二章 14話「合流」
記録板の端に、乾いた土が薄くついている。
訓練場の隅に立てかけられた板を、クロは少し耳を伏せて眺めていた。
落下なし。
暴走なし。
鎖反応なし。
その下に、細かな字が続いている。
他地竜接近時、注視強。
荷役音への反応あり。
号令、足音への反応あり。
外周配置、継続可。
前衛配置時、前進欲求強。
後援配置、要観察。
中央荷列接近、非推奨。
騎乗者への負荷、継続観察。
「負荷」
クロが小さく読んだ。
隣のクレアが、涼しい顔で答える。
「事実ですわね」
「ちょっとだけ」
「髪が抜け落ちるまで我慢していた人の言葉は、信用なりませんわ」
クロは無言で耳の後ろを押さえた。
もうほとんど目立たないはずなのに、クレアの目はそこだけ妙に鋭い。
訓練場の奥では、グロムが竜舎番を見下ろしている。
濃い茶褐色の首を高く上げ、金色の目を細めていた。他の地竜が通るたび、荷袋が鳴るたび、見習いの号令が飛ぶたび、その目が動く。
以前なら、目が動いた次に足が出かけた。
今は、まず見る。
怒る前に、一度見る。
それだけで、記録板に字が増えるだけの意味はある。
「怒るの、減った」
クロが呟く。
「減っただけですわ」
クレアは記録板から目を離さない。
「そこを忘れたら、たぶん吹き飛びますわよ」
「うん。忘れない」
グロムの尾が土を払う。
竜舎番が半歩下がった。
記録板の最後には、いつもと違う一行がある。
通常基礎訓練への合流申請。
レイヴンが記録板を外した。
木の留め具が、かつ、と鳴る。
「団長に出す」
クロの耳が立つ。
「今日ですか」
「今日だ」
レイヴンは記録板を脇に抱え、訓練場の土を歩き出した。義足が乾いた音を残していく。
「通るかどうかは、グロムだけの話じゃねぇ」
クロはグロムを見た。
グロムは、まるで自分の番が来ることなど最初から決まっていたような顔で、訓練場の方を見ている。
「私も?」
「そうだ」
レイヴンは振り返らない。
「乗る奴も、見る奴も、同じ隊に入る」
団長室の机の上に、記録板が置かれた。
窓から入る光が、板の端に残った土埃を薄く照らしている。
ヴァルフリートはしばらく黙って目を通していた。
レイヴンは机の前に立つ。義足の先は、床の上で動かない。
「前進欲求、強」
ヴァルフリートが顔を上げる。
「消えるもんじゃない」
レイヴンが言った。
「消えたら、それはもうグロムではないか」
「だろうな」
団長室で交わすには砕けた返事。
ヴァルフリートは咎めない。
「中央荷列には入れるな」
「ああ」
「荷を背負って列の芯に置く地竜ではない」
「分かってる」
「前衛か、後援。遅れた荷列を拾わせるか。あるいは側面警戒。隊の外で使え」
「そのつもりだ」
ヴァルフリートは記録板へ視線を戻した。
「だが、それは勝手に行けば一番先に列を崩すということだ」
「ああ」
「止められなければ荷が崩れる。荷が崩れれば、訓練にはならん」
「分かってる」
「それでも申請するか」
レイヴンはすぐに答えない。
記録板を見る。
そこに書かれた字ではなく、その向こうにある訓練場を見ているような目になる。
「奥に戻す段階は過ぎた」
ヴァルフリートは黙って聞いている。
「外へ出した。クロを乗せた。あいつはまだ荒い。だが、聞く前に暴れるだけじゃなくなった」
「危ういな」
「危うい」
レイヴンは認める。
「だが、今なら戻せる」
ヴァルフリートの目が細くなった。
「お前が、か」
「レインフォートが、だ」
短い間が空く。
「俺は、それを見てきた」
ヴァルフリートは記録板を閉じた。
木の板が低く鳴る。
「合流を認める」
レイヴンは目を伏せた。
「助かる」
「珍しいな」
「独り言だ」
ヴァルフリートは小さく息を吐く。
わずかな軽さは、すぐに消えた。
「壊すな」
何を、とは言わない。
地竜も。
黒猫も。
列も。
お前が築いた信頼も。
レイヴンは記録板を取り、背を向けた。
「壊させる気はない」
義足の音が、団長室にひとつ響いた。
訓練場には、いつもより多くのものが並んでいた。
水袋。荷袋。予備の革具。薬箱。畳まれた布。
四足型地竜たちはそれらを背に載せられ、低く息を吐く。革の匂いと乾いた草の匂い、竜の温い息が混ざっていた。
二足型地竜は軽い装具で前後を行き来し、尾で釣り合いを取っている。
クロはその数を見て、耳を動かした。
「いつもより、多い」
「遠征の形に近づける」
レイヴンが言う。
クレアはすでに荷袋の留め具を見ていた。結び目、革紐、水袋の重さ。目が、いつもの皮肉より先に仕事をしている。
「では、今日は荷役も含めた隊列訓練ですのね」
「そうだ」
レイヴンはクロを見た。
「許可が出た。グロムを入れる」
クロの耳が立つ。
「列に、ですか」
「外周だ。中央の荷列には入れない。あいつは隊列の芯に置く竜じゃねぇ」
レイヴンは訓練場を見た。
「前衛か、後援。後ろを拾う役だ。今日はまず外側から隊に合わせる」
「外側」
「楽な場所じゃないぞ」
レイヴンの声は低い。
「前が空いて見える。横へ抜けられる。戻る道もある。だから、一番勝手に動きたくなる」
クロはグロムを見た。
「グロム向きです」
「だから危ねぇんだ」
クロは少しだけ黙って、それから頷いた。
「はい」
レイヴンは訓練場へ目を向けた。
「ここは狭い。外周と言っても、すぐ横に荷列がある。少し前へ出ただけで、全部が乱れる」
グロムが鼻を鳴らす。
「だが、ここで乱さず動けるなら、外では使える札になる」
クロの耳が動いた。
「札」
「ああ」
レイヴンはグロムを見た。
「前へ出られる。横へ回れる。戻れる。隊から離れずにそれができるなら、遠征では即戦力だ」
それから、声を少し落とす。
「できるなら、だ」
クロはグロムの首元を見た。
グロムの尾が、ゆっくり土を払う。
褒められたことは分かっている。
ただし、認められたわけではない。
「喜ぶのは、終わってからにしろ」
クロは訓練場の奥を見た。
グロムが、こちらを見ている。
濃い茶褐色の鱗が、日の光を受けて鈍く光る。堂々としている。堂々としすぎている。
まるで、自分が呼ばれることなど最初から決まっていたように。
「グロム、嬉しそう」
「そう見えるなら、もう一度見ろ」
レイヴンが短く返す。
クロはグロムを見た。
グロムの尾が、ゆっくり土を払う。
金色の目は訓練場へ向いている。
呼ばれたことへの熱はある。
けれど、待たされた不満も、首の奥に残っている。
「……嬉しいだけじゃない」
「だろうな」
「たぶん、嬉しいのと、待たされたのと、両方」
レイヴンは否定しない。
「なら、両方見てろ」
クロはレイヴンの視線を確認してから頷き、グロムのそばへ行った。
首元に手を当てる。
「今日は、みんなと並ぶ日」
胸の奥に、すぐ返事が来る。
――ようやくか。
クロは瞬きをした。
以前より、少しだけ言葉の形に近い。
「ようやく、だね」
グロムは鼻を鳴らす。
待っていたものがようやく来たのに、まだ前へ出られない。
その不満が、首元から熱のように伝わってきた。
クロは少しだけ口元を緩める。
「でも、外にいるのは、好きに走るためじゃないよ」
グロムの喉が低く鳴った。
隊列が動き出した。
四足型地竜が、荷を揺らさない速さで中央を進む。その外側を二足型地竜が取る。
グロムは、さらに外。
そこが、速い足を持つ地竜の持ち場だった。
中央の荷列とは、少しだけ距離がある。
その少しが、グロムには広く見えるのだろう。
クロにも分かる。
前は空いている。
横も抜けられる。
後ろへ戻る道もある。
けれど、その全部が、今は隊の中にある。
クロは鞍の上で、前だけではなく横と後ろを見ようとした。
前の二足型との間隔。
中央を進む四足型。
水袋の揺れ。
後ろの見習いたち。
全部が、少しずつ別の速さで動いている。
訓練場で一頭ずつ走る時とは、まるで違う。
足の速さだけでは決まらない。
前が空いていても、横が詰まっていることがある。
横が空いていても、後ろの荷が遅れていることがある。
グロムが、じり、と前へ詰めた。
前の二足型地竜の尾が揺れる。
クロはすぐに気づく。
「近い」
グロムの喉が鳴った。
――空いている。
「うん」
クロは前を見たまま答える。
「でも、そこはグロムだけの空きじゃない」
不満が返る。
グロムにはまだ、前の空間しか見えていない。
クロは手綱を強く引かなかった。
押さえれば、止まるかもしれない。
けれど、それでは足を殺すことになる。
クロは横を見た。
四足型地竜の背で、水袋が揺れている。
「あそこにも、道がいる」
グロムの目がそちらへ動く。
「前だけじゃない」
クロは言葉を探す。
「今日は、前へ行く足を、横にも残しておく」
グロムは納得していない。
けれど、鼻先を前の地竜へ近づけるのをやめる。
クロは小さく息を吐いた。
グロムは分かったという顔をしない。
それでも前には出ない。
隊列が緩く曲がった。
中央の四足型地竜が、荷の重さに合わせて速度を落とす。
その瞬間、グロムの爪が土を噛んだ。
前へ出たい。
その力が、鞍の下から伝わる。
水袋が重そうに揺れていた。予備の革具が、片側へ少し遅れてついてくる。
「あれは邪魔じゃないよ」
クロは言った。
――重い。
「うん。重い」
クロは荷の揺れを見る。
「水。革具。ごはん。薬。遠くまで行くためのもの」
少し考えて、続けた。
「置いていったら、遠くまで行けないもの」
グロムは黙る。
納得ではない。
完全に弾き返したわけでもない。
その時、後方からクレアの声が飛んだ。
「前方、速いですわ。荷が揺れています」
クロは振り返る。
クレアは四足型の上で、荷の固定具を見ていた。視線はクロではなく、四足型の背にある水袋へ向いている。
「水袋が暴れています。少し落としてくださいませ」
クロはもう一度前を見た。
グロムは、まだ前へ出たがっている。
後ろの荷は揺れている。
「グロム、少しだけ」
クロは手綱を握り直した。
「止まるんじゃなくて……前に出る量を減らす」
グロムの耳が動く。
「爪ひとつ分」
グロムは鼻を鳴らした。
馬鹿にされたのか、理解したのか、どちらとも取れない音。
次の一歩で、前へ出る量がほんの少し減る。
荷の揺れが小さくなった。
クレアが目を細める。
「今のは、通じましたの?」
「たぶん、爪ひとつ分」
「単位が野性的ですわね」
「グロムの爪だから」
クレアは一度だけ天を仰いだ。
「通じたなら、今はそれで結構ですわ」
グロムが鼻を鳴らした。
今のは、少し得意げに聞こえた。
訓練は続いた。
グロムは最初より周りを見るようになっている。
少なくとも、前だけを睨み続けてはいない。
扱いやすい、という言葉にはまだ遠い。
前方の二足型が道を空けた。
ほんの一瞬。
グロムの身体が反応する。
溜めていた力が、先へ流れた。
「グロム――」
クロが声をかけるより早く、グロムは一歩半、前へ出る。
大きな逸脱ではない。
それでも、外周に置かれた地竜が勝手に前へ出れば十分だった。
中央の四足型が少し急ぐ。
荷が大きく揺れる。
水袋が片側へ振れ、革紐が軋んだ。一頭の四足型地竜が首を上げ、乗っていた見習いが慌てて手綱を握る。
「戻せ」
レイヴンの声が飛んだ。
叱責ではない。
ただの指示。
クロはすぐ後ろを見る。
グロムの胸から、不満が押し上がってきた。
――前に出た。
――戻るのは違う。
クロはグロムの首元に手を置く。
「うん。前に出た」
グロムの喉が低く鳴った。
「でも、持ち場から勝手に前へ出た」
後ろでは、荷を揺らした四足型をクレアが立て直そうとしている。見習いたちも、少し乱れた列を戻そうとしていた。
「外にいるのは、好きに走るためじゃない」
グロムが尾を強く振る。
土が削れた。
クロは手綱を引かない。
強く命じれば、戻せるかもしれない。
でも、それでは今日の訓練にはならない。
「戻ろう」
クロは言った。
「前に行くために、持ち場へ戻る」
グロムは動かない。
訓練場の空気が固まった。
竜舎番の手が、いつでも動ける位置にある。レイヴンは黙って見ていた。
クロも、首元に触れたまま待つ。
やがて、グロムが動いた。
綺麗な戻り方ではない。
少し横へ膨らみ、爪で土を削り、尾で不満を表しながら。
それでも、外周の位置へ戻る。
クレアが小さく息を吐いた。
四足型地竜の首が下がる。
荷の揺れが収まった。
レイヴンが言う。
「続けろ」
それだけ。
クロは頷く。
グロムはまだ不満げに喉を鳴らしていた。
前へは出ない。
訓練が終わる頃、グロムの息は荒くなっていた。
走ったからではない。
走らずに、周りを見続けたからだ。
クロは鞍の上で、グロムの首に触れた。
「前に行く足だけじゃないよ」
すぐに不満が返る。
――前へ行く。
「うん。前へ行く」
クロは頷いた。
「でも、外にいる時は、横にも後ろにも足がいる」
グロムは黙る。
「戻る時も、足がいる」
さらに黙る。
「戻った時も、ちゃんとグロムの足だった」
低い聲が返ってきた。
――面倒だ。
クロは瞬きをした。
前の二足型。
中央の四足型。
後ろの荷。
クレア。
隊列全部。
たぶん、その全部。
「うん。大変だよね」
グロムは不満げに鼻を鳴らす。
けれど今度は、前へ詰めなかった。
訓練後、レイヴンは記録板に短く書き込んだ。
基礎隊列合流初日。
外周配置。
前方逸脱一度。
呼び戻し成功。
継続。
「合格にはほど遠い」
クロの耳が少し下がる。
「だが、外すほどでもない」
耳が少し戻った。
クレアは四足型の荷を外しながら、深く息を吐く。
「あなた方が一歩半前に出ただけで、こちらは心臓が三歩ほど前へ出ましたわ」
クロは心配そうに見る。
「心臓、戻った?」
「戻しましたわ。意地で」
「グロムも戻った」
クレアはグロムを見る。
グロムは堂々としている。
戻ったことを褒められたくはなさそうだ。
「そこは誇ってよろしいですわ」
グロムは鼻を鳴らした。
今のは、少しだけ誇っている音に聞こえる。
レイヴンは南の方角を一度見た。
「南部じゃ、今日みたいな列が続く。砂地なら、水も荷ももっと重い」
クロはグロムを見た。
「砂の上でも、グロムは平気?」
返ってきたのは、力強い圧。
――踏む。
クロは少しだけ笑った。
「うん。踏むなら、みんなで」
竜肥の試験場では、クラインが待っていた。
縄で区切られた小さな畑に、木札が三つ立っている。
普通土。
竜肥薄。
竜肥極薄。
黒く落ち着いた竜肥からは、以前のような強い熱は上がっていない。ただの土とも少し違う。
クロはしゃがみ込み、鼻をひくつかせた。
「寝てる」
「竜肥が、ですか」
クラインが記録板を構える。
「うん。でも、土に近い」
「大変結構です。今日から土へ混ぜます」
クロが顔を上げる。
「合流?」
クラインは一瞬だけ黙った。
「……その表現でも、大きくは外れていません」
クレアが疲れた顔で言う。
「とうとう竜肥も訓練場入りですのね」
「その表現は記録しません」
「なんでですの!?」
クロは竜肥入りの土を手に取った。
指の間で、黒い土がほろりと崩れる。
「前より、土のふりが上手くなってる」
クラインは少し考え、記録板に書いた。
「馴化進行、としておきます」
「翻訳が早くなっていますわね」
クレアが横から言う。
「鍛えられましたので」
「どこをですの?」
クロは畝を作り始めた。
ジェミノ村で見ていた畑仕事の手つきが、自然に出る。
クレアは泥を気にして眉を寄せたが、すぐに黙って手伝い始めた。
畝を作り、木札を立て直し、縄の緩みを確かめる。
それが終わる頃には、訓練場の土も夕日に沈み始めていた。
クロは手についた土を見て、それから訓練場の土を見た。
そこには、昼間の足跡が残っている。
グロムが持ち場へ戻った時の足跡だった。
真っ直ぐではない。
少し膨らんで、土を削って、外側へ戻っている。
綺麗な足跡ではない。
それでも、ちゃんと戻った足跡だった。
試験畑には、竜肥を混ぜた土の区画ができていた。
木札が立ち、縄で囲われ、まだ何も植えられていない畝が並ぶ。
こちらも、まだ馴染んではいない。
クロは訓練場の土と、試験畑の土を交互に見た。
グロムは隊に入った。
竜肥は土へ入った。
どちらも、まだ周りを少し困らせている。
でも、もう外から見ているだけではない。




