上には上が
日が傾き始め、木々は赤く染められていく。地面に影を落とす夕日が、優しく少年少女を包み込んでいた。
赤く染め上げられた木々の中を颯爽と歩く黒髪の少女は、やはりいつものように美しかった。
しかし、どこからどうみても貴族の子女には見えない。
体の左半分は、服も含めて泥の水分を吸って薄黒くなっており、ぬぐいきれなかった泥の膜は、顔にまでついている。
顔立ちが美しいからなのか、着ている服がそれなりのドレスだからなのか、下働きの少女には見えないものの、商人の娘がはしゃぎすぎて汚れてしまったというような、そんなどこか親しみやすい雰囲気を醸し出している。
「その格好で家に戻ったら、父上になんて言われるか」
呆れたように言う少年の金色の髪は、太陽の光でより鮮やかに輝いていた。
「裏口から入って、泥を落とすわ。水やりようの井戸の水なら、ちょうどまわりも土だらけで、ばれにくいでしょうし」
「あの部屋の窓から見えるんじゃないの?」
シェリアはシェンのつっこみに、一度足を止めて、眉をひそめる。
あの三人を残してきた部屋の窓を覗けば、見えるかもしれないぐらいの位置に、井戸は存在している。
しかし窓のすぐ外、というわけでもないので、よほど目を凝らさない限り見えないだろう。
「そこまで窓の外を気にする人がいると思う?」
「ヴェントス家の人は? それに、あの人が気にする余裕もないんだったら、それはそれでシェリアにとって窮地な気もするけどね」
「……お父様?」
「そう」
それは最悪のパターンだ。
シェリアがいない間に、レンと父が衝突することは、一番避けたい部分だった。シェリアがいればフォローもできるが、いなければ話がどういう方向に転がるか分からない。
髪と瞳の色を除けば、外見こそ、シェリアは母に似ているが、中身は父によく似ているのだ。
頭が切れる方だと自負しているシェリアも、父には敵わない。レンはなおさらだろう。
「あとはそれを逆手に取るか、かな」
シェンがシェリアの顔を指す。その指の先にあるのは、乾いてこびりついている泥だ。
「逆手に……? ああ。なるほどね」
シェンの言わんとすることを理解したシェリアは、はたしてどちらの方が被害が少ないか計算していた。
鮮やかな金色の髪が腰まですらりと伸びている。
微笑んでいるけれども、黒と見間違えるほどの深い緑色の瞳は、挑戦的にこちらを見ていた。
「そっくりだな」
赤みがかった茶色の髪の少年、アベルは正直な感想を口にした。
アベルが見ているのは一枚の絵画。
一人の女性がただ座って微笑んでいるだけの絵なのだが、その女性がどこぞの女神の如く美しい。
髪の色は全く違うものの、顔かたちのつくりは、シェリアとかなり似ているものだった。
「シャルロッテは、娘と似ているだろう? 髪の色は息子に似たようだが」
意外なほど機嫌のよさそうな伯爵は、微笑みすら見せていた。
マリエの機転はどうやら功を奏したらしかった。
「そうですね。シャルロッテさんはどんな方だったんですか?」
赤銅色の髪の少女は、少し身を乗り出して質問する。
伯爵の真正面のソファに腰掛けることへの緊張感は、だいぶ薄れたようだった。
レンは伯爵の隣のソファに浅く座り、この場の流れの全てをマリエに任せていた。
「……シェリアがうつってきたんじゃないのか」
助かったと思いながらも、マリエがあの黒髪の少女と似てくるのは、あまり喜べたものではない。
さきほど、一度会話がとぎれた後、緊張がその場を制した。
レンはシェリアとの関係を、シェリアのいない場で語る気はなかったようで、どうしたものかと思案を巡らせていたからだ。しかしシュバルは部屋を出ていく気はなさそうで、何かを話していなかったら場が持たない状態であった。
男二人は、打開策が見つけられず困っていたところ、マリエがシェリアについての話を、伯爵に話し始めた。
すると、普段は知らない学校での娘を知れたことで、気をよくしたのか、そのままマリエと家族の話で盛り上がっていき、ついには自分の妻の肖像画を持ってこさせるに至ったのである。
楽しそうに会話し続ける二人を横目に見ながら、侍女が出してくれた紅茶を口に運ぶ。
この場の主導権をマリエが握っている間は、自分が口を挟まない方がよさそうだ。
そうやって任せられるくらいには、マリエのことを信頼していた。
緩やかに流れる時間を、アベルはのんびりと過ごしていた。
だから、ふいに会話が途切れ、誰かが席を立った気配がしたとき、微睡みかける寸前だった。
「? 何を……?」
立ち上がったのはシュバルだった。
彼は窓まで歩いて行き、外の景色を見やる。
「何をしてるんだ」
呆れたようにつぶやいて、窓のガラスに顔をちかづけ、目をこらす。
レンは何かに気づいたように窓の方を見て、腰を半分浮かしていた。
「シェリアですか?」
レンの様子を見てなのか、シュバルの行動を見てなのか、マリエが問う。
シュバルは一度レンを見てから、音をたててカーテンを引き、そうして肩をすくめた。
「ああ。泥だらけだが」
「泥だらけ?」
完全に立ち上がったレンは、シュバルの言葉をおうむ返ししただけで、いまいち状況を理解できていないように思えた。
それほど、シェリアが泥だらけという事態は想像しがたい現象だ。あのシェリアが何をどう間違えれば、そんな状況に陥ると言うのか。
「落としもせずに帰ってきたのは……こちらの状況を、もう少し悪く見積もっていたからかもしれないな」
一人で勝手に納得したような伯爵は、ふっと優しげな笑みを見せる。もともとの顔立ちは、シェンと同じく優しげに見える人である。その優しげな笑みと顔立ちが相まって、良き父の理想像のような、そんな風に見えた。
「どうやら君の話を聞くのには、もうしばし時間がかかりそうだ」
視界の隅で、赤銅色の髪がわずかに揺れる。
どうやらマリエの作戦も、レンの心情も全てお見通しだったらしい。
きまり悪そうな表情を見せたレンは、勢いを失ったかのように、おとなしくソファに座る。
赤銅色の瞳が、こちらに向き、アベルもそれに視線を重ねると、口だけを動かして、何かを伝えようとしているマリエが目に入る。
読み違えていなければ「ばれてた」というところだろう。
「娘の様子を見てくる」
扉の方へと歩いて行き、レンが言葉を発する前に、ダメ押しするように伯爵は言った。
「それまで君は、何を話すか考えておきなさい」
部屋の外にでる直前の、不敵な笑みを浮かべた伯爵は、どこぞの女神によく似ていた。




