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 森の中を、二つの影が走る。



 片方は若きオルランドの騎士ベルリンド。

 躍動する全身から玉の汗を散らしながら、必死の形相で木々の隙間を駆け抜ける。

 それを翻弄するように疾駆する、もう一つの影。

 それは美しい一頭の牝鹿だった。

 ベルリンドも生まれてこの方一度も目にしたことがないような、真っ白い毛並みを持つ不思議な牝鹿だ。

 時折首を揺らして後方のベルリンドを確認しながら、まるで戯れるようにステップを踏んでいる。


「(完全に遊ばれている気がするな………!)」


 その事実に悔しさはあるが、それ以上に気力を漲らせる。

 あの森に住まう“白い牝鹿”を捕まえることこそ、一つ目の難行なのだから。

 武器などは使わずに、ただ己の五体のみを使ってあの牝鹿を捕らえてみせることが最初の試練だ。

 まだ一つ目。最初の試練だ。

 こんなところでもたつくわけにはいかないと、ベルリンドは己の限界に挑むように走り続ける。


『おーおー、気合入ってんなぁ』


 その様子を見ながら笑うのは、白い牝鹿――――いや、それに化けたロキだった。

 人の耳では意味を聞き取ることのできない動物の言葉で笑いながら、悠々と森の中を走る。

 ロキは自身の魔力により、その姿を自在に変化させられる。

 加えてそれは、見た目だけのハリボテでは決してない。

 馬の姿ならば馬の、鹿の姿ならば鹿の、ロキが思い描く通りの能力も同時に備わる。

 当然、変化は無制限に行えるわけではないが、普通よりも何倍も優れた身体を持つ鹿に変化するぐらいは何の苦もない。


 ただの鹿でさえも、人間が闇雲に追うだけでは捕らえるのは難しい。

 ましてそれが通常よりも遥かに優れた健脚を持ち、狡智に長けたロキが化けた鹿ならば一体どれほどの困難か。

 その結果は見ての通り。

 ロキは追いかけるベルリンドを撒こうとはせず、姿を見失わないギリギリの速度で引きずり回す。

 かれこれ一時間以上は鬼ごっこを続けているのだが、若い騎士はつかず離れずで追いかけ続けている。


『スピード上げて引き離すだけなら簡単だが………それじゃあ面白くないよなぁ?』


 ロキは笑う。このまま引っ張り回すだけでは、エンターテインメントに欠けるというもの。

 軽く地を蹴る。今までは比較的に走りやすい道を選んでいたが、人が踏み入っていない藪の方へと身を躍らせる。

 足元は草に覆われ定かならず、伸びた木々の枝葉は行く手と視界を遮っている。

 その中にあっても、牝鹿の健脚は何の影響も受けていない。

 まるで夢か幻かのように、森の奥へとするする進んでいってしまう。


「なんと………!」


 その姿は自然の神秘と美しさに満ちており、思わず見蕩れてしまいそうだ。

 しかし呆けるわけにもいかない。あの鹿の脚では、すぐに見えないところまで引き離されてしまう。

 ベルリンドもまた牝鹿を追って、藪の中へと足を踏み入れる。

 下は木の根や草が複雑に絡み合っており、まともに踏ん張ることも難しい。

 細い枝は払うのも難しくはないが、それが何本も塞いでいれば緑で出来た壁のようなものだ。

 人間が使う道や、ましてや野生動物が通るような獣道ですらない。

 森に生えた草木が支配する領域。彼らは、余所者が無遠慮に踏み荒らすことを好まない。

 神であるロキはまだしも、人間であるベルリンドが生身で越えるには、その壁はあまりに厚い。


「っ………!」


 ベルリンドは歯を食いしばり、藪の中でも駆け続ける。

 何度も足がもつれて、木の枝や草葉が皮膚を裂く痛みに表情を歪めながら、それでも走る。

 当たり前のように速度は衰えて、牝鹿の姿はどんどん遠ざかっていく。

 待ってくれと、思わず口走りそうになる戯言は、身体の方に言葉にするだけの余力がなかった。

 追いつけないと、諦めてしまいそうになる弱い心を、稲妻の乙女の姿でかき消す。

 あの歌の中で、一体彼女がどれほどの困難に襲われたのか。

 それに立ち向かいながら、あの方は一体何を思ったのか。


 ベルリンドは耐える。彼女が人々のために負った苦難に比べれば、この程度の苦痛など物の数にも入るまい。

 そう考えると、不思議と身体も軽くなったような気がする。

 鉛のように重かった足も、それを持ち上げて走り続けるだけの力が胸の内から湧いてくるようだ。

 遥か彼方に遠ざかりつつあった牝鹿の姿が、ほんの少しだけ近づく。


「これならば………!」


 行ける、と。それが油断だった。

 つま先に感じる衝撃。地面から突き出ていた木の根に、足を取られたのだ。

 悔やむ暇すらない。走っていた勢いのままに、ベルリンドは藪の中へと無様に転がる。

 痛みよりも何よりも、自分の迂闊さが突き刺さる。

 枝に引っ掛けた傷などもすべて無視して、ベルリンドは慌てて立ち上がった。


 だがそこに、白い牝鹿の姿は最早どこにもなかった。





「だから無茶だと言ったんですよ、若!」


 あれから牝鹿を探して森の中を走り回ったが、結局その白い影さえ掴むことはできず。

 一度村に戻ってきたところで、待っていたのは二人の従者の姿。

 まず駆け寄ってきたギーアの第一声がそれだった。


「若様、お怪我をなさっているではありませんか。見せてください、すぐに手当を」

「いや、大丈夫だヤナル。血はもう止まっているし………」

「手当します。御身に万が一のことがあれば、お館様も悲しまれる」


 本当に僅かに痛む程度なのだが、ヤナルにそう言われては反論もできない。

 冷静な同僚とは対照的に、ギーアは嘆くように頭を抱えていた。


「もう止めましょう、若。森の中で鹿を足で追い回すなんざ、猟師の飼ってる犬の仕事だ。若がやるべきことじゃない」

「これは試練なんだ、ギーア。一度挑むと口にした以上、それを違えるわけにはいかない」


 意志は固く、曲げるつもりはどこにもない。

 それだけの一言でこれ以上なく伝わってしまい、ギーアはますます頭を抱えた。

 ヤナルもそれに関しては既に諦めているのか、小さく首を横に振るのみ。

 二人の従者の姿に、ベルリンドは罪悪感も感じていた。

 彼らは父である領主に命じられて、自分を連れ戻すために追いかけてきたというのに。

 こうして自分のワガママのために振り回してしまっている。


「………すまない、ギーア。ヤナル。私の勝手で、お前達にまで迷惑を………」

「止してくださいよ、若。そうは言ったって、決めたことを曲げるつもりはないんでしょう?」


 ため息混じりに言われては、返す言葉もない。

 ギーアの言う通り、自分はこの試練に最後まで挑まなければ気が済まないのだ。

 “稲妻の乙女”にこの身を認めてもらうまでは、退くことはできない。


「わかった、わかりましたよ若。強情なのは俺達もよく知ってます。どうせ止めても聞かないなら、最後まで付き合うだけでしょう」

「そうね。私達にも役目がありますから、若様を放り出して戻るわけにも参りません」

「………ありがとう、二人とも」


 従者としての役目だから、そうしているだけかもしれない。

 そうだとしても、ベルリンドにはギーアとヤナルの言葉が本当に嬉しかった。

 頭を下げる主人の姿に、二人も流石に慌てて。


「あーあー、顔を上げてくださいよ若!」

「ええ、次期領主ともあろう方が、従者相手に気軽に頭を下げてはいけません」


 口々に言われて、ベルリンドは少し笑いながら顔を上げた。

 それに釣られるように、従者二人も笑みをこぼす。


「さ、さ。流石に森の中を走り通しじゃ疲れたでしょう。一度村長殿のとこに戻って、一息吐きましょうや」

「ええ、手当もしたいですし。若様、我々に何か手伝えることはありませんか?」


 ギーアは疲れた身体をさりげなく支えて、ヤナルは傍らを歩きながら傷の状態を素早く確認していく。

 二人とも、自分には勿体無い程の良き従者だ。

 自分は本当に恵まれているのだと、ベルリンドは改めて噛み締める。


「ありがとう。だが、この試練は私一人で挑まねば意味はないのだ。気持ちだけで十分だ」

「………わかりました。そういうことでしたら、我々は影ながら応援させて頂きます」

「なぁに、若だったら大丈夫だ。きっとその頑固さで、最後までやりきっちまいますよ」

「あぁ、勿論だ」


 二人の気遣いと信頼に応えるように、ベルリンドは笑って頷く。

 具体的な対策など何も浮かんで来てはいないが、最後までやり通すと決めたのだ。

 ならば策は無くとも、挑むしかない。

 この全霊が少しでも“稲妻の乙女”に見合うものであれば、必ず届く。

 ベルリンドは己の決意を確認するように、強く拳を握り締めた。





「いやー、良いガッツだわあの坊ちゃん。まさかあそこまで食いついてくるとはなぁ」

「本気じゃのぉお前………」


 ベルリンドが森から村へと戻ったのを確認すると、ロキもまた一時森から離れていた。

 定位置となった岩の上にロキと並んで座り、羊達が牧草を食んでいるのを眺めながらトールは小さく息を吐く。

 最初の試練のことを話すロキは、まるで子供のように楽しげだ。

 如何に自分があの若き騎士を翻弄したのか、それにもめげずにどれだけ食い下がってきたのか。

 完全に童心に返った様子で、大喜びで話をしている。


 これはまた悪い虫が出るかもしれんな、と。

 トールは自分の胸中だけで呟く。


「なぁ、ロキよ」

「お、何よ?」

「お前さん、熱中しすぎると加減とか完全に忘れる質だろう。本当に気をつけろよ。

 ベルリンドは確かになかなかの逸材ではあるが、あくまで人間での話だ。死後の英雄(エインヘリヤル)でもない奴に、本気になるなよ?」


 現状、既に十分やり過ぎてるぐらいだが、その上で念を押す。

 ロキが化けた健脚の牝鹿に、足だけで追いついて捕まえろだの無茶ぶりも良いところだ。

 死後の英雄(エインヘリヤル)の中にさえ、それが可能な者がどれほどいるだろうか。

 それに対し、ロキは子供のようにケラケラ笑う。


「ダイジョーブダイジョーブ、このロキ様があんな若造相手に本気になるかって? ンなわきゃないでしょトールちゃぁん」

「確実にそうとも言い切れんから、こうして言っとるんだろうが。実際、ベルリンドはなかなかやるんだろう?」

「んー………まぁそうだな。ぶっちゃけちょっと驚いたのは間違いないわ」


 根性のある奴とは認めていたが、それでもあの粘りは確かに驚異的だった。

 木の根に足を取られて転んでしまう寸前までは、あの疲弊しきった状態で更に速度を上げてさえいた。

 はっきり言って予想以上だ。

 本気になるなと言われたが、あるいは本気を出さざるを得ない状況に追い詰められてしまうかもしれない。

 いやいやまさかと、ロキは笑って首を横に振る。


 衰えたとはいえどもこの身は道化の神。他者を翻弄し、弄ぶことこそ真骨頂。

 夢幻に等しきこの姿を、捕らえられる人間などいるはずもない。

 絶対の自信と共に、ロキは笑う。脳裏に浮かんだ、必死に走るベリルンドの姿を笑う。

 これよりも更に無様な姿を晒させてやると、己の中で昏い情熱を滾らせる。


「………本当に大丈夫なんだろうな?」

「心配性が過ぎるぜぇ? 言われなくともホントに死なせるような真似はしねーから、安心しとけ」


 トールが本当に心配しているのはそこではないのだが、言ったところで無駄だろう。

 わかっていない様子のロキは、次はどんな感じにベルリンドを振り回してやろうかと思案している。

 楽しい。まったく愉快だ。

 若き騎士よ、この道化の神の遊び相手という栄誉を預かるのだ。

 その全身全霊を賭して、この新たな生に一時の潤いを与えてくれ。

 もし期待外れであったなら、思う様に罵倒を浴びせてその心をへし折ってしまっても良いだろう。

 どう転んだところで、ロキにとっては笑い事だ。


「さてと、オレはまたちょっくら森に入っておくぜ。お前はのんびり休んでてくれよ、トール」


 友人の肩を軽くポンと叩いて、ロキはひょいと立ち上がる。

 同時にその姿が一瞬だけ煙に包まれて、瞬く間に白い毛並みを持つ牝鹿の姿に変わった。

 軽くその場で飛び跳ねて、ニヤリと歯をむき出して笑う。


『じゃーな、行ってくるぜ!夕飯の時間までには戻ってくるわ!』

「おーおー、気をつけていけ。足元掬われんようにな」

『誰に言ってんだ!ヒャッハァ!』


 ぴょんぴょんと飛び回り、羊を驚かせながら白い牝鹿は走り去っていく。

 足元を掬われないようにとは言ったが、実際のところそうなる可能性はほぼないと見て良いだろう。

 神と人との能力の格差は、それだけ大きい。

 全盛期に比べて劣っていようが、ロキが人間に遅れを取る可能性など絶無だ。

 それこそほんの僅かな可能性―――ベルリンドが奇跡を起こしてみせるか、あるいは他の神の助力を得るか。

 そのどちらかが満たされない限りは、彼はこの試練を超えられない。


「まぁ、英雄の器であるなら奇跡を起こすこともできるやもしれんが…………?」


 そう考えて、独り言として呟いたところでトールは顔をあげた。

 視線。一瞬、誰かに見られているような気がして。


「………気のせいか?」


 辺りを見回しても、羊達の姿しかない。

 ロキは森の方へと走り去ってしまって、他には誰もいない。

 だが、瞬きほどの時間ではあったが、トールは確かに視線のようなものを感じていた。

 気のせいならばいい。だが、気のせいではないとしたら?


「……………」


 視線を巡らせて、トールは気のせいだったということにして、再び思考に没した。

 恐らく、何かがいる。確証はないが、いると思った方が良いだろう。

 果たしてそれは何者で、何のためにこの村に入り込んだのか。

 若き騎士が挑む、五つの難行。

 その最中にまた、別の嵐が起こるかもしれない。


 ――――上等だ。来るならば来い。誰であろうと返り討ちにしてくれるわ。

 言葉にはしないままで、トールは戦の始まりを感じていた。




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