二章 第18話「ルインの町」
南門を出てから二日が過ぎた。
はじめに水袋の革紐が食い込んでいた一件から、休憩ごとの確認はさらに丁寧に行われた。四足型地竜の背に積まれた荷は、揺れてもすぐに直される。革紐の角度が変われば誰かが声を上げ、水袋が遅れて揺れれば、そこで手が入る。
グロムは時々、気が逸った。
前方が開いた時。横の道幅が広がった時。別の二足型地竜が足を速めた時。
首が、わずかに下がる。
そのたび、周囲の地竜の耳が動き、外周の騎乗者たちの視線が集まる。クロは手綱を強く引かず、首元に触れて戻す。クレアは後方から荷列の揺れを拾い、必要な時だけ声を飛ばす。
それが、道中の形になっていた。
昼を過ぎた頃、街道の先に町が見えた。
王都ほどではない。
けれど、宿場町よりはずっと大きい。
外壁の向こうに見張り台があり、門の前には馬車が並んでいる。南へ向かう商隊。北へ戻る馬車。砂を払う旅人。門番と短く言葉を交わす行商人。
ルインの町は、砂漠へ入る前の、交通の要所だった。
クロはグロムの背の上で耳を立てた。
人の声。車輪。乾いた革。干し肉。獣脂。遠くから流れてくる井戸水の匂い。
王都とも、ジェミノ村とも違う匂いがする。
目が忙しく動いた。
つられて、グロムの目も動く。
右。左。見張り台。馬車。人の波。
横からクレアの声が飛ぶ。
「王都から来たのに、まるでお上りさんですわね」
クロは町から目を離さないまま言った。
「仕方ないじゃん。初めて来る場所は、いつだって忙しい」
「耳が?」
「鼻も」
クレアはグロムを見た。
「グロムもね」
グロムが不満げに鼻を鳴らす。
クロは少し笑った。
「グロムも忙しいって」
「でしょうね。首の動きがあなたと同じですもの」
クロは少しだけ首を止めた。
グロムも、少し遅れて首を止める。
クレアはため息をついた。
「似なくてよいところまで似ていますわ」
門での確認を終えると、隊は町の中へ進んだ。
町の人々が道を空ける。
地竜たちを見上げる者もいれば、竜騎士団の紋章を見て頭を下げる者もいる。
クロは少し落ち着かなかった。
自分はまだ竜騎士ではない。
竜舎では糞も掃除する見習いだ。それでも、町の人の目には、竜騎士団の一員として映っている。
隊は大通りを抜け、町の駐屯所へ入った。
宿は使わない。
地竜と荷が多く、駐屯所の広場を借りて野営をする。
広場は踏み固められていて、井戸と水場が近い。荷を下ろす場所、地竜を休ませる場所、野営布を張る場所が、ルーカスの指示で手早く分けられていく。
見習いたちが集められると、ルーカスは広場の中央に立った。
「明日から砂漠入りです」
短い一言で、空気が変わった。
クロの喉の奥が、少しだけ乾いた気がした。
「この町で水と食料を補給します。水袋はすべて井戸水に入れ替えます。革具、予備紐、砂除けの布、薬箱も、再度確認します」
ルーカスは広場を一度見回した。
「今日は整える日です。余計に動かないこと。食べること。そしてしっかり睡眠をとること」
それだけ言うと、作業が割り振られた。
クロたちは水袋の補給に回った。
四足型地竜の背から水袋を下ろし、井戸水を詰め直す。冷たい水が革袋の腹を押し広げ、濡れた革の匂いが立った。
乾燥食、塩、予備紐、砂除け布、薬草の包みも駐屯所へ運び込まれる。
クレアは荷札と木箱の角を確認していた。
クロはグロムの革具を外し、首回りに擦れがないかを見る。鱗の隙間に指を沿わせると、グロムは少しだけ首を動かした。
町の匂いに、まだ落ち着かない。
けれど、走り出すほどではない。
クロは首元に手を置いた。
「明日から砂漠だって」
胸の奥に、強い意味が返ってくる。
――踏む。
クロは頷いた。
「うん。踏む。でも、みんなでね」
グロムが不満げに鼻を鳴らす。
クロは笑った。
「分かってる。グロムが踏むの、楽しみなんだよね」
グロムの目が少し細くなる。
否定は返ってこなかった。
夕方前には、野営布が張られ、水袋が並び、地竜たちも休む位置に落ち着いた。
町の中にいるのに、広場の空気は少し硬い。
明日から砂漠。
その言葉が、井戸水の冷たさの下に残っていた。
日が傾く頃、駐屯所の炊事場に町の人々が集まってきた。
竜騎士団のために、炊き出しが用意されていた。
大鍋には豆と肉の煮込み。干し野菜のスープ。塩気のある焼きパン。
砂漠入り前に腹へ残るよう、少し濃い味付けになっているらしい。鍋から上がる湯気には、肉の脂と豆の匂いが混じっていた。
炊事場では、大人たちに混ざって、小さな女の子が器を並べている。
両手で木の匙を持ち、背伸びしながら、器を一つずつ置いていく。途中で袖が落ちると、母親らしき女性がそれを直した。
クロはそれを見て、目を細めた。
「えらいね」
クレアも同じ方向を見ていた。
その表情が、少しやわらかい。
「小さいのに、きちんとお手伝いしていますわ」
クロとクレアが食事を受け取りに行くと、女の子が二人を見上げた。
黒い猫耳。
金髪。
竜騎士団の見習い服。
女の子の目が輝く。
「あなたたちは、竜騎士さん?」
クロとクレアは顔を見合わせた。
クロがしゃがみ、目の高さを合わせる。
「まだだよ。私たちは見習いなんだ」
女の子は首をかしげた。
「みならい……?」
クロは少し考えた。
「えーっとね……竜のう◯ことか掃除する人?」
クレアがこめかみを押さえる。
「クロ」
「違う?」
「間違ってはいませんけれど、炊事場で出す説明ではありませんわ」
クレアは女の子へ向き直った。
「見習いというのは、まだ一人前ではないから、先輩の竜騎士のすることを見て、真似しながら覚える人のこと。だから、私たちはまだ正式な竜騎士ではないの」
女の子は目を丸くした。
「へぇー! そうなんだ! じゃあ、いつかは竜騎士になるんだね!」
クロは少しだけ言葉に詰まった。
クレアも、一度まばたきをした。
女の子はすぐに笑う。
「あ、わたし、エマっていうの! こっちは、わたしのおかあさん!」
エマは配膳をしていた女性の裾を引っ張った。
女性が少し慌てて頭を下げる。
クレアは器を持ったまま、丁寧に姿勢を整えた。
本格的な礼ではない。
それでも、背筋は伸び、仕草は上品だった。
「お疲れ様です、エマのお母様」
女性は驚いたあと、柔らかく笑った。
「いえいえ。この町も、竜騎士団のかたたちにはお世話になっていますから。これはほんのお気持ちです」
エマが胸を張る。
「竜騎士ってすごいんだよ! おそらから、ばぁーってきて、わるいまものをやっつけるの! かっこいいよね!」
クロの顔がぱっと明るくなった。
「うん。かっこいい」
クレアも頬を緩める。
「ええ。とても、かっこいいですわ」
エマはさらに嬉しそうになった。
「わたし、おうえんする! おねえちゃんたちが、りっぱな竜騎士になれるように! だから、いっぱいたべてね!」
クロは器を受け取り、にこっと笑った。
「うん。ありがとう、エマ」
クレアもしゃがむ。
「ありがとうございます。しっかりいただきますわ」
クロがエマの頭をそっと撫でた。
クレアも少し迷ってから、同じように撫でる。
エマはくすぐったそうに笑った。
「がんばってね!」
クロは頷く。
「うん」
クレアも頷いた。
「ええ」
二人は食事を持って、広場の端へ戻った。
豆。
肉。
濃いスープ。
焼きパン。
竜騎士団の食堂とも違う。野営の簡単な食事とも違う。
明日砂漠へ入る者たちのために、町の人が作ってくれた食事だった。
クロは一口食べる。
豆がほくりと崩れ、肉の脂が舌に残った。塩は強い。けれど、嫌な強さではない。
クロは黙って、もう一口食べる。
クレアも静かに食べていた。
しばらくして、クレアが横を見る。
「どうしましたの」
クロは器を見たまま答えた。
「応援の味がする」
クレアは一瞬だけ目を伏せる。
「……そうですわね」
少し離れた場所で、グロムがこちらを見ていた。
クロは器を持ったまま言う。
「これは食べられないよ」
グロムが鼻を鳴らした。
クレアが呆れたように見る。
「食事中まで張り合わなくて結構ですわ」
クロは笑った。
「張り合ってないよ。気になってるだけ」
グロムはもう一度鼻を鳴らした。
食後、見習いたちは早めに休む準備へ入った。
町の音が遠くに残っている。
人が暮らしている音だった。
王都ほど大きくはない。
けれど、ここにも家があり、井戸があり、炊事場があり、エマのような子供がいる。
クロはグロムのそばへ行った。
水は足りている。
革具の擦れもない。
グロムは町の灯りを見ていた。
クロはその横にしゃがむ。
「エマ、応援してくれたね」
グロムは片目だけ動かした。
「小さい子。炊き出しのところにいた子」
胸の奥に、小さい、という薄い意味が返ってくる。
クロは少し黙った。
「竜騎士は、お空からばぁーって来るんだって」
グロムが鼻を鳴らす。
空ではない、というような熱が来た。
クロは笑う。
「うん。グロムは地面から行くね」
グロムの胸が少しだけ張る。
「それも、かっこいいよ」
当然だ、という熱が返ってくる。
クロはまた笑った。
クレアは野営布の中で、手袋を外していた。
指先に、まだエマの髪の感触が残っている。
柔らかくて、温かかった。
幼い頃の自分が、レイナを見上げた時のことを少しだけ思い出す。
空はいいよ。
人を助けに行ける竜騎士でいることを、誇りに思ってる。
あの時、自分は見上げていた。
エマは自分たちを見上げていた。
まだ竜騎士ではない。
怖いままの見習いだ。
それでも、エマは応援すると言った。
立派な竜騎士になれるように、と言った。
クレアは手袋を畳み直した。
いつもより少し丁寧に。
クロが野営布へ戻ってきた。
クレアが顔を上げる。
「グロムは?」
「町が気になるけど、寝る気はあるみたい」
「あなたと同じですわね」
「私も寝る気はあるよ」
「気だけでは困りますわ」
クロは少し笑い、クレアの向かいに腰を下ろした。
外では町の音がまだ少し残っている。
しばらく、二人とも黙っていた。
クロが小さく言う。
「エマ、私たちが竜騎士になるって、普通に言ったね」
クレアは目を伏せた。
「ええ」
「まだなのに」
「まだ、ですわ」
「でも、応援してくれた」
「ええ」
クロは膝を抱える。
「なんか、あったかいけど、重い」
クレアは少しだけ口元を緩めた。
「応援とは、そういうものかもしれませんわね」
クロはクレアを見る。
「クレアも、重い?」
クレアは少し考えてから答えた。
「重いですわ」
それから、少し間を置く。
「でも、悪い重さではありませんわ」
クロは目を細めた。
「うん」
二人はそれ以上言わなかった。
外から、ルーカスの声が短く聞こえた。
明朝の出発時刻。水袋の最終確認。体調申告。無理を隠さないこと。
クロは自分の喉に触れる。
乾いてはいない。
足も重すぎない。
眠れば大丈夫。
そう思ってから、一度クレアを見た。
クレアも気づく。
「何?」
「明日、砂漠だね」
「ええ」
「見てね」
「見ますわ」
クレアは即答した。
少し間を置いて、クレアが言う。
「あなたも」
クロは頷いた。
「うん」
二人は横になる。
あの夜ほど、手は震えていない。
けれど、まったく怖くないわけではない。
砂漠はまだ見ていない。
明日から、水も、足も、荷も、もっと重くなる。
それでも、胸の奥には小さな熱が残っていた。
エマの声。
――がんばって。
――いっぱいたべて。
――おうえんする。
外では、町の音が少しずつ遠くなる。
駐屯所の広場で、地竜たちが低く息を吐いている。
クロは半分眠りながら、その声を思い出していた。
――立派な竜騎士になれるように。
まだ、その言葉に胸を張って頷けるほど、自分たちは強くない。
けれど、明日も歩く。
水を見て、荷を見て、足を見て、互いを見て。
南へ進む。
エマの声を胸の奥にしまったまま、クロとクレアは眠った。




