序章 第13話 「見続ける日々」
クロは、石の上にいるかけしっぽを見ていた。
春の日差しを浴びた小さな蜥蜴は、尾の欠けた体をぺたりと石に預けたまま動かない。けれど眠っているわけではなかった。頭はわずかに下がり、目は閉じず、前足の先は石の縁にかかっている。
草の根元に、小さな虫がいた。
次の瞬間、かけしっぽが跳ねた。
ぱしっ、と短い音がして、小さな虫が消える。尾の欠けた蜥蜴は、獲物をくわえたまま石の陰へ戻った。
「食べた」
クロが呟くと、背後で父が笑った。
「また見てたのか」
「うん。今のは逃げる時と違った」
父は少しだけ石の方を見た。
「分かるのか」
「うん」
クロは頷いた。
「見てると、違う」
父はそれ以上、笑わなかった。馬鹿にもせず、変だとも言わず、ただ短く言った。
「そうか」
その一言だけで、クロはまた石の方を見た。
それから二年、クロは見続けた。
かけしっぽだけではない。石の下にいる別の蜥蜴。畑の上を低く飛ぶ鳥。森の端を歩く王国軍の兵。商隊の荷を下ろす商人の手元。鍬を振るう大人たちの足運び。水路の流れ方。雨の前に湿る土の色。
父は疲れている時、鍬を振る前に一度だけ息を止める。母は種芋を選ぶ時、傷だけではなく重さも見る。王国軍の兵は森を見る時、木の間だけではなく足元の草を見る。商人は壊れやすい荷を、荷台の端には置かない。
最初は何も分からなかった。
けれど何度も見ているうちに、同じように見えるものの中に、少しずつ違いが見えてきた。
開墾地も、この二年で姿を変えた。
森と石と根ばかりだった土地には小屋が増え、壁は板で補強され、屋根は前より雨を防ぐようになった。何度も崩れた水路は畑の端まで水を運び、荷車が通れる道ができ、魔狼の襲撃のあとに増やされた柵と見張り台はそのまま残された。
誰かが、この場所を村と呼ぶようになった。
最初は冗談のようだったが、朝になれば煙が上がり、畑に人が出て、水路に水が流れ、子供たちが道を走り、商隊が来れば大人たちが荷台の周りへ集まる。
もう、ただ逃げてきただけの場所ではなかった。
クロも少し背が伸びた。
前より重い籠を運べる。水桶もこぼさずに運べる。道具をどこへ戻せばいいかも分かる。
それでも、つい時間を忘れてかけしっぽを見ていると、母に小言を言われた。
「クロ、かけしっぽは逃げるかもしれないけど、仕事は逃げないわよ」
「仕事は逃げていいもん」
「よくないわ」
「むぅ……お母さんのいじわる」
クロは少し不満そうな顔をして籠を持ち、父は笑い、母は呆れる。
そんなやり取りも、いつの間にか日常になっていた。
空を見る癖も、変わらなかった。
王都の方角から鐘の音が聞こえると、クロは手を止めて空を見上げる。
竜騎士団が飛び立つ日がある。
以前のクロは、あの日、砕けた教会の向こうに立っていた白い竜だけを探していた。けれど今は、黒い影が混じっていないか、淡い桜色の竜はいないか、灰色や緑の竜もいるのではないかと、隊列そのものを見るようになっていた。
遠すぎて色など分からない日もある。雲に紛れて見失う日もある。ただの見間違いかもしれない日もある。
それでもクロは見る。
白い竜が高度を変えると、後ろの竜が少し遅れて形を変える。隊列の端にいる竜は、時々外側へ膨らむ。同じ方へ飛んでいるようで、それぞれの翼の動きは少しずつ違う。
なぜそうするのかは分からない。
分からないから、見た。
商隊が来る回数も増えていった。
最初は商隊が来るだけで開墾地中が騒ぎになったが、今では大人たちも落ち着いて品を選ぶようになっていた。塩、針、油、鍋、布、鉄の金具。芋や薪、薬草、獣の皮と引き換えに、暮らしに必要なものが荷台から降ろされる。
やがて収穫が安定すると、余った芋は酒に仕込まれるようになった。
貴族が飲むような上等なものではない。香りも荒く、喉に少し引っかかる。けれど体が温まり、値も手頃で、王都の職人や兵たちにはよく売れるらしい。
共同の物置の隣には、酒を仕込む小屋が建った。風向きによっては、甘く重い匂いが畑の方まで流れてくる。
商人は空の小樽を持ってくるようになり、芋酒が王都へ運ばれ、代わりに銅貨が置かれるようになった。
時には、小さな銀貨もあった。
硬貨は、最初クロにとって大人が使うものだった。母が布を買う時に数え、父が壊れた鍬の金具を直してもらう時に商人へ渡す、小さくて薄くて、土の上に落とせばすぐ見失いそうなもの。
けれど暮らしが少し落ち着くと、水運びや石拾いや荷下ろしを手伝った子供たちにも、たまに銅貨が渡されるようになった。
干し果物をひとかけ買えばなくなるくらいの、小さなお金だった。
それでもクロは、もらった銅貨をすぐには使わなかった。
クロには見るべき場所があった。
商隊が来るたび、荷台の隅を見る。
二年前、そこに本があった。
古い革の表紙に、翼のある生き物が描かれていた本。竜にも色々いるのだと商人が言い、紙は高いのだと母が困ったように肩へ手を置いた本。
クロは、それを忘れていなかった。
欲しいと泣いたことはない。買ってほしいとねだったこともない。
けれど商隊が来るたび、布の束の下、古い鍋の横、針の箱の後ろ、紐で縛られた紙束の中に、竜の絵を探した。
ずっと空振りだった。
それでもクロは見た。
かけしっぽを見るように。
空の竜を見るように。
ある日、商隊がまたやって来た。
荷馬車は三台に増えていた。顔なじみになった商人が村人たちに挨拶をしながら荷を下ろし、父は道具の金具を見ていて、母は布の値段を確かめている。
クロは母に頼まれ、細い紐の束を受け取るために荷台のそばへ行った。
その時だった。
荷台の奥に置かれた木箱の隙間から、古い革の表紙が見えた。
クロの足が止まる。
擦り切れた表紙。色あせた紐。角の丸くなった紙。
そして、その表紙に描かれていた、翼のある生き物。
クロは息を止めた。
竜だった。
二年前に見たものと同じかは分からない。同じ本なのか、別の本なのかも分からない。
けれど、そこに竜がいた。
空の向こうに探し続けたもの。
あの日、砕けた教会の先に舞い降りたもの。
魔狼の恐怖から救ってくれたもの。
それが今度は、古い革の表紙の上にいた。
クロは、母に頼まれていた紐のことも忘れて、その本を見つめた。
傾き始めた日差しの中、荷台の隅で眠っていた古い本が、クロの金色の瞳に静かに映っていた。




