その感情に名はつけられない
「俺の好きな人を、これ以上侮辱するな」
一瞬の静寂。
体の全身で脈を感じる。
父親に対して逆上したのは、初めてのことだった。
しかしマリエが侮辱されるのを、ただ見ていることなんてできなかった。そのことによって、ずっと言えなかった一言を思わぬ形で伝えてしまうことになってしまったとしても。
「行くぞ」
マリエの腕を掴み、動けないでいる公爵の横を足早に通る。
アベルが自分に逆らったことがよほど衝撃的だったらしい。二人を妨害するために動くこともできないといった様子だった。
その隙をついて、素早く扉を開け、マリエを廊下に引っ張り出す。
「待て!」
ようやく我に返ったのか、部屋の中から父親の声が聞こえた。
しかしアベルは扉を思いっきり閉め、そしてマリエに言う。
「悪い、走る」
あの森に行こうと思った。
マリエに見てほしい。
そして、あの森ならば、父親も追って来ないだろう。
オブスキィト公爵は、ルミエハの領地と近いあの地を、忌み嫌っているのだから。
「初めまして。シェリア・リエーソンと申します」
黒く長い艶やかな髪を右サイドに全て流した少女は、余裕のある笑みを浮かべて挨拶をした。
息子を追うために部屋を出た金髪碧眼の男性は、思わぬ邪魔に眉をひそめる。しかし隣にいるのがヴェントス家の子息だとわかったためか、邪険にはしなかった。
「初めまして、シェリア嬢。レン君との婚約が決まったそうだな。こちらからも祝辞を述べたいところだが、あいにく私は息子のことで忙しい。またの機会を設けるので、悪いがそこをどいてくれないか?」
廊下の真ん中に立つシェリアに、言葉だけは丁寧に、しかし険しい表情で公爵は言った。
実際は広い廊下のため、その横をすり抜けることは容易なのだが、シェリアのまとう雰囲気がそれを許さなかった。
「初めてご子息に反抗されて、少し冷静さを失っておられるのではないですか?」
「な……」
「残念ながら、ご子息よりもこちらの方が優先順位が高いですよ。普段のあなたなら気づいたでしょうに」
「何を言って……? それは!」
そんなことはあるはずないとばかりの表情を見せた公爵も、シェリアの手にあるものを見て、あきらめたように首を振った。
「王家の紋入りの封書……私宛か?」
「はい。アレクシオス殿下からお預かりいたしました」
シェリアよりも先にレンが口を挟む。
どうやら彼は、そう言った方が、公爵がこの場で手紙を読んでくれる可能性が高いと踏んだようだ。
実際はヴェラから送られてきたものだが、紋はアレクシオスのものなので、そういってしまってもあながち間違いではないだろう。
「読めと言うことか?」
封書を差し出したシェリアに、公爵は問う。
シェリアが首肯すると、公爵はそれを受け取って読み始めた。
「……これは、どういうことだ。何故、王家が?」
「ご子息は貸しを作ったのですよ。おかげで、ずいぶんと私たちをやきもきさせてくれましたが」
誰もが見惚れるほど美しい笑みを浮かべて、シェリアは悠然と言った。
アベルが走り目指したのは森だったようだ。
マリエが馬車で来たのとは反対側へと向かったアベルは、そのまま走って門をくぐりぬけた。
屋敷から門までの距離が、予想外に近くてマリエは少しだけ安心した。
シネラリアにいるだけあって、人よりは体力に自信がある。しかしいつまで走り続けられるかかなり疑問だったのだ。
さすがに馬車で行くような距離を走りとおすのは、辛い。
門を抜けると、すぐに森が広がっていて、アベルはその中を迷わず走って行った。
「……もう、大丈夫だろ」
森の途中で、アベルが速さを緩めた。歩き続けているものの、走るほど体力は消費しない。
乱れた息を整えながら、ようやくマリエは言葉を発することができた。
「どこまで行くの?」
「……見てほしい場所がある」
走るのをやめてもなお、離されることのない手を、少しだけ強く握り締める。
「ついて行くわ」
ただ無言で二人は歩いていく。
暑い夏の日差しも、青々とした葉をつけた木々によって遮られており、森の中はほどよく涼しい。
風が吹くたびに葉が揺れて、零れ落ちた光が踊る。
「……川が」
しばらく歩いて、たどり着いた場所は、川の流れる場所。
穏やかな川のせせらぎが、耳に残る。
水面は光を受けてきらめき、飛び石にあたる水が跳ね返っては、また模様を描きながら川の流れに還ってゆく。
「小さいときは、あの飛び石を渡れなかったんだ」
「あれを?」
わずか三つ四つばかりの飛び石は、そんなに距離のあるものでもない。
幼い少年が飛ぶのを恐れたというのもわからなくなはないが、アベルはそういう性格には見えない。
むしろ進んで無茶をして、川にはまってずぶぬれになっていそうなタイプだ。
「こんなに簡単に渡れるのにな」
手を離したアベルは、あっさりと飛び石を使って川の向こう側にわたる。
マリエもそれにならって川を渡った。
あっさりと渡りきったマリエに、アベルは何故か複雑そうな笑みを浮かべて、こちらを見た。
「この森は……、シュトレリッツ王国で唯一、オブスキィトとルミエハが共有している財産だ」
「え……?」
「この森は両家の緩衝地帯を意味してる。で、その川が、森を半分に分けるように流れてる」
両家の緩衝地帯の中央を流れる川。
それはつまり、実質的な境界線。
「アベルが飛び越えられなかったのは……」
「ようこそ。ルミエハ領へ」
マリエの疑問に答えるように、アベルが冗談めいて笑って会釈して見せた。
「簡単だろ? こんなにも」
物理的には、一瞬で渡れる川。
しかしオブスキィト家の人間が、ルミエハ家側に足を踏み入れるという行為には、どれだけの勇気が必要だったのだろう。
「気づいたんだよ。たぶん……俺は目を反らしてただけなんだって」
マリエの目を見るアベルの顔が、真剣みを帯びる。
「俺は……マリエのことが好きだ」
もう一度言われたその言葉に、マリエは上手く言葉を返せなかった。
熱い涙が頬を伝う。
それは無意識だった。
口からでる声は言葉にならなくて、それでも不安げなアベルに想いを伝えたくて、マリエはただアベルに抱きついた。
アベルはそんなマリエの背中を、優しくなでる。
「オブスキィト家のことは考えないでほしい。それを背負うべきなのは、俺だから」
ぽつりぽつりと、アベルは言う。
「マリエは……ただのアベルに告白されたと思って、そうして、考えてほしい」
一つ一つの言葉が、アベルの本気だと分かる。
心に沁み渡るその想いに、マリエは何を言えばいいのか分からずに、しばらくアベルにしがみついていた。
嬉しいとも幸せとも、そんな言葉だけでは表せない感情を持て余している。
それでも言うべき言葉はやはり一つだろう。
「好きよ……ずっと好きだったわ」
背中をなでていた手が止まる。
マリエはアベルから少しだけ身体を離して、赤みがかった茶色の瞳を見つめた。
「アベルがオブスキィト家でもなんでも、私には関係ないわ」
この瞬間だけは、他のことは考えたくなかった。
ただ伝えられないと思っていたこの想いを伝えられただけで、十分だった。
オブスキィト編終了!
残り二話です^^




