戦場を駆ける英雄から、文字のない手紙が届きました
馬上から私に手を差し出してくれた時の彼は、本当に恰好良かったのですよ。
そこが炎に包まれた戦場のただ中だということさえ忘れてしまうほどに。
あの日、帝国の急襲を受けた我が家の領地は炎に巻かれ、農園の視察に出ていた私は逃げ場を失っていました。そんな私を救い出してくれたのが……ジェイミーだったのです。
彼がバルシア王国騎士団の若き有望株だと知ったのは、すべてが終わった後のことでした。
焼け焦げた大地の匂いも、耳を覆いたくなるような怒号も、春の雨がすべてを洗い流してくれました。
そして、雨が止んだあとに残されたのは……私ひとりでは手に負えそうにない荒れ果てた領地だけでした。
主だった親戚は散り散りとなり、領地を立て直す間もなく両親もこの世を去ってしまいましてね。焼け落ちた穀倉や水路を立て直すだけの蓄えも人手も、すでに我が家には残されていませんでした。
地主たちだけに負担を背負わせるわけにもいかなくて、私は領地を王家へ返還することにしたのです。
「本当によろしいのですか、お嬢様」
「ええ。情けない話だけれども、私ひとりではどこから手を付けたらいいのかも分からないのよ。……ごめんなさいね、ハンナ。貴女にも苦労をかけてしまうわ」
「何を仰いますか。私はどこまでもお嬢様にお供いたしますよ」
古くから勤めてくれている侍女のハンナだけを連れて、私は慣れ親しんだ屋敷をあとにしました。領地の返還手続きのために、しばらく王都に滞在する必要がありましたから。
がたがたと揺れる馬車の中で、私は何度も自分の手を見つめていました。あの日、絶望に膝をついた私を力強く引き上げてくれた、あの人の手の感触を思い出すように。
——ジェイミー・フォルン様。
声に出さずともその名をなぞるだけで、胸が高鳴るようでした。……あら、そんなに興奮なさらないで。流石に初恋ではありませんよ? でも……そうですね。恋に落ちていたのは、確かでしたね。
王都へ着くと、彼の名は「救国の英雄」として街のいたるところで囁かれていました。華やかなドレスに身を包んだ令嬢たちが熱のこもった息を漏らして語っていたのをよく覚えています。……ふふ、そうでしたね。貴女の国、クーヘンでも同じだったそうですね。
「ねえ、ご覧になりまして? 先日の叙勲式でのジェイミー様のお姿。あの方、戦場では鬼神のごとき強さと伺っていたので熊のような御姿かと思いきや、あんなにシュッとしていらして……」
「お強いのに決して驕らず、他の新兵のように無駄口一つ叩いてらっしゃらなかったのよ。常に凛としていらっしゃるのがまた素敵でしたわ」
精悍な顔立ちと、謙虚な振る舞い。余計な愛想を振りまかない姿は孤高の人と称賛され、令嬢たちの恋心を煽るのに十分でした。
「……そんなにも高名な人だったのね。私を助けてくれた人は」
その頃の私は手配された宿の中で過ごしていました。ハンナが淹れてくれたお茶を啜りながら、日がな窓の外を眺める毎日だったんです。
一時休戦の報もあったからか、王都を歩く人たちはどこか浮足立っているようにも見えました。
「私もよく噂を耳にします。フォルン家自体はそれほどの家柄でもないそうですが、ジェイミー様は実力で上り詰めたのだとか」
「戦場を駆ける姿がとても素敵だったわ。……ねえ、ハンナ。私、ジェイミー様にお手紙を書こうと思うの」
「まあ。お嬢様も英雄様のお姿に当てられてしまいましたか?」
「そ、そんなんじゃないわ。ただの礼状よ。やっと身の回りが落ち着いたから、改めて感謝を伝えておきたくて。あくまで礼儀としてよ、ね」
どこか言い訳めいて聞こえたのでしょうね。ハンナは「分かっておりますよ」と訳知り顔で頷いていたものです。
領地の返還と一言で言ってもそれなりに時間と手間がかかるものでしてね。私のような境遇に置かれた女は珍しくも無いようで、余所の領地では年端もいかぬ子どもだけが残されていたりと、相当な時間を要しておりました。
幸いにして、我が領地は地主衆がしっかり治めてくれていたから大きな混乱はなかったのですが……。緊急性を要する方を優先して欲しいと王家に願い出たら、有難がられるほどだったんですよ。
だからすっかり王都にも長居してしまっていたのですけれど——。
手紙を出したことも忘れかけていたある日の昼下がり、宿の主人が一通の封書を届けてくれたんです。
「エルマ様。騎士団の紋章が入ったお手紙が届いておりますよ」
主人の言葉に、最初に反応したのはハンナでした。「まあ!」という声が響く中で、私も受け取った封筒をまじまじと見つめてしまいました。
差出人の名前はありませんでした。けれど、そこには確かにバルシア騎士団の証である刻印がありました。
期待しすぎてはいけないと自分に言い聞かせながらも、手が震えてしまったことは今でもよく覚えています。
でもですね。封を切ると、便箋は一枚も入っていなかったんですよ。
代わりに指先に触れたのはカサリとした乾いた感触。中から手のひらに滑り落ちたのは、一輪の小さな、淡い黄色の押し花でした。
「……お花、ですか?」
ハンナが不思議そうに首を傾げるのも無理はないですよね。だって、何の言葉も記されていなかったんですもの。私も困惑してしまいましたが……丁寧に形を整えられた花が一輪あるだけだったんです。
「お忙しいなか、わざわざ花を摘んでくださったのかしら」
もしかしたら、あの人が自ら押し花を作ったのかしら?
そんなはずがないのに。想像をするだけでも面白いでしょう?
せめてものお礼にと、私は刺繍入りのハンカチを小さな礼状とともに送りました。もちろん、これ以上のお返事は不要です、と書き添えて。
それからさらに一月ほど経った頃でしょうか。彼が新たな赴任地へと旅立ったという噂を耳にしたあとに届いたのは、小さな木箱でした。
中に入っていたのは、耳を寄せれば潮騒が聞こえてきそうな真珠色に輝く美しい貝殻。どこか遠くの海辺で、彼はあの貝を拾ったのでしょうね。束の間の休息の時間に、割れないように柔らかな綿まで敷き詰めて。
「お嬢様、また挨拶状も添えられてないのですか?」
「ええ。不思議な方ね。でもこうして律義に返事はくださるのだから嬉しいわ」
私は彼から届いた花と貝殻を、唯一手元に残った宝箱の中へと大切に仕舞いました。
……ああ、ごめんなさい。さすがにここには持ち出せなかったので、あれは置いてきてしまったのですよ。
そうですね。無事に残っているといいんですけれどね。
いけない、もうこんな時間ですね。
今日はここまでにしておきましょうか。
大丈夫ですよ、そんなに心配しないでも。明日はきっときますから。
私が、傍にいますから——。
*
……ああ、今日は雨が降っているみたいですね。
ふふ、そんなに急かさなくても大丈夫ですよ。お話の続きでしたね。
そうですね……領地の返還手続きもいよいよ大詰めを迎えた頃、私は王家主催の茶会へと招かれました。
小さな領地でしたけれども、領主の娘であった私に対する王家なりの労いだったのでしょう。会場となった王宮の庭園には季節の花々が咲き乱れ、着飾った貴婦人や令嬢たちの笑い声で溢れていました。……ええ、あの頃はまだ、そうした平和がずっと続くものだと誰もが信じていたのです。
私は一番端の席に腰掛けて、彼女たちの語らいに耳を傾けていました。
戦禍の復興の話に、遠い異国で造られる花酒の噂。一時休戦によってもたらされる経済効果や、戦場を渡り歩く騎士団の栄光——。
「……そういえば、貴女もジェイミー様に救われたお一人でしたわね?」
「はい。あのお方がいなかったら、今ごろ私はここにはいられなかったでしょう」
「それなら貴女もお手紙を送られましたの?」
「ええ。少し遅れてしまいましたが、礼状を預けましたわ」
みんな、同じことをしていたようでしてね。いつ、どんな内容を書き記したのかという話で少し盛り上がったんですよ。そうしたらその中の一人が、溜息を吐きながらこう仰ったんです。
「その……皆様の元には、お返事は来ましたか?」
みんな、顔を見合わせて。しばらく探るような視線を交わしたあとに、困ったような苦笑を漏らしていました。
「残念ながら、一度も」
「わたくしもお返事はいただけませんでしたわ。お父様からは、お忙しい方の手を煩わせてはいけないと叱られてしまいました」
「仕方ありませんわ。各地を巡っていらっしゃるんですもの。お手元に届いただけでも幸運と思わなくては」
同じ境遇だと分かったからでしょうか。令嬢たちは互いに慰め合い、「返事は来ないのが当然だ」と自分に言い聞かせるように微笑んでいました。
——え? 「私の元には返事があった」と言えばよかったじゃないかって?
もう、そんなことをあの空気の中で言えるはずがないじゃないですか。いらぬ詮索や嫉妬を受けるかもしれないのですから。
だから私は皆様に合わせて曖昧に微笑み、沈黙を守ることにしたんです。小鞄の中に、あの真珠色の貝殻をお守り代わりに忍ばせていることなんて、おくびにも出さずに。
そうしてひとしきり彼の話題で盛り上がる中、一人の令嬢が声を潜めて言いました。
「ですが……噂に聞いたのですが、帰還した負傷兵の方が仰っていたそうですの。ジェイミー様が誰かのために、大切そうに包みを預けていたのを見た、と」
「まぁ! どなたにかしら。やはり、中央貴族の方?」
「ええ。実はね、あの方にはラニス家のお嬢様との縁談が進んでいるという噂があるのよ」
その言葉を聞いた瞬間、心臓がどきりと跳ねました。
ラニス家のお嬢様。私のような身とは比べるべくもない、高貴な存在です。
——そうか。あの方は領地を失った私を不憫に思って、ただの同情で物を送ってくださっただけなのだわ。
もし私がいつまでも返礼を続けて、そんな立派なお相手の方に知られてしまったら。誠実な彼の名誉を傷つけてしまうかもしれない。
そう思ったものですから。もうこれきりにしなくてはいけないと、私は宿に戻るとすぐに最後の手紙を書いたんです。
彼がくれた押し花と貝殻への感謝。そして、噂で耳にした彼の幸福を祈る言葉を精一杯に綴って。
『ご良縁の話、心よりお祝い申し上げます。これほどまでにお心を砕いていただき、感謝に堪えません。どうかこれ以上は私へのお気遣いはなさいませんよう。貴方様のご多幸を、遠くからお祈りしております』
震える手で封を閉じ、翌朝、騎士団の連絡所へと預けました。
これでいい。あの方には私などよりもずっと相応しい相手がいて、輝かしい未来が待っているのだから……。
そう、自分に言い聞かせたのを覚えています。
それから半月ほどが経った頃でしょうか。
王都を去る準備を進めていた私の元に宿の主人が血相を変えて駆け込んできたのは、よく晴れた昼下がりのことでした。
「エ、エルマ様! 外に、騎士様が……ジェイミー・フォルン様が、貴女を訪ねていらしています!」
その名を聞いた瞬間、手に持っていたカップを取り落としそうになりました。ティーポットを握ったままのハンナと二人してしばらく動転してしまったのですよ。
「ど、どうしてジェイミー様が……?! 私、何か粗相をしてしまったのかしら……!」
「落ち着いてくださいませエルマ様……! ま、まずは身支度を整えて。ああ、御髪も直さないと!」
「待たせてしまってはいけないわ。ご主人、空いているお部屋をお借りしてもいいかしら?」
「もちろんでございます、すぐに整えてまいります!」
事前の連絡ですか? そんなものあるはずがないじゃないですか。裾に足を引っかけ転んでしまいそうなほど、私もハンナも大慌てでした。
宿の入り口で立ち尽くしていた彼は、訓練の合間に馬を飛ばしてきたのでしょうね。鎧には土埃がつき、乱れた前髪の下から覗く瞳が、不安そうに揺れていたのが印象的でした。
「ご機嫌麗しゅうございます、ジェイミー様。その……どうしてこちらへ」
「……手紙を、受け取った」
彼はそれだけ言うと、続く言葉を探すように視線を逸らしました。バルシアの英雄のお出ましに宿の主人も浮足立っていましてね。揉み手で近付いてきた主人に案内され、私たちは宿の空き部屋へと通されました。
「いやはや、まさかジェイミー様にお越しいただけるなんて光栄です。お見苦しいところへお通しして申し訳ありません。すぐにお茶を……」
「構わない。すまないが、彼女と二人きりにさせてもらえないだろうか」
その言葉に仰天したのは私の方ですよ。年頃の男女が部屋に二人きりだなんて、どんな誤解を招くか分かったものではありませんから。
でも、あの人は全く気にする素振りも見せずに私に席へ座るよう促したんです。……ふふ、椅子を引いてくれるなんてエスコートを期待してはいけませんよ? あの人は戦場を渡り歩いてばかりで、社交の作法に触れる機会など殆どなかったそうですから。
「……急に訪ねて、すまなかった」
彼の大きな身体にはその椅子は小さすぎたのか、まるで借りてきた猫のように窮屈そうに座っていました。……ああ、分かりますか? そうですよね、あの人、背が高かったですからね。もしもこの馬車に乗り込んでいたら……窮屈だったに違いありませんね。
それでどこか居心地が悪いまま、彼はカップを見つめて一向に本題を切り出そうとしません。沈黙に耐えきれなくなったのは私の方で、自分から切り出すことにしたんです。
「こうしてまたお会いできるなんて、思いもしませんでした。……あの日は、本当にありがとうございました。ジェイミー様は私の命の恩人です」
「いや……気にしないでほしい。当然のことをしたまでだ」
「各地でのご活躍も耳にしております。お怪我などは……ございませんか?」
彼はただ無言で頷くばかり。本当に口数の少ない人だと思いましたわ。
その時はどうして彼が来たのか見当もつかなかったのですが……。もしやと、一つだけ思い当たることがありました。
「お手紙の件……もしや、ご良縁の邪魔をしてしまったのでしょうか? 疚しいことは何もなかったと、どこかへ証言が必要な状況ですか?」
「違う。……良縁など、ない。縁談の話など、誰が言い出したのかも分からない。俺——私は一度も、そんな話を承諾した覚えはないんだ。……そんなことよりも、なぜあれが最後なのだ。何か、私の手紙が気に障ったか」
「いえ、そんなことは……。ただ、ジェイミー様は一度もお返事を書いてくださいませんでしたから。私のような者のために、無理に贈り物を選ばせてしまっているのではないかと思ったのです」
するとジェイミーはひどく言いづらそうにして、耳まで赤くして俯いたんです。
……嫌ですわ、そんなにそんなに身を乗り出さないでください。恥ずかしくなってしまいますよ。
え? 「ここまで話したなら最後まで」ですか?
もう……誰にも言わないでくださいね。
彼は、これまでに聞いたこともないくらいに小さな声で、ぽつりと呟いたんです。
「……書けなかったのだ」
「ごめんなさい、責めているつもりはないのです。お忙しかったのは分かっておりますから」
「違う。……筆が、進まなかった。私は、その……字が、ひどく汚いんだ」
……あら。何やら腑に落ちたようなお顔ですね。
ごめんなさいね、こんな形で種明かしをしてしまいまして。でも、貴女も途中から薄々気付いていらしたのでしょう? 貴女の手元に届いた、彼らしからぬ筆致で愛を囁く「英雄からの手紙」の正体に——。
もちろん、当時の私も驚きましたわ。騎士と言っても最低限の教養を備えた方ばかりだと思っておりましたから。
「君のような美しい文字を書く女性に、ミミズがのたくったような私の文字を見せたら幻滅されると思った。だから代わりに物を送ったんだ。花なら、貝なら、私の気持ちを少しは代弁してくれるのではないかと……。そう思ったのだが、間違っていたか?」
揶揄われているのかとも思いましたけれど、彼の表情は真剣そのものでした。
返事を待つ王都の令嬢たちが「硬派で高潔」と讃えていた沈黙の正体が、まさか悪筆への羞恥だったなんて。そう知ってしまえば、花も貝殻も急にいじらしく思えてきました。
「……ふふ、あははは!」
「……エルマ殿?」
「嫌だわ、はしたなくてごめんなさい。でも……あまりに、あんまりですわ。貴方様は、噂どおり寡黙すぎます」
私は目尻に涙が浮かぶまで笑ってしまいました。彼は少し拍子抜けしたような顔をしていましたけれど……私の手をぎゅっと握ったんです。帝国軍の急襲から私を救い出してくれた時と同じ、硬くて温かい、大きな手で。
「言葉が足りないのは自覚している。だから、誤解させたかもしれないと思って……馬を飛ばしてきたんだ。……あの日、自分も逃げられたはずなのに、最後まで領民を先に行かせていただろう。炎の中でひとり踏みとどまった君の気丈さに、私は強く惹かれたんだ。どうか、私の妻となってほしい」
——それは、どんな詩的な恋文よりも私の胸を打つ真っ直ぐな言葉でした。
領地も両親も失い、たったひとりで歩き出そうとしていた私の心に彼という光が差し込んだような……そんな気持ちになったのです。
身分とか、立場とか、考えなくてはいけないことはたくさんあったはずなのに。
あまりにも真摯な言葉を貰ってしまったものですから、私は何も考えずに頷いていました。
「……嬉しいですわ。喜んで、お受けいたします」
初めて見せてくれた綻ぶような笑顔。
私は今でも、あの顔だけはずっと覚えているんですよ。
——それから、ですか?
そうですね。一緒に住むうちに、少しずつ彼のことを知っていきました。
大型犬みたいにいつも私の傍から離れないこと。シチューが好物なこと。夜中だろうと構わずに大きな音を立てて廊下を歩くこと。
食事のマナーも怪しかったから一から教え直すのも、彼に代わって報告書の代筆をするのも、私の大切な役目になりました。
「エルマ、すまない。また頼まれてくれないかな」
「もう、いつまでもそんな調子でどうするの。……戻ってきたら、今度は字の練習をしましょうね」
「はは……お手柔らかに頼むよ」
そんなやり取りさえも愛おしかった——。
……けれど、戦の報せは届き、彼はまた戦場へ旅立つことになりました。
「もう手紙は送りません。貴方には余計なことに頭を使って欲しくないですから」
「すまない。また、何か物を送ろうと思ったのだが」
「それも大丈夫ですわ。たくさんのものを頂いたんですもの。……どうか、無事に帰ってきて。それだけで十分ですから」
「もちろんだ。必ず君の元に戻ってくるから」
額に軽く口づけをしてくれて。馬に乗って遠のいていく彼を見送りました。
だって必ず帰ってくると彼が言ったのですもの。あの人は嘘がつけない人だから、その言葉だけで十分でした。
それなのに……。
花は、彼が歩いた野の色を教えてくれたのに。
貝殻は、彼が見た海の音を運んでくれたのに。
けれど最後に届いた指輪だけは……何を問いかけても、何も答えてはくれなかったのですよ……。
……こんな話で良かったのでしょうか。
少しは、気が紛れたのなら嬉しいです。
——ああ、ようやく帝都に到着しそうですね。
大丈夫ですよ。そんなに心配なさらないで。帝国にとって私たちは貴重な人質のようなものですもの、悪いようにはされないはずです。
またお話をしましょう。あの人のことで良ければいくらでも話せますから。
貴女のおかげですよ。
貴女のおかげで、私はあの人のことをたくさん思い出せたのです。
だから心配しないでくださいませ。ずっとお傍にいますから。
あの人に救われたこの命で。
あの人の代わりに、貴女を守るために——。




