序章 第8話 「桜色の竜」
朝は、静かだった。
最初に戻ってきたのは、痛みではなかった。
小さな手の温かさだった。
誰かが、私の手を握っている。
そう思って薄く目を開けると、クロがいた。
クロは藁の上に座り込むようにして、私の手を両手で握ったまま眠っていた。
体は小さく丸まり、耳は少し伏せられている。
頬には乾いた土の跡が残っていた。
疲れきった顔だった。
けれど、息をしていた。
クロが、生きている。
私は、うまく動かない胸で、ゆっくり息を吐いた。
記憶は、ところどころ欠けていた。
割れた扉。
魔狼の牙。
クロと妻の顔。
王国軍の兵から借りた剣。
叫んだ自分の声。
そして、胸を叩き潰されたような衝撃。
そこから先は、はっきりしない。
私は、間に合ったのか。
守れたのか。
私は視線を動かした。
妻も、すぐそばにいた。
壁にもたれたまま、浅く眠っている。
目元は赤く、手にはまだ濡れた布を握っていた。
妻も、生きている。
それを確かめた瞬間、私の体から、ほんの少しだけ力が抜けた。
私は、二人を起こさないように、少しだけ体を起こそうとした。
「……っ」
その瞬間、脇腹から背中へ、焼けるような痛みが走った。
「ぐ、あ……っ」
思わず声が漏れる。
クロの耳が跳ねた。
次の瞬間、大きな金色の目が開く。
「お父さん!」
その声を聞いた瞬間、私はようやく、朝が来たのだと思った。
**********
クロの声で、母もはっと目を覚ました。
「あなた! 動かないで!」
父は片手で胸の辺りを押さえたまま、顔をしかめる。
「……少し、起きようとしただけだ」
「それを動くって言うのよ」
母の声は強かった。
けれど、その奥には安堵があった。
クロは父の手を握り直した。
「お父さん、痛いの?」
「少しな」
「少しじゃない顔してる」
父は返事に困った。
クロはじっと父の顔を見ている。
土と煤は拭われていたが、頬にはまだ傷が残っていた。
唇の端も切れている。
「死んじゃったかと思った」
クロは小さく言った。
父はしばらく黙っていた。
それから、握られていない方の手を、ゆっくりクロの頭へ伸ばした。
動かすだけで痛むのか、途中で少し顔をしかめる。
それでも、父はクロの頭を撫でた。
「悪かった」
「うん」
クロは頷いた。
泣かなかった。
けれど、父の手を離そうともしなかった。
「でも、お父さん、大きかった」
父は目を瞬かせる。
「大きい?」
「うん」
クロはそれ以上、うまく言えなかった。
昨日の夜。
割れた扉の向こうで、魔狼の前に立った父の背中。
白い竜のようではなかった。
翼もなく、鱗もなく、朝日もなかった。
けれど、大きかった。
父はクロの言葉の意味を、すべて理解したわけではなかった。
ただ、困ったように少し笑った。
その笑みは、痛みに歪んでいた。
それでも、確かに笑みだった。
「……なら、よかった」
母が小さく息を吐く。
「よくないわよ。暫くは安静にしなさいって言われているのよ」
「暫く?」
父の顔が引きつる。
「少なくとも数日は」
「そんなにか」
「あなた、魔狼に吹き飛ばされたのよ」
母の声は呆れていたが、少し震えていた。
クロは、父が生きていて、母が怒っていることが、なんだか不思議に嬉しかった。
夜の中では、全部が終わるかもしれないと思った。
でも朝になって、父は痛がり、母は怒り、自分は父の手を握っている。
それが、ちゃんと生きているということのように思えた。
しばらくして、母は父に水を飲ませた。
クロは外の音が気になり、戸口の方を見た。
昨日、魔狼に破られた戸は、応急的に板で塞がれている。
その隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。
「外、見てくる」
クロが言うと、母がすぐに顔を上げた。
「遠くへ行かないのよ」
「うん」
「小屋の周りだけ」
「うん」
「竜の近くに勝手に行かない」
クロは少し黙った。
母の目が細くなる。
「クロ」
「……うん」
返事をして、クロは小屋の外へ出た。
外の空気は冷たかった。
夜の恐怖が嘘のように、朝の光は静かに開墾地を照らしている。
けれど、地面には昨日の名残がいくつも残っていた。
壊れた柵。
焦げた薪。
泥に混じった血の跡。
踏み荒らされた雪。
倒れた杭。
裂けた布。
それでも、誰も倒れたままではなかった。
怪我をした者は小屋の近くへ集められ、王国軍の兵と村人たちが手当てをしている。
子供たちはまだ外へ出ることを止められているらしく、いくつかの小屋の隙間から不安そうな顔が覗いていた。
大人たちの顔には疲れがあった。
けれど、昨日の夜のような絶望はなかった。
間に合ったからだ。
クロはそう思った。
視線を動かすと、竜騎士小隊の姿が見えた。
彼らはまだ開墾地にいた。
銀の甲冑は泥と雪で汚れている。
外套は乱れ、革帯には乾きかけた血と土がついていた。
誰も、物語の挿絵に出てくる騎士のようには見えなかった。
それでも、彼らは竜騎士だった。
寝ていないのだろう。
王国軍の兵たちと話し、魔狼の死骸を確認し、柵の破れた場所を見て回り、開墾地の外れへ何度も視線を向けている。
小隊長は、黒い竜のそばにいた。
昨夜、魔狼を押さえ込んだ黒い竜。
朝の光の下でも、その鱗は明るくはならなかった。
ただ、火の光ではなく冬の朝日を受けて、奥の方に鈍い光を抱いている。
黒いはずなのに、ただ暗いだけではない。
クロは足を止めた。
やはり、目を離せなかった。
黒い竜は低く首を下げ、小隊長の近くで静かに息をしている。
昨日の夜の鋭さは、少しだけ薄れているようにも見えた。
けれど、爪が地面を掴む形も、翼を畳む動きも、どこか張り詰めていた。
小隊長はその首元を軽く叩いた。
「まだ寝るなよ。片付いたら帰る」
黒い竜が喉の奥で低く鳴った。
文句のようにも聞こえた。
返事のようにも聞こえた。
小隊長は面倒くさそうに片眉を上げる。
「俺だって眠い」
クロはそのやり取りをじっと見ていた。
竜は言葉を話していない。
けれど、小隊長には何かが通じているように見えた。
それが不思議だった。
その時、少し離れた場所から、若い声がした。
「隊長、南側の足跡は森へ戻っています。残りの群れは散ったようです」
声の主は、昨日の夜に三番と呼ばれていた竜騎士だった。
その近くに、一頭の竜がいた。
クロは、その竜を初めてちゃんと見た。
夜の中では、父の手を握っていた。
黒い竜から目を離せなかった。
だから、三番と呼ばれていた竜騎士の、赤茶色だと思っていたその竜を、よく見てはいなかった。
朝の光の下で見るその竜は、強い赤が差した淡い桜色の鱗を持っていた。
ただ淡いだけの色ではなかった。
花びらのような柔らかさの奥に、血の通った赤みがある。
光を受けるたび、桜色の鱗の縁に、薄紅よりも濃い赤がふっと浮かぶ。
柔らかな色だった。
けれど、弱い色ではなかった。
爪は鋭く、翼の骨はしっかり太い。
首筋から肩にかけての筋肉も、見た目の色ほど柔らかくはない。
綺麗だけれど、ただ綺麗なだけではない。
桜色の竜は、少し落ち着かない様子で前脚を動かした。
その背から、竜騎士が降りる。
銀の甲冑をまとった騎士は、兜の留め具を外した。
片手で兜を持ち上げる。
その瞬間、長い髪がこぼれた。
淡い桃色の髪だった。
左右で高く結ばれた、美しいツインテール。
夜露と汗で少し乱れてはいたが、それでも朝の光を受けてふわりと揺れた。
クロは目を丸くした。
女の人だった。
しかも、若い。
クロがこれまで見た竜騎士は、団長と、小隊長と、ほかの銀の甲冑の騎士たちだった。
みんな、大人の男に見えた。
強く、遠く、自分とはまるで違う生き物のようだった。
けれど目の前の竜騎士は、女だった。
愛嬌を孕んだ大きなつり目。
勝ち気そうな目元。
疲れているのに、どこか明るい顔つき。
年は、大人たちよりずっと若く見えた。
小隊長がそちらを見て、欠伸を噛み殺すように言った。
「レイナ、報告は短くしろ。眠くなる」
「短くしました」
「お前の短いは長い」
「隊長が眠いだけです」
「否定はしねえ」
レイナはむっとした顔をした。
けれど、すぐに桜色の竜へ視線を戻す。
その表情が、ほんの少し曇った。
小隊長もそれに気づいたらしい。
「相棒の様子、まだ気になるか」
「……はい」
「なら見とけ。原因が分からねえまま乗るな」
「はい」
会話は短かった。
小隊長はそれ以上何も言わず、黒い竜の方へ戻り、王国軍の兵と話し始める。
レイナは兜を小脇に抱えたまま、桜色の竜を見上げた。
その顔は、さっきまでの勝ち気な表情とは違っていた。
心配している顔だった。
クロは、その横顔と桜色の竜を交互に見た。
相棒。
そういうものなのだと思った。
小隊長と黒い竜もそうだった。
レイナと桜色の竜もそうだった。
ただ乗っているのではない。
ただ命令しているのでもない。
一緒にいる。
そう見えた。
クロは少しずつ、桜色の竜へ近づいた。
もちろん、勝手に触れるほど近くではない。
母に言われたことも覚えている。
けれど、見たかった。
桜色の竜は綺麗だった。
けれど、クロはその色だけを見ていたわけではない。
翼を少し開く。
すぐに畳む。
そのたびに、左の翼だけがほんの少し遅れる。
前脚の置き方も、落ち着かない。
尾の先が、短く揺れる。
目が一度、翼の付け根のあたりへ動いて、すぐに逸れる。
逃げたい時のかけしっぽとは違う。
虫を狙う時とも違う。
嫌がっている。
クロは、そう思った。
レイナが桜色の竜の首筋に手を当てる。
桜色の竜は、少しだけ目を細めた。
それでも、また翼を小さく動かす。
左だけが、少し遅い。
クロは思わず言った。
「あの子、そこ、嫌なの?」
レイナが振り返る。
「え?」
クロは、自分が声に出していたことに気づき、少しだけ身を固くした。
「ごめんなさい」
「ううん。今、なんて?」
レイナの声は責めるものではなかった。
ただ、驚いていた。
クロは桜色の竜を見た。
竜の目が、また翼の付け根のあたりへ動く。
けれど、すぐに逸れる。
「翼のところ。見ると、目をそらす」
レイナの勝ち気な目元が、少しだけ真剣になる。
「あなたにも、そう見えるの?」
クロは頷いた。
「うん。嫌そう」
「嫌そう?」
「かけしっぽが逃げる時とも、虫を食べる時とも違う」
自分でも、うまく説明できていないと思った。
かけしっぽ。
虫。
逃げる時。
食べる時。
竜騎士に向かって何を言っているのだろう。
クロは口を閉じた。
けれど、レイナは笑わなかった。
彼女はゆっくり桜色の竜へ向き直る。
「……私も、変だと思ってた」
その声は小さかった。
クロは目を瞬かせた。
「レイナさんも?」
「うん」
レイナは桜色の竜の首筋を撫でた。
「昨日、いつもより反応が遅かった。命令は聞いてる。怖がってるわけでもない。でも、どこか動きが硬かった」
レイナの声には、悔しさが混じっていた。
「見習いの頃から一緒なのに、原因が分からない」
クロは桜色の竜を見上げた。
桜色の竜は、また小さく翼を動かした。
今度も、左だけがほんの少し遅い。
クロはその動きを目で追った。
「痛いのかな」
レイナの手が止まる。
「痛い?」
「ううん。分かんない」
クロは首を振った。
「でも、嫌なのかも」
「どこが?」
クロは桜色の竜の鞍を見た。
革帯。
金具。
翼の付け根の近くを通る太い帯。
それを見た瞬間、何かが引っかかった。
でも、まだ言葉にはならなかった。
「……分かんない」
クロは正直に言った。
「でも、あそこ、見てる」
「どこ?」
「翼の近く」
レイナが桜色の竜の目を追う。
竜はすぐに目を逸らした。
レイナの表情が少し険しくなる。
そこへ、小隊長が戻ってきた。
「何してる、レイナ」
レイナは振り返る。
「この子が、翼のところを嫌がっているように見えると言いました」
小隊長の視線がクロへ向く。
眠そうで、無精髭で、少し怖い顔だった。
「お前が?」
クロは頷いた。
「……たぶん」
「たぶんか」
「見ただけだから」
小隊長はしばらくクロを見ていた。
それから、桜色の竜の方へ視線を移す。
「レイナ、鞍を外せ」
レイナの目が少し大きくなる。
「今ですか?」
「今だ。飛ぶ前に見ろ。原因が分からねえまま乗るな」
「はい」
レイナはすぐに動いた。
桜色の竜の側へ回り、革帯の留め具に手をかける。
クロは少し離れたところから、それを見ていた。
桜色の竜が、小さく尾を動かす。
嫌がっているわけではない。
でも、落ち着かない。
クロはその尾の動きを見ていた。
小隊長は腕を組み、黒い竜のそばに立ったまま、面倒くさそうに言う。
「子供の言うことを真に受けたんじゃねえぞ」
レイナが振り返る。
「では、なぜ外すんです?」
「お前が気にしてたからだ。ついでに、そいつも変だと言った。なら見る」
それだけ言って、小隊長は欠伸をした。
「外れなら笑って終わりだ」
レイナは一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。
「……はい」
クロは、小隊長を見た。
乱暴で、眠そうで、口が悪い。
でも、見ないふりはしない人なのだと思った。
レイナが革帯を緩める。
桜色の竜が、ほんの少し息を吐いた。
クロの耳が動いた。
今の息。
それは、少しだけ楽になったように聞こえた。
でも、まだ分からない。
クロは何も言わなかった。
ただ、見ていた。
レイナの手元を。
桜色の竜の目を。
翼の付け根の小さな動きを。
竜騎士たちの朝は、まだ終わっていなかった。
父は生きている。
魔狼は退けられた。
開墾地は、夜を越えた。
けれどクロの目の前には、また新しい分からないものがあった。
桜色の竜。
若い女竜騎士。
翼の遅れ。
革帯の下に隠れた、まだ名前のない違和感。
クロは息を詰めるようにして、それを見ていた。
分からない。
でも、見れば、何かが分かるかもしれない。
そう思った。




