序章 第10話 「冬空へ帰る」
ロザの手当てが終わる頃には、朝の光が少しだけ強くなっていた。
それでも、冬の空気はまだ冷たい。吐く息は白く、踏み荒らされた雪も溶けきっていない。壊れた柵の向こうには魔狼たちが森へ戻っていった跡が残り、土の上には泥と血が混じっていた。竜の爪が抉った深い跡も、あちこちに残っている。
夜の戦いは終わっていた。
けれど、開墾地のあちこちには、その名残がまだ残っている。
レイナは、ロザの左翼の付け根を念入りにたしかめている。
革帯の位置を見る。当て布がずれていないか指で押さえる。ロザの目を見て、尾の動きを見て、それからもう一度、翼の付け根へ視線を戻す。
初出動に浮き足立ち、大切な相棒の不調を見落とした。
その事実が、レイナの手つきを慎重にしているように見えた。
ロザは大人しく立っていた。尾の先はまだ時々揺れるが、先ほどよりは落ち着いている。左翼も、ほんの少しだけ開いて、すぐに畳まれた。
クロは少し離れた場所から、その動きを見ていた。
痛そうではない。でも、何もないわけでもない。
そんな気がした。
「ロザ、少し動かして」
レイナが言うと、ロザは喉を鳴らし、左翼をゆっくり広げた。
薄い翼膜が冬の光を受ける。翼の骨がしなり、空気を掴むように少しだけ動いた。レイナはその付け根をじっと見つめる。
「……さっきよりは、いい」
安心したようでもあり、まだ油断できないようでもある声だった。
黒い竜のそばにいた小隊長が、眠そうな目を向ける。
「飛べるか」
「長くは無理です」
レイナはすぐに答えた。
「でも、戻るまでの間なら。低く、ゆっくりなら」
「ならそうしろ。調子に乗って高度を上げるなよ」
「はい」
小隊長はしばらくレイナを見た。
「お前、飛ぶとすぐ忘れるだろ」
「忘れません!」
「声がでかい」
レイナはむっとした顔をした。
さっきまでの泣きそうな色は薄れ、少しだけいつもの調子が戻っている。クロはそれを見て、少し安心した。
小隊長は欠伸を噛み殺しながら、ロザへ視線を戻す。
「ロザが嫌がったら降りろ。無理なら歩かせる」
「はい」
レイナは今度は素直に頷いた。
それから、ふとクロの方を見る。
「クロ」
名前を呼ばれて、クロはぴくりと耳を動かした。
「なに?」
レイナは少し笑う。
「ロザ、どう見える?」
クロは困った。
どう見える、と言われても、分からない。竜騎士でもない。竜医でもない。ただ見ていただけだ。
それでもクロは、ロザを見た。
左翼。革帯のあたり。尾。目。
ロザは翼を畳み、レイナの方へ鼻先を少し寄せている。さっきのように、目だけが逃げる感じは少ない。けれど、完全に忘れているわけでもない。
クロは正直に言った。
「さっきより、嫌じゃなさそう」
レイナの目が少し柔らかくなる。
「そっか」
「でも、まだちょっと気にしてる」
「うん」
レイナはロザの首を撫でた。
「私も、そう思う」
その時のレイナは笑っていなかった。軽口を言う時の顔でもなかった。真剣に、ロザを見ている。
自分の相棒を、真剣に見つめている。
それが、クロには少し嬉しかった。
「クロは本当に、よく見ているのね」
そう言われて、クロは首をかしげた。
前にも、似たようなことを言われた気がした。
母にだった。
畑の端で、かけしっぽを見ていた時。虫を食べるか、逃げるかを見ていた時。
母も言った。
クロは、よく見てるのね、と。
クロは少し考えてから言った。
「見ないと分からないから」
レイナは目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「そっか」
「うん」
「それ、大事ね」
クロには、やっぱりよく分からなかった。
ただ、レイナがそう言ったので、悪いことではないのだと思った。
開墾地の中央では、竜騎士たちが撤収の支度を始めていた。
灰色の竜は、細い首を低くして王国軍の兵が運ぶ荷を避けている。くすんだ緑の竜は、地面に座り込むようにして翼を休めていた。その近くで、銀の甲冑をまとった竜騎士たちが、槍や革帯を点検している。
誰も大きな声で勝利を喜んではいなかった。
魔狼は退けられた。けれど、柵は壊れ、怪我人も出た。小屋のいくつかは戸を破られ、貯蔵穴の近くには獣の足跡が残っている。
終わったのは、戦いだけだった。
冬はまだ続く。
王国軍の兵たちも、すぐに動いていた。柵の破れた場所に杭を立て直し、焼け残った薪を集め、魔狼の死骸を開墾地の外へ運び出している。
そこへ、道の方から馬の足音が聞こえた。
クロが顔を向けると、数人の王国軍の兵が急ぎ足で開墾地へ入ってくるところだった。肩には弓や槍を背負い、荷馬には追加の矢束や油壺らしき荷が括りつけられている。
夜に間に合うよう、王都から増員が来たのだ。
見張り台の兵が駆け寄り、短く状況を伝える。新しく来た兵たちは疲れた顔をしていたが、すぐに頷き、柵の補修や見張り火の位置を確認し始めた。
小隊長はその様子を見て、面倒くさそうに首を回した。
「ここの守りは?」
王国軍の兵が答える。
「今夜までに柵を戻します。増員も到着しました。森側と丘側に見張りを分けます」
「火の位置を増やせ。あの数じゃ薄い」
「はい」
「森側だけ見るな。丘の方からも回られてた」
「確認します」
指示は短かったが、兵たちはすぐに動いた。
竜騎士たちは、これから王都へ戻る。王国軍の兵たちは、このまま開墾地に残る。
村人たちにとっては、どちらも昨夜を越えるために必要な人たちだった。
やがて、村人たちが小隊長のそばへ集まってきた。年老いた男が深く頭を下げる。その後ろで、女たちも、怪我をした腕を押さえた男も、黙って頭を下げた。
「ありがとうございました」
小隊長は少し嫌そうな顔をした。
礼を言われ慣れていないのか、眠いだけなのか、クロには分からなかった。
「礼は王国軍に言え」
小隊長は顎で兵たちの方を示した。
「こいつらが夜通し持たせた。」
王国軍の兵が一瞬、驚いたように小隊長を見る。
小隊長はもうそちらを見ていなかった。
「それと、柵を補強しろ。また夜に叩き起こされたんじゃかなわねぇからな」
礼を言った老人が、少しだけ笑った。
笑えるほど元気が戻ったわけではない。けれど、ほんの少しだけ、開墾地の空気がゆるんだ。
小隊長は黒い竜の方へ歩いていく。
クロは、その黒い竜を見ていた。
昨夜、魔狼を押さえ込んだ竜。冬の夜に降りてきた黒。火の中で、濡れた鉄のように光っていた鱗。
朝になっても、その黒は軽くならなかった。
冬の光を受けても、白くはならない。明るくもならない。ただ、奥の方に鈍い光を抱いている。
クロがじっと見ていると、黒い竜がふとこちらを見た。
クロの息が止まった。
昨夜より静かな目だった。けれど、爪の先まで油断はない。翼を畳んでいても、いつでも空へ上がれるように見える。首を低くしていても、ただ休んでいるだけではない。
小隊長が、クロの視線に気づいた。
「そいつが気になるのか」
クロは少しだけ迷ってから、頷いた。
「うん」
「黒いからか」
クロは首を振った。
「強いから」
小隊長の片眉が、ほんの少し上がった。
黒い竜が、喉の奥で低く鳴る。
それは怒った音ではなかった。でも、嬉しそうとも少し違う。何かを聞いて、黙って返したような音だった。
小隊長は鼻で笑った。
「そいつに聞かせたら調子に乗る」
黒い竜が、もう一度低く鳴った。
小隊長が面倒くさそうに黒い竜を見る。
「ほらな」
クロは少しだけ口元を緩めた。
笑っていいのか分からなかった。けれど、少しだけ笑ってしまった。
黒い竜は、まだクロを見ている。
クロは、ほんの少しだけ頭を下げた。
ロザにした時と同じように。竜にどう挨拶すればいいのか、まだ分からなかったから。
黒い竜は何もしなかった。
ただ、低く息を吐いた。
その息は、冬の空気の中で白くなった。
怖くない、とは言えなかった。
大きい。鋭い。近づきすぎれば、きっと危ない。
でも、嫌ではなかった。
クロはそう思った。
「お前、竜を見る時やけに静かだな」
小隊長が言った。
クロは小隊長を見上げる。
「うるさい方がいい?」
「いや。静かな方がいい。こいつらは、人間の騒ぐ声が好きじゃねえ」
「そうなの?」
「個体による」
小隊長はそう言って、黒い竜の首元を軽く叩いた。
「こいつは特にな」
黒い竜は目を細めた。
嫌そうではない。でも、少し文句を言っているように見えた。
クロはそれをじっと見ていた。
分かるような。分からないような。何故か目が離せない。
その時、レイナが戻ってきた。
兜を抱え、ロザの横に立つ。桜色の竜は軽く鞍を載せ直され、革帯の位置も少し変わっていた。厚手の布が翼の付け根近くに当てられている。
「隊長、準備できました」
「飛ぶ前にもう一度見ろ」
「見ました」
「もう一度」
レイナは口を開きかけたが、すぐに閉じた。
それから、ロザの左翼の付け根をもう一度見る。指で布の端を確かめ、革帯を軽く押し、ロザの目を見る。
ロザは尾を一度だけ揺らした。
レイナは小さく頷いた。
「……大丈夫。嫌ならすぐ降りる」
小隊長は短く頷いた。
「なら行け」
レイナはロザの首を撫でた。
「ロザ、ゆっくりね」
ロザが喉を鳴らす。
レイナは鐙に足をかける前に、クロを見た。
「クロ」
「なに?」
「見てて」
クロは瞬きをした。
「なにを?」
レイナは少し笑った。
「ロザが、ちゃんと飛べるか」
クロは驚いた。
自分が見ていいのか、分からなかった。
でも、レイナはまっすぐクロを見ていた。小隊長も何も言わなかった。
だからクロは頷いた。
「うん」
レイナはロザの背に乗った。
その動きは軽かった。けれど、さっきまでより少し慎重だった。
ロザの左翼を見る。革帯を見る。もう一度、ロザの首に手を置く。
「行ける?」
ロザが低く鳴いた。
レイナは頷く。
「じゃあ、低く。ゆっくり」
ロザは前脚で土を掴んだ。
翼が広がる。
冬の朝の光を受けて、桜色の翼膜が淡く透けた。その奥に、強い赤がふっと浮かぶ。
クロは左翼を見た。
少し遅れる。
でも、さっきほどではない。
ロザは一度、地面を蹴った。
風が起こる。雪と土が舞い上がる。ロザの体がふわりと浮く。
高くは上がらない。小屋の屋根より少し高いくらいで、レイナはすぐに手綱を抑えた。
ロザはゆっくり羽ばたく。
左翼は、少しだけ遅い。でも、苦しそうではない。
レイナは何度も下を見ている。ロザの首の動き。翼の動き。鞍の位置。
クロはそれを見ていた。
ロザは開墾地の上を低く一度回った。
村人たちが見上げる。子供たちが小屋の隙間から顔を出す。母も、心配そうにしながら空を見ていた。
ロザは無理に高度を上げなかった。
冬の空へ一気に駆け上がるのではなく、ゆっくり、確かめるように飛んでいる。
やがて、レイナは小隊長へ片手を上げた。
「行けます!」
小隊長は短く頷いた。
「なら帰るぞ」
黒い竜が身を沈めた。
灰色の竜が翼を広げる。くすんだ緑の竜が重そうに立ち上がる。それぞれの竜騎士が背に乗り、手綱や槍を確かめる。
開墾地の人々が、自然と道を空けた。
竜たちが並ぶ。
黒。
灰。
くすんだ緑。
そして、空の低いところを回る桜色。
白い竜はいない。
あの日、朝日の中にいた純白の竜とは違う。
けれど、その姿はやはり大きかった。
色も形も違う。
翼の動きも、首の角度も、尾の癖も、地面を蹴る強さも違う。
背に乗る騎士たちも、それぞれ違う。
それでも、どの竜も空へ帰るものだった。
小隊長が黒い竜の背に乗る。
その動きは面倒くさそうなのに、迷いはなかった。黒い竜も、ほとんど待たずに首を上げる。
小隊長は一度だけ開墾地を見回した。
「今夜は火を増やせ。森の縁に死骸を残すな。匂いでまた寄る」
王国軍の兵が頷く。
「はい!」
「あと、寝ろ。寝てない奴は使い物にならねえ」
兵たちは少しだけ返事に困った。
小隊長はそれ以上何も言わず、黒い竜の首元を叩いた。
黒い竜が翼を広げる。
風が来た。
昨夜のような、地面に叩きつける風ではない。けれど、重く、鋭く、確かに竜の翼が起こす風だった。
クロは髪を押さえた。
黒い竜が地を蹴る。
大きな体が、冬の空へ持ち上がった。
続いて灰色の竜が飛ぶ。
くすんだ緑の竜が、少し遅れて地面を離れる。
最後に、桜色の竜がゆっくり高度を上げた。
レイナがこちらを見た。
クロは思わず一歩前へ出る。
レイナは片手を上げた。
大きく振るわけではない。
竜の背で、ほんの少しだけ。
けれどクロには分かった。
クロも小さく手を上げた。
ロザが喉を鳴らしたような気がした。
聞こえるはずがない距離だった。
でも、そう思った。
桜色の竜は黒い竜たちの後へ続く。
ただし、無理に追いつこうとはしない。少し低く、少しゆっくり。レイナは何度もロザの動きを見ながら飛んでいる。
クロはそれを見ていた。
ロザの翼。
レイナの背中。
黒い竜の影。
灰色と緑の竜たちの隊列。
竜騎士小隊は、冬の空へ帰っていく。
開墾地の者たちは、しばらく空を見上げていた。
誰も大きな声を出さなかった。
昨夜、悲鳴と遠吠えで満ちていた場所に、今は翼音だけが残っている。
やがて、その翼音も遠くなった。
クロは見えなくなるまで空を見ていた。
冬の空は高く、冷たく、どこまでも澄んでいる。
クロはその空を見上げたまま、胸の奥に残った色を確かめていた。
ずっと白い竜だけを探していた空に、黒と桜色が増えていた。




