表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
74/80

二章 14話「合流」

記録板の端に、乾いた土が薄くついている。


訓練場の隅に立てかけられた板を、クロは少し耳を伏せて眺めていた。


落下なし。

暴走なし。

鎖反応なし。


その下に、細かな字が続いている。


他地竜接近時、注視強。

荷役音への反応あり。

号令、足音への反応あり。

外周配置、継続可。

前衛配置時、前進欲求強。

後援配置、要観察。

中央荷列接近、非推奨。

騎乗者への負荷、継続観察。


「負荷」


クロが小さく読んだ。


隣のクレアが、涼しい顔で答える。


「事実ですわね」


「ちょっとだけ」


「髪が抜け落ちるまで我慢していた人の言葉は、信用なりませんわ」


クロは無言で耳の後ろを押さえた。


もうほとんど目立たないはずなのに、クレアの目はそこだけ妙に鋭い。


訓練場の奥では、グロムが竜舎番を見下ろしている。


濃い茶褐色の首を高く上げ、金色の目を細めていた。他の地竜が通るたび、荷袋が鳴るたび、見習いの号令が飛ぶたび、その目が動く。


以前なら、目が動いた次に足が出かけた。


今は、まず見る。


怒る前に、一度見る。


それだけで、記録板に字が増えるだけの意味はある。


「怒るの、減った」


クロが呟く。


「減っただけですわ」


クレアは記録板から目を離さない。


「そこを忘れたら、たぶん吹き飛びますわよ」


「うん。忘れない」


グロムの尾が土を払う。


竜舎番が半歩下がった。


記録板の最後には、いつもと違う一行がある。


通常基礎訓練への合流申請。


レイヴンが記録板を外した。


木の留め具が、かつ、と鳴る。


「団長に出す」


クロの耳が立つ。


「今日ですか」


「今日だ」


レイヴンは記録板を脇に抱え、訓練場の土を歩き出した。義足が乾いた音を残していく。


「通るかどうかは、グロムだけの話じゃねぇ」


クロはグロムを見た。


グロムは、まるで自分の番が来ることなど最初から決まっていたような顔で、訓練場の方を見ている。


「私も?」


「そうだ」


レイヴンは振り返らない。


「乗る奴も、見る奴も、同じ隊に入る」




団長室の机の上に、記録板が置かれた。


窓から入る光が、板の端に残った土埃を薄く照らしている。


ヴァルフリートはしばらく黙って目を通していた。


レイヴンは机の前に立つ。義足の先は、床の上で動かない。


「前進欲求、強」


ヴァルフリートが顔を上げる。


「消えるもんじゃない」


レイヴンが言った。


「消えたら、それはもうグロムではないか」


「だろうな」


団長室で交わすには砕けた返事。


ヴァルフリートは咎めない。


「中央荷列には入れるな」


「ああ」


「荷を背負って列の芯に置く地竜ではない」


「分かってる」


「前衛か、後援。遅れた荷列を拾わせるか。あるいは側面警戒。隊の外で使え」


「そのつもりだ」


ヴァルフリートは記録板へ視線を戻した。


「だが、それは勝手に行けば一番先に列を崩すということだ」


「ああ」


「止められなければ荷が崩れる。荷が崩れれば、訓練にはならん」


「分かってる」


「それでも申請するか」


レイヴンはすぐに答えない。


記録板を見る。


そこに書かれた字ではなく、その向こうにある訓練場を見ているような目になる。


「奥に戻す段階は過ぎた」


ヴァルフリートは黙って聞いている。


「外へ出した。クロを乗せた。あいつはまだ荒い。だが、聞く前に暴れるだけじゃなくなった」


「危ういな」


「危うい」


レイヴンは認める。


「だが、今なら戻せる」


ヴァルフリートの目が細くなった。


「お前が、か」


「レインフォートが、だ」


短い間が空く。


「俺は、それを見てきた」


ヴァルフリートは記録板を閉じた。


木の板が低く鳴る。


「合流を認める」


レイヴンは目を伏せた。


「助かる」


「珍しいな」


「独り言だ」


ヴァルフリートは小さく息を吐く。


わずかな軽さは、すぐに消えた。


「壊すな」


何を、とは言わない。


地竜も。


黒猫も。


列も。


お前が築いた信頼も。


レイヴンは記録板を取り、背を向けた。


「壊させる気はない」


義足の音が、団長室にひとつ響いた。




訓練場には、いつもより多くのものが並んでいた。


水袋。荷袋。予備の革具。薬箱。畳まれた布。


四足型地竜たちはそれらを背に載せられ、低く息を吐く。革の匂いと乾いた草の匂い、竜の温い息が混ざっていた。


二足型地竜は軽い装具で前後を行き来し、尾で釣り合いを取っている。


クロはその数を見て、耳を動かした。


「いつもより、多い」


「遠征の形に近づける」


レイヴンが言う。


クレアはすでに荷袋の留め具を見ていた。結び目、革紐、水袋の重さ。目が、いつもの皮肉より先に仕事をしている。


「では、今日は荷役も含めた隊列訓練ですのね」


「そうだ」


レイヴンはクロを見た。


「許可が出た。グロムを入れる」


クロの耳が立つ。


「列に、ですか」


「外周だ。中央の荷列には入れない。あいつは隊列の芯に置く竜じゃねぇ」


レイヴンは訓練場を見た。


「前衛か、後援。後ろを拾う役だ。今日はまず外側から隊に合わせる」


「外側」


「楽な場所じゃないぞ」


レイヴンの声は低い。


「前が空いて見える。横へ抜けられる。戻る道もある。だから、一番勝手に動きたくなる」


クロはグロムを見た。


「グロム向きです」


「だから危ねぇんだ」


クロは少しだけ黙って、それから頷いた。


「はい」


レイヴンは訓練場へ目を向けた。


「ここは狭い。外周と言っても、すぐ横に荷列がある。少し前へ出ただけで、全部が乱れる」


グロムが鼻を鳴らす。


「だが、ここで乱さず動けるなら、外では使える札になる」


クロの耳が動いた。


「札」


「ああ」


レイヴンはグロムを見た。


「前へ出られる。横へ回れる。戻れる。隊から離れずにそれができるなら、遠征では即戦力だ」


それから、声を少し落とす。


「できるなら、だ」


クロはグロムの首元を見た。


グロムの尾が、ゆっくり土を払う。


褒められたことは分かっている。


ただし、認められたわけではない。


「喜ぶのは、終わってからにしろ」


クロは訓練場の奥を見た。


グロムが、こちらを見ている。


濃い茶褐色の鱗が、日の光を受けて鈍く光る。堂々としている。堂々としすぎている。


まるで、自分が呼ばれることなど最初から決まっていたように。


「グロム、嬉しそう」


「そう見えるなら、もう一度見ろ」


レイヴンが短く返す。


クロはグロムを見た。


グロムの尾が、ゆっくり土を払う。

金色の目は訓練場へ向いている。

呼ばれたことへの熱はある。

けれど、待たされた不満も、首の奥に残っている。


「……嬉しいだけじゃない」


「だろうな」


「たぶん、嬉しいのと、待たされたのと、両方」


レイヴンは否定しない。


「なら、両方見てろ」


クロはレイヴンの視線を確認してから頷き、グロムのそばへ行った。


首元に手を当てる。


「今日は、みんなと並ぶ日」


胸の奥に、すぐ返事が来る。


――ようやくか。


クロは瞬きをした。


以前より、少しだけ言葉の形に近い。


「ようやく、だね」


グロムは鼻を鳴らす。


待っていたものがようやく来たのに、まだ前へ出られない。


その不満が、首元から熱のように伝わってきた。


クロは少しだけ口元を緩める。


「でも、外にいるのは、好きに走るためじゃないよ」


グロムの喉が低く鳴った。




隊列が動き出した。


四足型地竜が、荷を揺らさない速さで中央を進む。その外側を二足型地竜が取る。


グロムは、さらに外。


そこが、速い足を持つ地竜の持ち場だった。


中央の荷列とは、少しだけ距離がある。


その少しが、グロムには広く見えるのだろう。


クロにも分かる。


前は空いている。

横も抜けられる。

後ろへ戻る道もある。


けれど、その全部が、今は隊の中にある。


クロは鞍の上で、前だけではなく横と後ろを見ようとした。


前の二足型との間隔。


中央を進む四足型。


水袋の揺れ。


後ろの見習いたち。


全部が、少しずつ別の速さで動いている。


訓練場で一頭ずつ走る時とは、まるで違う。


足の速さだけでは決まらない。


前が空いていても、横が詰まっていることがある。


横が空いていても、後ろの荷が遅れていることがある。


グロムが、じり、と前へ詰めた。


前の二足型地竜の尾が揺れる。


クロはすぐに気づく。


「近い」


グロムの喉が鳴った。


――空いている。


「うん」


クロは前を見たまま答える。


「でも、そこはグロムだけの空きじゃない」


不満が返る。


グロムにはまだ、前の空間しか見えていない。


クロは手綱を強く引かなかった。


押さえれば、止まるかもしれない。


けれど、それでは足を殺すことになる。


クロは横を見た。


四足型地竜の背で、水袋が揺れている。


「あそこにも、道がいる」


グロムの目がそちらへ動く。


「前だけじゃない」


クロは言葉を探す。


「今日は、前へ行く足を、横にも残しておく」


グロムは納得していない。


けれど、鼻先を前の地竜へ近づけるのをやめる。


クロは小さく息を吐いた。


グロムは分かったという顔をしない。


それでも前には出ない。




隊列が緩く曲がった。


中央の四足型地竜が、荷の重さに合わせて速度を落とす。


その瞬間、グロムの爪が土を噛んだ。


前へ出たい。


その力が、鞍の下から伝わる。


水袋が重そうに揺れていた。予備の革具が、片側へ少し遅れてついてくる。


「あれは邪魔じゃないよ」


クロは言った。


――重い。


「うん。重い」


クロは荷の揺れを見る。


「水。革具。ごはん。薬。遠くまで行くためのもの」


少し考えて、続けた。


「置いていったら、遠くまで行けないもの」


グロムは黙る。


納得ではない。


完全に弾き返したわけでもない。


その時、後方からクレアの声が飛んだ。


「前方、速いですわ。荷が揺れています」


クロは振り返る。


クレアは四足型の上で、荷の固定具を見ていた。視線はクロではなく、四足型の背にある水袋へ向いている。


「水袋が暴れています。少し落としてくださいませ」


クロはもう一度前を見た。


グロムは、まだ前へ出たがっている。


後ろの荷は揺れている。


「グロム、少しだけ」


クロは手綱を握り直した。


「止まるんじゃなくて……前に出る量を減らす」


グロムの耳が動く。


「爪ひとつ分」


グロムは鼻を鳴らした。


馬鹿にされたのか、理解したのか、どちらとも取れない音。


次の一歩で、前へ出る量がほんの少し減る。


荷の揺れが小さくなった。


クレアが目を細める。


「今のは、通じましたの?」


「たぶん、爪ひとつ分」


「単位が野性的ですわね」


「グロムの爪だから」


クレアは一度だけ天を仰いだ。


「通じたなら、今はそれで結構ですわ」


グロムが鼻を鳴らした。


今のは、少し得意げに聞こえた。




訓練は続いた。


グロムは最初より周りを見るようになっている。


少なくとも、前だけを睨み続けてはいない。


扱いやすい、という言葉にはまだ遠い。


前方の二足型が道を空けた。


ほんの一瞬。


グロムの身体が反応する。


溜めていた力が、先へ流れた。


「グロム――」


クロが声をかけるより早く、グロムは一歩半、前へ出る。


大きな逸脱ではない。


それでも、外周に置かれた地竜が勝手に前へ出れば十分だった。


中央の四足型が少し急ぐ。


荷が大きく揺れる。


水袋が片側へ振れ、革紐が軋んだ。一頭の四足型地竜が首を上げ、乗っていた見習いが慌てて手綱を握る。


「戻せ」


レイヴンの声が飛んだ。


叱責ではない。


ただの指示。


クロはすぐ後ろを見る。


グロムの胸から、不満が押し上がってきた。


――前に出た。


――戻るのは違う。


クロはグロムの首元に手を置く。


「うん。前に出た」


グロムの喉が低く鳴った。


「でも、持ち場から勝手に前へ出た」


後ろでは、荷を揺らした四足型をクレアが立て直そうとしている。見習いたちも、少し乱れた列を戻そうとしていた。


「外にいるのは、好きに走るためじゃない」


グロムが尾を強く振る。


土が削れた。


クロは手綱を引かない。


強く命じれば、戻せるかもしれない。


でも、それでは今日の訓練にはならない。


「戻ろう」


クロは言った。


「前に行くために、持ち場へ戻る」


グロムは動かない。


訓練場の空気が固まった。


竜舎番の手が、いつでも動ける位置にある。レイヴンは黙って見ていた。


クロも、首元に触れたまま待つ。


やがて、グロムが動いた。


綺麗な戻り方ではない。


少し横へ膨らみ、爪で土を削り、尾で不満を表しながら。


それでも、外周の位置へ戻る。


クレアが小さく息を吐いた。


四足型地竜の首が下がる。


荷の揺れが収まった。


レイヴンが言う。


「続けろ」


それだけ。


クロは頷く。


グロムはまだ不満げに喉を鳴らしていた。


前へは出ない。


訓練が終わる頃、グロムの息は荒くなっていた。


走ったからではない。


走らずに、周りを見続けたからだ。


クロは鞍の上で、グロムの首に触れた。


「前に行く足だけじゃないよ」


すぐに不満が返る。


――前へ行く。


「うん。前へ行く」


クロは頷いた。


「でも、外にいる時は、横にも後ろにも足がいる」


グロムは黙る。


「戻る時も、足がいる」


さらに黙る。


「戻った時も、ちゃんとグロムの足だった」


低い聲が返ってきた。


――面倒だ。


クロは瞬きをした。


前の二足型。


中央の四足型。


後ろの荷。


クレア。


隊列全部。


たぶん、その全部。


「うん。大変だよね」


グロムは不満げに鼻を鳴らす。


けれど今度は、前へ詰めなかった。


訓練後、レイヴンは記録板に短く書き込んだ。


基礎隊列合流初日。

外周配置。

前方逸脱一度。

呼び戻し成功。

継続。


「合格にはほど遠い」


クロの耳が少し下がる。


「だが、外すほどでもない」


耳が少し戻った。


クレアは四足型の荷を外しながら、深く息を吐く。


「あなた方が一歩半前に出ただけで、こちらは心臓が三歩ほど前へ出ましたわ」


クロは心配そうに見る。


「心臓、戻った?」


「戻しましたわ。意地で」


「グロムも戻った」


クレアはグロムを見る。


グロムは堂々としている。


戻ったことを褒められたくはなさそうだ。


「そこは誇ってよろしいですわ」


グロムは鼻を鳴らした。


今のは、少しだけ誇っている音に聞こえる。


レイヴンは南の方角を一度見た。


「南部じゃ、今日みたいな列が続く。砂地なら、水も荷ももっと重い」


クロはグロムを見た。


「砂の上でも、グロムは平気?」


返ってきたのは、力強い圧。


――踏む。


クロは少しだけ笑った。


「うん。踏むなら、みんなで」




竜肥の試験場では、クラインが待っていた。


縄で区切られた小さな畑に、木札が三つ立っている。


普通土。


竜肥薄。


竜肥極薄。


黒く落ち着いた竜肥からは、以前のような強い熱は上がっていない。ただの土とも少し違う。


クロはしゃがみ込み、鼻をひくつかせた。


「寝てる」


「竜肥が、ですか」


クラインが記録板を構える。


「うん。でも、土に近い」


「大変結構です。今日から土へ混ぜます」


クロが顔を上げる。


「合流?」


クラインは一瞬だけ黙った。


「……その表現でも、大きくは外れていません」


クレアが疲れた顔で言う。


「とうとう竜肥も訓練場入りですのね」


「その表現は記録しません」


「なんでですの!?」


クロは竜肥入りの土を手に取った。


指の間で、黒い土がほろりと崩れる。


「前より、土のふりが上手くなってる」


クラインは少し考え、記録板に書いた。


「馴化進行、としておきます」


「翻訳が早くなっていますわね」


クレアが横から言う。


「鍛えられましたので」


「どこをですの?」


クロは畝を作り始めた。


ジェミノ村で見ていた畑仕事の手つきが、自然に出る。


クレアは泥を気にして眉を寄せたが、すぐに黙って手伝い始めた。


畝を作り、木札を立て直し、縄の緩みを確かめる。


それが終わる頃には、訓練場の土も夕日に沈み始めていた。


クロは手についた土を見て、それから訓練場の土を見た。


そこには、昼間の足跡が残っている。


グロムが持ち場へ戻った時の足跡だった。


真っ直ぐではない。


少し膨らんで、土を削って、外側へ戻っている。


綺麗な足跡ではない。


それでも、ちゃんと戻った足跡だった。


試験畑には、竜肥を混ぜた土の区画ができていた。


木札が立ち、縄で囲われ、まだ何も植えられていない畝が並ぶ。


こちらも、まだ馴染んではいない。


クロは訓練場の土と、試験畑の土を交互に見た。


グロムは隊に入った。


竜肥は土へ入った。


どちらも、まだ周りを少し困らせている。


でも、もう外から見ているだけではない。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ