二章 第15話 「現場を知る者」
南部遠征の荷は、訓練場の端から端まで並んでいた。
水袋、乾燥食、予備の革具、薬箱、野営布、杭、縄。
四足型の背に積む荷装具と、二足型の哨戒用の軽い装備。いつもの訓練道具より、どれも少しだけ色が濃く、革は硬く、紐は太く、木箱の角には新しい金具が打たれている。
手に取る前から、長く使うものの匂いがした。
クロは水袋を両手で持ち上げた。
「……重い」
思ったより、腕に来た。
村でも水運びはした。井戸から家まで、畑まで、何度も運んだ。けれどこれは、自分の家へ持ち帰る水とは違う。
これは、喉を潤すだけの水ではない。
隊が進むための水で、竜が歩くための水で、そして、帰ってくるための水だった。
革袋の中で水が揺れる。持ち上げた時より、置く時の方が怖かった。雑に下ろすと、水が内側から遅れてぶつかり、袋の腹が大きく膨らむ。
クロの爪が、口を締める紐にかかった。
乾いた革の硬さが、爪の先に当たる。
「これ、落としたら困るね」
隣で別の水袋を見ていたクレアが、顔を上げずに答えた。
「困る、で済めばよろしいですわね」
声は冷たい。
けれど、その指は水袋の結び目を確かめていた。紐を押し、革の伸びを探り、結び目の下に指を入れる。以前なら汚れや匂いを先に気にしていた手が、今は緩みを探している。
クロは少しだけ耳を動かした。
「クレア、慣れたね」
「慣れたわけではありませんわ」
「でも触ってる」
「触らなければ分からないでしょう?」
クレアはそう言ってから、自分の手袋を見た。薄く汚れた指先に、ほんの少しだけ眉を寄せる。
クロは顔が緩むのをこらえて、水袋へ視線を戻した。
革の腹を押すと、中の水が遅れて動く。その揺れは手のひらに戻り、小さな動きなのに腕の奥まで重さを残した。
これを四足型の背に積むのだと思うと、クロはもう一度、結び目を確かめた。
訓練場の奥で、グロムが並んだ荷を睨むようにしていた。
濃い茶褐色の首は、いつもより少し高い。尾は大きく振られていないが、水袋の革が鳴るたびに耳が動く。
走りたいのだろう。
けれど、それだけではない気がした。
荷を背負った四足型が、ゆっくり歩く。革が鳴り、水が揺れ、足跡が少し深くなる。グロムの足とは、まるで速さが違う。
クロは水袋を置いて、グロムのそばへ歩いた。
「今日は、列を覚える日」
グロムが鼻を鳴らした。
「嫌なんだ」
もう一度、鼻が鳴る。
「うん。分かった」
首元に触れると、熱が手のひらに移った。グロムは前へ出ていない。鎖も鳴らしていない。ただ土を踏んでいるだけなのに、近くの四足型が一頭、耳を伏せた。
クロはその耳に目を留めた。
「集まれ」
レイヴンの声が落ちた。
見習いたちが荷から手を離す。クレアも水袋の紐を一度だけ確かめてから、顔を上げた。
レイヴンはいつもの眠たげな顔で立っていた。
その横に、知らない男がいる。
細身の男だった。三十代前半くらいだろうか。顔立ちは柔らかく、声を聞く前から穏やかそうに見える。竜の前より、書類机の前にいる方が似合いそうにも見えた。
けれど、その男は見習いたちを見なかった。
最初に向いたのは、水袋だった。
次に、荷台の端。革紐の角度。四足型の前足。二足型の尾。グロムの爪。最後に、クロの手綱。
クロは思わず息を止めた。
人より先に、荷と竜を確かめている。
「南部遠征には、俺は同行しない」
レイヴンが言った。
クロは反射的にレイヴンの足を見た。義足の金具が、薄い光を返している。
同行しない。
その言葉は、思ったより遅れて胸に落ちた。
訓練場なら、レイヴンの声がある。竜舎でも、荷役でも、危ない時には眠そうな声が落ちてきた。
けれど南の砂を、クロは知らない。
知らない地面で、その声がない。
「教官は……?」
「俺は留守番だ」
レイヴンは面倒そうに言った。
「南部遠征は地竜部隊の管轄になる。現場指揮はこいつが執る」
男が一歩前へ出る。
「ルーカス・ベルンです。地竜部隊で小隊長を務めています」
穏やかな声だった。
穏やかなのに、訓練場の端まで届く。
クレアが礼を返し、クロも少し遅れて頭を下げた。グロムは頭を下げない。かわりに、低く喉を鳴らした。
その音に、ルーカスは驚かなかった。
近づきすぎず、離れすぎず、グロムを確かめる。
「これがグロムですね」
「ああ」
「記録より大きく見えます」
「態度の分だろ」
「それは記録にありませんでしたね」
ルーカスはそう言って、近くに置かれていた水袋へ手を伸ばした。
結び目を一つ押し、紐を引く。革がきしみ、ほんの少しだけ締め直される。
クロには、最初それが何を意味するのか分からなかった。
ルーカスは手を離す。
「あのまま砂地へ出ると、半日で緩みます」
周りの見習いたちの顔から、少しずつ色が引いた。
ルーカスは穏やかな顔のまま続ける。
「遠征中は、私の指示に従ってもらいます。水と荷を落とせば、遠征はそこで終わります」
クロは、さっき持った水袋の重さを思い出した。
腕に残っている。
ただの水なのに、まだ重かった。
レイヴンが記録板をルーカスへ渡した。
「引き継ぐ」
「確認します」
ルーカスは紙面を読む。時折、グロムや荷列へ目をやりながら。
「レインフォート」
呼ばれて、クロの耳が立った。
「はい」
「地面と竜の足を読む、とあります」
クロは少しだけ背筋を伸ばした。
「荷の揺れにも気づく。反応も早い」
背筋がもう少し伸びる。
「ただし、自分の疲労を後回しにする」
戻った。
レイヴンは何も言わない。
クロは視線を少し下げた。グロムの首元に置いた自分の手が見える。指先に力が入っていた。
「遠征では、自分の疲労を数えない者から崩れます」
ルーカスの声は、叱る声ではなかった。
だから余計に、聞き流せなかった。
「地面を読むなら、自分の足も勘定に入れてください。竜の息を拾うなら、自分の息もです」
クロは自分の足元を見た。
靴の先に、乾いた土がついている。
自分の足。
自分の息。
竜より近いはずなのに、見落としそうなものだった。
「分かりました」
そう答えてから、本当に分かったかどうかは少し不安だった。
ルーカスは頷き、次にクレアを見た。
「レーヴェンハルト」
「はい」
「怖がる、とあります」
クレアの指が、革紐の上で止まった。
「……恐怖も記録事項ですのね」
「入れる」
レイヴンが即答した。
クレアは薄く息を吸った。
ルーカスは紙面から目を上げる。
「ですが、目を逸らさない、ともあります」
クレアは黙った。
「荷と固定具を拾える。後方の乱れにも気づく」
ルーカスは水袋の並ぶ方へ視線を移した。
「怖いなら、それで構いません。目を逸らさないなら」
クレアの顔から、薄い反発が消えた。
「できますか」
少しの間があった。
「……そのつもりです」
「では、後方荷列をお願いします。前に出る者より、後ろを拾う者が隊を生かす時があります」
クレアは水袋を見てから、短く答えた。
「承知しました」
最後に、ルーカスはグロムを見た。
グロムは土を踏んでいる。今にも前へ出そうな足と、クロの手の下に留まっている首。
「速い」
ルーカスが言った。
グロムの首が少し上がった。
「速すぎる」
首の高さが止まる。
「前に出たがる。音に反応する。他の地竜を気にしすぎる。中央荷列に近づけるには、まだ怖い」
クロの耳が動いた。
言い返す言葉は浮かばない。けれど、胸の奥で小さく引っかかった。
ルーカスはそれを拾ったのか、拾っていないのか、少しだけ間を置いた。
「今は、です」
クロは顔を上げる。
「速いだけでは連れていけません。列の中で使える足にします」
グロムが低く喉を鳴らした。
ルーカスは、その音を聞いても表情を変えない。
「反応は早いですね」
褒めているようにも、困っているようにも聞こえた。
グロムは不服そうに鼻を鳴らす。足先が土を押した。
クロは首元に置いた手へ、少しだけ力を込める。
「今のは、怒ってるわけじゃなくて」
「分かります」
ルーカスは短く答えた。
「怒っていなくても、周りは動きます」
クロは口を閉じた。
近くの四足型が、まだ耳を伏せている。
クレアはそれを見ていた。それからクロとグロムを見て、何も言わずに視線を戻した。
訓練はすぐに始まった。
レイヴンはまだ訓練場にいる。
けれど、声を飛ばすのはルーカスだった。
「外周配置。中央荷列から三歩離してください」
クロは手綱を握り直す。
「前に出しすぎない。ただし、引いて潰さない」
レイヴンの指示とは違う。短く、けれど細かい。竜だけではなく、その竜が列に何を起こすかまで含まれている。
「足を殺さず、列を崩さない」
クロはその言葉を飲み込んだ。
中央荷列が遅い。四足型の歩みは重く、水袋の革が鳴る。
グロムの耳が動いた。
前が空いている。
そんな聲が、来る前に分かった。
クロは答えようとして、止まる。
前は空いている。
でも、後ろはまだ空いていない。
四足型が一頭、荷を揺らす。背の水袋が遅れて動き、隣の四足型が耳を伏せた。
グロムが半歩出る。
それだけで、列の音が変わった。
「戻ろう」
クロは手綱を引き絞らず、身体の重さをほんの少し後ろへ置いた。
「まだ」
グロムの爪が土を削る。
「持ち場に戻るよ」
グロムは不満そうに喉を鳴らした。尾が一度、強く揺れる。
それでも、半歩戻った。
もう半歩。
持ち場へ戻る。
ルーカスはそれを確かめていた。
「なるほど」
記録板に短く書き込む。
「戻せるのは、本当ですね」
「言っただろ」
レイヴンが返す。
「ええ。確認しました」
確認。
その一語が、妙に重く聞こえた。
訓練は続いた。
グロムは前へ出ようとし、クロは戻す。止めるのではなく、戻す。足を潰さず、列を崩さない。
ただ乗っているより、ずっと疲れた。
何度目かの戻しで、クロは自分の息が浅くなっていることに気づいた。
――自分の息もです。
ルーカスの言葉が残っている。
クロは一度、息を吐いた。グロムの首に触れて、短く言う。
「一回、息」
グロムが不満そうにする。
「私の」
そう言うと、グロムの耳がわずかに動いた。
意味が届いたかは分からない。
でも、前へ出る圧が少しだけ弱まった。
クロはもう一度、息を吸う。
自分の息を数えるのは、竜の息より難しいかもしれなかった。
後方では、クレアが荷列についていた。
四足型の背に積まれた水袋の片方が、かすかに揺れる。落ちそうなほどではない。けれど、結び目にかかる革の角度が変わっていた。
クレアはすぐに声を出した。
「後方、右の水袋を確認してください。紐が伸びています」
部隊員が駆け寄り、結び目を確かめる。
本当に緩み始めていた。
ルーカスが振り返る。
「よく拾いました」
クレアは少しだけ顎を引いた。
「落ちれば困りますもの」
「落ちる前に気づくのです」
クレアは返事をしなかった。ただ、次の荷へ視線を移す。
クロはその横顔を見た。
肩は硬い。
けれど、目は逸れていない。
訓練が終わる頃には、見習いたちの顔に疲労が滲んでいた。
走ったわけではない。剣も振っていない。
それでも、クロはグロムから降りた瞬間、膝が少し重いことに気づいた。
いつもなら、そのまま歩いたかもしれない。
今日は、少し止まった。
グロムが首を曲げる。
――大丈夫。
そう言いかけて、口を閉じた。
クレアが見ている。ルーカスも、たぶんレイヴンも。
クロは耳を少し伏せる。
「……少し、足が重いです」
ルーカスが頷いた。
「では、それを記録してください」
「記録、ですか」
「はい。次に同じだけ動いた時、比べられます」
クロは自分の膝を見た。
疲れている。
それだけでは、足りないらしい。
クレアが小さく息を吐いた。
「ようやく自己申告を覚えましたのね」
「覚えたばっかり」
「忘れないでくださいませ」
「たぶん」
「そこは、はい、と言うところですわ」
クロは少しだけ笑った。
グロムが鼻を鳴らす。
それを聞いて、クレアはグロムを見た。
「あなたもですわよ」
グロムは、やはり分かっていないような顔をした。
たぶん、分かっている。
ルーカスは記録板を閉じた。
「レインフォートは危ういですね。グロムも危うい」
クロの耳が下がる。
「レーヴェンハルトは、思ったより後ろが利きます」
クレアが顔を上げる。
レイヴンが短く言った。
「だろ」
ルーカスはレイヴンを見る。
「自慢げに言わないでください」
「してねぇ」
「していました」
それ以上、レイヴンは否定しなかった。
たぶん、面倒になったのだと思う。
ルーカスは小さく息を吐いた。
「面倒な札ばかりですね」
「面倒だから、お前に渡す」
「信頼と嫌がらせの区別がつきませんよ、レイヴン教官」
「両方だろ」
ルーカスは少しだけ目を伏せた。
「そういうところは、本当に変わりませんね」
クロは二人を見比べた。
丁寧な言葉のわりに、二人の間には遠慮のなさがあった。
夕方になっても、遠征用装備の確認は続いていた。
並べ直された水袋の前で、クレアは革紐を確かめている。外周では二足型が歩き、四足型が息を吐くたびに荷が小さく揺れた。グロムだけが、不満げに土を踏んでいる。
レイヴンはまだ訓練場にいた。
けれど、隊を動かす声はもう別のものだった。
「外周、前に出すぎです。戻してください」
クロはグロムの首に手を置いた。
「右の荷列、止めないでください。歩きながら直します」
ルーカスの声に、四足型が一歩進む。
水袋が揺れた。
その日から、クロたちは走り方ではなく、戻り方を習い始めた。




