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序章 第12話 「竜舎にて」

王都にある竜騎士団の竜舎にも、冬の冷たさを和らげる春の日差しが届いていた。


勤務日ではあったが、その日は珍しく、これといった遠征の任務がなかった。竜舎では騎士たちがそれぞれの竜の様子を見て、装具師が鞍や革帯の具合を確かめている。若い見習いたちは水桶や手入れ道具を運び、竜たちは翼を休めたり、首を伸ばして相棒の手元を覗き込んだりしていた。


出撃前の張り詰めた空気はない。


それでも、竜舎は静まり返っているわけではなかった。


鞍を締め直す音。

革帯を引く音。

竜が喉を鳴らす低い音。

誰かが短く注意する声。


そういう音が、広い石造りの建物の中に散っていた。


レイナはロザの横に立ち、鞍の位置を確かめていた。


ロザは、もう左翼を庇わない。


鞍を調整してから、しばらくが経っている。翼の付け根に当たっていた革帯は位置を変えられ、擦れを防ぐための当て布も入れられた。最初の数日は短い低空飛行だけだったが、今では王都周辺の哨戒や、森沿いの集落の警護にも問題なく出られる。


ロザは以前のように飛べる。


けれどレイナは、鞍の当たりを見ることをやめなかった。


左翼の付け根に手を添え、革帯の位置を確かめる。指先で当て布の端を押さえ、翼を少し広げても引っかかりがないかを見る。


ロザは大人しくしていた。


強い赤が差した淡い桜色の鱗は、春の光の中で柔らかく見える。尾の先も落ち着いていて、目だけが逃げるような動きもない。


「よし。今日も問題なし」


レイナが言うと、ロザは喉を低く鳴らした。


少し呆れたような音だった。


レイナは眉を上げる。


「毎回しつこいと言いたいのでしょうけれど、確認はします。これは決定事項です!」


ロザがもう一度鳴らす。


「抗議は受け付けません!」


そう言って、レイナはロザの首を撫でた。


ロザは少しだけ目を細める。


その仕草を見るたび、レイナは胸の奥で小さく息を吐く。痛がっていない。嫌がっていない。もう大丈夫だと分かっていても、確認してからでなければ落ち着かなくなっていた。


それは反省というより、今では習慣に近い。


「竜相手にずいぶん喋るな」


背後から声がした。


レイナは振り返り、すぐに姿勢を正した。


「お疲れ様です! レイヴン小隊長殿!」


竜舎の入口近くに、小隊長が立っていた。


任務のない日だというのに、甲冑の一部だけは身につけたままだった。髪は少し乱れ、顎には無精髭が残っている。眠そうな目つきもいつも通りだったが、視線はまっすぐロザの左翼の付け根へ向いていた。


レイヴンは顔をしかめる。


「声がでかい。竜舎で張る声じゃねえ」


「はっ!失礼しました!」


「本当に思ってるか」


「もちろんです!」


ロザが喉を鳴らした。


レイナはロザを見る。


「ロザまで疑わないで!」


「相棒は正直だな」


「隊長の相棒ほどではありません」


レイナはそう返してから、竜舎の奥へ視線を向けた。


黒い竜がいた。


大きな体を伏せ、翼を畳み、眠っているように見せている。けれど、片目だけがうっすらと開いていた。黒い鱗は竜舎の陰の中でも沈みきらず、奥の方に鈍い光を抱えている。


レイヴンの相棒だ。


レイヴンはロザの近くまで歩いてくると、左翼の付け根を一度見た。


「続いてるな」


「何がですか」


「鞍を見る癖だ」


「癖ではありません。必要な確認です」


レイナはきっぱりと言った。


レイヴンは面倒くさそうに片眉を上げる。


「いちいち訂正するな」


「必要なことです」


その様子を、ロザが静かに見ている。レイヴンはロザの尾の動きと目の位置を見てから、短く頷いた。


「嫌がってはいねえな」


「はい。鞍を調整してから安定しています。飛行中も、着地時も問題ありません」


「ならいい」


それだけ言って、レイヴンはロザから視線を外した。


確認は短い。


けれど、必要なところは見ている。


レイナはそのことを知っていた。


「最初に気づいたのは、あの獣人の子だったな」


レイヴンが言った。


レイナの手が、ロザの首の上で止まる。


「クロです」


「獣人の子で通じる」


「名前くらい覚えて差し上げてもよろしいのでは?」


「他に覚えるべき相手が多すぎる」


「ひどい言い草ですね」


レイナはそう言ったが、声に怒りはなかった。


レイヴンが覚えていないわけではないことは、なんとなく分かっていた。冬の開墾地で、ロザの違和感を指摘した小さな獣人の少女。あの場にいた者で、彼女のことを完全に忘れている者はいないだろう。


レイナはロザの鱗を指先で撫でた。


「不思議な子でしたね」


「不思議だと?」


「ええ。竜を怖がらないわけではないのに、目を逸らしませんでした。ロザの色を見て綺麗だと思っていたのでしょうけれど、それだけではなくて、翼の戻り方や、目の動きまで見ていました」


レイヴンは黒い竜の方へ歩きながら聞いていた。


「お前も見てただろ」


「見ていました。でも、充分ではありませんでした」


レイナは素直に言った。


言い訳の声ではなかった。


ロザはその声に反応したのか、鼻先をレイナの肩へ少し寄せる。レイナは自然にその鼻先を撫でた。


「本人は、変だと思っただけと言っていました。でも、その変だと思う場所が、私とは違っていました」


「存外、子供の言うことは馬鹿にできねぇ」


レイヴンは短く言った。


「隊長らしい褒め方ですね」


「褒めてねえ」


「褒めています」


黒い竜が、低く鳴いた。


レイナは竜舎の奥を見る。


「相棒もそう言っています」


「こいつは何も言ってねえ」


レイヴンは黒い竜の首元を軽く叩いた。


黒い竜は目を細める。


その仕草は、嫌がっているようにも見えない。かといって、素直に喜んでいるようにも見えなかった。


レイナは少し笑った。


「隊長は、今日も名前で呼ばないのですね」


「呼ぶと嫌がるからな」


「アラフェル、良い名だと思いますけれど」


黒い竜が低く、短く鳴いた。


今度は、はっきりと不満そうだった。


レイナは言葉を止める。


「……本当に嫌そうですね」


「だろ」


レイヴンは当然のように言う。


「気に入らねえ名を、いちいち呼ぶのは野暮だ」


「それで、こいつ、ですか」


「通じてる」


「乱暴です」


「今さらだな」


レイヴンはそう言って、黒い竜の爪先を確かめた。


口調は雑だが、丁寧に細部まで見る。爪の欠け、翼の畳み方、首の角度。眠そうな顔をしていても、見るべきところは見ている。


レイナはその手元を見ながら、ぽつりと言った。


「隊長も、よく見ていますよね」


「見なきゃ分からねえからな」


その言葉に、レイナは少しだけ目を瞬かせた。


クロも同じようなことを言っていた。


見ないと分からないから。


あの子は、当たり前のようにそう言った。


レイナはロザの左翼の付け根をもう一度見た。特に異常はない。ロザの目も落ち着いている。けれど、見ることをやめる理由にはならなかった。


「クロは、今頃何を見ているのでしょうね」


レイヴンは黒い竜の側に立ったまま答えた。


「開墾地の子なら、土でも見てるんじゃねえか」


「言い方」


「違うのか」


レイナは少し考えた。


冬の開墾地で見た、黒い髪と金色の目をした小さな獣人の子。桜色のロザを見上げて、怖がりすぎるでもなく、無遠慮に近づくでもなく、ただじっと見ていた。


翼。

尾。

目。


竜だけでなく、きっと土の上の小さな生き物も、同じように見るのだろう。


「……違わないかもしれません」


レイナは認めた。


「でも、あの子はたぶん、土だけを見て終わる子ではありません」


「何を根拠に」


「あの子、聞いたんです。竜騎士って、女の人でもなれるのかって」


レイヴンの目が、少しだけレイナへ向く。


「お前、なんて答えた」


「なれる、と。大変だけど、とも言いました」


「嘘じゃねえな」


「ええ。かなり控えめに言いましたわ」


レイヴンは鼻で笑った。


「控えめすぎるな」


「子供相手に、朝は早いし、重労働だし、上司は口が悪いし、と全部並べるわけにもいかないでしょう」


「最後のは余計だ」


「大事な情報です」


レイナは軽く言ってから、少しだけ声を落とした。


「でも、あの子は大変だと聞いても、目を逸らしませんでした。怖いもの知らずというより、知らないことを必死に理解しようとしている感じでした。うまく言えませんけれど、ただ綺麗なものを見て喜んでいる目ではなかったんです」


「子供の目だ」


「子供の目でも、何年かすれば変わります」


レイヴンは何も言わなかった。


黒い竜が、片目を細く開けてレイナを見る。ロザも静かに首を傾けていた。


竜舎の外から、訓練場の笛の音が聞こえた。任務のない日でも、竜騎士団の一日は止まらない。誰かが若い竜に指示を出し、別の場所では革帯を締め直す音が上がっている。


レイヴンは黒い竜の首元をもう一度叩いた。


「お前のことも見てたな」


黒い竜が、わずかに目を細める。


レイナが振り返った。


「クロが、ですか?」


「ああ。黒いからかと聞いたら、強いからだとよ」


レイナは少し驚いて、それから笑った。


「まあ。良かったではありませんか」


「何が」


「褒められて」


「こいつが調子に乗る」


黒い竜が低く鳴いた。


レイナは口元を押さえた。


「もう乗っているようです」


「お前ら、いちいちうるせえな」


レイヴンが鬱陶しそうに言う。


ロザが小さく喉を鳴らす。


レイナはその首を撫でた。


「分かっているわ。私たちは、私たちの確認をしましょう」


ロザは目を細めた。


レイヴンは黒い竜のそばを離れ、竜舎の入口へ向かう。黒い竜は動かない。片目だけを開けたまま、また眠っているような顔に戻っていた。


「隊長」


レイナが呼ぶと、レイヴンは振り返らずに足を止めた。


「では、いつかその子が竜騎士団に来たら、名前を覚えていただけますか」


「来たらな」


「来たら、ですか」


「来ねえかもしれねえだろ」


「来るかもしれません」


レイヴンは少しだけ黙った。


それから、面倒くさそうに言う。


「その時は、そいつの方から名乗るだろ」


そう言って、今度こそ歩き出した。


レイナはその背中を見送りながら、冬の開墾地で出会った小さな獣人の子に想いを馳せる。


よく見る子だった。


竜を怖がらないわけでもなく、それでもずっと真剣に観察をしていた。


今頃、あの子は春の土の上で、何を見ているのだろう。


レイナはそう思ったが、口には出さなかった。


竜舎の外では、春の光の中を、竜騎士たちの声が行き交っていた。

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