らしながら、ロキはまたヒヒッと不気味な声で笑う。
「でもさー、別に良いだろう? トールはあの坊ちゃんとどうこうなる気ねーんだし」
「いや、確かにないが、お前はホントにそれでいいのか………?」
「逆に聞くけど、何か悪いことってあんのかい?」
それこそわからないと言わんばかりに、ロキは逆に問い返してくる。
最初の試練だけですべてを見切ったとは言わないが、ベルリンドは間違いなく英雄の器だ。
トール自身もそれは感じているだろうし、ロキは完全にそう認めている。
惚れたとはいえ―――いやむしろ、惚れた男だからこそ続く試練を手加減するつもりはないが、それすらあの若き騎士は乗り越えるだろうと確信している。
最高だ。考えただけでも胸が高鳴る。
この燃えるような情愛が、見知らぬ地に新たな英雄を生み出そうとしているのだ。
滾る気持ちを抑えられるはずもない。
「………まぁ、お前さんとはベクトルが異なるが、言いたいことはわからんではない。確かにベルリンドは、大したタマだ」
「だろう?」
「で、それは良いとして、お前さんはあいつをどうしたいんだ?」
「ベルリンド様は、トール様のことを本気で想っていらしてるようですしね」
こちらも夕飯を口にしながら、ヨルサは小さく苦笑いを浮かべる。
少女の目から見ても、騎士の愛は間違いなく“稲妻の乙女”一人に注がれていた。
横からどうこうしたところで、簡単にひっくり返るとは思えない。
それを喜ぶべきなのか、厭うべきなのか。
口には出さないが、雷神のことを一番に慕っているヨルサにとってもなかなか複雑な問題だ。
その辺りには気づかず、トールは困った風に頭を掻く。
「お前のことだ、どうせ何か無理やりやろうとか考えとるんだろう」
「そりゃもう押し倒してズッコンバッコン」
「だからいちいち言わんでいいっつーに」
首を締め上げてブン回したい衝動に駆られるが、一応夕食の席なので自重する。
「まー正直、オレはその辺は感覚で生きてるから、ぶっちゃけどーしたいこーしたいってのはないぞ。今の頭の中には」
「それがワシの頭を痛めてるわけなんじゃが」
「長い付き合いだろう? 慣れたもんじゃねーの」
ケラケラと楽しそうに笑う顔を気の向くままにド突き回したい衝動も、どうにかこうにか我慢した。
困った。どうにもこうにも、あれよあれよという間に問題がドンドンと良くわからない方向に拗れている気がする。
このままロキに任せてしまって良いものだろうか。
しかし今更止めさせようとしたところで、それはベルリンド自身が納得しないだろう。
こちらの意図はどうあれ、彼はあくまで己の価値を示すために試練に挑んでいる。
英雄の道に立った若き戦士、その胸に点った勇気を蔑ろにするような真似は、戦神たるトールにできようはずもない。
「………困ったもんじゃ」
「困ってるの? トール様」
「うむ、良い知恵は出んしロキは馬鹿だしで、大いに困っておるわ」
可愛らしく聞いてくるウルルの頭を、トールはわしゃくしゃと撫でた。
精神の安定には大変効果ありだが、根本的な解決にはなっていない。
「ふーむ………」
そもそも、根本的な解決とは何を指すのか?
その考えに至ると、トールは眉根を寄せて小さく唸った。
ベルリンドにこの村から、大人しく立ち去って貰うことだろうか。
一つの結果としては十分にあり、というよりも、ベルリンド自身いつまでもこの村に滞在を続けて良い身分ではない。
なのでそれは、遠からずやってくる結末の一つであり、根本的な解決とはまた違うだろう。
では、根本的な解決とは?一体どのような結果になれば、それは根本的な解決と言えるのか。
「………ない、な」
ない。そもそも、トールは具体的なヴィジョンがないことに気づいた。
単にこの村にいることで感じていた平穏、それを外部からの干渉で乱されたくなかった。
言ってしまえば、それだけの話なのだ。
一度気づいたなら、これほど馬鹿馬鹿しいこともあるまい。
トールはただ、あの若き騎士を邪魔者として追い払いたかっただけなのだから。
「この馬鹿のことは笑えんなぁ………」
「え、なになに?」
「何でもないわい」
肩を竦めて、トールは自分の内に白旗を掲げる。
縁は結ばれたのだ。神と人との、違う存在同士を結ぶ縁。
ベルリンドの想いは別にして、トールも彼のことはもう憎からず思っているのだ。
それを邪魔者として追い払うなど、できるはずもない。
なるようにしかならないのであれば、ロキのやりたいようにやらせてしまって良いだろう。
一人の男が英雄へと成長していく姿を見られるのなら、戦神としてそれ以上に喜ばしいことはない。
それに関しては、トールはただ見守るだけでいい。
この手でやっておくべきことは、他にある。
「………さて、すまんがちょっと出てくる」
「こんな時間にですか?」
「うむ、戸締りはしっかりな」
席を立ち、ヨルサの頭を軽く撫でてから、トールは家の外へと向かう。
夜空には月の姿はなく、僅かな星明りだけが瞬いている。
その様子に何かを察したか、ロキは闇夜に足を踏み入れる雷神の背に声をかけた。
「何か手伝うことあるか?」
「いや、良い。お前さんはベルリンドにくれてやる試練に集中しておけ」
ニヤリと笑みで答えながら、普段着としているチュニックを無造作に脱ぎ捨てる。
身体を締め付けるメギンギョルズの力を感じながら、雷神は己が成すべき「戦い」の場へと赴く。
そこに何が待っているのか。考えるだけで、ふつふつと湧き上がる戦の高揚を感じながら。
「安心しろ。すぐに戻る」
トールが向かった先は、闇夜に閉ざされた森の中。
その深部へと迷うことなく踏み入っていく。
特に何処と、目的地を定めているわけではない。
ただ村に迷惑が掛からないよう、可能な限り深い場所へと入っていく。
そうやってどれほどの距離を歩いただろうか。
「………さて、この辺で良いか」
適当なところで、トールは足を止めた。
木々は静かに佇み、周囲は虫の音一つ聞こえてこない。
生き物の気配は何処にもなく、闇に押し潰されたような静寂だけがその場を支配していた。
トールは笑う。笑って、闇を切り裂くように声をあげる。
「さぁ、何処におる!」
雷神の声は、文字通り雷鳴のように森の中に轟く。
答えを返す者はいない。夜はただ、口を閉ざして沈黙している。
トールはさらに言葉を重ねた。
「出てこいよ! どこの誰だか知らんがな、若人が自分の力を試しとる時に、余計な茶々は入れさせんぞ!」
何処からか自分を見ているだろう相手に、雷神は改めて開戦を告げる。
相手の目的は不明だが、こちらに注意を向けていたことだけは間違いない。
敵意か、興味か。そこに含まれていた感情は複雑であり、ただそれだけでは読み取れなかった。
故に見極める必要がある。視線の主が何者で、どういう意図で動いているのか。
少なくとも友好的な相手とは思えない。
ならば神として、そのような輩を迎える手段は一つだけ。
そう、戦いだ。
「……………」
相変わらず、言葉は帰ってこない。夜の闇は小波一つ立たず、静かに凪いだままだ。
待つ。視線は既に隠す気もないのか、先ほどからずっと感じている。
ただ見ているだけのつもりなら、それも良い。
それならそれで、こちらから相手を探す方向に切り替えれば良いだけだ。
トールが待つのではなく、鬼ごっこの鬼になることを考え出したところで森に変化が訪れた。
がさりと、わざとらしく音を立てながら、何かが近づいてくる。
己の意思を示すように、がさりがさりと。
草を踏みつけ枝葉を払い除け、闇の向こう側から姿を現す。
最初にそれを見た時、トールは相手を大柄な男だと勘違いをした。
いや、完全に間違っているわけではない。
確かに闇から姿を見せたのは、全身を隙間なく鍛え上げた巨人と見紛うばかりの大男だ。
トールも女性の身体としては長身な方だが、その男はそれよりさらに頭二つ分以上も大きい。
奇妙な刺青を全身に刻み込んでおり、鎧の類は身につけていない。
腰には獣の毛皮らしきものを巻き、そこに何本かの大振りな短刀をぶら下げている。
怪しい風体とか、最早そんな次元ではない。
仮に常人が真夜中の森でこんな相手に出くわしたら、その場で腰を抜かしてしまうだろう。
だが本当に目を引くのは、その男の首から上にある。
「獣の頭………?」
牙を見せて威嚇する、黒い毛並みの獣。
青白く光る眼でトールを睨みながら、低く唸り声をあげる。
獅子や虎に近い、猫科の猛獣。その頭部だけが大男の首の上から生えている。
獣頭の魔人。明らかに人外の者が、最早敵意を隠すこともなくトールの前に立ち塞がった。
その姿を目にした時、トールが最初に思い浮かべたのは狂獣の戦士だった。
軍神オーディンの加護を受けた戦士達。
彼らは危急の際、熊や狼の毛皮を被ることでその獣の力を我が物とし、理性を失った凶暴な魔獣として暴れまわる。
見た目や身に纏う雰囲気などは、トールがよく知る彼らに非常に酷似していた。
しかしその肉体から溢れ出すような神気と、暴虐でありながらも制御された戦意。
そのどちらもが、相手がただの狂戦士でないことを示していた。
「お前も、この地に落ちてきた何処かの神か」
その言葉に、獣頭の魔人は答えない。
ただ体格に劣るトールの前に立ち、射殺すような視線で睨みつけるばかり。
――――語らいたいのであれば言葉ではなく、もっと我々に相応しいものがあるはずだ。
まるで先ほどトールが発した開戦の言葉に応じるように、獣の眼差しは雄弁に語りかけてくる。
やはりそういう流れがお望みか。
トールは笑みと共に、その右手に雷霆の大鎚を呼び出した。
一目見た時からわかっていた。この相手も戦士であると。
故郷の地は異なれども、優れた戦士が出会ったならば互いに求めることは一つきり。
「我が名はトール、アース神族に名を連ねし一柱。戦と雷を司る神だ」
ミョルニールの先端を向けながら、トールは高らかに名乗りを上げる。
獣頭の魔人は答えない。ただ腰から短刀を引き抜き、それを無造作に構えた。
言葉を持たないのか、名乗る名がないのか。
あるいは名乗るまでもないと、侮られているのか。
そのどれであろうとも構わない。戦熱の滾りのままに、トールは笑みを深める。
言葉を重ねる必要はない。あとは刃を交える中で確かめればいい。
「行くぞ!」
雷神は叫び、魔人は吼える。
鬼火が揺らめき、雷光が瞬いてぶつかり合う。
夜に支配された森の中で、二柱の神の戦いが始まった。




