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 日も傾き出し、森の中を薄闇が包み始めた頃。



 若き騎士ベルリンドは、見失った白い牝鹿の姿を探して走り回っていた。

 これもまた、あの牝鹿の仕掛ける戯れの一つなのだろうか。

 明るい内での追いかけっことは違い、その美しい白い毛並みを少しも見せようとはしない。

 胸の内には焦燥ばかりが募る。

 口をついて出そうな弱音を、寸前で噛み殺した。


「どこだ………!」


 探す。森は静かで、答えてくれる様子はない。

 走る。あの牝鹿はこの間抜けな姿を、何処かで嘲笑っているのか。

 わからないままに、ベルリンドはその姿を探し、森の中を走り続ける。

 見つけ出してみせろと、そう言われている気がする。

 この広い森の中で、たった一頭だけの白い牝鹿の姿を。


 それができなければ、きっとこの手は永遠に届くことはない。

 あの牝鹿も捕まえられず、あの“稲妻の乙女”の姿になど、決して届かない。


「…………?」


 ふと、視界の端を何かがちらつく。

 思わず足を止めて、そちらの方へと向き直る。

 木々の隙間。差し込む陽光も薄くなり、夜の帳が落ちつつある中で。

 視線の先に、何かの光が揺らめいていた。


 それは何の光だろう。

 闇の中でぼんやりと浮かび上がる、青白く揺らめく火の玉。

 まるで彷徨う死者の魂か、あるいは森に身を潜める恐ろしい獣の瞳の輝きか。

 不気味にゆらゆらと揺れて、すぅっと森の向こうへとその姿を消していく。


「あれは一体………」


 わからない。

 ベルリンドの生きてきた常識の中に、あんなものは存在しない。

 だが試練に挑む最中、こうして出くわす不可思議な現象がまったく無関係とも思えない。

 あの鬼火は、自分が追う白い牝鹿と何か関わりがあるのか。

 わからない。ベルリンドの中に答えはない。

 場合によっては森に潜む魔物が、入り込んできた人間を惑わそうとしている可能性も否定できない。


「………だが、ここで立ち止まって考えても、何も変わらないか」


 自分の意思を言葉にして、一つ頷く。

 改めてそちらを見ると、再び鬼火がゆらゆらと揺らめいている。

 道に迷った旅人を惑わす怪異そのままの姿に、ベルリンドは小さく息を呑む。


 ――――迷うな、臆するな。


 拳を握り固めて、ベルリンドは地を蹴り再び走り出す。

 同時に鬼火は姿を消すが、進めばまた向こうから姿を見せるだろう。

 あの白い牝鹿が仕掛けたお遊びなのか、あるいは別の何かの仕業なのか。

 わからないが、わからないままで若き騎士は走る。

 その結果、この身に危難が降りかかることになろうとも、それもまた試練の一つ。

 迷いを振り捨てて、ベルリンドは揺れる鬼火の姿を追いかけた。


 …………白い牝鹿に化けたロキは、悠々と薄暗い森の中を散歩していた。

 明るい内はあえて姿を見せることで振り回していたが、ワンパターンではやってる方も退屈してしまう。

 だから日が傾きだしてからは、逆に一切姿を見せずにベルリンドを走り回せる方向へシフトした。

 移動した痕跡をすべて消し、気配も残さず森に隠れることなどロキにとっては朝飯前だ。

 どれほど優れた森の狩人であろうと、自分を捕らえることはできまい。

 時折草を食んだりしつつ、のんびりと時間が過ぎるのを楽しむ。


『とはいえ、ずーっとこれ続けてもそれはそれでつまらんしなぁ』


 物事には、常に緩急というものが必要だ。

 そろそろ見える位置に痕跡でも残して、ベルリンドを誘導してみるのもいいかもしれない。

 そうしてまた少し鬼ごっこをして、頃合を見てまた姿を隠す。

 あの若き騎士が音を上げるまでどれぐらい掛かるか。

 試してみるのも一興だろう。


『さーて、それじゃあ………?』


 思いついたら即実行。

 早速行動に移そうかと考えた矢先、ロキの耳がぴくりと動く。

 草を踏み、木の枝を払い除け、大地を強く蹴る音。

 誰かが森の中を走り抜けて、真っ直ぐにこちらへと向かってくる音だ。

 まさかと、ロキは起こっている現実を否定するように驚愕する。

 森を彷徨ってる内に、偶然にもこちらのいる場所へと真っ直ぐ走ってきている?

 いやまさか、そんなことがありえるのか?

 もし本当にそうだとしたら、一体どれだけの偶然が重なり合う必要がある?


 それは最早、神の起こした奇跡の領域だろう。


「見つけた………!」

『おいおい嘘だろ……!?』


 森の中を走り回った影響か、既にボロボロのベルリンドが木々の間から姿を見せた。

 本当に、隠れていた自分のところにまでたどり着いた。

 驚きはするが、驚いてばかりではいられない。

 とうの昔に疲労で動けなくなってもおかしくはないだろうに、ベルリンドは昼間以上の勢いで迫ってくる。

 ロキは慌てて四本の足で地を蹴り、若き騎士から遠ざかろうと走り出す。


 そうして始まる、騎士と牝鹿の夜の森での追いかけっこ。

 走る。走り続ける。日はほぼ落ちかけて、辺りの闇は色濃くなっていく。

 その中で、牝鹿の白い毛皮はまるで光り輝くように鮮やかに浮かび上がっている。

 決して見失うことのない目印だ。

 度々現れていた鬼火の姿も今はなく、ベルリンドはただその白い輝き目掛けて走った。


 その構図自体は、昼間の時と変わらない。

 牝鹿に化けたロキが逃げて、それをベルリンドが必死に追いかける。

 その形は変わらない。違うところといえば、一つだけ。


『距離縮めてきてるとか、どういうこった………!?』


 ロキが姿を変えている白い牝鹿の足は、普通の鹿よりも更に速い。

 その体力も無尽蔵であり、当たり前だが人間が追いかけて届くような領域ではない。

 だというのに、ベルリンドの足は徐々にだが互いの距離を狭めつつある。

 そんな馬鹿なと思うが、実際にそうなっているのだから仕方ない。

 ギリギリの速度で振り回すつもりだったロキだが、予想外の騎士の粘りに予定を変更する。


『さぁ、これでもついて来れるかよ、人間………!』


 人にはわからぬ動物の声で叫び、ロキは一際強く大地を蹴った。

 白い毛並みに覆われたしなやかな身体が、夜の森の中で大きく飛び上がる。


「なんと………!?」


 それを目の当たりにして、今度はベルリンドの方が驚愕する。

 追いつけるかもしれないと、そう希望を抱いた直後に白い牝鹿が見せた大跳躍。

 牝鹿はそのまま太い木の枝の上に着地すると、遥か頭上からベルリンドを見下ろした。

 そうしてにやりと歯をむき出して笑ったかと思うと、今度は別の木の枝へと飛び移っていく。


 地べたでの追いかけっこから、森に生えた木々を利用した三次元的な逃走。

 ここまで無茶苦茶な動きができるとは。驚くベルリンドだったが、またすぐに追跡を開始する。

 木と木の間を自在に飛び回る姿に目を回してしまいそうだが、ベリルンドは見失わぬよう必死に食いついていく。

 確かにその動きに驚きはしたが、冷静に考えれば悪いことばかりではない。

 まず地面の上を走っていた時とは違って、牝鹿は追跡者を惑わすように大きくジグザグに飛び回っている。

 必然的に無駄な動きが多くなり、見失いさえしなければ単純な距離自体は先ほどより縮められている。


 無論、頭上を飛ぶ牝鹿の姿を追いながら走るのだ。

 森の中の暗さも合わさって、危険は大きい。

 大きいが、今のベルリンドにとってそれは然程問題にならない。

 延々と走り続けた結果か、あるいは極限の集中状態が成せる業なのか。

 まるで森の息吹を感じるように、ベルリンドは躓くこと一つなく全力で走り続けている。

 その姿は、さながら森に生きる野生動物さながらだ。


 派手に逃げ回ってやれば諦めるかと思っていたロキも、流石にその粘り具合には舌を巻く。


『ガッツがあるにしても限度ってもんがあるだろ………!』


 追いかける足もまったく緩めておらず、一体どこからそんな体力が湧き出てくるのか。

 こうなれば羽根でも生やして空に逃げるべきか?いやいや、流石に空を飛ぶのは反則だろう。

 木々の間を跳びながら、ロキは如何に若き騎士の心を折るか思案する。

 このまま単純に逃げ回っても追いかけっこは終わらないと判断し、精神面から攻めるように考えたのだが。

 バキリと、足元から嫌な音。


『げ』


 しまったと、己の迂闊さを罵る暇もない。

 思考に没頭するあまり、着地するべき枝の強度を見誤ってしまったのだ。

 枝を踏み折ってしまった足は宙を掻き、牝鹿に化けたロキの身体はそのまま空中に投げ出される。

 一瞬の浮遊感。落下に感じる風と、強い衝撃。


『っ~~~………しまった………!』


 自分でも笑ってしまうような凡ミスだ。

 幸い落下の衝撃もそう大したものではなく、身体に大きな痛みもない。

 だがこれでは、すぐ追いついたあの若き騎士に捕まえられてしまうだろう。

 何とも間抜けな話であるが、こうなってしまっては仕方がない。

 せめて少しぐらいは抵抗してやろうかと、立ち上がろうとして気づいた。


「痛たた………っ」


 落下して地面に倒れ伏した、その下に。

 ベルリンドが我が身を割り込ませて、牝鹿の身体を受け止めていたのだ。

 衝撃が少なく殆ど痛みを受けなかったのも、すべてこの若き騎士がクッション代わりになっていたから。

 驚きに目を丸くしている牝鹿―――ロキに気づき、ベルリンドは安堵するように笑った。


「よかった。どうやら、大した怪我もなさそうだ」


 森に住む動物を相手に、本当に安心した様子でそう言った。

 いやいやどんだけ馬鹿なんだと、これにはロキでさえも言葉を失う。

 普通は相手がミスをした幸運を喜ぶことだろう。

 あのままただ追いかけ続けていても、物理的に捕まえるのは不可能だったはずだ。

 それを自分が受ける負傷まで度外視して、木の上から足を滑らせた鹿を助けようと身を投げ出す。

 ベルリンドの様子からして、その行為は試練をクリアーするためではなく、純粋に善意が身体を突き動かしただけなのは明らかだ。

 どうしようもない。本当に、言葉にならないほど馬鹿だ。

 鹿一頭の重量などまともに受け止めて、下手すれば死んでもおかしくはないのに。


「さて、と」


 牝鹿に化けたロキがその上からどくと、少しふらつきながらもベルリンドも立ち上がる。

 逃げようと思えば逃げられたが、ロキはその場から動かなかった。

 ベルリンドがそれをどう受け止めたかはわからないが、その様子に軽く微笑んで。


「ありがとう。そしてすまない、今までずっと追い掛け回してしまって」


 そう言って、様子を伺うように手を伸ばす。

 ロキは逃げない。ベルリンドは逃げないのを確認すると、初めてその白い毛並みに指を通した。

 野生を生きる動物のものとは思えない、柔らかな手触り。

 その神秘性に、若き騎士は驚嘆の息を漏らした。


「………君を捕まえた、という証に、少しだけこの毛を刈らせて欲しい。良いかな?」


 動物相手に話しかけるなど、阿呆のすることかもしれない。

 普段ならそう考えるが、その白い牝鹿相手には何も不自然ではないとベルリンドは感じていた。

 それに対し、白い牝鹿は――――ロキは答えない。人の言葉を喋るわけにもいかない。

 だから何も言わず、その場から動かない。

 それを了承の意と受け取り、ベルリンドは懐から小さなナイフを取り出した。

 痛みや傷を与えたりしないように、慎重な手つきで白い毛を刈り取る。

 手のひらに僅かに載る程度。しかし証明としては十分だろう。


「ありがとう。君は美しく、そして良い子だ。またその姿を見せてくれたら嬉しい」


 笑って、ベルリンドはそっと牝鹿の頭を撫でた。

 動かぬままの牝鹿と僅かな時間を見つめ合い、そしてその手を離した。

 最初の試練を見事に突破した若き騎士は、白い牝鹿に大きく頭を下げると、森の外へと走っていく。

 その後ろ姿には、偉業をやり遂げた英雄の風格さえ感じる。


『……………』


 しばし呆然と佇み、それを見送っていた牝鹿だが、不意にその姿が白い煙に包まれる。

 後には白黒のメイド姿のロキがその場に残り、下が地面であることも構わずにぺたんと座り込んだ。

 吐く吐息が熱い。指先が震える。この胸の高鳴りは、何であろうか。

 いや、わかっている。わかっているが、まさかそんな。


「………やっばい。オレ、惚れちまったかも」


 若く、未熟ながらも、己の理想を体現しようと全力で生きる男の姿に。

 想いを確かめるように言葉にすれば、ますます胸の内に熱が広がっていくのを感じる。



 退屈しのぎで仕掛けたはずの五つの難行。

 その最初の試練を終えた結果。

 恋多き道化の神ロキは、若き騎士ベルリンドにすっかり惚れ込んでしまっていた。




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