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序章 第7話 「冬夜の小隊」

それは、白い竜ではなかった。


小屋の壊れた戸口の向こう、冬の夜闇の中に降り立った竜は、あの日クロが見た純白の竜よりも小柄だった。


けれど、それでも人よりは遥かに大きい。


黒い鱗が、見張り火の赤を受けて光っていた。


ただの黒ではない。

煤のように沈む黒でも、夜に紛れるための黒でもなかった。


火が揺れるたび、その鱗の奥に、濡れた鉄のような鈍い光が走る。

翼を畳む動きは静かで、鋭い爪が地面を掴むたび、凍った土が小さく砕けた。


低く構えた首。

引き絞られたような胴。

無駄なくたたまれた翼膜。


その姿には、白い竜のような神々しさはなかった。


けれど、怖いほど整っていた。


戦うために削られた形。

夜の中で獲物を見失わない目。

飛ぶためではなく、落ちるためにもあるような翼。


クロは、その竜から目を離せなかった。


白い竜とは違う。

あの日の朝日の白とは、まるで違う。


それなのに、その黒は、なぜか胸の奥に残った。


その背には、槍を構えた騎士がいた。


銀の甲冑を身につけている。

けれど、それは物語の挿絵に描かれるような、曇りひとつない輝きではなかった。


胸当てには泥と雪が跳ね、外套は風に乱れ、革帯には擦れた傷がいくつも残っている。

肩口には見張り火の赤が揺れ、銀色の表面を鈍く照らしていた。


男の顔には、無精髭があった。


眠っていたところを叩き起こされたような、少し気だるげな目。

それでも、周囲を見る視線は油断なく鋭かった。


それは、紛れもなく、竜騎士だった。


小隊長は、槍の穂先を魔狼へ向けたまま、面倒くさそうに息を吐いた。


「ったく、冬の夜に働き者だな。こいつらは」


その声は、クロが思っていた竜騎士の声とは少し違っていた。


もっと低く、もっと澄んでいて、もっと遠くから響くようなものだと思っていた。


けれど、その声は少し掠れていて、ひどく現実のものだった。


小隊長の背後に、さらに三頭の竜が降り立った。


一頭は灰色の細身の竜。

もう一頭は、赤茶けた鱗を持つ、翼の大きな竜だった。

そして三頭目は、くすんだ緑の鱗を持つ、低く頑丈な体つきの竜だった。


それぞれの背に、銀の甲冑をまとった竜騎士がいる。


誰も派手な名乗りは上げなかった。

降り立つなり周囲を見て、魔狼の位置と、柵の破れと、逃げ遅れた者たちを確かめている。


小隊長が手綱を引く。


黒い竜は、ほとんど遅れずに一歩前へ出た。


命令を待ったというより、同じものを見て、同じ答えを選んだような動きだった。


戸口の前にいた魔狼が、牙を剥いて身を低くする。


黒い竜の瞳が、細くなった。


次の瞬間、前脚が振り下ろされる。


速かった。


巨体に似合わない速さで、黒い爪が魔狼の肩を地面へ縫い止める。


鈍い音。

骨が砕ける音。

魔狼の唸りが、途中で潰れた。


黒い竜は吠えなかった。

勝ち誇りもしなかった。


ただ、押さえていた。


逃がさないために。

小屋へ入れないために。

そこにいる者を守るために。


クロは母の腕の中で息を呑んだ。


強い。


ただ、それは白い竜を見た時の強さとは違っていた。


あの日の白い竜は、朝日の中で奇跡のように立っていた。


目の前の黒い竜は、夜の泥の上で、ただ確かに魔狼を押さえつけていた。


「二番、北側に回れ。柵の破れを塞げ」


灰色の竜が翼を広げた。

背の騎士が短く応じる。


「了解」


次の瞬間、その竜は地を蹴り、低く飛び上がって北側へ向かった。


「三番、火の外へ出た奴を落とせ。森へ戻すな」


赤茶の竜が喉を鳴らし、翼を打つ。

騎士は返事の代わりに槍を掲げ、そのまま柵の外側へ飛び立った。


「四番、お前は地上だ。兵と組め。村人を小屋から出すな。噛まれた奴は後回しにするなよ」


くすんだ緑の竜に乗った竜騎士が、短く頷いた。


指示は短かった。


だるげな声のままなのに、不思議と迷いがない。

命令を受けた竜騎士たちは、それぞれの場所へ散っていく。


小隊長は小屋の入口から視線を外さず、槍を構え直した。


「そこの兵。小屋の中、生存者は?」


近くにいた王国軍の兵が、息を切らしながら答える。


「親子三名! 男一名が負傷!」


「小屋に魔狼を入れるな。負傷者は動かせるか」


「確認します!」


「無理に動かすな。噛まれてるか先に見ろ」


粗い言葉だった。


けれど、その言葉を聞いた兵たちの動きが少しだけ戻った。


竜騎士が来た。


その事実が、開墾地に残っていた恐怖を、ほんの少し押し返していた。


外では、まだ魔狼の群れが吠えている。

遠吠えではない。

追い詰められ、怒り、飢えた声だった。


一頭の魔狼が、黒い竜の横をすり抜けようとした。


小隊長が舌打ちする。


「おい、そっちは小屋だ」


黒い竜が翼を半ば広げた。


たったそれだけで、風が起こる。

魔狼の足が止まる。


小隊長の槍が伸びた。


穂先が魔狼の首筋を正確に貫く。

派手な動きではなかった。

掛け声もない。


ただ、必要な場所へ、必要な一撃が入った。


魔狼は崩れ落ちる。


小隊長は槍を引き抜き、すぐ次を見る。


「次」


その声に、黒い竜が低く喉を鳴らした。


クロは、その様子を見ていた。


白い竜の時のように、目を奪われて動けないわけではなかった。

目の前には倒れた父がいる。

母の腕は震えている。

外には、まだいくつもの魔狼がいる。


それでも、クロは見ていた。


竜騎士が、どう動くのか。

竜が、どう魔狼を止めるのか。

兵士たちが、どうその指示に応じるのか。


見なければ、分からない。


そう思った。


小屋の外では、灰色の竜が柵の破れた場所へ降りていた。


背に乗る騎士が短い笛を鳴らす。


王国軍の兵たちが、それに合わせて火のついた薪を投げた。


魔狼の群れが火を嫌って横へ逸れる。

そこへ上空から赤茶の竜が降り、逃げ道を塞ぐ。


狼たちは、ただ斬られているわけではなかった。


押されている。

追われている。

分けられている。


群れが、少しずつ形を失っていく。


クロにはそれが、完全には分からなかった。


でも、白い竜が先頭で隊列を率いていた時と同じように、そこには何かの形があった。


意味のある動き。


ばらばらに見える竜と騎士と兵士たちが、ひとつの大きな手のように魔狼たちを押し返している。


小隊長が再び声を飛ばす。


「右だ。小屋の陰に一頭入った」


返事より先に、黒い竜が動いた。


爪が土を掴む。

体が沈む。

次の瞬間、その巨体が横へ跳ねた。


小屋の陰へ回り込もうとしていた魔狼が、黒い竜の肩に弾き飛ばされる。

地面を転がったところへ、王国軍の兵が槍を突き出した。


外れた。


兵が息を呑む。


魔狼が体を起こす。


小隊長が叫ぶ。


「引け!」


兵が飛び退いた直後、黒い竜の爪が魔狼を押さえ込んだ。


小隊長は兵を怒鳴りつける。


「刺す時は肩じゃねえ、首か腹を狙え! 止めるなら足だ! 次は迷うな!」


「は、はい!」


兵は顔を引きつらせながらも頷いた。


小隊長はもうその兵を見ていなかった。

次の魔狼を見ていた。


クロは、その横顔を見た。


怖くないわけではないのだと思った。


魔狼に近い。

風も、牙も、爪も、血の匂いも、全部すぐそばにある。


それでも、小隊長は見ている。

一頭ずつ。

一人ずつ。

小屋も、兵も、魔狼も、柵の破れも。


全部を見ている。


クロは、自分の手が母の服を掴んでいることに気づいた。


指が痛いほど力んでいた。


その時、母が小さく息を呑んだ。


「あなた……」


クロははっとして、父を見た。


父はまだ、薪の束のそばに倒れていた。

土と雪と、崩れた薪に半ば埋もれるようになっている。


動いていない。


そう思った。


けれど。


父の指が、ぴくりと動いた。


クロは息を止めた。


もう一度見る。


土の上に投げ出されていた指が、ほんの少しだけ曲がる。


「お父さん」


声が出た。


小さな声だった。


でも、確かに出た。


母が父の方へ身を乗り出す。


「あなた!」


今度の声は、悲鳴ではなかった。

震えてはいたが、そこには光が混じっていた。


父の胸が、わずかに上下している。


生きている。


クロはその事実を、ゆっくり理解した。


父は生きている。


間に合った。


その言葉が、胸の中に落ちた。


あの日、クロは思った。


助けるって、間に合わないと、だめなんだ。


白い竜は来た。

でも、動かない人もいた。

泣いている人もいた。

助かったのに、全部は戻らなかった。


けれど、今。


父の手は動いた。

父は息をしている。

母もいる。

自分もいる。


竜騎士は、間に合ったのだ。


白い竜ではなかった。


あの朝日を背負った白ではなかった。


無精髭の小隊長と、黒い鱗の竜と、冬の夜を裂いて降りてきた小隊だった。


それでも。


間に合った。


クロの胸の奥で、固くなっていたものが少しだけほどけた。


涙は出なかった。


けれど、息が戻った。


母がクロを抱いたまま、父の方へ手を伸ばす。


王国軍の兵が駆け寄り、父のそばに膝をついた。


「息はある!」


兵が叫ぶ。


小隊長がちらりとそちらを見る。


「噛まれてるか」


「噛み傷は見えません! 打撲と、肋かもしれません!」


「なら今は動かすな。小屋の内へ入れろ。火の近くに寄せろ」


「はい!」


小隊長の声には、感情らしいものはほとんどなかった。


父が何をしたのかも知らない。

なぜそこに倒れていたのかも、詳しく見てはいない。


けれど、父を死なせないための言葉だった。


それで十分だった。


兵たちが父を慎重に小屋の中へ引き入れる。

母がそのそばへ寄る。

クロも膝で進むようにして近づいた。


父の顔は青白い。

額には汗が浮かび、唇の端が切れていた。


それでも、息をしている。


「お父さん」


クロが呼ぶ。


父の瞼が少しだけ震えた。


返事はない。


でも、生きている。


クロは父の手を両手で握った。


大きな手だった。


あの日、震えていた手。

さっき、剣を握っていた手。

今、まだ温かい手。


外では、戦いが続いていた。


小隊長の黒い竜が低く吠える。

灰色の竜が柵の前を横切る。

火の明かりが翼の裏を赤く照らす。


魔狼たちは、もう小屋へ近づけなかった。


一頭が逃げようと森の方へ走る。


上空の赤茶の竜が翼を折り、急降下する。

背の騎士が短く槍を投げた。


槍は魔狼の前方の地面に突き立ち、逃げ道を塞ぐ。

魔狼が反転したところへ、地上の兵が火を投げる。


小隊長が叫ぶ。


「森へ逃がすな! 散らすな、寄せろ!」


黒い竜が喉を鳴らす。


次の瞬間、低く突進した。

その爪が一頭の魔狼を地面に縫い止める。


小隊長の槍が落ちる。


また一頭、魔狼が動かなくなった。


それは美しい戦いではなかった。


泥が跳ねた。

血が飛んだ。

竜の爪が土を抉り、騎士の怒号が夜に響いた。

王国軍の兵は転び、立ち上がり、また槍を構えた。


けれど、確かに押し返していた。


少しずつ。

一頭ずつ。

確実に。


クロは父の手を握ったまま、その光景を見ていた。


白い竜は、美しかった。


あの日の白は、クロの中で今も眩しい。


けれど、目の前の黒い竜は美しいというより、強かった。

怖く、重く、夜の中で揺らがぬ存在感があった。


そして、その背の竜騎士は神様のようではなかった。


銀の甲冑は泥に汚れていて。

疲れていて。

口が悪くて。

無精髭で。

少し面倒くさそうで。


けれど、来た。


冬の夜に。

魔狼の群れの中に。

泣き叫ぶ人たちのいる場所へ。


そして、間に合った。


「……竜騎士」


クロは小さく呟いた。


誰にも聞こえないくらいの声だった。


小屋の外で、最後の遠吠えが上がる。


それはさっきまでの飢えた声ではなかった。

押し返され、追い立てられ、群れの形を失った声だった。


やがて、その声も途切れた。


開墾地に、少しずつ静けさが戻っていく。


火の弾ける音。

兵士の荒い息。

負傷者を呼ぶ声。

竜の喉の奥で鳴る低い音。


小隊長が槍を肩に担ぎ、黒い竜の背の上から周囲を見回した。


「怪我人を数えろ。立てる奴は小屋へ戻せ。噛まれた奴を先に見ろ」


その言い方は乱暴だった。


けれど、その言葉で、周囲の大人たちが動き出した。


「小屋ごとに確認!」


「怪我人を火のそばへ!」


「子供を外に出すな!」


王国軍の兵たちも、開墾民たちも、声を張り上げて走った。


母は父のそばに座り、震える手でその額の汚れを拭っていた。


クロはまだ父の手を握っている。


外では黒い竜が、低く首を下げていた。


その鱗に、火の光が揺れている。

黒いはずなのに、ただ暗いだけではない。


火を受けるたび、奥の方から鈍く光る。


白ではない。


それでも、クロは目を離せなかった。


あの白い竜の姿は、今も胸の中に焼きついている。

けれどこの黒い竜の姿もまた、別の場所に沈んでいくように残った。


名前も知らない。

触れたわけでもない。

声を聞いたわけでもない。


それなのに、クロは思った。


この黒を、忘れない。


その夜、クロは知った。


竜騎士は、物語の中だけにいるのではない。

朝日の中だけに現れるのでもない。

白い翼だけが、救いなのでもない。


冬の夜に。

泥と血と獣の臭いの中に。

泥に汚れた銀の甲冑で、眠そうな顔をして、少し口の悪い小隊長とともに降りてくる竜騎士もいる。


そして、その翼もまた、誰かの命に間に合うのだと。

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