五歳児の朝食と、世界の「バグ」
「……あ、朝ごはん、か。……あぁ、そうだな。……残っているはず、だ」
エルーシアの声は、今にも消えてしまいそうなほど震えていた。
つい先刻まで、目の前で「死の拷問」を笑顔で口にしていたバケモノ。それが今は、いつものように腹を空かせた子供の顔で自分を見上げている。
このギャップが、逆に恐ろしかった。
「……ナナシ。お前、本当に……」
「エルーシア、今はいい。彼を休ませてやってくれ。……いや、我々が休むべきなのかもしれんな」
伯爵が重い腰を上げ、よろめきながらナナシの肩に手を置いた。
その手はまだ小刻みに震えている。自分が守るべき「特異な才能を持つ養子」が、実は自分たちを遥かに超越した「ナニカ」であったという事実。
執務室の床に転がっている、砕け散った白仮面の破片だけが、先ほどの光景が現実であったことを証明していた。
食堂。
いつも通りの豪華な朝食が並んでいるが、空気は通夜のように重い。
ナナシは黙々とスープを口に運び、驚異的なスピードで栄養を摂取していた。
(……Lv30か。体の成長が追いついてねぇな。筋肉の繊維がミシミシ鳴ってやがる。魔力回路を無理やり拡張した反動が、今さら来てるな……)
ナナシは内心、冷や汗を流していた。
あのままクロムとの戦闘が長引いていれば、自分の幼い体が崩壊してリセット(死)を余儀なくされていたかもしれない。
「……それで、ナナシ。お前が言っていた『未来』や『リセット』というのは……どういう意味なんだ?」
沈黙を破ったのはエルーシアだった。
彼女は騎士として、そしてナナシを導く者として、この違和感を無視できなかった。
「……そのままの意味だよ。俺は死ぬと、特定の場所まで戻る。昨日の夜、手紙を開封した瞬間、この館が全滅する『確定した未来』が見えた。だから、地下で自分を鍛え直して、その未来をブチ壊してきた」
ナナシはパンを齧りながら、淡々と語る。
「数百回死んだ」という事実は伏せた。それを言えば、エルーシアがどんな顔をするか想像がついたからだ。
「……信じられんが、今の君を見れば疑う余地もないな」
伯爵が深いため息をつき、一通の紙片をテーブルに置いた。
それは、クロムが霧散した後に残されていた、あの**『黒い手紙』**の最後の残りカスだ。
「これを見ろ。クロムが消えた後、これだけが燃え残っていた。……裏面に、座標らしき数字と、一つの名前が刻まれている」
ナナシがその紙片を手に取る。
そこには、血のような赤い文字でこう記されていた。
『王都・魔導学院。特異点修正プログラム、フェーズ2へ移行。――担当:執行官・アイリス』
「アイリス……?」
ナナシの脳裏に、一周目の記憶にはない未知の強者のイメージが浮かぶ。
どうやらクロムは、単なる「先遣隊」に過ぎなかったらしい。
「……のんびり無双ライフは、まだ遠そうだな」
ナナシは最後のスープを飲み干すと、不敵に笑った。
「エルーシア。悪いけど、もっともっと強くして。……次は『死ぬ練習』じゃなくて、『殺す練習』が必要になりそうだから」
その瞳には、五歳児の純真さなど欠片もなかった。
世界のバグとして、歴史を上書きし続ける。その覚悟が決まった瞬間だった。




