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二章 第16話 「準備」

訓練場の土に、深い足跡が残っていた。


まっすぐではない。


途中で外へ膨らみ、爪先で強く土を削り、最後に少しだけ尾を引いた跡がある。綺麗な線ではなかった。見る者が見れば、癖の強い足跡だと分かる。


けれど、戻ってきた足跡だった。


クロはグロムの鞍から降りて、その跡を見た。


踏み込まれた土は色が濃い。湿り気を含んだ地面に、爪の形がくっきり残っている。グロムは隣で鼻を鳴らしていた。息は荒い。疲れたというより、まだ走れると言いたげな息だった。


それでも、勝手には走らなかった。


今日の訓練は、そこで終わった。


「後方外周警戒」


ルーカスは記録板から目を離さずに言った。


「クロ・レインフォート、地竜グロム。南部遠征では、この配置で入ります」


クロは耳を立てた。


後方外周。


何度か聞いた言葉なのに、今は少し重さが違った。訓練の説明ではない。明日の遠征で、自分とグロムが入る場所だ。


グロムの尾が、低く土を撫でる。


不満はある。


後ろ。外側。前が空いているのに。


そんな意味が、胸の奥へ押してくる。最初にグロムの聲を叩きつけられた時のような乱暴さはない。けれど近い。熱を持ったまま、押し出す前に一度だけ止まっている感じがした。


クロは手綱を握り直した。


「外側、広いよ」


それだけ言った。


グロムは返事の代わりに、鼻から強く息を吐いた。


納得ではない。


だが、足は動かさない。


少し前なら、これだけでも違った。


短距離哨戒の訓練が始まった初日、グロムは他の二足型地竜を完全に置いていった。


合図が鳴った瞬間、土を弾き、風を割り、訓練場の対角線上に置かれた目印まで一頭だけで駆け抜けた。止まるより先に目印の旗が目の前へ来た。停止の勢いでクロの体は鞍の上で前へ押し出され、グロムの首に衝突していた。


他の二足型地竜は、まだ半分も来ていなかった。


グロムは得意げだった。


ーー速いだろう。


その意味が、背中から胸へ直接入ってきた。


クロは顔をさすりながら一瞬だけ、言葉をなくした。


たしかに速かった。すごく速かった。足は強く、地面を掴む力も、方向を変える力もある。走るだけなら、誰よりも早く目印へ届いた。


けれど、その後ろで隊列が乱れていた。


先に出られた二足型地竜が首を上げ、中央の四足型地竜の荷が揺れ、見習いたちの足が一拍遅れた。旗の前に一番早く着いたのはグロムだったが、そこにいたのはグロムだけだった。


ルーカスは怒鳴らなかった。


ただ、記録板に何かを書き、言った。


「確認地点には着きました。しかし、哨戒としては失敗です」


グロムはその時、本気で不服そうに土を削った。


ーーなぜだ。


ーー着いた。


ーー誰よりも早く。


そんな意味が、鞍の下から突き上げてくる。


クロは手綱を握ったまま、旗の向こうではなく、後ろを見た。


遅れてくる二足型地竜。揺れた荷。姿勢を直す見習い。少しだけ詰まった隊列。


それから、グロムの首元に手を置いた。


「グロムは、速いよ」


グロムの耳が、わずかに動いた。


クロは続けた。


「でも、今ここにいるの、私たちだけだよ」


グロムの息が荒くなる。


ーー違う。


ーーあいつらが遅い。


ーー付いてこられなかった。


そういう意味が来た。


クロは首を振った。


「置いてきたら、見つけたものを誰にも渡せない」


グロムの身体が、少しだけ固まった。


クロは、旗の足元を見た。小さな赤い布が揺れている。ただの訓練用の目印だ。けれど、本当の遠征なら、そこにあるのは石かもしれない。穴かもしれない。魔物の足跡かもしれない。


「一番に着くのは、すごい。でも、一番に着いて、そこで終わったら、見つけたものはグロムだけのものになる」


グロムは黙っていた。


納得しているわけではない。

それでも、次の不満は少し遅れて来た。


ーーなら、遅いやつが悪い。


クロは小さく息を吐いた。


「うん。遅い子もいる。重い荷もある。怖がる人もいる」


そこで、クロはグロムの硬い鱗を指先で撫でた。


「でも、グロムが見て、戻ってくれたら、みんなが先に知れる」


グロムの尾が、土を一度打った。


先に。


その言葉には反応する。


クロは旗の向こうではなく、後ろの隊列を見た。


「穴があるなら、落ちる前に分かる。石があるなら、踏む前に分かる。魔物の跡があるなら、近づく前に分かる」


グロムの息が、少しだけ低くなった。


「グロムだけが速く着くんじゃなくて、哨戒のみんなで見つけて、共有して、戻って知らせる。そうしたら、隊が止まらずに済む」


グロムは鼻を鳴らした。


すぐには返事をしなかった。


けれど、その日から、旗の前で一頭だけ立つことは少しずつ減った。


完全に合わせられるわけではない。前へ出る。土を削る。戻る時も、外へ膨らむ。


それでも、戻る。


グロムの速さは、少しずつ、先へ消える足ではなく、見つけたものを持ち帰る足になっていった。


今日も、まだ他の二足型より半歩ほど早かった。戻る時も、外側に膨らんだ。尾には文句が残っていたし、爪も余計に土を削った。


それでも、もう一頭だけで旗の前に立つことはなかった。


ルーカスは記録板に短く書いた。


「速度先行。帰還、許容範囲」


褒められたわけではない。


叱られたわけでもない。


今のグロムには、そのくらいがちょうどいい気がした。


「速い竜を前に置けば、前だけが速くなります」


ルーカスは記録板を閉じずに続ける。


「隊は、そういう形では進みません。後ろが遅れた時、横が崩れた時、外から拾える足が要ります。グロムの足は、そこへ回します」


グロムの首が少し上がった。


回す。


前へ出る、ではない。置かれる、でもない。回る。


その言葉は、少しだけグロムの中で引っかかったようだった。


クロは、グロムの横腹に残った汗の線を見た。


走った跡ではない。止まり、合わせ、戻った跡だ。




少し離れた荷列の最後尾では、クレアもルーカスの言葉を受けていた。


四足型地竜の背には、水を入れた革袋が載っている。訓練用に量は調整されているが、空ではない。歩くたびに中の水が遅れて揺れ、革袋の腹が重そうに沈む。


紐が鳴る。革が擦れる。背の沈み方が変わる。


水は、木箱のように黙って揺れてはくれない。


クレアはそれを見ていた。


前を行く地竜の尾。背に載った水袋。左右の間隔。後ろに残る足音。


見えている。


見えているからこそ、一瞬、自分の足が遅れることがある。


ルーカスが何かを告げると、クレアは唇を引き結び、それから頷いた。


悔しそうだった。


でも、目は逸らしていなかった。




「明日は日の出前から荷役です」


ルーカスの声が、訓練場に落ちる。


「本日はここまで。疲労を残さないように」


見習いたちの返事が揃った。


いつもより早い終了だった。


そのせいか、訓練場は少し変な感じがした。まだ日が高い。竜たちの息も、踏み荒らされた土の匂いも、汗を吸った革の匂いも残っている。けれど、次の号令は来ない。


明日に残すための終わり。


クロはグロムを見上げた。


「また明日」


グロムは目だけを動かした。


胸の奥へ、短い意味が来る。


ーー次は、外だ。


訓練場ではない。柵の中でもない。

もっと広い地面。知らない匂いのする道。足を止めるものが少ない場所。


グロムは、それを待っている。


クロは少し笑った。


「うん。明日、外へ行こう」


今度は、遠征の地面を。


そう思った時、クロの耳が別の方を向いた。


訓練場の端。


竜舎ではない。


もっと奥の、敷地の隅。


竜肥試験畑のある方だった。


明日から、しばらく見られない。


そう思うと、足が自然にそちらを向いた。


「見に行くだけ、ですわよね」


隣を歩くクレアが言った。


訓練後で疲れているはずなのに、足取りは乱れていない。ただ、手袋の指先には細かな土がついていた。


クロは頷いた。


「うん」


「本当に?」


「たぶん」


クレアは横目で見た。


「その一言で信用が半分以下になりますわ」


クロは耳を少し伏せた。


「でも、今日はクラインさんも畑にいるって言ってたから」


「余計に安心できませんわね」


そんな話をしながら、二人は敷地の端へ向かった。




竜肥試験畑の前には、すでにクラインがいた。


記録板を手にしている。いつものように姿勢はまっすぐで、眼鏡の奥の目は畑を見ていた。


ただ、珍しく筆が止まっている。


クロは首を傾げた。


「クラインさん?」


クラインは答えなかった。


クロも畑を見た。


そして、足が止まった。


青かった。


小さな試験区画の中に、草が生えていた。


普通の土にも、細い草はある。けれど、竜肥を混ぜた区画は違った。


極薄の区画では、細い葉がまっすぐ伸びている。薄の区画では、葉が外へ広がっていた。中の区画では茎が太く、土を押し返すように立っている。


濃い区画の草は、少し変だった。


葉が厚い。茎も強い。青は深い。元気、と言えば元気だった。けれど、まっすぐ喜ぶには勢いがありすぎる。


それでも、枯れてはいない。


「……草、ですわよね」


クレアが慎重に言った。


言い方は冷静だったが、視線は畑に釘付けになっている。


クラインは記録板を持ったまま、しばらく黙っていた。


「草です」


「ですわよね」


「ただし、今は非常に重要な草です」


その声が、いつもよりわずかに早かった。


クロはクラインを見上げた。


クラインは眼鏡を押し上げることも忘れて、竜肥を混ぜた区画を見ている。


「植えたわけではありません。周囲から入り込んだ種でしょう。ですが、発芽して、伸びています。少なくとも、この土は植物を触れた端から枯らす状態ではない」


クラインはそこまで言って、記録板を見た。


まだ何も書いていない。


珍しいことだった。


「枯れていない……これは……」


眼鏡の奥の目が、いつもよりはっきり畑を見ていた。


「非常に面白いです」


クレアが目を瞬かせた。


「今、面白いとおっしゃいました?」


「はい」


クラインは即答した。


「非常に。予定を変更する価値があります」


クロの耳が立った。


「予定?」


「当初は、簡単な植物を少量だけ植える予定でした。ですが、この状態なら、食用作物の小規模試験へ進めます」


クラインはようやく眼鏡を直した。


「もちろん、良いことばかりとは限りません。濃い区画の勢いが望ましいものなのか、強すぎるものなのかは、まだ判断できません」


そこで、記録板に最初の一行を書いた。


「ですが、今日植える価値はあります」


クラインは畑を見たまま言った。


「植えましょう」


クレアが畑とクラインを見比べた。


「今から、ですの?」


「はい。明日からお二人は遠征です。植えるなら今日です」


「休むことも遠征準備と聞いたばかりですけれど」


「重作業にはしません」


クラインは真面目に答えた。


「ただし、記録は増えます」


「そこは譲りませんのね」


クレアは小さく息を吐いたが、畑から離れようとはしなかった。


試験畑は、五つの区画に分けられていた。


普通土。竜肥極薄。竜肥薄。竜肥中。竜肥濃。


クラインの細い字でそう書かれた木札の下で、草の伸び方も、土の色も、近づいた時の匂いも少しずつ違っている。


同じ畑なのに、同じ土ではない。


クラインは、用意していた種袋を並べた。


豆。トマト。ナス。カボチャ。スイカ。


そして、小さな布に包まれた種芋。


クロは最後の包みを見て、少しだけ手を止めた。


「全区画に植えます」


クラインが言った。


「どこまでなら育つのか、どこから強すぎるのか、それらを見ます」


クレアは濃い区画を見た。


「枯れるかもしれない場所にも、植えますのね」


「はい」


クラインは頷いた。


「ですが、枯れると決めつけるためではありません」


クロは濃い区画の草を見た。


強い。少し怖い。土の中に、まだ竜の熱の名残があるような気がする。


でも、そこにも草は生えている。


クロは指先についた土を見た。


「ここにも、根がある」


クラインは、その言葉を記録しなかった。


ただ、静かに頷いた。


草を抜き、畝を整えた。


広い畑ではない。試験用に区切られた小さな場所だけだ。伸びすぎた草は根元から刈り、細い草は土を崩しすぎないように抜く。


クロは抜いた草の根を見た。


根には、土がしっかり絡んでいた。


細い根が、黒っぽい土を抱えている。ここにいたのだ、と言っているようだった。


クレアは手袋に土をつけながら、種袋を開けた。嫌そうな顔はしていた。けれど、指先は止まらない。


クラインが木札を立てる。


同じ名前の札が、違う区画に並んでいく。


トマトも。ナスも。カボチャも。スイカも。


同じ種が、違う土へ入っていく。


クロは穴を作り、種を置き、土をかぶせた。


普通土は、村の畑に近い手触りだった。軽く、乾きすぎず、指の腹にさらりと残る。


極薄の土は、普通土より少しだけ重い。


薄の土は、指を入れると奥にやわらかい湿り気があった。


中の土は、少し熱を含んでいるように感じた。けれど、それは刺す熱ではない。手のひらの下で、じっとしている熱だった。


濃い区画では、クロの指が止まった。


匂いが濃い。土の色も深い。ここに小さな種を置いていいのか、ほんの少し迷う。


けれど、さっきまで草が枯れずに生えていた。


クロは種を置いた。


土をかぶせる。


強く押さえない。


それでも、風で飛ばないくらいには整える。


クレアが横で、木札の位置を直した。少し傾いていた札が、まっすぐになる。


「細かいね」


クロが言うと、クレアは手袋についた土を払った。


「傾いていると、後で見づらいでしょう」


クレアの声色は冷たい。


けれど、その指先は丁寧だった。


最後に、種芋を植えた。


それは、ジェミノ村を出る時に持たされた芋だった。


非常食だから、と母が包んでくれたものの一つ。旅の途中で食べてもよかった。王都に着いてから食べてもよかった。けれど、何となく最後まで残していた。


食べれば、なくなる。


植えれば、なくなるかもしれない。

でも、増えるかもしれない。


クロは布を開いた。


少し乾いた皮。土の匂い。村の倉にあった芋と同じ匂い。


父が畑を見ていた背中。

母が芋を洗う手。

ヨルが土のついた芋を両手で持って、重そうにしていた顔。


それらが、ほんの少しだけ戻ってきた。


クロは種芋を両手で持った。


芽のあるところを、クラインに教わりながら小さく分ける。


一つずつ、違う土へ置いていく。


最後の濃い区画で、クロはもう一度だけ手を止めた。


強すぎるかもしれない。


でも、ここにも置く。


食べずに残した芋を、ここで土へ返す。


クロは土をかぶせた。指先でならした。浮かないように、けれど押し込みすぎないように。


それから、小さく言った。


「育って」


たった一言。


誰も、すぐには返事をしなかった。


風が畑を通った。


草を刈った後の匂いと、竜肥の混じった土の匂いが、低く混ざっていた。


植え終わった畑は、さっきより静かに見えた。


青く伸びていた草は刈られ、畝が整い、木札が並んでいる。何かを植えたというより、何かを隠した後のようにも見えた。


クロは畑の前にしゃがんだ。


「植えちゃうと、分からないね」


クレアが隣に立つ。


「でも、たしかに植えましたわ」


クロは頷いた。


「うん」


クラインは記録板を胸の前に持ち直した。


「明日からは、私が観察します。水量、土の状態、発芽、枯れ、虫害。すべて記録します」


クロは畑を見たまま、少しだけ耳を伏せた。


自分では見られない。


明日から、南へ行く。


この畑がどうなるのか、毎朝しゃがんで確かめることはできない。


「お願いします」


クロは言った。


クラインは、まっすぐ頷いた。


「預かります」


預かる。


その言葉が、土の上に立てられた木札よりも少し重く聞こえた。


三人は、少しの間、畑を見ていた。


普通土から順に、木札が並んでいる。


どの札の下にも、同じように種が入っている。けれど、その先で同じように育つとは限らない。


どの土が合うのかは分からない。どの土が強すぎるのかも、まだ分からない。青々と伸びた草が良い知らせなのか、ただ勢いが強いだけなのかも、本当はまだ分からない。


でも、全部に植えた。


クレアが畑を見たまま言った。


「戻った時、ずいぶん賑やかになっているかもしれませんわね」


クロは少し笑った。


「うん。賑やかだといいね」


クラインが眼鏡を押し上げた。


「賑やかすぎる場合は、間引きと再調整が必要になります」


クレアが横目で見た。


「今は希望の話をしていますの」


クラインは一度口を閉じた。


それから、記録板へ向きかけた筆を止めた。


「では、希望として預かります」


クロは畑を見た。


明日、自分たちは南へ行く。


この種たちは、王都に残る。


どちらが先に変わるのかは分からない。南の砂を踏む自分たちか、土の下で芽を探す種の方か。


ただ、戻ってきた時に見るものができた。


それだけは、はっきりしていた。

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