月と太陽の約束
記憶にある姉は、いつも前を走っていた。
どれだけ必死に走っても、姉に追いつくことはできなかった。
「……ありがとう」
だから、不思議な気持ちで、目の前の少女を眺めていた。
長い黒髪に、自分と同じ、黒かと見間違うほど深い緑色の瞳。
いつも遥か先を走る姉は、今は自分の目の前にいた。
美しい顔に、言葉通り泥をつけて、不安そうな表情を浮かべる姉は、何故かいつもよりずっと近くにいる気がした。
「理由……言えなくてごめんなさい。でも、シェンに弱い自分を見せたくなかっただけなのよ」
そういって本当の理由を語り始めたシェリアは、いつになく自分の近くにいる気がした。
姉はいつでも誰よりも負けず嫌いだった。
そして、いつだって、自分以上に他人を大切にできる人間だった。
顔についた泥をぬぐいながら、シェンが全く知らなかった事件について話してくれた。
さきほどまでは姉に怒りと嫉妬をないまぜにした、黒い感情を抱いていたはずだったのに、今は不思議なほど、穏やかな気持ちだった。
なんでも完璧な姉が、沼地で転んで泥だらけという滑稽な格好だからなのか、それとも、シェンに彼女の”弱さ”を見せてくれたからなのか。
「それで……守りたいものを守れる強さを得たわけ?」
話し合う気はなかったのに、自然と言葉が出ていた。
その問いに意味はない。シェンはその答えを知っていた。男のシェンよりも剣術に長けたシェリアは、きっとその強さを得たのだろう。
しかし、意外なことに、シェリアはふるふると首を横に振った。
それと同時に、泥のついた髪の毛の先から、水分がぴしぴしと飛ぶ。
「剣は上手くなったわ。私はたぶん、悪党から誰かを守ることはできるでしょう」
疑問が顔に出たのか、シェンが言葉にする前にシェリアが話を進める。
「でもね、守るって、身体的な怪我から守ることだけじゃないのよ」
夏とはいえ、泥をかぶったシェリアは、少し寒いのか、手をクロスさせて自分の腕をさすりながら言う。
「マリエとアベルの傍にいて、感じたのよ。まだまだ私は、本当の意味でマリエを守ることはできないんだって。それに、守ることが正しいことか分からないのよ」
「正しいことか分からない?」
「正確には、私が守ることが、かしら」
シェリアが付け加えた一言に、ああ、と納得してうなずいた。
どことなくシェリアの言いたいことが分かったからだ。
「それで、ヴェントス家の人にはシェリアを守ることを許したの?」
ぴたりと、腕をさすっていた手を止め、にわかに目を見開いてから、ゆっくりと息を吐く。
自分と同じ深い緑色の瞳が、一度まぶたの奥に隠されて、そうして、再び現れ出たとき、シェンはすでに答えを得ていた。
「守られることを甘受できるようになった……というよりは、あの人だから許せるってこと? いや……許せる人だから――」
「――好きなのよ」
珍しい、とシェンは思った。
花咲くように、年相応の恥じらいを見せながら微笑むシェリアは、とても美しかった。それは姉だということを忘れて、思わず見入ってしまいそうなぐらいに。
姉の計算のない純粋な微笑みは、最近では見ていなかったように思う。
「ねえ、シェン」
声色が変わり、わずかに真剣みを帯びた音が、シェンにその先の言葉を想像させた。
しかし、その真剣さとは裏腹に、ぬぐい切れていない泥がシェリアの顔には残っている。それはまるで幼い子供が、泥遊びをした後に怒られるのを覚悟で謝るときのようで、見た目と中身のアンバランスさに、思わずシェンは耐えきれなくなって噴き出した。
「え」
急に声を上げて笑い出したシェンに、シェリアは目を丸くして、きょとんとした様子でこちらを見ている。
それがまた、姉に似つかわしくない幼さを醸し出していて、シェンはさらにツボに入って笑いつづけてしまった。
先ほどまでは、姉に対して強い反発心を抱いていたのに、今は少しだけ姉に近づけたような気分になって、歓びすら感じていた。
「姉さん」
久しく口にしていなかったその単語を口にすれば、シェリアに疑問符が浮かぶのが見て取れた。
「ヴェントス夫人になる覚悟は? リエーソン伯爵よりも、重いと思うけど?」
風が吹き抜けていく。
湿った沼地の草花を揺らし、シェリアの長い黒髪を巻き上げて、その場を去って行った。
そのわずかな間に、シェリアは言葉を決めていたようだった。
「覚悟はある。なれるかどうかは……私たちの努力次第、なんでしょうね」
私、ではなく、私たち、という言葉を使ったシェリアの意図は、うかがい知れない。しかしそれが大切なことなのだ、ということはシェンにも感じられた。
「やりたいこともあるの。それにはね、ヴェントス家の夫人であったほうが、都合が良いのよ」
「やりたいこと?」
反射的に尋ねれば、シェリアは悪戯っぽく笑って、その内容について話してくれた。
そうして納得したのだ。
やはり姉は姉だと。
「伯爵位を継ぐよ。でもその代わり――」
「――私は私のしたいことを成し遂げるわ」
迷いなく言い切った姉に、シェンは笑って、約束だから、と言った。
「――違うな。だからこそ、君たちの前では話さなかったんだろう」
声が聞こえると同時に、アベルが瞬時にマリエをかばうようにして前に出た。
レン自身もとっさに身構えていた。気配に聡いはずの二人が、まったく気配を感じなかったのだから、用心して当たり前なのだ。
いつのまにか開いていた扉から、するりと入ってきたのは、どこか見覚えのある男性だった。
さらりとした癖のない黒髪と深い緑色の瞳。シェリアを彷彿させる色合いだが、その顔立ちはどちらかと言えば、シェンのものに近かった。
女受けしそうな顔ではあるものの、シェリアのような芸術品の如く研ぎ澄まされた美しさはない。
「シェリアの、お父様ですか?」
場に張りつめた緊張を緩めたのは、マリエの問いかけだった。
「ああ。私はシュバル・リエーソン。シェリアが世話になっているようだね。マリエ・モンブラン嬢」
柔らかな笑みを見せたシュバルは、マリエに優しい口調で話しかけた。
その様子に安堵したらしいマリエは、にっこりと笑って返答した。
「名前を覚えてくださっていて嬉しいです。シェリアからお聞きになったんですか?」
「あの子がよく口にする名は覚えているよ。オブスキィト家やヴェントス家のご子息ともつながりがあると聞いたときは驚いたが」
アベルとレンの名が出たところから、急に声色のトーンが下がる。
「初めまして、シュバル・リエーソン伯爵。アベル・オブスキィトと申します。シェリア嬢の友人として、お招きあずかりました」
場の空気を読んでなのか、それとも自分に火の粉が飛ばぬようになのか、アベルはオブスキィト公爵家の息子として、格式ばった挨拶をする。
どうやらシュバルはアベルの友人という言葉に満足したらしい。あるいは、アベルのとっさの行動から、ある程度の事情は察したのかもしれない。
アベルとマリエは数度見比べて、そうしてアベルにも礼をする。
「堅苦しい挨拶はいい。娘に対してそんなによそよそしい態度ではないだろう? こちらもオブスキィト公爵家のご子息、ではなく、娘の友人として扱わせてもらう」
朗らかながら、友人という単語に力を込めて言うシュバルは、やはりシェリアのそれと同じ類の笑みを浮かべていた。
一瞬、アベルと視線が交差する。
お前はどうするのか、と言いたげな視線に、レンは首を横に振って見せた。
自分の立場を明確にするのは、シェリアのいる場でしたい。シェリア不在のまま話を進める気にはなれなかった。
「そうですか。ところで、シェリアのことですが……」
レンの心情を正しく理解したアベルが、注意をレンからそらそうとして話を振るが、シュバルは手を上げてアベルを制す。
「君は? シェリアの何、なんだ?」
どくり、と心臓が音を立てて跳ねる。
背中を滴り落ちる汗は、夏の暑さによるものではないだろう。
無意識のうちに、レンは自分のズボンのポケットのあたりに手を伸ばしていた。
わずかに鳴る金属音が、レンの心を揺らした。
「俺は……」
反射的に漏れた言葉は、ヴェントス家の長男としてではなく、ただのレンとしてだった。
「シェリアのいる場ではっきりさせようと思っていました。ミドルネームを名乗り合った仲ですが、彼女と俺の気持ちは、リエーソン伯爵の前ではっきりさせなければならないでしょう?」
挑発的にすらとれるレンの言葉に、空気が一気に重くなる。
窓は開いているというのに、まるで小さな部屋に閉じ込められたかのような閉塞感と、重さのある空気。
深い緑色の瞳が、レンを捉えた。
見れば見るほど、シェリアと同じその色に、レンは思わずたじろいだ。
しかし、その目から視線を外すことはない。
負けるわけにはいかないのだ。
「先ほどの話だが――」
ため息をつきながら、自然と話題を変える。
シュバルとのにらめっこには、どうやら勝利したようだった。
「――シェリアは君たちが、いや、君がいたから、話さなかったんだろう」
「それは、どういう……?」
マリエの問いかけに、シュバルはマリエとアベルを見てから、再びレンに視線を戻した。おそらく、君、と断定されたのはレンのことだろう。
「シェリアを助けたのが、君だと知らなかったからこそ、君には話せなかった。あの子は守られることを嫌う子だ。しかし逆に、あの子が誰かに身を任せて、自分を守らせることを許すのは、最大の信頼の証だろう」
「あ……」
言葉の意味を理解はできても、どうしてレンには言えなかったのか、それは分からない。
しかしマリエには伝わったらしく、納得したような、小さな声を上げた。
「マリエ?」
アベルも同様に理解できなかったようで、マリエに答えを求めるように呼びかけている。
「シェリアらしいって言えば、らしいかも」
どうやらマリエは答えをくれる気はないらしい。
「シェリアとシェン君が帰ってくるまで、待ちましょう」
くすくすと笑いながら、マリエはそう言って話を終わらせてしまった。




