序章 第6話 「父の背」
森の闇から響く遠吠えが、開墾地の夜を震わせていた。
小屋の外では、人の声と獣の唸り声が入り混じっている。
金属がぶつかる音。
誰かが転ぶ音。
火のついた薪が投げられ、土の上で弾ける音。
クロは母の腕の中で息を潜めていた。
母の腕は強かった。
痛いくらいに強かった。
けれど、その腕も震えていた。
「お母さん」
クロが呼ぶと、母はすぐに答えた。
「大丈夫」
その声は、いつもの母の声ではなかった。
震えを押し殺し、無理に形を保っている声だった。
「お父さんは?」
母は答えなかった。
小屋の外で、また怒号が上がる。
「右へ回り込むな!」
「火を前へ!」
「子供を奥へ入れろ!」
その声の中に、父の声はなかった。
クロは母の腕の隙間から、戸口の方を見た。
小屋の扉は閉じられている。
けれど、外からの衝撃で板が軋み、隙間から冷たい風が入り込んでいた。
いつもなら、そこから朝の光が入る。
母が水を汲みに出て、父が鍬を担いで外へ出ていく。
クロもその後を追って、土の上へ出る。
けれど今、その向こうにあるのは夜だった。
そして、獣の気配だった。
がり、と音がした。
クロの耳がぴくりと動く。
戸板の向こうを、何かが引っ掻いた。
がり。
がり。
爪が木を削る音だった。
母がクロをさらに奥へ押しやる。
「下がって」
「でも!」
「下がって!」
母の声が強くなる。
クロは小さく頷き、藁を敷いた床の上を後ずさった。
母は戸口の方を見たまま、近くにあった火掻き棒を手に取った。
それは細く、重そうで、母の手には頼りなく見えた。
けれど母は、それを握った。
クロはその手を見た。
白くなるほど、強く握っていた。
がん、と小屋の扉が鳴った。
母が息を呑む。
もう一度。
がん。
今度は板が少し割れた。
隙間から、白い息が流れ込んでくる。
クロはその息を見た。
人の息ではない。
臭いがした。
湿った毛。
血。
腐った肉。
そして、冬の森の冷たさ。
クロの喉が鳴る。
扉の向こうで、低い唸り声がした。
狼。
けれど、ただの狼ではない。
その唸り声は、腹の底を擦るように低く、木の板越しでも胸に響いた。
母が火掻き棒を構える。
「クロ、私の後ろに」
「お母さん」
「後ろ」
クロは母の背中を見た。
母は小柄ではない。
でも、今の母の背中は、扉の向こうのものに比べればあまりにも細かった。
それでも母は前に出た。
その背中で、クロを隠すように。
がん。
三度目の衝撃で、扉の留め具が弾けた。
板が割れる。
冷たい夜気が小屋の中へなだれ込む。
そして、黒い影が戸口に立った。
大きい。
クロが知っている狼より、ずっと大きかった。
背中は痩せているのに、肩だけが異様に盛り上がっている。
毛は荒れ、ところどころ抜け落ち、皮膚の下で硬い筋肉が動いていた。
口元からは白い息と涎が垂れ、濁った黄色い目が小屋の中をなぞる。
魔狼。
誰かがそう呼んでいたもの。
それが、今、目の前にいた。
クロは動けなかった。
母が火掻き棒を持って一歩前へ出る。
「来ないで」
声は震えていた。
けれど、母は下がらなかった。
魔狼は答えない。
低く唸り、前脚を一歩、小屋の中へ入れた。
床の板が軋む。
クロは母の服の裾を掴んだ。
母が少しだけ振り返る。
「大丈夫」
また、その言葉だった。
でも、クロには分かった。
大丈夫ではない。
母も分かっている。
自分も分かっている。
それでも母は、大丈夫と言っている。
魔狼が身を低くした。
跳びかかる前の形。
クロはその姿勢を知っていた。
かけしっぽが虫に飛びかかる前に、目を止める。
体を低くする。
息を詰める。
似ている。
そう思った瞬間、ぞっとした。
これは虫ではない。
これは蜥蜴ではない。
これは、母に飛びかかろうとしている。
「お母さん!」
クロが叫んだ。
その瞬間だった。
「そこをどけぇぇぇぇっ!!!」
聞いたことのない怒号が、小屋の外から叩き込まれた。
次の瞬間、横から飛び込んできた何かが、魔狼の胴へ叩きつけられる。
鈍い音がした。
魔狼の体が戸口の外へ弾かれた。
クロは何が起きたのか分からなかった。
ただ、割れた扉の向こうに、父がいた。
息を荒げていた。
肩で息をしていた。
片手に、剣を握っていた。
王国軍の兵から借りたものだろうか。
それは父の手には少し長く、扱い慣れているようには見えなかった。
刃で斬ったのではない。
横殴りに、体ごとぶつけるようにして、魔狼を叩き飛ばしたのだ。
「あなたっ!!」
母の声が悲鳴のように上がった。
父はクロを見なかった。
母も見なかった。
ただ、戸口の外で起き上がろうとする魔狼を睨んでいた。
普段の父は、あまり大声を出す人ではない。
怒る時も、短く低く言うだけだった。
畑で働く時も、家で話す時も、いつも声は静かだった。
その父が叫んでいた。
喉が裂けそうな声で。
自分より大きな魔物を前にして。
借り物の剣を握りしめて。
クロは父の背中を見た。
泥に汚れた背中。
擦り切れた上着。
震えているかもしれない手。
それでも、絶対に退かない足。
その姿が、一瞬、あの日の白い竜と重なった。
教会の壁が砕けた時。
オーガが腕を上げた時。
もう駄目だと思った時。
白い竜は、絶望の前に割って入った。
今、父がそこにいた。
白い竜のように巨大ではない。
朝日を背負っているわけでもない。
翼もない。
鱗もない。
けれど、父はクロと母の前に立っていた。
クロは初めて、父の背中を大きいと思った。
魔狼が唸る。
父に叩き飛ばされた一頭が、雪混じりの土を蹴って立ち上がった。
口元から血が垂れている。
だが、その目はまだ死んでいない。
父は剣を構え直した。
構え、と呼べるほど整ってはいなかった。
足は開きすぎている。
肩には余計な力が入っている。
剣先も揺れている。
けれど、父は戸口から動かなかった。
「来るな」
低く言う。
「ここには来るな」
魔狼は牙を剥いた。
その背後から、もう一つの影が現れる。
そして、さらにもう一つ。
クロの胸が冷たくなる。
一頭ではない。
小屋の外には、複数の魔狼がいた。
父の横を、王国軍の兵が一人走り抜ける。
「下がれ! 囲まれる!」
「妻と娘が中にいる!」
父が叫ぶ。
兵が一瞬だけ振り返った。
その間にも、魔狼たちはじりじりと距離を詰めてくる。
父は剣を握り直した。
母がクロを抱き寄せる。
「お父さん……」
クロは呟いた。
父は今度こそ、少しだけ振り返った。
顔は土と煤で汚れていた。
額には汗が浮かび、頬には血が滲んでいた。
それでも、父は笑おうとした。
うまく笑えてはいなかった。
けれど、あの日教会で見た笑顔よりは、ずっと強く見えた。
「大丈夫だ」
父は言った。
母が息を呑む。
クロは何も言えなかった。
大丈夫ではない。
さっき、母がそう言った時と同じだった。
それでも、父は大丈夫だと言った。
魔狼が動いた。
速かった。
父が剣を振るより早く、一頭が横へ回り込む。
もう一頭が正面から低く飛び込んでくる。
父は剣を振った。
刃は魔狼の肩をかすめた。
血が飛ぶ。
けれど、止まらない。
魔狼の巨体が、父の胸へぶつかった。
鈍い音。
父の体が浮いた。
「お父さん!」
クロの叫びが小屋の中に響いた。
父は戸口の横へ吹き飛ばされ、積んであった薪の束に叩きつけられた。
薪が崩れる。
剣が手から離れ、土の上を滑った。
父は動かなかった。
一瞬、すべての音が遠くなった。
母がクロを抱え込む。
「あなた……っ!」
母の声は震えていた。
けれど、クロの目は父から離れなかった。
父の手。
父の肩。
倒れたまま動かない背中。
あの日、教会で震えていた父の手。
さっき、剣を握っていた父の手。
その手が、土の上に投げ出されていた。
魔狼が低く唸る。
一頭が父の方へ向く。
もう一頭が、小屋の中を見た。
黄色い目が、クロを捉える。
クロは息ができなかった。
母が火掻き棒を握る。
だが、その手は震えている。
逃げ場はない。
小屋の奥は壁。
戸口には魔狼。
外には闇と遠吠え。
クロは、もう一度、絶望の底へ落ちていくのを感じた。
白い竜は来ない。
小屋の中からは、空が見えない。
父は倒れている。
母は震えている。
魔狼は目の前にいる。
また。
また、奪われる。
クロの視界が滲んだ。
それでも涙は落ちなかった。
ただ、胸の奥で何かがきゅっと固くなっていく。
魔狼が身を低くした。
跳ぶ。
そう分かった。
母がクロを抱きしめる。
「クロ」
その声が、最後の声になるのかもしれないと思った。
その時だった。
外の遠吠えが、途切れた。
一瞬だけ、夜が静かになる。
魔狼の耳が動いた。
兵士たちの怒号も止まる。
開墾民の悲鳴も、そこで詰まったように途切れる。
空気が変わった。
クロには見えない。
小屋の中から、空は見えない。
けれど、何かが来る。
そう思った。
次の瞬間、冬の夜空が鳴った。
風が落ちてきた。
重く、鋭く、翼で打ち下ろされたような風だった。
小屋の壊れた戸口から、冷たい空気と一緒に土埃が吹き込む。
魔狼が振り返った。
外で、何かが地面へ叩きつけられる音がした。
轟音。
続けて、獣の悲鳴。
一頭の魔狼が、戸口の前を横切るように吹き飛ばされた。
地面を転がり、柵の残骸に叩きつけられる。
クロは目を見開いた。
母も息を止めている。
戸口の向こう、夜の闇の中に、巨大な影が降り立っていた。
白ではない。
あの日の白い竜ではない。
けれど、翼があった。
鋭い爪があった。
低く構えた首があった。
その背には、槍を構えた騎士がいた。
さらに上空で、別の翼音が重なる。
一頭ではない。
複数の竜影が、冬の夜空を裂くように旋回していた。
誰かが叫んだ。
「竜騎士だ!」
クロは、倒れた父と、母の腕と、戸口の向こうの竜影を見た。
白い竜ではなかった。
けれど。
それは確かに、竜騎士だった。
父ーーーーーーー!!!(TдT)




