序章 第14話 「珍しくもない本」
クロは、荷台の奥にある古い本を見つめていた。
擦り切れた革の表紙。
色あせた紐。
角の丸くなった紙。
そして、その表紙に描かれていた、翼のある生き物。
紛れもなくそれは竜だった。
二年前に見た本と同じかは分からない。同じ本なのか、別の本なのかも分からない。
けれど、そこに竜がいた。
クロは母に頼まれていた紐のことも忘れて、じっとその本を見ていた。
「おや」
荷台の向こうで、商人が声を上げた。
「それが気になるのかい?」
クロは少し肩を揺らした。
見つめすぎていたことに、今さら気づいた。
「……これは、竜の本?」
クロが訊くと、商人は荷を下ろす手を止め、木箱の隙間からその本を引き出した。
「竜だけの本じゃないな。これは建国記だ」
「けんこくき」
クロは聞き慣れない言葉を繰り返した。
商人は表紙の埃を軽く払う。
「この国がどうやってできたか、昔の王様がどうやって国をまとめたか、そういうことが書いてある本だよ」
クロは表紙の竜を見た。
「竜のことも書いてある?」
「書いてある。ちゃんとな」
商人は本の紐をほどき、少しだけ表紙を開いた。
中の紙は黄ばんでいて、端がところどころ擦り切れている。けれど、最初の方のページには、翼を広げた竜と、剣を持つ王らしい人物の絵が描かれていた。
クロの目が、そこに吸い寄せられる。
「王国は竜と一緒に建った、って話だからね」
商人が言った。
「もっとも、子供が読む絵本とは違う。これは貴族の家で、国の成り立ちを教えるために置かれるような本だ。建国記としては珍しすぎるものじゃないが、文字は古いし、言い回しも硬い。ひとりで読むには骨が折れるぞ?」
「難しい?」
クロが訊くと、商人は頷いた。
「かなりね。竜の絵はあるが、絵本じゃない」
クロはもう一度、本の中を見た。
竜の絵がある。
王の絵がある。
太陽の印。
月の印。
翼を広げた龍の印。
文字はまだほとんど読めない。
けれど、そこに自分の知らないものがたくさんあることだけは分かった。
「中、見てもいい?」
クロが訊くと、商人は少し笑った。
「少しだけならね。紙は古いから、破らないように」
クロは頷いた。
両手を洗っていないことに気づき、自分の汚れた手を見てすぐに引っ込める。
「今は、見るだけにする」
「賢い子だ」
商人は感心したように言った。
クロは褒められたことには反応せず、表紙の竜を見続けた。
そこへ、母が戻ってきた。
「クロ、紐は……」
言いかけた母は、クロの視線の先にある本を見て、言葉を止めた。
「また、本を見つけたのね」
クロは小さく頷いた。
「竜のこと、書いてあるって」
母は商人を見る。
商人は苦笑した。
「竜だけではありませんよ。アウルドラニア建国記です。この国の成り立ちを書いたものです。古い本ですが、挿絵も綺麗に残っていますよ」
母は少し困った顔をした。
その顔を見て、クロは胸の奥がきゅっと小さくなった。
本は高い。
それは知っている。
紙も高い。
文字を書ける人も、写せる人も多くない。
食べ物や布や道具と違って、今すぐ暮らしに必要なものではない。
クロはそれを、二年前から分かっていた。
だから、欲しいと言わなかった。
商隊が来るたびに荷台の隅を見た。
本がないか探した。
見つからなければ、何も言わなかった。
でも、今は目の前にある。
竜が描かれている。
王国と竜の話が書いてある。
空の竜を遠くから見るだけでは分からないことが、少しでも書かれているかもしれない。
クロは唇を結んだ。
母が静かに訊いた。
「いくらですか」
クロの耳が動いた。
商人は本を閉じ、少し考えるように表紙を撫でた。
「表紙も紙も傷んでいます。ページも少し欠けている。お世辞にも良い状態とは言えない」
それから、商人は指を三本立てた。
「銀貨三枚でどうでしょう」
母は黙った。
クロには、その値段がどのくらいなのか、すぐには分からなかった。
銅貨なら分かる。
水運びを多く手伝った時にもらえる小さなお金。
石拾いを早く終わらせた時に、たまにもらえるもの。
干し果物をひとかけ買えばなくなるくらいのもの。
けれど銀貨は違う。
大人たちが芋酒の樽を売った時に数えているもの。
鍬の金具や布を買う時に、母が慎重に扱うもの。
子供が気軽に持つものではない。
クロは、自分の小さな袋の中身を思い出した。
銅貨が何枚かある。
ずっと使わずに取っておいたものだった。
でも、足りない。
たぶん、まったく足りない。
母は困った顔のまま、父の方を見た。
父は少し離れた場所で、商隊の金具を見ていた。母に呼ばれてこちらへ来る。
「どうした」
母は小さく本を指した。
「クロが、本を見つけたの」
父は本を見る。
表紙の竜を見て、少しだけ目を細めた。
「竜の本か」
「建国記だそうよ。この国の成り立ちと、竜の話も書いてあるって」
商人が軽く頷く。
「ええ。建国記です。状態が悪いので、銀貨三枚まで下げています」
父はすぐには答えなかった。
クロは父の服の裾を見ていた。
顔を見ると、言えなくなりそうだった。
欲しい。
そう言えば、父と母は困るかもしれない。
銀貨三枚は高い。
そのお金があれば、布が買える。道具を直せる。塩も買える。冬の備えにもできる。
本は食べられない。
本は畑を耕さない。
本は小屋の屋根を直さない。
クロはそれを分かっていた。
だから、何も言わない方がいいと思った。
でも、表紙の竜が目に入る。
古い革の上に描かれた翼。
大きく開いた口。
王の横に立つ竜。
クロは、胸の奥で何かが押し上げてくるのを感じた。
「……お父さん」
父がクロを見る。
「どうした」
クロは自分の小さな袋を握った。
「私の銅貨、使っていい?」
父と母が、同時に少し驚いた顔をした。
クロは袋を両手で持ち上げる。
「少しだけだけど、貯めてた。干し果物、買わなかった。飴も、買わなかった」
袋の中で、小さな銅貨が触れ合って音を立てた。
「足りないの、分かってる」
クロはそこで一度、言葉を止めた。
喉が詰まる。
欲しいと言うのは、怖かった。
今まで、母や父に強く何かをねだったことはほとんどない。
欲しいものがあっても、だいたい見ているだけだった。
必要なものと、欲しいものは違うと分かっていた。
それでも。
「でも……これ、欲しい」
小さな声だった。
けれど、父と母には聞こえた。
クロは本を見た。
「竜のこと、書いてあるなら、見たい。空の竜は遠くて、よく分からないから。本なら、近くで見られると思う」
母は黙っていた。
父も黙っていた。
クロは慌てて続けた。
「高いなら、すぐじゃなくていい。私、もっと手伝う。水も運ぶし、石も拾うし、荷下ろしもする。飴も、干し果物も、いらない」
言えば言うほど、申し訳なくなった。
それでも、止められなかった。
「だから……いつかでいいから」
クロは袋を握りしめる。
「これ、欲しい」
母が息を吸った。
何かを言おうとして、けれどすぐには言わなかった。
父は本を見ていた。
それから、クロを見た。
「クロ」
「うん」
「この本を買っても、すぐ読めるわけじゃないぞ」
クロは頷いた。
「うん。文字、まだほとんど読めない」
「読めない本を買うのか」
「絵だけでも見る」
クロは少しだけ声を強くした。
「でも、読めるようにもなる。お母さんに教えてもらう。お父さんにも聞く。商人さんにも、分かる字を聞く」
商人が横で少し笑った。
「私にもかい?」
クロは真面目に頷く。
「うん。分からない字、教えてくれる?」
商人は少し面食らったような顔をした後、楽しそうに肩をすくめた。
「時間がある時ならね」
クロは父を見る。
「読む。読めるようになる」
父はその目を見て、何かを思い出したように黙った。
母から聞いていた。
冬の朝、クロが桜色の竜の不調に気づいたこと。
その竜が飛ぶ前に異常を見つけたこと。
若い女竜騎士が、クロに礼を言ったこと。
小隊長まで、また教えてくれと言ったこと。
父はその話を聞いた時、うまく返事ができなかった。
自分の娘は、蜥蜴を見ているだけではないのかもしれない。
そう思った。
白い竜を見上げる目。
黒い竜を忘れない目。
かけしっぽを何時間でも見ている目。
その目が、今は古い本を見ている。
父には、娘が将来何を目指し、どこへ行くのか分からない。
けれど、この本がクロの中で何かになることだけは分かった。
母も同じだったのだろう。
母は静かにクロの袋に手を添えた。
「クロのお金も、使うの?」
クロは頷いた。
「うん。少ししかないけど」
「使ったら、干し果物は買えないわよ」
「いい」
「飴も」
「いい」
「本は、甘くないわよ」
クロは少しだけ眉を寄せた。
「それは分かってる」
母はそこで、少し笑った。
困ったような、でも嬉しそうな笑みだった。
「そう」
父は商人を見た。
「銀貨三枚だったな」
「ええ」
「……よし」
少しの沈黙の後、父は懐から小さな革袋を取り出した。
その動きを見て、クロの耳がぴんと立つ。
父は袋の中を確かめ、銀貨を三枚取り出した。
クロは息を止めた。
「お父さん」
「クロの銅貨は、母さんに渡せ」
「でも」
「これは、父さんと母さんも買う本だ」
クロは目を丸くした。
父は少し照れくさそうに、視線を本へ逃がした。
「この国のことが書いてあるんだろう。俺たちのような田舎者でも、ちゃんと知っていて悪いことはない」
母が頷いた。
「それに、文字を覚えるなら本は必要よ。帳面の切れ端だけでは、覚えられる字も少ないもの」
クロは二人を見た。
「いいの?」
父は短く言った。
「欲しいんだろう」
クロは本を見る。
表紙の竜が、そこにいる。
「……うん」
「なら、大事にしろ」
クロは強く頷いた。
「うん。大事にする」
母がクロの手から銅貨の袋を受け取った。
「これは後でどうするか考えましょう」
「使っていい」
「そういうところも、ちゃんと考えるの」
「むぅ……」
母は笑い、父も少しだけ笑った。
商人は銀貨を受け取り、本を丁寧に布で包んだ。
「古い本だからね。湿気には気をつけるんだよ。濡れた手で触らない。無理に開かない。紐は強く引っ張らない」
クロは一つずつ頷いた。
「うん」
「それと、読めない字が多くても、嫌にならないことだ」
「ならない」
「早いな」
「ならないもん」
商人は声を立てて笑った。
「それなら、この本も良い買い手に渡った」
クロは布に包まれた本を、両手で受け取った。
思っていたより重かった。
ただの紙の重さではない気がした。
父と母が買ってくれたもの。
自分の銅貨も少し入るかもしれないもの。
二年前からずっと探していたもの。
そして、竜のことが書いてあるもの。
クロは胸に抱えるようにして、本を持った。
その日の夜、クロは小屋の中で、父と母に挟まれて座っていた。
火は小さく燃えている。
外では夜風が戸板を揺らしている。
けれど、小屋の中は暖かかった。
母が手を拭いてから、包みの布をほどく。
父が灯りを少し近づける。
クロは膝の上に手を置いたまま、じっと本を見ていた。
「触っていい?」
「手は拭いた?」
「拭いた」
「じゃあ、ゆっくりね」
クロはそっと表紙に触れた。
古い革は少し硬く、ところどころ乾いている。指先に、擦り切れた凹凸が伝わった。
表紙には、竜の入った紋章が描かれていた。
翼を広げた竜。
その下に、太陽と月。
そして、剣を持つ王らしい人物の印。
父がゆっくりと表紙の文字を読んだ。
「アウルドラニア建国記」
クロはその文字を見た。
まだ全部は読めない。
けれど、父の声と表紙の竜が重なって、その言葉は胸の奥に残った。
アウルドラニア建国記。
クロは小さく息を吸い、本の表紙を見つめ続けた。




