二章 間幕 「震える手」
遠征前夜の食堂には、いつもと違う匂いがあった。
厚く切られた肉。焼けた脂。強い香辛料。具の多いスープ。いつもより白く、柔らかいパン。
皿の上だけが、妙に前へ出ている。
クレアは並んだ料理を見て、背筋を伸ばした。
家の食卓で見る料理とは違う。美しく味わうためではない。明日の身体に残すための食事だ。
南部遠征。
その言葉が、肉の香りの向こうにある。明日からは乾燥食と硬いパンと、限られた水で進む日が続く。今夜食べることも、準備の一つだった。
そう思って隣を見ると、クロが肉を前に固まっていた。
耳が少し伏せている。尻尾も椅子の横で落ち着かない。皿を見つめる目は真剣だが、喜んでいる顔ではなかった。
「……どうしましたの?」
クロは肉から目を離さず、小さく呟いた。
「塩が、肉の上で踊ってる」
「……はい?」
「脂が舌の上を走る。香辛料が後ろから追いかけてくる」
クレアは一瞬、返す言葉を失った。
けれど、クロが肉を少し噛み、すぐパンへ逃げ、スープを飲むのを見て、なんとなく分かった。
クロにとって、この料理は豪華なのではない。騒がしいのだ。
この子は、味まで動きとして受け取るのだった。
呆れかけて、クレアは言葉を飲み込んだ。
笑っている場合ではない。クロは放っておくと、自分の身体のことを後回しにする。足が重くても、息が浅くても、平気だと言いかける子だ。
食べなければ、明日動けない。
「今食べておかないと、後で後悔しますわよ」
クロの耳が少し動いた。
「でも、肉が強い」
「明日からは、その強い肉すら恋しくなるかもしれませんわ」
「肉が?」
「肉が、ですわ」
クロは、手強い地竜を見るように皿を見た。それからパンを小さく千切り、今度は肉と一緒に口へ入れた後、スープを飲む。
しばらく黙って、また同じ順番で食べた。
「パンが間に入ってくれる」
「間?」
「肉と塩の間。スープも、少し仲裁してくれる」
「食事を会議にしないでくださいまし」
「でも、まとまってきた」
クレアは呆れた。呆れたが、その方法で食べられるなら今はそれでいい。
肉と塩と脂と香辛料の会議は、パンとスープによってどうにか収まっていくらしい。理解はできない。けれど、クロの食べる速度は少しずつ戻っていった。
最後の一切れを飲み込んだ時、クロは小さく息を吐いた。
まるで訓練を一つ終えたような顔だった。
クレアは空になった皿を見て、少しだけ安堵した。
明日のための準備が、一つ終わった。
食事の後、見習いたちには竜騎士団の共同浴場の使用が許可された。
遠征前夜の特別措置だという。
クレアは平静を保った。疲労を抜くため。明日のため。身体管理の一環。それ以上でもそれ以下でもない。
そう言い聞かせながら、内心ではかなり喜んでいた。
女性用の共同浴場は広かった。磨かれた石の床。壁沿いに並ぶ桶。奥には湯気の立つ湯船。今は時間を区切られているため、そこにいるのはクロとクレアだけだった。
身体を流し、湯船に入る。
温かさが足先から膝へ、腰へ、背中へと上がってくる。訓練で張っていた脚がほどけ、荷列を見続けていた目の奥まで緩むようだった。
思わず、声が漏れた。
「はぁ……やっぱりお風呂は良いわぁ……」
言ってから、クレアは少し固まった。
今の声はよくなかった。かなり緩んでいた。
クロに聞かれただろうか。
そう思って視線を向ける。
クロは湯船の縁に正座していた。
両手は膝の上。耳は伏せ気味。尻尾は濡れないように身体の横へ寄せられている。湯船を見つめる顔は、分からないものを前にした時の顔だった。
「……何をしていますの?」
「お湯」
「お湯ですわね」
「お湯、たくさん」
「湯船ですからね」
「湯船……」
クレアはそこで、ようやく気づいた。
「もしかして、お風呂は初めてですの?」
クロはこくりと頷いた。
「うん……」
竜に触れる子が。アテルの背に乗った子が。グロムを外周へ戻す子が。
湯船の前で固まっている。
クレアは一度湯船から上がり、桶を手に取った。
「湯船に入る前に、身体を流しますの」
「流す」
「そうですわ。先に汚れを落として、それから湯船に入ります」
「お湯に、汚れを入れない」
「その理解で結構ですわ」
クロは真剣に頷いた。浴場の作法を、新しい訓練手順のように覚えようとしている。
クレアは湯を汲み、クロの肩へそっとかけた。
クロの肩が小さく跳ねる。
「あちっ」
「ぬるめですわ」
「ぬるめ……」
笑いそうになって、どうにか堪えた。
背を向けさせ、髪を避け、肩から背へ湯を流す。
薄い肩。細い背中。けれど腕には小さく筋がある。訓練でついた擦り傷も残っていた。
華奢なのに、芯だけは妙に強い身体だった。
この身体のどこに、あの馬鹿力があるのか。
そう思いかけて、クレアは言葉を飲み込んだ。
明日、この黒猫がグロムの手綱を握る。
クロは強い。けれど、壊れないわけではない。
「では、足からゆっくり入りなさい」
クロは湯船の縁に手をつき、片足を入れた。耳がぴんと立つ。もう片足を入れ、湯を見下ろしたまま動かない。
「大丈夫ですわ。沈みません」
「お湯、深い」
「あなた、地竜の背には乗るでしょう」
「地竜は固い」
「……お湯は固くありませんものね」
「うん」
納得したように、クロは慎重に身体を沈めた。
肩まで湯に浸かったところで、完全に止まる。
一拍。
二拍。
「にゃふぅ……」
細い声が漏れた。
耳がふにゃりと下がり、目が細くなる。口元が緩み、尻尾の先から力が抜けていく。
クレアは思わず笑った。
あまりにも分かりやすく温かさに負けたので、笑うしかなかった。
湯船に負けた黒猫の顔は幸せそうだった。
部屋へ戻る頃には、外はまだ微かに明るかった。
普段なら、まだ食事を終えていないくらいの時間だ。廊下にも人の気配が残っている。けれど明日のために、もう眠らなければならない。
クロは下段へ入り、クレアは上段へ上がった。
横になり、目を閉じる。
眠れない。
湯で身体は温まっている。食事も済ませた。明日の荷も確認した。眠るべき理由はいくらでもある。
それなのに、瞼の裏に浮かぶのは、南へ続く道だった。
砂地。水袋。荷列。四足型地竜の背。二足型の尾。外周を回るグロム。揺れる革紐。
後ろを拾う者が隊を生かす時がある。
ルーカスの声が残っている。
認められたのだと思った。
荷列の後ろを見るだけではない。隊の最後を預かる者として、そこに立つことを許されたのだと。
嬉しかった。けれど、任されたものは、そのまま責任になる。
自分が見逃せば、荷が落ちるかもしれない。
自分が遅れれば、隊列が乱れるかもしれない。
グロムが一歩半前へ出た時、荷列が揺れた。あの時、自分の心臓が本当に三歩ほど前へ出た気がした。
明日、それが訓練場ではなく南の道で起きたら。
クレアは寝返りを打った。上段の寝台が小さく軋む。
怖くないわけではないが、それだけでもなかった。
この遠征を越えれば、自分は竜騎士へまた一歩近づける。レイナ様も、きっとこういう道を通った。父も、教官も、怖さを知らずに立っていたわけではないはずだ。
怖いまま見る。
そう決めたのだ。
クロなら、きっと何とかしてしまうのだろう。
考えた途端、下段の気配を意識した。
クロはいつも先に動く。竜の聲を聞き、グロムを戻し、アテルの背にも乗った。こちらがまだ言葉を探しているうちに、あの子は足を出してしまう。
けれど。
湯を肩にかけた時、薄い肩が小さく跳ねた。
湯船の前で固まっていた。肉の味に負けそうになっていた。肩まで浸かって、あんな顔で蕩けていた。
あの子は本当に、何でも何とかできるのか。
それとも、何とかしてしまうから、周りが見落としているだけなのか。
クレアは目を開けた。
天井が薄暗い。窓の外の明るさが、少しずつ失われている。
負けていられない。
助けられるだけでは嫌だ。追いかけているだけでも嫌だ。私は、胸を張ってクロの横に立ちたい。
そう思った時、下から小さな音がした。
梯子が鳴る。
布が擦れる。
誰かが、二段ベッドを登ってくる。
クレアは身を起こした。
寝巻き姿のクロが、そこにいた。
髪はまだ少し柔らかく湿り気を残している。黒い毛先が頬の横で揺れ、アホ毛が小さく立っていた。耳は少し伏せている。尻尾が寝巻きの裾を押している。
いつもの、不思議な平静さが薄い。
「……どうしましたの?」
クロは梯子に片手をかけたまま、クレアを見上げた。
「隣り、いい?」
クレアは固まった。
隣。
ここは上段で、寝台は一人用で、明日は遠征で、もう眠らなければならなくて。
言うべきことはいくらでもあった。
けれど、クロの声が小さかった。
湯船の前で固まっていた時より、もっと頼りない。
「だめ?」
クレアは口を開きかけ、閉じた。
黙って身体を壁側へ寄せる。
「……落ちないようになさい」
「ありがと」
クロは上段へ入り込んだ。寝台が狭くなる。肩が触れるほど近い。湯の匂いがまだ少し残っていた。
クレアは落ち着かない胸を隠すように、わざといつもの声を作った。
「どういう風の吹き回しですの?」
クロは膝を抱えるようにして、少し俯いた。
「よくわからない」
「分からない?」
「分からないけど、なんか震えが止まらない」
クレアは眉を寄せた。
最初は、湯冷めかと思った。けれど肩に触れた瞬間、違うと分かった。
クロは本当に、小さく震えていた。
寒さではない。身体の奥から来ているような震えだった。
「クロ、あなた、どうしましたの!?」
思ったより強い声が出た。自分で驚く。
クロは泣いていない。怒ってもいない。ただ、声が小さい。
「明日から遠征」
「遠征ですわね」
「もし私が失敗したら、隊のみんなが危険になる」
クレアは息を止めた。
重い言葉だった。
黒い竜の時のように感情を流されているわけでも、グロムに怒った時のように声を荒げているわけでもない。
ただ、小さく震えている。
それが、かえって怖かった。
「それは、みんな同じですわ」
クレアは言った。クロに向けた言葉なのに、自分の胸にも返ってくる。
「私だって怖いですもの。私が見逃せば、遅れてしまえば、隊は乱れますわ」
クロの耳が少し動く。
「クレアも怖い?」
「怖いですわ」
今度は、すぐに言えた。
それはもう、隠す言葉ではなかった。竜の前で悲鳴を上げた日から、クレアはずっとその言葉と向き合ってきた。
けれど、怖いだけではない。
南へ行くこと。隊の中に入ること。後ろを任されること。
その全部が怖くて、同時に、胸の奥を熱くしていた。
「でも、怖いだけではありませんわ」
「期待?」
「ええ。この遠征を乗り越えられれば、私は竜騎士として一歩近付ける。そう思えば、恐怖なんて――」
言い切る前に、クロがクレアの手を握った。
「きゃっ!?」
声が跳ねた。
クロの手は温かかった。けれど震えている。
その震えに触れた瞬間、クレアは気づいた。
自分の手も、震えている。
クロがじっと見ていた。
「クレアも震えてる」
顔に熱が上がった。
高揚だと思っていた。期待だと思っていた。恐怖は制御できていると思っていた。少なくとも、クロの前ではそう見せられていると思っていた。
けれど、手は震えていた。
クロはそれを見つけた。
「見ないで……」
それは反射だった。
怖さを見られた恥ずかしさ。強がりを剥がされた悔しさ。クロにこれ以上弱いところを見られたくなかった気持ち。
全部が、その一言になった。
けれどクロは、目を逸らさなかった。
「見るよ」
クレアは息を呑む。
「クレアも、私と同じ。震えてる」
竜を見ろと言われてきた。
恐怖のまま見ろと。目を逸らすなと。怖くても、見ることだけはやめないと決めた。
それでも震えてしまう自分を、クロに見られている。
クレアは唇を引き結んだ。けれど、握られた手を振りほどくことはできなかった。
自分だけが震えているわけではない。クロも震えている。そのクロが、震えを隠さず隣へ来た。
クロは手を握ったまま、言葉を探すように少し黙った。
「私は、自分のことが人より分からない」
クレアは何も言わなかった。
「どこからが無茶なのか、まだ分からない。足が重いのも、息が浅いのも、気づくのが遅い」
ルーカスの声が、クレアの中で蘇った。
ーー地面を読むなら、自分の足も勘定に入れてください。竜の息を拾うなら、自分の息もですーー
クロは目を伏せる。
「グロムを見る。地面を見る。荷も見る。でも、自分のこと、見落としちゃう」
握られた手に、少し力が入った。
「だから、クレア、私のこと、見て」
クレアはすぐに返事ができなかった。
クロは続ける。短く、少しずつ。
「私が大丈夫って言っても、見て。変だったら止めて。私が前に行きすぎたら、呼んで」
止めて。
その言葉が、クレアの胸に残った。
守ってほしい、ではない。慰めてほしい、でもない。
止めてほしい。
クロは、自分が前へ行きすぎることを知っている。自分で気づけない時があることを、怖がっている。
「私も、クレアを置いていかない。怖くなったら、呼んで。ちゃんと見つける。守るから。……だから……お願い」
頼られた。
その事実が、胸の奥に落ちた。
嬉しかった。
ずっと、クロに助けられてきた気がしていた。適性試験の時も、竜舎でも、黒い竜の時も。自分が言葉を探しているうちに、クロは先に動いていた。
追いかけてばかりだった。
そのクロが、自分を必要だと言っている。
嬉しい。
けれど、嬉しがっている場合ではない。
これは甘えではない。命綱だ。軽く頷いていいものではない。
湯をかけた時に跳ねた薄い肩を思い出す。湯船に浸かって蕩けた顔を思い出す。肉の味に負けそうになっていた横顔を思い出す。
もう、知らないふりはできなかった。
見なければならない。
見たいからではなく、見ると決めなければならない。
クレアは、すぐには答えなかった。
握られた手の中で、クロの震えがまだ残っている。自分の指先にも、同じような頼りなさがあった。
軽く頷けば、クロは安心するかもしれない。
けれど、それではだめだ。
これは慰めではない。明日の道で、本当に互いの命を預けるための言葉だ。
クレアは一度だけ、ゆっくり息を吸った。
それから、クロの手を握り返した。
「私たちは、一蓮托生よ」
クロが瞬きをする。
「一蓮托生?」
クレアは少しだけ迷った。
「相棒、ということですわ」
その言葉は、軽くない。竜騎士にとって、相棒とは特別な響きを持つ。竜と騎士の間にある、簡単には触れられない言葉だ。
けれど、今夜の二人には、その言葉が必要だと思った。
クロの耳が少し立つ。
「相棒……」
「お互いの足りないところを見て、補って、助け合うということです。あなたが前を見すぎるなら、私が後ろから呼びます。私が怖さで足を止めそうなら、あなたが見つけてください」
言っているうちに、少し照れくさくなった。
だからクレアは、いつものように顎を上げる。
「不服かしら?」
クロは首を横に振った。
「ううん。とても嬉しい」
その声があまりに素直で、クレアは胸が詰まりそうになった。
クロが、手を握ったまま小さく笑う。
「クレア、私たち、相棒だね」
クレアは頷いた。
「ええ。相棒ですわ」
それは大きな誓いではなかった。
寝台の上で、肩を寄せるほど狭い場所で、手を握ったまま交わした小さな言葉だった。
けれど、二人にはそれで十分だった。
会話が途切れる。
外はもう暗くなっていた。廊下の気配も薄い。部屋の中には、二人の呼吸だけがある。
クロの震えが、少しだけ小さくなっている。自分の手の震えも、いつの間にか収まっていた。
怖さが消えたわけではない。
明日の責任が軽くなったわけでもない。
それでも、一人で持たなくていいのだと思った。
気づけば、隣から小さな寝息が聞こえた。
クレアは目を開ける。
クロはもう眠っていた。
早い。
あまりにも早い。
こちらはまだ心の準備が追いついていないというのに。けれど、それだけ安心したのかもしれない。隣に来て、手を握って、相棒だと言ったら、眠れてしまうほどに。
クロのアホ毛が、寝息に合わせてほんの少し揺れている。
クレアは小さく息を吐いた。
呆れたような、笑ってしまうような息だった。
手を離そうとした指先を、眠ったままのクロが弱く握り返す。
その頼りない力に、クレアは抵抗するのをやめた。
離せないのではない。
今夜は、離さないでおこうと思った。
クレアはクロの手を握ったまま、もう一度目を閉じた。
明日は南へ行く。水袋を見なければならない。荷の紐を見なければならない。後ろの足音を拾わなければならない。クロも見なければならない。
そしてきっと、自分の震えもクロに見られる。
それでもいいと思った。
二人は手を握ったまま眠った。
互いの震えを、互いに預けるように。




