序章 第9話 「レイナとロザ」
レイナが、桜色の竜の鞍に手をかけた。
竜は、ロザというらしい。
先ほどレイナが、小さな声でそう呼んでいた。
「ロザ、少しだけじっとしてて」
桜色の竜は、喉の奥を低く鳴らした。
暴れるわけではない。
嫌がって首を振るわけでもない。
ただ、尾の先だけが、落ち着かないように短く揺れている。
クロは少し離れた場所に立ったまま、その尾の動きを目で追った。
綺麗な竜だった。
強い赤が差した、淡い桜色の鱗。
朝の光を受けるたび、薄紅の奥に血の通ったような赤が浮かぶ。
柔らかい色なのに、弱くは見えない。
爪は鋭く、首筋から肩にかけての線はしなやかで、翼の骨も太い。
けれど、やはり何かが変だった。
ロザは、レイナが鞍へ手を伸ばすたび、目だけを少し動かす。
翼の付け根。
革帯のあたり。
そこを見る。
そして、すぐに見ないふりをする。
体は動かないのに、目だけが先に逃げる。
かげしっぽを見ている時にも、そういう瞬間があった。
痛いところや、嫌なところを見られそうになる時。
逃げるほどではない。
怒るほどでもない。
でも、見られたくない。
そういう時、体より先に、目が逃げる。
ロザも、そうだった。
「留め具、固い……」
レイナが小さく呟いた。
銀の甲冑をまとった腕が、革帯の金具を外そうとする。
昨夜の泥と乾いた血で、革は少し硬くなっていた。
レイナは兜を地面に置き、両手で金具を押さえる。
その時、ロザの左翼が、ほんの少し震えた。
クロの耳がぴくりと動く。
「そこ」
思わず声が出た。
レイナが顔を上げる。
「そこ?」
「今、動いた」
「翼?」
クロは頷いた。
「うん。左だけ」
レイナはロザの左翼を見る。
ロザは目を細めた。
怒っているようではなかった。
でも、少し困っているように見えた。
「ロザ」
レイナの声が低くなる。
「痛いの?」
ロザは答えない。
ただ、鼻から小さく息を吐いた。
レイナの表情が、曇る。
「……ごめん。もう少しだけ見せて」
革帯の留め具が外れた。
重い鞍が少し浮く。
その瞬間、ロザが長く息を吐いた。
クロには、それがただの息には聞こえなかった。
少しだけ楽になったような。
ずっと我慢していたものを、ようやく外へ逃がしたような。
そんな息だった。
レイナも気づいたらしい。
動きを止め、ロザの首を見上げた。
「今の……」
小隊長が、黒い竜のそばから歩いてきた。
「外れたか」
「はい。ええと……」
レイナは言葉を濁した。
小隊長は眠そうな目で、ロザの左翼の付け根を見た。
「鞍を少し上げろ。帯の下を見せろ」
「はい」
レイナは鞍をずらした。
革帯が通っていた下に、赤く擦れた跡があった。
大きな傷ではない。
血が流れているわけでもない。
けれど、桜色の鱗の上に、薄く赤い線が残っている。
そのあたりの鱗だけが、少し逆立つように乱れていた。
レイナは息を呑んだ。
「……擦れてる」
小隊長は膝をつき、指先で直接触れないように、近くの鱗を見た。
「切れてはいねえな。だが、飛べば痛む」
レイナの顔から血の気が引いた。
「私……」
言葉が詰まる。
「気づけなかった」
ロザが、レイナの肩に鼻先を寄せた。
大きな鼻先だった。
少し押されれば、レイナの体など簡単に揺れる。
それでもロザは、壊れ物に触れるように、そっと彼女の肩へ鼻先を当てた。
レイナは目を見開いた。
「ロザ……」
ロザは低く鳴いた。
小さな音だった。
昨夜、魔狼を前にした竜たちの唸りとは違う。
もっと低く、もっと内側へ沈むような音。
レイナは唇を噛んだ。
「怒っていいのに」
ロザは怒っていないようだった。
ただ、もう一度、レイナの肩へ鼻先を寄せた。
クロは、その仕草から目を離せなかった。
レイナは、悔しそうだった。
泣きそうにも見えた。
けれど、泣かなかった。
勝ち気に見える目元が、今は必死に何かをこらえているように見える。
「見習いの時は、こんなことなかった」
レイナが言った。
「訓練用の鞍では平気だったんです。正式任務用に替えてから……でも、昨日は初任務で、確認もしたつもりで……」
「したつもりで、足りなかったんだろ」
小隊長の声は淡々としていた。
レイナは肩を震わせる。
「はい」
「なら、次に活かせ」
レイナが顔を上げる。
小隊長は相変わらず眠そうな顔をしていた。
慰めるような声ではなかった。
怒鳴る声でもなかった。
ただ、事実を置くような声だった。
「原因が見つかった。飛ぶ前に見る場所が増えた。それでいい」
レイナは黙っていた。
「落ち込むのは後にしろ。今は手当てだ」
「……はい」
レイナは深く息を吸った。
それから、ロザの首を撫でる。
「ごめんね、ロザ」
ロザは目を細めた。
レイナの手に、首をほんの少し押しつける。
その仕草は、叱っているようには見えなかった。
むしろ、慰めているように見えた。
クロは、それが不思議だった。
痛かったのは、ロザの方なのに。
「ロザ、やさしいね」
クロが小さく言った。
レイナが振り返る。
「え?」
クロはロザを見上げた。
「怒ってる時の顔じゃない」
「分かるの?」
「分かんない」
クロは首を振った。
「でも、かげしっぽが怒ってる時は、もっと目が尖る。逃げたい時は、体が先に後ろへ行く。ロザは、レイナさんの方へ来てる」
レイナは黙った。
クロは、自分の言葉が合っているのか分からなかった。
だから、最後は少し小さな声になった。
「だから、たぶん、レイナさんを励まそうとしてる」
ロザが、クロの方を見た。
大きな瞳だった。
桜色の鱗に似合わないほど、深い色をしている。
その目に見られて、クロは少しだけ背筋を伸ばした。
怖くはない。
でも、大きい。
自分よりずっと大きく、ずっと重く、ずっと長く生きるものの目だった。
ロザは、クロを見たまま、ゆっくり瞬きをした。
一度だけ。
クロは息を止める。
今のは、なんだったのだろう。
ありがとう、のようにも見えた。
違う、のようにも見えた。
ただ見ただけかもしれない。
分からない。
けれど、胸の奥に小さな熱が残った。
レイナはロザの首を撫でながら、クロを見た。
「あなた、すごいのね」
クロは首をかしげる。
「すごくない」
「すごいわよ。私は昨日から変だと思ってた。でも、どこが変なのか分からなかった。あなたは見つけた」
「見つけてない」
クロは正直に言った。
「変だと思っただけ」
レイナは少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「それが、すごいのよ」
クロには、やっぱり分からなかった。
変だと思っただけ。
見ていたら、そこに目が行っただけ。
かげしっぽを見る時と同じように、動くところを見ていただけ。
それがすごいことなのか、クロにはまだ分からない。
小隊長が背後で欠伸をした。
「レイナ、予備の当て布を持ってこい。革帯は少しずらす。今日そいつを飛ばすなら軽装だ」
「飛ばしていいんですか?」
「長くは駄目だ。戻る分だけだ。無理なら歩かせる」
レイナはロザを見る。
「ロザ、どう?」
ロザは喉を鳴らした。
レイナは眉を寄せる。
「それ、飛ぶって言ってる?」
小隊長が言った。
「言ってるな」
「ですよね」
「ただし、お前が決めろ。相棒が行けると言っても、鞍を置くか、飛ぶか、歩かせるか、最後に決めるのは乗ってる奴だ」
レイナは黙る。
それから、ゆっくり頷いた。
「……はい」
クロは、そのやり取りを聞いていた。
竜が行けると思っても、騎士が決める。
騎士が行きたいと思っても、竜の体を見る。
どちらかだけでは、空へ上がれない。
そういうものなのだろうか。
分からない。
でも、相棒という言葉が、少しだけ分かった気がした。
レイナは予備の布を取りに行き、すぐ戻ってきた。
白い布ではない。
使い込まれた厚手の布だった。
小隊長がそれを受け取り、革帯の当たっていた場所に重ねる。
レイナは手元を真剣な目で見ていた。
先ほどまでの軽口は消えている。
クロはその横顔を見上げる。
レイナは、昨日の夜、村を救いに来た竜騎士の一人だ。
桜色の竜に乗り、魔狼の群れを退けた凄い人。
空から現れ、クロたちの手が届かない場所で戦う人。
鎧をまとい、竜に乗り、命令を受けて、怪物のいる方へ迷わず向かっていく人。
クロにはまだ、その世界のことがよく分からない。
どうすれば竜に乗れるのか。
どうすれば空へ上がれるのか。
どうすれば、あんなふうに怖い場所へ向かえるのか。
レイナは、クロにとって遠い世界の人だった。
けれど今、その人はロザの手当てを見つめながら、自分の事のように辛そうな顔をしている。
竜騎士は、ただ竜に乗って戦う人ではないのだと思った。
竜の痛いところを見て、苦しそうな顔をする人でもあるのだと。
「レイナさん」
「なに?」
「竜騎士って、女の人でもなれるの?」
レイナの手が止まった。
小隊長もちらりとクロを見た。
レイナは一瞬だけ驚いた顔をして、それから笑った。
「なれるわよ」
その声は、はっきりしていた。
「大変だけどね」
「大変?」
「うん。鎧は重いし、風が強い日は息をするだけで大変だし、ロザから降りる時に油断すると足を捻るし、寒い日は指が動かなくなるし、夜中に叩き起こされることもあるし、隊長は口が悪いし」
「最後のは余計だ」
小隊長がぼそりと言う。
レイナは聞こえないふりをした。
「でも、飛ぶのは好き」
クロは瞬きをした。
レイナはロザの首を撫でながら、空を見上げる。
冬の朝の空は、薄く青かった。
夜の名残が、まだ遠いところに少しだけ残っている。
さっきまでの少し沈んだ顔とは違って、レイナの目が明るくなった。
「竜が地面を蹴るでしょ」
レイナが言った。
「そのあと、翼が風を掴むの。体が、ふっと軽くなる。地面が遠くなって、森も畑も川も、全部下へ流れていく」
レイナの声が、少しだけ弾んだ。
「怖いけど、好き。自分の体だけじゃ絶対に行けない場所へ、この子と一緒に行ける」
ロザが小さく鳴いた。
レイナは笑う。
「そう。ロザと一緒に」
クロは、空を見上げた。
かつて、白い竜が飛んでいった空。
毎日のように王都から竜騎士団が飛び立っていく空。
昨日の夜、竜たちが裂くように降りてきた空。
そこへ、レイナは行ける。
ロザと一緒に。
女の人でも。
若くても。
竜騎士になれば、そこへ行ける。
クロは胸の奥が、少しだけ熱くなるのを感じた。
「クロ」
母の声がした。
振り返ると、小屋の前に母が立っていた。
心配そうな顔をしている。
「近づきすぎてない?」
クロは慌てて一歩下がった。
「近づいてない」
母は疑わしそうに目を細める。
小隊長が、面倒くさそうに口を挟んだ。
「触らせちゃいねえ。見てただけだ」
母は小隊長を見る。
相手が竜騎士だと気づき、慌てて頭を下げた。
「す、すみません」
「謝ることじゃねえ。親なら見張ってろ。人間に慣れていても、竜は竜だ」
「はい」
母は小さく頷いた。
レイナがクロに向き直る。
「ありがとう、クロ」
クロは少し驚いた。
自分の名前を呼ばれた。
「……なんで名前」
「さっき、お母さんが呼んでたから」
レイナは笑った。
「ありがとう。クロ。あなたが言ってくれなかったら、私はこのままロザを飛ばしてたかもしれない」
クロは困った。
礼を言われるようなことをした気がしなかった。
「見てただけ」
「うん」
レイナは頷く。
「それが助かった」
クロは何も言えなかった。
ロザが、またクロを見る。
さっきより少しだけ、目が柔らかい気がした。
クロは、ほんの少しだけ頭を下げた。
竜に対して、どう挨拶すればいいのか分からなかった。
だから、人にするように、そっと頭を下げた。
ロザは、ゆっくり瞬きをした。
レイナが笑う。
「ロザも、ありがとうって」
「言ったの?」
「たぶんね」
レイナは少し得意げに言った。
クロはロザを見上げた。
ロザは言葉を話していない。
人の声も出していない。
ただ、喉の奥で低く鳴り、尾の先をゆっくり揺らした。
大きな目が、クロを静かに見ている。
その視線を受けた時、クロの胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが触れた気がした。
声ではない。
言葉でもない。
けれど、怖くない。
嫌でもない。
柔らかくて、少し照れくさそうで、こちらへ差し出されるような何か。
クロはそれをうまく言えなかった。
でも、レイナの言ったことは、間違っていない気がした。
「……うん」
クロは小さく頷いた。
「たぶん、そう」
小隊長が布を固定し終え、立ち上がる。
「応急処置だ。戻ったら装具師に見せろ」
「はい」
「次からは乗る前に翼の付け根まで見る。両側だ」
「はい」
レイナは今度こそ、まっすぐ頷いた。
小隊長はクロを一瞥した。
「お前も、変だと思ったらまた教えてくれ」
クロはびくりとした。
「え?」
「外れてたって笑わねぇよ。何もねえって分かる事の方が大事だ」
それだけ言って、小隊長は黒い竜の方へ戻っていく。
クロはその背中を見送った。
怒られたのか。
褒められたのか。
分からない。
でも、悪いことを言われたわけではない気がした。
レイナが小さく笑う。
「隊長なりに褒めてるのよ、たぶん」
「たぶん?」
「たぶん」
二人で同じ言葉を言ったので、レイナが少し笑った。
クロも、少しだけ口元を緩めた。
その朝、開墾地はまだ疲れていた。
壊れた柵は残っている。
焦げた薪も、血の跡も、踏み荒らされた雪も消えてはいない。
父はまだ寝床から起き上がれない。
それでも、夜は越えた。
レイナはロザの首を撫でていた。
ロザは目を細め、その手に静かに身を寄せている。
クロは、その姿をじっと見つめていた。
白い竜。
黒い竜。
桜色の竜。
どの竜も違う。
どの竜も、同じではない。
けれど、見ていれば、少しだけ分かることがある。
クロはそう思いながら、冬の朝の光の中で、レイナとロザを見つめていた。




