序章 第11話 「冬が明けて」
冬の終わりまで、王国軍の兵たちは森沿いの巡回を続けた。
逃げ延びた魔狼の気配は日を追うごとに薄れ、夜に遠吠えが聞こえることもなくなっていった。壊された柵は高く補強され、見張り台には交代で兵が立つようになった。
そうして雪が消える頃、開墾地には土の匂いが戻ってきた。
冬の間、固く締まっていた地面は少しずつ柔らかくなっていた。小屋の屋根から落ちた雪解け水が、細い溝を伝って畑の端へ流れていく。枯れ草の間からは小さな芽が顔を出し、踏み固められた道には荷車の轍が残るようになった。
開墾地は、また忙しくなった。
男たちは冬の間に傷んだ柵を直し、女たちは種芋を選び、子供たちは畑から拾った石を道の脇へ運んでいた。水路には落ち葉と泥が詰まっていて、村人たちは膝のあたりまで泥を跳ねさせながら、それを掻き出している。
王国軍の兵も手を貸していた。
見張り台の近くでは、兵の一人が村の男たちと一緒に杭の角度を確かめている。森側の柵は前より高くなり、火を焚く場所も増えていた。夜になると、そこに兵と村人が交代で立つ。
魔狼が来た夜のことを、誰も忘れてはいない。
けれど、ずっと怯えてばかりもいられなかった。
春になれば、畑を起こさなければならない。水路を直し、道を整え、種を選び、冬の間に減った薪もまた集めなければならない。食べるために必要なことは、怖い夜があっても待ってはくれなかった。
「クロ、その石はこっちだ」
父の声がして、クロは顔を上げた。
父は畑の端に立っていた。手には鍬を持っている。
魔狼に吹き飛ばされたあと、父はしばらく寝床から起き上がれなかった。起きられるようになってからも、母に何度も止められ、重い物を持とうとするたびに叱られていた。
今も、完全に元通りというわけではない。
父は鍬を持ち上げる時、少しだけ眉を寄せる。長く立っていると、片手で脇腹のあたりを押さえることもある。
それでも父は、朝になると外へ出るようになった。
「お父さん、そこ痛い?」
クロが訊くと、父はすぐに手を離した。
「痛くない」
「嘘」
「少しだ」
「少しじゃない顔してる」
父は返事に困ったように目を逸らした。
そこへ母がやって来る。手には種芋の入った籠を抱えていた。
「あなた、まだ重い作業は駄目よ」
「重い作業はしていない」
「鍬を持って畑に立っている時点で、だいたい重い作業よ」
父は鍬を見下ろした。
「持っているだけだ」
「それを働こうとしているって言うの」
母の声は少し厳しかったが、怒鳴るほどではなかった。父が小さく肩を落とすと、近くで水路を掘っていた男たちが笑いをこらえている。
クロも少しだけ笑った。
父が怒られている。
それが、なんだか安心した。
冬の夜には、父がもう起きないかもしれないと思った。息をしているだけで十分だと思った。けれど今、父は畑に立ち、母に叱られ、困った顔をしている。
その様子を見ていると、胸の奥が少し軽くなった。
「クロまで笑うな」
父が言う。
「笑ってない」
「笑ってる顔だ」
「笑ってない顔」
クロが言い返すと、母が呆れたように息を吐いた。
「親子で同じこと言わないの」
父は少しだけ笑った。
その笑い方にも、まだ痛みの名残はある。けれど、冬の夜に倒れていた時とは違う。ちゃんと立っている人の笑い方だった。
クロは抱えていた石を、父に言われた場所へ運んだ。
畑の端には、春の作業で掘り出された石がいくつも積まれている。冬の間に凍った土は崩れやすく、少し鍬を入れただけでも石や根が出てきた。
「今年は、こっちまで畑にするの?」
クロが訊くと、父は頷いた。
「水路が直ればな。去年より少し広げられる」
「広げたら、芋増える?」
「うまくいけばな」
「豆も?」
「豆も」
クロは畑を見た。
まだ何も植えられていない土だった。ところどころに雪解けの水が残り、踏むと靴の裏に泥がつく。
けれど大人たちは、その土を見ながら話していた。
どこから水を引くか。
どの畝を先に起こすか。
去年、育ちの悪かった場所はどこだったか。
魔狼に荒らされた柵をどの順番で直すか。
誰も暇ではなかった。
村人たちは動いている。
そのことが、春の匂いよりもはっきりと、クロに季節が変わったことを教えていた。
「クロ、籠が空いたら次は小石を拾ってちょうだい」
母が言った。
「うん」
クロは籠を抱え直し、畑の端へ向かった。
その時だった。
積まれた石の隙間で、何かが動いた。
クロは足を止める。
細い尾が見えた。
尾の先が、少しだけ欠けている。
クロは息を呑んだ。
「……かけしっぽ」
小さく声に出すと、石の陰から薄茶色の蜥蜴が顔を出した。
冬の間、まったく見なかった蜥蜴だった。
前より少し痩せたようにも見える。動きもまだ鈍い。けれど、目はきょろりと動き、細い足で石の上へゆっくり這い上がってきた。
クロはしゃがみ込んだ。
手は伸ばさない。
近づきすぎると逃げる。急に動けば隠れる。それは分かっていた。
かけしっぽはしばらく石の上でじっとしていた。朝の光が当たる場所を選んだのか、体を低くして、背中を温めるように動かない。
「いた」
クロはもう一度呟いた。
胸の奥が、ふっと緩んだ。
冬の間、どこにいたのかは分からない。土の中か、石の奥か、根の下か。けれど今、かけしっぽはここにいる。
それだけでよかった。
「どうした?」
父が近づいてきた。
クロは振り返らずに言う。
「かけしっぽ」
父はクロの隣に立ち、石の上を見る。
「そいつも冬を越したか」
「うん」
「俺たちと同じだな」
父はそう言って、少しだけ笑った。
クロはかげしっぽを見たまま頷いた。
「うん。同じ」
かげしっぽは人間の言葉など分からない。ただ石の上でじっと日を浴びている。尾の先が一度だけ短く揺れた。
その動きを見て、クロは少しだけロザを思い出した。
桜色の竜の尾。
翼の付け根を気にしていた目。
レイナが何度も確認していた手元。
かけしっぽの動きはロザとは違う。
大きさも、色も、体の重さも、何もかも違う。
それでも、見ていれば少しだけ分かることがある。そう思ったことを、クロは覚えていた。
「逃げないのか」
父が言う。
「まだ体が冷たいんだと思う」
「分かるのか?」
「たぶん」
クロはかけしっぽを見た。
目は動いている。
でも、体はまだ石に伏せたままだ。
逃げ道を探しているというより、日が当たる場所から動きたくないように見えた。
「今は、あったかい方がいいんだと思う」
父は感心したように、少しだけ眉を上げた。
「そうか」
それ以上、父は何も言わなかった。
クロも黙って見ていた。
やがて、母の声が飛ぶ。
「クロ、石拾いは?」
クロの耳がぴくりと動いた。
「今やる」
「あなたも、そこで立ってないで座って休んで」
「俺もか」
「あなたもよ」
父は小さく息を吐いた。
クロは籠を持ち直し、石の上のかけしっぽに小さく言った。
「そこにいて」
かけしっぽは答えない。
けれど、すぐに逃げる様子もなかった。
クロは少し安心して、畑の石を拾い始めた。
開墾地には、あちこちから声が聞こえていた。
水路の泥を掻き出す男が、下流に詰まった枝を見つけて声を上げる。種芋を選んでいた女たちが、傷のあるものを別の籠へ分けていく。子供たちは石を運びながら、誰の籠が一番重いかを比べていた。
王国軍の兵は森の方へ二人組で歩いていく。槍を持ち、足跡を確かめながら、柵の外をゆっくり回っている。
商隊が通る道も、何人かの村人によって均されていた。雪解けでぬかるんだ場所に石を敷き、深い轍を埋める。次に荷馬車が来る時、車輪がはまらないようにするためだった。
まだ村と呼ぶには頼りない。
それでも、半年前よりはずっと人の場所になっていた。
小屋の数は増え、共同の物置もできた。水路の形もはっきりしている。見張り台の柱は太くなり、柵の上には新しい杭が並んでいた。
冬の夜に壊されたものは、まだ全部直ったわけではない。
けれど、誰もそこで立ち止まってはいなかった。
クロは石を拾いながら、時々かけしっぽの方を見た。
かけしっぽはまだ石の上にいる。
尾の先が、短く揺れる。
クロはそのたびに少しだけほっとした。
「クロ、空ばかり見てると転ぶぞ」
父に言われて、クロは首を振った。
「空じゃない」
「じゃあ何を見てた」
「かけしっぽ」
「それなら、足元だから安全だな」
父がそう言うと、母がすぐに返した。
「足元を見すぎて人にぶつかることもあるわよ」
父は黙った。
クロは少しだけ笑った。
春の朝は忙しかった。
誰も十分には休んでいない。
冬の蓄えも減っている。
壊れたものも多い。
それでも、大人たちの声には、冬の終わり頃とは違う力があった。
また植える。
また直す。
また広げる。
そういう声だった。
クロは籠いっぱいになった小石を、道の脇へ運んだ。
重かった。
でも、持てないほどではない。
半年前より、少しだけ腕に力がついた気がする。石を運ぶのも、泥に足を取られない歩き方も、前より分かるようになっていた。
籠を置くと、クロはもう一度かけしっぽを見た。
かげしっぽは石の上で体を温めている。
父は鍬を杖のようにして立ち、母に見つからないように少しだけ畑の土を起こしていた。すぐに母が気づき、何かを言っている。父は困った顔をして、周りの男たちは今度こそ声を出して笑った。
クロはその光景を見て、それから畑の向こうを見た。
森の方には、王国軍の兵がいる。
柵はまだ新しい。
水路では泥が跳ねている。
子供たちは石を運び、大人たちは種芋を分けている。
そして石の上には、冬を越したかげしっぽがいた。
クロは籠を持ち直した。
まだ拾う石はたくさんある。
春の土は、簡単には畑になってくれない。
それでも、開墾地はまた動き始めていた。




