二章 第17話「南へ」
夜の冷えが、石畳に残っていた。
門の前で、見習いたちは最後の確認をしていた。
四足型地竜の背に、荷が積まれていく。
水袋。乾燥食。薬箱。予備の革具。野営具。
木箱の角が鱗に当たらないよう布を挟み、革紐を通し、左右の重さを見る。水袋は持ち上げるたびに鈍く揺れた。中の水が遅れて動き、革の腹を内側から押す。
四足型地竜は低く息を吐きながら、黙ってそれを受けていた。
二足型地竜たちは、少し離れた場所に並んでいる。身軽な分、足の爪が落ち着かず、土を薄く掻いている竜もいる。
クロはグロムの腹帯に手をかけた。
指を入れ、締まりを確かめる。きつすぎない。緩くもない。鐙の位置を見て、手綱の余りを指で測る。鞍の下に入れた布がずれていないか、もう一度手を滑らせた。
グロムが首を上げる。
南門の向こうから、風が入ってきていた。
王都の石と人の匂い。その向こうに、湿った土と草の匂いが混じる。グロムの鼻先が、そちらへ向いた。
喉が低く鳴る。
「まだ」
クロは腹帯から手を離さずに言った。
金色の目が、横からクロを見る。
――外だ。
言葉ではなく、胸の奥に熱が触れた。
「うん、これから出るよ」
クロは最後の革紐を指先で押す。
「もう少し、待ってね」
グロムは不服そうに鼻を鳴らした。
少し離れた所で、クレアが四足型地竜の荷を見ている。
水袋の左右。結び目。革紐の角度。
クレアは右の水袋を押さえ、反対側の紐へ目を移した。
「……こちらは問題ありませんわ」
声は硬かった。
すぐに次の荷へ移る。
見習いたちが隊列を作る。
遠征に同行する地竜部隊の隊員たちも、それぞれの持ち場につき、出発の合図を待っている。
荷を積む音が、少しずつ減っていった。
革紐のきしみと、地竜の低い息だけが、門前に残る。
レイヴンは隊列の横に立っていた。
いつもの眠そうな顔のまま、見習いたちを一人ずつ見る。
「現場の空気を学んでこい」
声は大きくなかった。
それでも、南門の内側にまっすぐ届いた。
「はい!」
見習いたちの声が揃う。
レイヴンは短く頷き、隣に立つルーカスへ向いた。
「頼んだぞ」
ルーカスは、静かに頷き隊列へ向き直った。
その少し後ろに、クラインがいた。
クロはグロムの横から離れ、クラインの前に立つ。
「畑、芽が出たら教えて」
クラインは眼鏡を押し上げた。
「遠征中に伝令を飛ばす案件ではありませんので、しっかり帰還して御自身の目で確認してください」
「当然ですわ」
横からクレアが言った。
クロは少しだけ目を丸くし、それから頷く。
「そっか。帰って見る」
「はい。無事に戻れるよう、お祈りしていますね」
土の中に置いた種芋の感触が、指先に戻った。
やがて、南門が開いた。
「出発!」
先頭の地竜が歩き出す。
鞍の金具、荷を留める革紐が軋む。
「行くよ、グロム」
そう言って、クロも後に続く。
グロムの背の熱が、革越しに伝わる。
門を潜ると、景色が一気に開けた。
空が広い。
訓練場で見上げる空とは違った。
壁に切られず、屋根に遮られず、朝の光を受けたまま南へ続いている。
石の道は、門を離れるにつれて土の色を混ぜていく。左右には畑が広がり、鍬を持った男が手を止め、子どもが地竜の列を見て口を開けていた。
外は、思っていたより静かだった。
風も穏やかだ。
それでも、訓練場とは違う。
柵がない。
終わりの線がない。
クロは手綱を持つ指を、少しだけ締めた。
耳が前を向いている。
砂漠へ続く街道の先は、まだ見えなかった。
石の道が、街道の土へ変わった。
道はよく踏まれていた。車輪の跡は浅く、固く締まった土が地竜の爪を受ける。
王都へ向かう荷馬車とすれ違う時、御者が会釈をした。
ルーカスは軽く手をあげ、挨拶を返す。
見習いたちは固い表情のまま、無理矢理作った愛想笑いを返すので精一杯だった。
地竜部隊は速度を変えずに進む。
道端に、小さな石の祠があった。
三神を祀るものだ。小さな花が置かれ、乾いた硬貨が一枚、石の前に乗っている。
クロは通り過ぎる時、ほんの少しだけ目を向けた。
「どうか、無事に戻れますように」
声は小さかった。
グロムの足は止めない。手も合わせない。ただ、風に混ぜるように置いていく。
隊列の前から、ルーカスの声が届いた。
「速度維持。物資運搬班は竜と荷を。哨戒班はつかず離れず、異常を発見したら直ちに伝達」
「はい!」
クロは手綱を持つ指を少し緩めた。
グロムには、余裕があった。
街道は固い。足場は悪くない。中央の四足型地竜は荷を積んでいるから速くない。前は空いている。横へ抜ける道もある。
グロムの首が、わずかに下がった。
前を測る動き。
それだけで、近くの二足型地竜が耳を動かした。外側にいた隊員が視線だけを向ける。
前方のルーカスも、振り返った。
空気が張る。
まだ何も起きていない。
グロムは走っていない。吠えてもいない。ただ、前を測っただけだ。
それでも周りが動いた。
――行ける。
短い意味が胸に触れる。
「知ってる」
――まだ行ける。
「今じゃない」
グロムの喉が低く鳴った。
ルーカスの声が届く。
「後方外周、位置を保ってください」
「はい」
クロは手綱を強く引かなかった。
膝を少し締め、首元へ手を置く。ここだ、と伝える。前ではない。横へ膨らむのでもない。ここ。
グロムは不満げに鼻を鳴らした。
足は出ない。
クロは小さく息を吐く。
「……えらい」
――当然だ。
返る意味は短い。
クロはそれ以上言わなかった。
水袋の音が続く。
クレアは後方荷列から、隊の地竜たちの背を見ていた。
水袋は大きく揺れていない。
落ちそうでもない。
けれど、前方二つ前を歩く地竜の右側にかかる革紐が、いつもより深く沈んでいたのを見逃さなかった。
鱗に沿って通された革が、片側だけ強く食い込んでいる。
もう一度見る。
地竜は嫌がっていない。だが、放っておくのは違うと思った。
「前方右列、二つ前の地竜。右の水袋、革紐が食い込んでいます!」
ルーカスの声はすぐだった。
「全隊停止!」
先頭の足が止まる。
それに続いて、四足型地竜の足が止まった。低い息が土の上へ落ちる。水袋は歩みを失ってから一度だけ遅れて揺れ、革の腹を重く鳴らした。
後続の足音が順に止まる。
外側の二足型地竜が位置を取り直す。爪が土を噛み、尾がわずかに流れる。
グロムの首が上がった。
クロは手綱を引かず、膝で受ける。
荷。水。竜。人。足。全部が一度止まり、次の一歩を待っている。
指摘を受けた四足型地竜に乗る見習いが、荷を確認する。
右の革紐を押し、左の結び目を見る。水袋を片手で支え、もう片方の手で紐の下へ指を入れた。
「右が食い込みすぎています。左は緩みかけています」
「直してください」
「はい」
隣の列にいた見習いも手伝い、水袋を支えた。
食い込んだ革紐を緩め、重さが動かないよう押さえる。反対側を締め直し、結び目を作り直す。余った紐をまとめ、揺れを確かめる。
最後に四足型地竜の背を撫でた。
竜は低く息を吐いたが、嫌がる動きはない。
クレアは黙って見ていた。
拾えた。
間違っていなかった。
だが、隊は止まった。
自分の声で、隊列が止まり、グロムも反応した。
それが、喉の奥に重く残る。
ルーカスがクレアを見る。
「よく拾いました」
「……はい」
「竜が痛めば、この遅れでは済みません」
クレアは少しだけ息を吐いた。
その息が終わる前に、ルーカスが続ける。
「ですが、止まった事実も消えません。目標は、止まる前に済ませられる荷役です。最初の固定で、ここまで偏らせない。忘れないように」
ルーカスの視線が、荷役に関わる者たちへ移る。
「各自、再度徹底!」
「はい!」
「進行再開!」
足音が戻った。
四足型地竜が歩き出す。水袋は今度、左右ほぼ同じ幅で揺れた。外周の二足型地竜も、元の距離へ戻る。
クレアは直された水袋を一度見て、すぐ次へ視線を移した。
胸の奥にはまだ重さがある。
けれど、そこに立ち止まる時間はない。
グロムが土を踏んだ。
強い一歩ではない。けれど不満は足先に出ていた。乾いた土が、爪の下で少しだけ崩れる。
――止まった。
「うん」
――進んでいたのに。
「進むために止まったんだよ」
納得していない。
そう分かる熱が、クロの胸に残る。
グロムにとって、道は前へ続いている。足はまだ使える。止まる理由は、まだ細く見えている。
クロは前の四足型地竜を見る。
背を撫でられた竜は、また静かに荷を運んでいる。水袋の揺れは戻った。クレアはもう次を見ている。
「荷を落としたら、もっと止まる。怪我をしたら、もっと進めない」
グロムが鼻を鳴らした。
不服。
それでも飛び出さない。
クロはグロムの首元に手を置き、後方外周の位置を保つ。
進むために止まる。
言葉にすると短い。
けれど、止まった時の足音の消え方は、言葉より重かった。
畑の間隔が開く。家がまばらになる。道の脇の草が少し伸びる。風の音が耳につく。
一度止まった分、隊は少し遅れていた。誰かが急げと叫ぶほどではない。だが、日が傾くのが少し早く感じられる。
「まだそんなに離れていないのに」
クロが小さく言うと、後ろからクレアの声がした。
「大した距離ではありませんわね」
「でも、何もかも違う」
「ええ」
クレアの声も、小さかった。
振り返れば、まだ王都の壁は見えるはずだった。
南門も、石の上を行き交う人の姿も、目を凝らせば見えるかもしれない。
けれど、クロは振り返らなかった。
クレアも、振り返らなかった。
日が傾く頃、隊は初日の夜営地に入った。
まだ砂漠地帯には入っていない。
土は固く、草も残っている。低い木があり、少し離れた場所には細い水の跡も見えた。
だが、王都の灯りが届く場所ではなかった。
荷が下ろされる。
四足型地竜の背から水袋が外され、まとめて置かれる。乾燥食の箱が並べられ、薬箱はすぐ手の届く場所へ運ばれた。野営布が広げられ、杭が打たれる。縄が張られ、結び目が作られる。
二足型地竜は交代で周囲を見る。
グロムは広い夜の地面を前に、落ち着かない。
首を上げ、風を嗅ぐ。足先で土を押す。走ろうと思えば走れる場所だった。柵はない。竜舎の区画もない。
それでも、走り出しはしない。
火は大きくしなかった。
声も低い。
訓練場の終わりとは違う。
終わったから帰るのではない。ここで眠り、ここからまた進む。
ルーカスが見習いたちを集めた。
「ここからは、寝ることも仕事です」
誰かが瞬きをする。
「寝ることも、ですか」
「明日、歩けなければそこで終わりです」
その見習いは口を閉じた。
「見張りの者以外は休んでください。休めない者も、横になってください」
クロはその声を聞きながら、グロムの革具を外していた。
首元に触れると、昼間の熱がまだ残っている。革を外すと、グロムが低く息を吐いた。
「おつかれ」
グロムは鼻を鳴らした。
不満そうだった。けれど、足先の力は昼間よりわずかに鈍い。
水を飲ませると、グロムは長く喉を鳴らした。水袋から移された水が桶の中で揺れ、グロムの舌に押されて小さく跳ねる。
飲み終えたあと、クロはそのそばにしゃがんだ。
夜の土は、昼間より冷たい。
火の煙と、革具の匂いと、地竜の息が混じっている。
「クロ」
「ん」
顔を上げると、クレアが木の杯を持っていた。
「あなたも」
クロは杯を受け取る。
指先が触れた。
すぐには離れなかった。
ほんの短い間だけ、互いの指の温度が残る。
クロは水を飲んだ。
ぬるい。
革袋の匂いがする。昼間より少しだけ、土の味がした。
一口飲んでから、喉が思ったより乾いていたことに気づいた。
もう一口飲む。
水が舌の奥を通り、喉へ落ちる。その時になって、身体がそれを待っていたのだと分かった。
クロは杯を下ろす。
「……ありがとう」
「当然ですわ」
クレアはそう言って、少しだけ表情を緩めた。
クロもつられて笑う。
言葉はそれ以上続かなかった。
それでも、クレアの視線はすぐには離れない。クロは杯を両手で持ったまま、その静かな気遣いを受け取った。
食事が終わり、夜営地の形が整った頃、ルーカスが静かに言った。
「南へ行くほど、夜の怖さは変わります」
見習いたちの顔が上がる。
「音は遠くまで届く」
外周を歩く二足型地竜の爪が、土を踏む。
「土の匂いがない分、私たちの匂いが目立つ」
誰も喋らなかった。
「まだ砂漠地帯ではありません。ですが、覚えておいてください」
誰かが、小さく喉を鳴らした。
夜に残ったのは、地竜たちの息だった。
小さな火の音。
外周を歩く二足型地竜の足音。
低く交わされる隊員の声。
それだけが、王都の灯りのない場所にあった。
クロは南の空を見上げた。
星が見える。
四足型地竜は荷を下ろされ、静かに息を吐いている。
二足型地竜は夜の外周へ散っている。
グロムは不満げに地面を踏みながらも、繋がれた場所から動かない。
少し離れた所では、クレアが自分の乗る四足型地竜を撫でていた。
「今日はよく頑張りました。明日もお願いいたします……わぁっ!?」
不意に首を上げた地竜に驚き、尻もちをついていた。
クロは、クレアの名誉のため見なかったことにした。
そしてまた、顔を上げる。
火の明かりの届かない先に、街道が続いていた。
南へ。
文評価




