愛しのルーシア様へ捧ぐ(後編)
——不思議なことに、最近の王都の空は澄んでいるはずなのに、どこか重たく淀んでいた。
街路を照らす灯りも以前ほどの明るさはなく、露店の声もまばらだ。食堂の品数は日に日に減り、席に座る兵士の表情には、勝利続きの高揚よりも倦怠と焦燥の色が濃くなっていく。
それでも翌朝になれば城下には号外が貼られ、戦勝の報せに街がざわめきを取り戻す。
『帝国軍、再び撃退!』
『第三騎士団、敵陣突破!』
鮮やかな活字が並ぶ国報を前に、それを眺める者たちは「まだ大丈夫だ」とお互いに言い聞かせるように頷き合う。
だが城下のあちらこちらで、不信の種が芽吹きはじめているのを感じていた。
——事実、バルシアとクーヘンの国境が急に閉ざされてしまったのだ。
それはこれまでに一度も例のなかった措置。城内も妙に騒がしく、武装したまま移動する兵士や書簡を抱えて走る文官が廊下を行き交っている。
僕は彼らの邪魔にならぬよう、普段とは違う回廊を通って書庫へ向かった。一度仕事は終えたものの、どうしても片付けたい仕事を思い出してしまったのだ。
足早に歩いていると、貴賓室の近くで不意に「ねぇ、あなた」と声がかかった。
この時間に人と出会うとは思わず、不敬を咎められるのかと慌てて振り向く。
そこに立っていたのは——ゆったりとしたドレスを纏う姫様。そしてその背後にはスペンサー夫人の姿があった。
「突然ごめんなさい。貴方は確か、書記官さまでいらしたわよね?」
まさか姫様からお声をかけられるなんて。僕は慌てて膝を折る。久しぶりに近くで拝見する姫様は、相変わらず愛らしく、柔らかな微笑みと若草色の瞳が灯りの中で揺れていた。
——その姫様に、僕はフォルン様を騙って手紙を書いている。そう意識した瞬間、喉がひりつくほどの罪悪感が込み上げる。
「メイドの子から聞いたのよ。若い書記官が物語を書いているって。それは貴方のことかしら?」
「え! いや、その……恥ずかしながら、子どもの頃の遊びでして」
……あいつめ、余計なことを吹き込んだな。
しどろもどろになる僕を、姫様は楽しそうに見つめている。
「ふふ、いいじゃない。実はね、わたくしも書いてみたいのよ」
「ひ、姫様が、ですか……?」
「おかしいかしら? ……わたくし、どうしても書きたい物語があるの」
どうぞ立って、と促され、僕は壁側に寄って立つ。下っ端文官と姫様とスペンサー夫人という異様な構図に、行きかう使用人たちは訝しげにしながらも会釈して通り過ぎていった。
「どのようなお話を? あっ、さ……差し支えなければ」
「笑わないでね? ……騎士様と、その騎士が愛したひとの物語を書きたくて」
頬を染める彼女を見れば、すべてを語らずとも分かる。それはフォルン様と姫様自身の物語だ。
僕は迷いながらも「きっと素敵なお話ですね」と答えた。姫様は白薔薇のようにふわりと微笑む。
「良かったら今度、書き方を教えて下さらない? ……ああ、でもお忙しいわよね」
「い、いえ! 身に余る光栄です。僕なんかでよろしければ、ぜひ……戦況が落ち着いた頃にでも」
「楽しみにしているわ。それで……貴方の元には、たくさんの報告が届くのでしょう? 例えば——バルシアの第三騎士団の活躍とか」
どきり、と心臓が大きく跳ねた。姫様は真っ直ぐに僕を見上げていて、その無垢な視線が痛い。
僕は俯き気味に「ええ」と答えた。スペンサー夫人の視線が刺さる。余計なことは言うな、という無言の圧を感じた。
「はい、最近も大きな戦果がありまして……」
「そう。……あのね。もしジェイミー様の戦死の報告が届いたなら、わたくしには教えてほしいの」
「……え?」
思わず聞き返してしまう。姫様は、言葉の端が震えるのを隠すように、小さく息を吸った。
「それで、バルシアには決して知らせないで頂戴。……エルマ様が、悲しんでしまわれるもの」
エルマ様という名前に胸がずきりと痛む。……僕が大罪を犯した相手、フォルン夫人のことだ。
彼女が悲しむことを嫌がるほどに仲を深めていたのか。そのことに驚きながらも、そもそもバルシアには決して知らせないようにするなどと、僕の権限でどうこうできる話ではなくて。どう返事をすべきか迷っていると、姫様はふと思い出したように顔を上げた。
「よかったら、貴方の名前を教えてもらえるかしら」
一瞬、息が止まった。まさかこんな僕の名を問われる日が来るとは思わなかったからだ。
ほんのわずかな躊躇を経て、絞り出すように口を開く。
「……ジェイミー・フォリンです」
「まあ」
姫様が驚いたように目を見開いた。
これが、僕がフォルン様に良い感情を抱けなかった何ともくだらない理由だ。だってあの英雄と同じ名で、姓まで一字違いだなんて。僕と彼との差を思えばこれ以上なく惨めな話じゃないか。同じ名を持つというだけで、僕は何度も英雄と比べられてきたのだから。
だから名乗りたくなかったのに。姫様は小さく息を漏らし、花が綻ぶように微笑まれた。
「ふふ……とても素敵よ、フォリン」
——その笑みを目にした瞬間。
胸の奥で、何かが弾けた気がした。
「姫様、そろそろ……」
「ああ、ごめんなさい。明日にはエルマ様もいらっしゃるのだから準備を進めないとね。またお話ししましょうね、フォリン」
「しばらくの滞在となりましょう。……彼女も不運でしたね。国境を越えた途端に封鎖になるなんて……」
「そうね。でも、しばらく会えなかったから嬉しいわ。また、お話ができるもの……」
どこか悲しげな余韻を残して、二人は立ち去っていく。
その背をしばし見つめたまま、僕はようやく重たい足を引きずるように動かした。
きっと、僕の両足には罪人のために拵えられた足枷でもついているんだろうな——。
そんな自嘲を胸の内で転がしながら。
「……あれ、グノーさん、まさか寝てるんですか?」
書庫の扉を押し開けた途端、規則正しい寝息が耳に届いた。深夜まで仕事が及ぶことが増えたとはいえここで眠りこけているのは珍しい。
揺れるランプの灯りが書類の山を照らす中。声を掛けようとした僕の視界に、一枚だけ裏返った羊皮紙が映る。
何気なく手に取ったそれに、僕は目を走らせた。
『北部防衛線、補給途絶。糧秣および軍器の輸送隊が帝国軍の奇襲を受け壊滅。至急援軍を乞う』
「は……?」
いま、僕は何を読んだ?
理解が追いつくより早く、指は別の紙へと伸びていた。
『王国第二兵団、夜襲により半数が散開。再編の目処立たず。指揮系統の混乱が続く』
『帝国軍、新型の火器を投入。盾隊に多数の死傷者。戦列の維持困難』
『バルシアよりの増援、未だ到着せず。伝令によれば国境付近で足止めとの報。第三騎士団とは未だ連絡が取れず』
惨憺たる戦況が、びっしりと書き連ねられている。
これまで僕たちが清書してきた勝利の報告とは、何ひとつ噛み合わない。
「あー……見ちゃった?」
いつの間に目を覚ましたのか、グノーさんの低い声に顔を跳ね上げる。彼はのそのそと机の上を探りながら眼鏡を手に取った。
そして、僕をじっと見据える丸眼鏡の奥の瞳は、真っ暗な闇に塗りつぶされたようになんの光も宿していなかった。
「油断しちゃったな。驚かせてごめんね。君には、もう少しましな情報だけ渡していたからね」
僕は呆然と報告書を見下ろした。今朝も街に貼られていた『快進撃!』の文字とは正反対の、血の気が引くような現実がそこに記されている。
「な、なんですか、これ……。これが、本当の……」
「うん。本当の戦況だよ。正確には——ひと月前の本当の戦況、だね」
グノーさんは淡々と答え、僕の手から紙を抜き取ると、慣れた手つきで焼却炉行きの木箱の中へ放り投げた。
「驚いた顔だね。でも仕方ないだろう? なにせ、陛下からの特命なんだから」
椅子に腰を深く預けながら、彼は自嘲めいた笑みを浮かべる。
「特命……? こんな改竄を、陛下も認めてるんですか」
「もちろんだよ。君が"姫様"に希望を与える役目なら——私は"国民の皆様"に希望を与える役目ってわけだ。まだこんな茶番を続けてるんだから、我ながら呆れるよ。敗戦間近だってのにね」
「敗戦……? だって——」
「信じられないかい? だが、この報告書を全部読めばわかるさ。帝国は東の国境をもう破っている。守備に当たっていた聖槍騎士団は壊滅。第三騎士団も損耗率八割で情報が途絶えている。バルシアからは情報が全く寄越されなかったけれど……状況からして、フォルン卿もまず生きてはいないだろうね」
頭が真っ白になる。
フォルン様が……死んでいる?
そんなことを、姫様が知ったら——。
それに、この人は。
目の前に座るこの男は、本当に僕の知るグノーさんなんだろうか?
昼食の献立でも話すみたいに淡々と現実を並べていく姿が、どこか別の生き物のように見えた。
「酷い話だよねぇ。あの国報を見た人たちが、『今日も勝ってるんだ』『きっと大丈夫だ』って笑って家に帰っていく。その姿がとても滑稽で……そして痛ましくてね。ああ、私の拵えた虚構に浸っているせいで、逃げるという発想すら奪われてしまったんだな、って」
彼はゆっくりと立ち上がり、黒い窓の外を見つめた。
「どうしてこんな……。陛下は一体、何をお考えなんですか!」
「私だって何度も進言したさ。でも相手にもされなかった。士気が落ちれば国が崩れる。民衆に暴動でも起こされたら、それこそ国は終わりだとね。義兄上からは『文官風情が出しゃばるな』って罵倒されたよ。……まあ、彼も死んじゃったけど。ざまぁないね」
淡々と告げられる死の報せに、言葉が詰まる。
義兄上——スペンサー卿。前線の鼓舞のために城を出て、まだ二月と経っていないのに。
「首だけ返されて、ようやく陛下も気付いたみたいだね。……もう勝てるわけがない、と」
「じゃあ……全部ウソだったんですか。帝国相手に渡り合っていたなんて話も、連勝の報告も……」
「それが、そうでもなかったんだよねぇ」
グノーさんはわざとらしく肩を竦めた。
「君が清書した勝利の報は、確かに本物だった。……でも、それが罠だったんだよ。帝国が意図的に勝てる余地を残してくれたんだろうね。『まだ戦える』と私たちに思わせるために。交渉の余地も残さぬほどに徹底的に叩き潰したかったんだよ。いやぁ、策士だねぇ、悪辣だ」
そう言って、彼は一枚の羊皮紙を僕へ放り投げた。
そこには——降伏書を帝国の使者が破り捨てた事実が、淡々と記されていた。
「降伏さえも許されなかったなら……ど、どうなるんです、この国は……」
「そうだねぇ。……せっかくだ、一緒に想像してみようか」
軽い調子のまま、グノーさんは手を開き、指を一本折り曲げる。
「まずはバルシア。あそことの国境を閉ざしたのは、もう切り捨てると決めたからだよ。まさか帝国が山を迂回してまであっちを先に落とすつもりだとは思わなかったなぁ。……そのうち落城の報せが届くさ。それが、終わりの始まりかな」
次の指が折られる。
「その勢いのまま、帝国軍はクーヘンに雪崩れ込む。今回はもう、第三騎士団なんて救世主は来ない。城は焼け落ち、王は討たれ、臣下はその場で斬り捨てられるか、あるいは王に殉じるか。ご令嬢たちは辱めを受ける前に自ら身を投げるかもしれない。……ああ、あの塔なんか、ちょうど良い高さだ」
また一本、指が折られ、乾いた笑いが漏れる。
「さて、姫様はどうなるかな。あの器量だ、順当にいけば捕虜だろうけれど——。余所では"悪評まみれの王女"が戦勝国の王子に嫁がされ、人とも思えぬ扱いを受けていた例もあるそうだ。尊厳が守られるかどうか……さて、どうだろうね」
最後に残った指も折り畳まれ、彼は最後にふわりと掌を開いた。
「悪評だなんて……! そんなもの、姫様にあるわけがないじゃないですか!」
「ええ、君がそれを言うんだね?」
グノーさんは薄く笑い、静かに首を傾げた。
「妻を持つ騎士に横恋慕するだけなら、まあ可愛いものだ。でも、その妻を何度も自国へ呼びつけたうえ、その妻には夫の名で離縁を迫る文まで届いた。英雄の死を知る者が見れば、誰の差し金だと思うだろうね? ……心証、最悪だと思わない?」
「——ッ!」
見て見ぬふりをしてきた現実が、無慈悲な形で突きつけられる。
……そう、僕はスペンサー夫人に命じられるがままに、フォルン様の筆跡を真似て——。
彼の帰国を待つ奥様に、あろうことか離縁を迫る手紙を書いていたという醜悪な事実を。
返事はこなかった。
だが手紙は、彼女の手元に残ったままのはずだ。
もし、それが帝国に押収されたら?
押収されなくても、もし彼女が憤りから訴え出たら?
想像するだけで膝から力が抜け落ちる。
蹲った僕の肩を、グノーさんは慰めるように軽く叩いた。
「敵はもう目前だ。こうなったら王族は最後まで抗戦するだろう。そして——その時に私たちのやるべきことは分かってるかい?」
「……い、いえ。僕にはもう、何ひとつ……わかりません」
「この書庫の破棄だよ。フォルン卿との手紙も、報告書も、文献も。痕跡はすべて燃やすんだ」
深い覚悟を孕んだ声が床に乾いた反響を残す。
——そうだ。燃やさないといけない。
「それは私と君の役割だ。証拠は残すな。貴重な史料を敵国に渡すつもりもない。私たちは、この城と一緒に燃え落ちなければならない」
その言葉は、胸の奥に静かに沈んでいった。
僕から離れたグノーさんは——皮肉にも、これまでで一番晴れやかな顔をしていた。
「ああ、ようやく言えた。おかげですっきりしたよ。……私もね、誰かに聞いてほしかったのかもしれないな。特命という名のもとに、私の犯してきた罪を」
彼はのろのろと再び椅子に腰を下ろし、書類の山に向き直る。
「さぁ、仕事を続けないといけないね。明日はどこの部隊を活躍させようか。やっぱりフォルン卿に頑張ってもらおうかな? 彼らが活躍すると、民衆は喜ぶんだよねぇ」
すっかり共犯者に仕立て上げられてしまった僕に、グノーさんは愉快そうに笑いかける。
でも僕は、もうそんなことを考えている余裕なんてなくて。
どうすれば。
どうすれば姫様だけは救われるのか。
その切実な思いだけが、胸の内を占めていた。
*
表向きは平穏な日々が続いた。姫様からは相変わらずフォルン様宛に手紙が届くけれども、国境が完全に閉ざされたいま、それらがどこかに届くはずもない。整合性を保つためという今さらな名目で、僕も返事を返さなくてよくなった。
姫様から届いた手紙はすべて燃やした。けれど姫様の手元には、まだフォルン様からの手紙が希望として残っている。
いずれ真相を知ることとなるスペンサー夫人が処理する手筈だが——僕は念を入れて、別の一通を書き残した。
だって、僕にできるのはもうこれくらいだから。
戦が終わって捕虜にでもなれたら同じ内容を口にできるかもしれないけれど、僕はおそらくこの書庫で燃え尽きるから。
だからこそ、最後の悪あがきとして残す必要があった。
この書面ひとつで姫様の運命が変わるとは思っていない。けれど、いつか誰かが姫様の罪を問うたとき、否定する記録が何ひとつ残っていないよりはましなはずだった。
そしてその一通を、僕は恥知らずにも——ひとりの女性に託すことにした。
僕が騙った英雄の奥様。
フォルン夫人、エルマ様だ。
彼女は祖国へ帰ることもできず、城の賓客として滞在を許されていた。かつて姫様の話し相手にフォルン様が抜擢されたように、今は彼女が、どこか不安定になってしまった姫様の傍に寄り添ってくれている。
そんな彼女が、僕の密かな呼び出しに応じてくれた。
花の盛りを終え、色褪せかけた庭園。
その静寂の中に彼女はひとり、白い月あかりを受けて佇んでいた。
物憂げに萎びた白薔薇へ視線を落とす横顔は、触れれば崩れてしまいそうなほど儚い。
胸の内で何度も反芻した言葉を整え、僕はそっと彼女の前で膝を折った。
「突然のお呼び立て、誠に申し訳ございません。僕は、ジェイミー・フォリンと申します。この国で……書記官をしております」
フォルン夫人が、ゆるやかに振り返った。
「……そう。稀有な巡り合わせに感謝いたします。私はエルマ・フォルンと申します」
優雅に礼を取る彼女に、胸の奥でずっと燻っていた罪を告白しようとしたのに——喉がひりついて、言葉がうまく出てこない。
この期に及んでまごつく僕を見て、フォルン夫人はふっと小さく息を漏らした。
「……ルーシア様に愛を囁いたのは、あなたなのですね」
一介の書記官が会いに来た。
ただそれだけで、すべてを察したのだろう。
僕は深く、深く頭を垂れた。
「誠に申し訳ございませんでした。どんな誹りも受ける覚悟はできています。でも……姫様は本当に何も知らなかったのです」
「頭を上げてくださいな。……あなたも、さぞお辛かったでしょう」
思いもよらぬ優しい声音に顔を上げると、フォルン夫人は穏やかな笑みを浮かべていた。
罵倒されて当然だと思っていたのに、その微笑があまりに柔らかくて、息が詰まる。
「安心して。我が家に届いた不審な手紙は、すべて暖炉の火種にしましたから。……夫が誰を愛していたのかは、妻の私が一番よく知っています。だから……ルーシア様と貴方の物語を、責めるつもりはありません」
その優しい言葉が、胸の奥を締めつけた。
「……フォルン夫人。貴女にこんなことを頼む筋合いでないことは承知しています。それでも……どうか、これをお預かりいただけませんか」
震える手で差し出した白い封筒は、月光の端を掬って淡く光った。
フォルン夫人はそれをそっと受け取り、封面を見つめる。
「……ルーシア様に宛てたものではないのですね?」
「はい。姫様のお手元に届けるものではありません。これは……僕が犯した罪の、すべての記録です」
嘘ばかりを記してきた僕が、最後に残すべき嘘。
その覚悟を察してくれたのか、フォルン夫人が小さく、確かに頷いてくれた。
「……分かりました。預かりましょう。もし私が生き延びられたなら——必ず、しかるべき方へ届けます」
彼女は封筒を胸元に抱きしめた。
風が吹き、白薔薇の花びらがひとつ、ゆっくりと舞う。
その行方を目で追いながら、夫人はぽつりと言葉を落とした。
「ルーシア様は幸せね。……ジェイミーに二度も救われるのだから」
その皮肉とも優しさともつかない声に、胸の前で拳を握りしめ、僕は深く頭を垂れた。
今の僕に示せる誠意なんて、それくらいしかなかったから。
*
姫様は、密かに国外へ出るよう陛下から何度となく促されながらも、決して従うことなく最後まで城に留まっていた。なんでも、国に戻れなくなったフォルン夫人と今なお茶会を重ねているという。
フォルン様の戦死はすでに公然の事実ながら、二人の間でそれが語られることはない。迎賓館を模した白薔薇の枯れた庭園で、まるで昔日の続きであるかのように並んで腰かけ、微笑み合っているのだそうだ。
もう隠し立てする必要もなくなったからか。塩漬けにされたスペンサー卿の遺骸と対面し、一夜にして髪の色がすべて抜け落ちたスペンサー夫人も、いつものように姫様の傍らに控えている。
何も変わらぬ日常のように見えて、すべてが静かに終わりへ向かっていた。
今日もまた、人がまばらになった街には虚飾に満ちた国報が風に揺れ、逃げ場を失った民たちは王家の失策を罵るために城門前に詰めかけている。
王城が諦観に包まれる中——。
遠く——どこか城壁の方角から、鐘が鳴った。
短く、鋭く、何度も。
警鐘を告げるように。
グノーさんは顔を上げ、ちらりと僕に目配せすると、無言で書庫を後にした。
きっと図書館へ向かったのだろう。そこが彼の持ち場だから。
姫様たちは、無事に隠し通路から逃げられるだろうか。
……いや。
甘い希望は、自分で打ち砕く。
地図上の帝国軍の駒は、蟻の通り道すら残さぬよう、完全にクーヘンを包囲していたのだから。
——どうか。
どうか、姫様にも、フォルン夫人にも。
ほんの少しでもいいから、幸せな未来が待っていますように——。
喧騒。怒号。蹄鉄のうなり。
迫り来る破滅の音が、遠雷のように耳を震わせる。
その音に背中を押されるように、油の匂いの漂う書庫の扉に、僕は内側からそっと鍵をかけた。
……………………
…………
……
落城後に拘束した「王女付き侍女」を名乗るエルマ・フォルンより、一通の書面が提出された。
王女ルーシアについては、同盟国バルシアの妻帯した聖騎士に懸想していたとの風聞がある。しかし、王城および関係者の居室を捜索した結果、これを裏付ける往復書簡その他の資料は発見されなかった。
提出された書面についても、現時点では記載内容の真偽を確認できない。王女の処遇を決定する直接の証拠とはせず、後日の照合に備えて保全するものとする。
王女ルーシアおよび同侍女については、身柄を保全したうえで帝都へ送致する。
---
この書面をもって、私のすべての過ちを記し、関係する方々の名誉を守るため、ここに提出いたします。
一、私は個人の判断により聖騎士ジェイミー・フォルン卿の名を用い、ルーシア殿下宛に手紙を偽作いたしました。
一、これらの手紙の内容はいずれも事実に基づかず、私自身の愚かな憧れと妄想から生じた虚構の産物であります。
一、殿下はそれらの文面をお怪しみになり、一度として返書をくださることはございませんでした。
それでも私は筆を止めることができず、身の程知らずにも思いを重ねるようにして、幾度も同じ過ちを繰り返しました。
すべては浅慮ゆえの行為であり、殿下を惑わせる意図は微塵もございません。
しかし結果として、殿下のお立場を貶め、国に不名誉をもたらしたことを深く悔いております。
この告白をもって、私の罪のすべてを明らかにいたします。
どうか、これ以上この愚行によって誰一人として傷つくことのありませんように。
——以上が、愛に狂った僕の最期の言葉です。
僕の姫様に愛を捧ぐ。
Jamie Forin




