無意識に呼ぶ
目の前にいる長い黒髪の少女と鮮やかな金髪の少年。
その二人とも真剣な表情そのもので、とても横から口を挟めるような状況ではない。
赤みがかった茶色の髪の少年は、姉弟の会話を聞きながら、一つの疑問を抱えていた。
「分岐点? ……まさか!」
姉ことシェリアはすぐに弟の意図に気づいたような反応をするものの、アベルにはさっぱり理解できなかった。
ちらりと隣に目をやると、マリエも理解に苦しむと言った表情でこちらに視線を送ってくる。
「シェリアをヴェントス家に渡したくないなら……家を継がせればいい、とか」
思わぬ方から声が聞こえて、そちらを見やれば、黒髪に深い藍色の瞳の少年が、まっすぐにシェンの方を向いていた。
シェンはと言えば、レンの言葉に、一瞬驚いたような表情を見せた後、すぐさまそれを肯定するかのようにうなずいた。
「ああ、だから、協力が必要なのか」
そのやりとりを見て、アベルはシェンの言葉の意味をようやく理解する。
それがそのまま言葉に出てしまい、マリエがどういうことか視線で説明を促してくる。
「要するに、すべてはシェンが継ぐ意志を示すかどうかにかかってる。そもそも、シェリアが継がない理由があまりないからな。シェリアが一番年長で、ついでに学校も出て、成績も――」
「アベル」
途中までは納得したような表情で聞いていたマリエが、突然何かに気づいたかのように鋭く名を呼ぶ。
その声で、ようやくアベルは自分が何を言おうとしていたかを自覚した。
「成績もシェリアの方が良いさ。オブスキィトの人がいうように、僕がリエーソン家を継がなきゃいけない理由が存在しない。あるとすれば、それはシェリアが自由に生きれるかどうかってとこだろ」
しかしマリエが警告を発した時にはすでに遅く、シェンはアベルの言葉を正確に理解して、そのまま話を進めてしまった。
「爵位を継ぐってことは、人生を縛られるってことだ。それ相応の理由が無ければ、優秀な姉を押しのけてまで爵位を継ぐなんてできないね」
沈黙がその場を制した。
シェリアは何も反論できないようだった。
おそらくは、シェンの言うことが正しいとシェリア自身も思っているのだろう。他人のアベルですら、どうしてシェリアが軍の養成学校に来たのか理解できない。
客観的に見ても、シェンの判断は理性的で正しいように思えてしまうのだ。
「……時間の無駄だ。僕は理由がなければ納得しない」
吐き捨てるように言って、荒々しく扉を開けて、少年は部屋を飛び出した。
「シェン!」
黒髪の少女が慌ててその名を呼ぶが、彼が立ち止まることはない。
勢いよく開かれた扉が、その重みに従って、もういちど音をたてて閉まる。
一瞬、ひるんでいたシェリアは、我に返ったように扉にかけより、それについてレンも動いた。
しかし彼女は振り返って、レンに向かって首を横に振る。
「ごめん。二人で話したいから。放っておいて」
「シェリア!」
咎めるような声をきにもとめず、シェリアはマリエの方を向いた。
「マリエ……。二人に、話しておいて。あなたに伝えた、本当の理由」
そう言い置いて、シェリアもまた、扉の向こう側へと消える。
どうやらマリエはシェリアがシネラリアにきた理由を知っているらしい。
しかしながら、それならば何故、あの場でシェリアはすぐに本当の理由を言わなかったのだろうか。
「マリエは理由を?」
「ええ。最近、聞いたわ」
レンの問いかけに頷いて、そうしてマリエは、語りだした。
「八歳の時に、友達の伯爵令嬢と、護衛を一人ずつつれて森に行ったら、賊三人に襲われて、護衛と賊は一対一で相打ちになって、一人残った賊に襲われそうになって、護身用の短剣で対抗しようとしたけど失敗したらしいわ。そこを、同い年くらいの男の子に助けてもらったんだって。でも、自分が何もできなかった悔しさから、男の子に礼も言えなかったらしいわ。だから、その時は友達も自分も、他人に助けてもらったけれど、今度は自分がちゃんと守れるようにって、シネラリアに来て強くなりたいと思ったみたいよ」
その内容は、アベルにとっては驚きに値するものだった。
レンも同じだったのだろう。何かをぶつぶつと唱えて、そうして落ち着かない様子だった。
「だから、あいつはあんなに剣に必死になるんだな」
シェリアの剣技に対する姿勢は、アベルにとって疑問だったのだ。
あそこまでの執着心を剣に持つことは、ただの伯爵家令嬢とは考えられないものだったからだ。
しかし、マリエの話を聞いて、少しシェリアへの理解につながった気がする。
「八歳の時……場所について、何か、シェリアは言ってた?」
レンが、何かを確かめるように、マリエに問う。
マリエはしかし、首を横に振って、知らないという意を示した。
その反応を受けて、レンもまた、残念そうに、ため息をつく。
「……あ。でもね、避暑地だって話はしてた」
「避暑地……! 他に、その男の子を特定できるものは?」
「ナイフの破片ぐらいかな……」
「っ! まさか本当に……!」
ナイフの破片、とマリエが口にした途端、レンがはじかれたようにマリエに近づいた。
反射的にマリエを庇いそうになるぐらい、俊敏な動きに、アベルは驚きを隠せなかった。
「八歳の時に避暑地で、二人の少女を助けた男の子……それが欠けたナイフを持ってたら?」
レンの行動は素早かった。
アベルの理解が追いつき、ある予測が立つよりも先に、レンは懐から鞘付の短剣を取り出して見せる。
「え」
マリエが小さく声を上げ、目を大きく見開いた。
ためらいなく抜かれたその剣の先は、欠けている。
「なんで……気づかなかったんだ?」
無意識のうちに声が漏れていた。
シェリアは襲われたショックで覚えていないと言った。
しかしながら、レンは、どうしてシェリアのことを覚えていなかったのか。シェリアの黒髪は珍しい。シュトレリッツ王国では、ほとんど見かけることのない色だ。
しかもレン自身は、その事件と少女のことは覚えていたのだ。いつどこでも、その時の短剣を持ち歩いているくらいには。
アベルが問うように視線を向ければ、レンは息を吐き出してから、小さくうなずく。
「シェリアに興味を持ったのは、彼女に、その女の子の面影を見たからだよ」
「じゃあ、なんで……」
マリエが咎めるような声を出した。
「あまりにも違ってた。シネラリアで出会ったシェリアは、もう、今のシェリアだったよ」
その声の切なさに、マリエはふと表情を緩めて、視線を反らす。
「俺だってあの時必死だった。最後に投げた短剣も外してるしね。正直、女の子の顔とかを見ている暇はなかった。ただ、ヴェントス家にゆかりのある地で、そんな事件が起きたことに衝撃を受けてたんだ」
レンは、さきほどまでシェンが立っていた位置に立ち、カーテンを握り締めていた。その視線は窓の向こう側へと注がれている。
彼の中にあるのは、気づかなかったことへの後悔と、今すぐにでもシェリアの元に駆け付けたい衝動だろうか。
しかしそれだけで動かないところは、さすがレンである。
「要するに、お前らは一緒だったのか」
「え?」
「二人とも未熟だったからこそ、周りが見えなかった」
友人を守れなかったシェリアと、ぎりぎりでシェリアたちを守ったレン。シェリアは言うまでもなく未熟であったのだろうが、レンもまた、大人と対峙して、冷静でいられるほど熟達していたわけではなかったのだろう。
「それに……たとえ助けたのだとしても、お前が関わってることは公表されなかった。違うか?」
「……ああ。ヴェントス侯爵家の子息が関わるだけで、事件を大きくしてしまうことを、誰も望まなかったからな」
シェリアにとってだけでなく、表向きにもレンは謎の少年として処理された。だからこそ、あのシェリアでも誰が自分を助けたのか突き止めることはできなかったのだろう。
「でもシェリアが理由を言わないのは、どうしてなんだろう。俺だと分かっていないのなら、別に――」
「――違うな。だからこそ、君たちの前では話さなかったんだろう」
突然割って入った声に、アベルは今度こそマリエを庇うようにして彼女の前に立ち、反射的に剣に手をかけていた。
いつのまにか開いていた扉から、するりと入ってくる者がいた。
乱れた息と、焦ったような足音だけが耳にこだまする。
走っている黒髪の少女には、ある程度、自分の弟がいる場所に心当たりがあった。
しかしながら、漠然と分かってはいても、ある程度走りまわらなければ、本人と話すことは叶わない。
時折、自分の顔の前を横切る黒く長い髪を、うっとおしげに払いのけて、ただ走っていた。
リエーソン領を横切るようにして作られている、トレリの王都から伸びる大きな道。その道は整備され、いつでも美しさを保っており、人が多く行きかっている。
しかし少し道を外れると、土を固めて舗装はしてあるものの、細々とした道がいたるところに存在しており、シェリアはそのうちの一つを走っていた。
森、というには小さいが、木がそれなりに無造作に生えている場所で、少し走って行けば、沼がある。
その周りは、昼でもあまり明るくならない場所であることから、住民には犬猿されがちなのだが、シェンがその場所を意外と気に入っていることをシェリアは知っていた。
「どこなのよ」
一般的な子女よりも体力のあるシェリアだが、この場所自体が、それなりにリエーソンの屋敷から離れているため、走ったことによる疲労を感じ始めていた。
沼の周りを探してみたものの、シェンは見当たらない。
「もっと向こうかしら」
沼の向こう側にも、林は広がっている。
もしかすればそちらにいるのかもしれない。
そう思って、シェリアは一歩、足を踏み出した。
「あ」
足元にあった木の根に躓いて、シェリアの身体は大きく傾く。
いつもならば、問題なくバランスがとれた。
しかしシェリアの足には、疲労がたまっており、また、ぬかるみの多いこの地では、余計に滑りやすかったのだろう。
そのまま両手を地面につけてしまう。
左手はぬかるみに突っ込んで、転んだ衝動を殺しきれないまま、止まることなく埋もれていく。絡みつくような泥が、シェリアの腕を飲み込んでいく。
右手は、辛うじて硬さのある地面についたものの、淵をすべれば、すぐに底なし沼へといざなわれるだろう。
右手に力を入れて体を起こそうとしても、左手は泥に絡まれて引き揚げることが出来ず、その泥の重さに負けて、さらに沼の中へともぐりこんでいく。
「レン……」
そうつぶやいたのは無意識だった。
どれだけ自分が危機的状況であっても、シェリアは人に助けを求めることが出来なかった。強くなると決めたあの日から、自分は守る立場であって、守られる立場ではなかったのだ。
たとえ家族であっても、守られるシェリアは見せられない。
しかしそんなシェリアの強い思いとは裏腹に、零れ落ちたのは、レンへの信頼。
「バカっ」
驚きと呆れをにじませた声。しかしながらわずかに震えて、焦りと恐怖をも感じさせた。
顔を見なくてもわかった。
シェンは、泥にはまった左腕を掴み、右腕をシェリアの身体に回して、そのまま引き上げる。
右腕だけではどうにもならなかった泥も、人の力が加われば、案外あっさりと腕が解放された。
「……ありがとう」
謝罪を述べるべきか、感謝を述べるべきか悩んだ末に、シェリアは感謝の言葉を口にした。




