学院の静寂(サイレンス・オーバーロード)
「……嘘、でしょ……?」
アイリスの震える声が、静まり返ったアリーナに響いた。
彼女が展開していた、物理干渉を一切寄せ付けないはずの「極位結界」が、5歳の子供が歩くたびにパリン、パリンと、まるで薄氷のように砕け散っている。
「格が違うんだよ、アイリス。お前が必死に維持してるその『システム』。俺にとっては、地下の魔力溜まりで浴びてた毒霧よりぬるいんだわ」
ナナシはアイリスの目の前まで歩み寄ると、その華奢な首筋に、魔力で研ぎ澄まされた「人差し指」をそっと突き立てた。
「ひっ……!」
アイリスの背筋に、生まれて初めての「死」の予感が走る。
執行官として、数多の『特異点』を処理してきた彼女が、逆に処理される側の恐怖に飲み込まれていた。
「あ、ありえない……! たかが数時間のリトライで、Lv30に到達するなど……そんな計算、組織のデータベースには……!」
「計算? あぁ、そうだな。普通、一晩で数百回も死ぬ狂人は計算に入れないよな。……でも、俺はそれをやったんだ。お前らの『予定調和』をブチ壊すために」
ナナシの指先に、青白い閃光が収束する。
【極点魔弾】。Lv30の全魔力を一点に凝縮した、回避不能の至近弾。
「待て、ナナシ! 殺すな!」
後方からエルーシアの叫びが飛ぶ。
だが、ナナシは引き金(魔力)を緩めない。冷徹な瞳が、アイリスの絶望を映し出していた。
「……死んで逃げようとか思うなよ? お前が消えても、俺がリセットして、またこの瞬間に引きずり戻してやるからな」
その瞬間。
アイリスの瞳がカッと見開かれ、彼女の背後に禍々しい「門」が開いた。
『――そこまでだ、アイリス。君ではそのバグを処理しきれない』
虚空から響く、重厚なノイズ混じりの声。
門の中から伸びてきた漆黒の鎖が、アイリスの体を強引に引き摺り込んでいく。組織による「強制回収」だ。
「逃がすかよ……!」
ナナシが放った魔弾は、アイリスの肩を掠め、背後の学院校舎の壁を三枚貫通して消失した。
「……ちっ。またトカゲの尻尾切りか」
空間を包んでいた重圧が消え、アリーナに元の風景が戻る。
そこには、半壊した校舎と、腰を抜かして座り込むエリート生徒たちの姿だけが残されていた。
「………………」
誰も、言葉を発することができない。
自分たちが「コネ編入のガキ」と蔑んでいた幼児が、学院最強の生徒会長を圧倒し、正体不明の怪異と渡り合ったのだ。
「……おい、エルーシア。アイリスのやつ、最後に『フェーズ3』って呟かなかったか?」
ナナシは平然と振り返り、まだ剣を握ったまま固まっているエルーシアに問いかけた。
「な、ナナシ……お前、一体……」
「いいから。それより、お腹空いた。王都のアイス、美味しいって聞いたんだけど」
五歳の幼児らしい無邪気な笑顔。
だが、その足元には、砕け散ったアイリスの徽章が転がっていた。
王立魔導学院での生活は、最悪の、そして最高の形で幕を開けたのだ。




