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二章 第13話「日の下へ」

訓練場の端、地竜地区の奥。


太い柵の向こうで、濃い茶褐色の地竜がこちらを見ている。


クロは柵の外に立っていた。その半歩後ろにクレアがいる。少し離れた場所では、レイヴンが腕を組んでいた。


グロムは鎖を鳴らしていない。


そのことに気づいて、レイヴンはしばらく黙っていた。


ひと月前なら、この距離にクロが立っただけで土が鳴っていた。爪が地面を掻き、鎖が跳ね、胸の奥へ荒い聲が叩きつけられていた。


今は違う。


グロムは動かない。


穏やかになったわけではない。大人しくなったわけでもない。金色の瞳には、今すぐ前へ出たいという熱が残っている。尾の先は、ときおり土の上で短く止まり、またゆっくり揺れた。喉の奥には低い息が溜まっていて、鱗の下では力が動いている。


それでも、グロムは待とうとしていた。


クロには、それが分かった。


聲はまだ大きい。近い。強い。けれど、以前のように押し潰してはこない。


「……ちゃんと待ててる」


声に出すつもりはなかった。


隣で、クレアが小さく頷いた。


「ええ。鎖も鳴らしていませんわ」


その言葉の重さを、ここにいる三人は知っていた。




このひと月、クロは何度もグロムの前に立った。


長く話せた日もある。ほとんど何も進まなかった日もある。グロムが苛立って土を掻き、レイヴンが即座に切り上げた日もあった。クロの顔色を見たクレアが、先に「今日は終わりですわ」と言った日もあった。


それでも、分かりやすく暴れることは一度もなかった。


クロが来る。クレアが来る。レイヴンが立ち会う。


それを繰り返して、グロムは少しずつ覚えた。


待っていれば、次があること。


急かせば、そこで終わること。


鎖を鳴らせば、クロはその日はもう近くに立たないこと。


聲は相変わらず大きく、近く、押しが強い。土も掻きたがる。首も突き出したがる。


ただ、その途中で止めるようになった。


ここまで来るのに、ひと月かかった。




クロが、グロムに乗ってみたいと言ったその日のうちに、レイヴンは竜騎士団長ヴァルフリートのもとへ向かった。


ヴァルフリートは、机に積まれた書類へ目を落としたまま、しばらく顔を上げなかった。


「グロムに、見習いを乗せるだと?」


低い声だった。怒声ではない。けれど、軽く流す声でもなかった。


「試験騎乗だ」


レイヴンが答える。


「呼び方を変えても、危険は変わらん」


「分かっている」


「分かっている顔ではないな」


そこでようやく、ヴァルフリートは顔を上げた。


現竜騎士団長のヴァルフリートとレイヴンは同期である。昔と変わらず細く鋭いその目を、レイヴンは正面から受けた。


少しの間、二人の間に沈黙が落ちた。


やがて、ヴァルフリートが言った。


「お前が頭を下げる日が来るとはな」


レイヴンは何も返さなかった。


ただ、深く頭を下げた。


団長室の空気が、わずかに重くなる。


ヴァルフリートは笑わなかった。


「……そこまでか」


「ああ」


「相手は、あのグロムだぞ」


「承知している」


「乗り手を落としている。止めようとすれば荒れる。押さえ込めば、さらに前へ出る。危険と判断されて奥へ回された地竜だ」


「勿論、知っている」


「知っていて、乗せると言うのか」


「知っているから、ひと月見たい」


ヴァルフリートの眉がわずかに動いた。


「何をだ」


「グロムの変化だ。レインフォートの受け止め方も含めてな」


「受け止め方?」


「レインフォートには、グロムの聲が届いている。俺はそれを外から見た。レーヴェンハルトも一緒にな」


「黒猫の見習いと、レーヴェンハルト家の娘か」


「名前で呼んでやれ」


「お前に言われたくはない」


ヴァルフリートは椅子へ背を預け、しばらくレイヴンを見ていた。


「なら、ひと月だ」


レイヴンが顔を上げる。


「ひと月の間、毎日報告を出せ。クロ・レインフォートの体調、グロムの反応、接触時間、鎖の有無、聞こえるという聲の強さ。見えた変化はすべて書け」


「ああ」


「一度でも暴れたら却下する。クロ・レインフォートの体調に異常が出た日は中断しろ」


「元よりそのつもりだ」


「許可したと思うな。ひと月、見てやる。それだけだ」


ヴァルフリートは机の上の書類を指で叩いた。


「それでいい」


「それでいい、か」


ヴァルフリートは小さく息を吐いた。


「お前は、昔から面倒なものばかり背負う」


「背負ったつもりはねぇ」


「では何だ」


レイヴンは少しだけ黙った。


それから、低く言った。


「あいつらが、勝手にこっちへ来た」


ヴァルフリートはしばらくレイヴンを見ていた。


「なら、来たものに責任を持て」


「持つ」


「お前一人の責任で済む話ではない」


「それも分かっている」


「分かっていて、頭を下げに来たか」


「ああ」


今度こそ、ヴァルフリートは少しだけ口元を歪めた。


「厄介な教官だ」


「今さらだろう」


「本当に、今さらだな」


レイヴンは扉へ向かいかけて、一度だけ足を止めた。


「それと、一つ」


「何だ」


「レインフォートの聲の件は、余計なところへ出さないでくれ」


ヴァルフリートの目が、わずかに細くなる。


「厄介事から守るためか?」


「そうだ」


レイヴンは迷わず答えた。


ヴァルフリートは、少しだけ黙った。


「記録には残す。だが、扱いはこちらで絞る」


「助かる」


「お前の頼みだ。無下にはせん」


「すまない」


「謝るな。そういう顔をされる方が面倒だ」


「……悪かった」


「謝るなと言ったばかりだ」


レイヴンは、それ以上は返さなかった。


ヴァルフリートは書類へ視線を落とす。


「行け。ひと月、見せてみろ」


「ああ」


それで、話は終わった。




そして今日、そのひと月が終わった。


許されたのは、正式な騎乗ではない。訓練参加でもない。通常訓練を終えた後、一週間だけ、レイヴンの管理下で試験騎乗を行う。それだけだった。


その一週間で暴走がなければ、ようやく次が検討される。


つまり、まだ始まってすらいない。


始まるかもしれない場所に、ようやく立っただけだった。




レイヴンは柵の前で、まずクロを見た。


「無理だと思ったら降りろ」


「はい」


「無理だと思えなくても、俺が無理だと思ったら降ろす」


「はい」


「聲を受けすぎたら言え。誤魔化すな」


「……はい」


最後の返事だけ、少し遅れた。


クレアが横からじっと見る。


クロは耳を少しだけ伏せた。


「言います」


「よし」


レイヴンは今度はグロムを見た。


「走るな。跳ねるな。首を振り回すな。合図より先に出るな。俺が止めろと言ったら止まれ」


低い喉鳴りが返った。


不服。


その一言に近いものが、クロの胸の奥へ届く。けれど、痛いほどではない。


クロは柵の向こうを見た。


「分かってるなら、待って」


グロムの爪が、土を少しだけ押した。


掻きそうになって、止まる。


クレアが、その足元を見ていた。


「……止めましたわね」


「うん」


クロは小さく頷いた。


「止めた」


その小さな変化が、どれだけ大きいか。


ひと月前なら、きっとそこで鎖が鳴っていた。




レイヴンが竜舎番へ目配せする。


太い閂が外され、補助の誘導綱が用意された。見習いたちは訓練場の端まで下がらされている。誰も声を出さなかった。


空気が変わった。


柵が、開く。


グロムが一歩を踏み出した。


日の下へ出る。


その瞬間、竜舎の奥に沈んでいた濃い茶褐色の鱗が、陽を受けた。


黒ではない。赤でもない。乾いた土、割れた岩、古い鉄、遠い血の色。そのすべてが混じったような、深い茶褐色だった。


その姿は、奥の区画で見ていた時よりずっと大きく見える。


太い首。厚い胸。肩から前脚にかけて、鱗の下で筋が盛り上がる。脚はただ太いだけではなく、地面を掴む形をしていた。爪が土へ沈み、一歩ごとに訓練場の土が低く鳴る。


見習いたちの声が消えた。


四足型の地竜とも違う。グロムと同じ、他の二足型の地竜とも違う。荷を運ぶのに適した身体ではない。哨戒に向いた軽さでもない。


地を蹴るための脚。


地面を掴むための爪。


遠くまで行ける身体。


止められることを嫌う首。


前へ出ることを誇りとしている胸。


荒い。


扱いづらい。


恐ろしい。


それは間違っていない。


けれど、グロムは危うさを身にまとっているのではなかった。


地を駆ける誇りそのものが、危ういほど強すぎるのだ。


クレアは息を止めた。


危ういほどの速さと誇りが、濃い茶褐色の竜の形をして、日の下に立っていた。


レイヴンは、その威容ではなく、脚を見ていた。


爪が土に沈む深さ。


踏み出す前から地面を押しているような、重い後脚。


止めるより、進ませるためにある足。


「……でけぇ足だ」


それは、感嘆と確認が混じったような声だった。


グロムの耳がわずかに動いた。


聞こえたのかもしれない。気に入ったのかもしれない。あるいは、もっと言えと思ったのかもしれない。


クロには、その全部が少しずつ混ざったものが来た。


聲は近い。


でも、待っている。




グロム用に調整された鞍が運ばれてくる。


通常の地竜用より厚く、固定具も太い。重地竜用の装具を何度も調整し直した跡があった。


クロはそれを見た。


以前なら、鞍があることだけで胸がいっぱいになった。


けれど今は違う。


鞍があっても、グロムが待たなければ意味がない。手綱があっても、クロがグロムの足を殺せば意味がない。


責任が伸し掛かる。


クロはグロムの横に立つ。


熱い。


息が低い。


鱗の下で、力が動いている。


止まっているのに、走り出す前のようだった。


「今日は、走らないからね」


クロは言った。


グロムの金色の瞳が、横からクロを見下ろす。


「歩く。止まる。待つ。私を置いていかない」


強い不満が来た。


クロは見返す。


「不満でも、今日はそれだけ」


また、不満。


けれどグロムは動かなかった。


レイヴンが確認する。


「行けるか」


クロは、すぐには答えなかった。


グロムを見る。自分の手を見る。耳の奥に来る聲の近さを確かめる。胸の奥が痛くないか、息が浅くなっていないか、ひとつずつ確かめる。


それから、顔を上げた。


「行けます」


レイヴンは頷いた。


「乗れ」




竜舎番が補助に入る。


クロは鞍へ足をかけた。


その瞬間、周囲の空気が止まった。


グロムの首が、ほんの少し動く。竜舎番の手が固くなる。クレアの指先が強く揃う。レイヴンの片手が、いつでも止められる位置に下がる。


グロムは、動かなかった。


クロは身体を引き上げ、鞍へ腰を落とした。


高い。


これまでに騎乗した四足型とも、二足型とも違う。


背中は広い。けれど、ただ安定しているわけではない。足元から、前へ押し出す力がずっと来ている。止まっているのに、背の下ではもう走り始めているようだった。


クロは手綱を握った。


強く引かない。


緩めきりもしない。


任せきれば置いていかれる。押さえ込めば、足を殺す。


その間を探す。


レイヴンの声が飛んだ。


「一歩」


歩け、ではなかった。


走れ、でもない。


一歩。


グロムの耳が動く。


――たった一歩だけか。


そんな不服が来た。


クロは短く返した。


「一歩」


グロムが動いた。


大きな前脚が、訓練場の土を踏む。土が沈み、クロの身体が背の上で前へ押される。


四足型の荷役の揺れではない。他の二足型の鋭い反動でもない。地面を噛み、身体ごと前へ押し出す力だった。


グロムの足は、止まっていた時間の分まで進みたがっている。


クロはそれを身体で受けた。


手綱ではなく、身体の置き方で答える。


グロムが二歩目へ行こうとする。


「止まれ」


レイヴンの声。


グロムは止まりたくなかった。


まだ踏める。


まだ前へ行ける。


今止めるのか。


その熱が、クロの胸へ来る。


クロは手綱を引きすぎなかった。ただ、低く言う。


「止まって」


グロムの首が硬くなる。


尾が土を叩きかける。


止まった。


完全ではない。足先が土を削り、身体がわずかに前へ滲む。


それでも、止まった。


誰も声を出さなかった。


クレアは息を止めたまま、グロムの足元を見ている。


ひと月前なら、鎖が鳴っていた。


ひと月前なら、クロの耳が伏せていた。


今は違う。


グロムは止まっている。


不満げに。


悔しそうに。


それでも、確かに。


クロは背の上で小さく息を吐いた。


「止まれた」


グロムから返ってきた聲は、文句の塊だった。


――止まれた。


分かっている。


――次だ。


――早く。


――たった一歩だけか。


――でも、止まれたぞ。


クロはほんの少しだけ口元を緩める。


「うん。止まれた」


グロムの尾が、今度は短く土を叩いた。


その音に、鎖は混ざらなかった。




レイヴンが言う。


「もう一度。一歩」


グロムが進む。


止まる。


今度は、さっきより少し早く止まった。


「二歩」


進む。


止まる。


二歩目が少し強い。クロの身体が持っていかれそうになる。けれど、手綱を引き潰さない。グロムの前へ出る力に合わせて、半拍遅らせる。


「まだ」


その声で、グロムは踏み込みを残したまま止まった。


荒い。


危ない。


けれど、暴走ではない。


見習いたちの中で、誰かが息を呑んだ。


その気配に、グロムの耳が動く。首がわずかに上がる。レイヴンの手が動きかけ、クレアも声を出しそうになった。


クロは、先に言った。


「こっち」


グロムの意識が戻る。


「私は、ここ」


グロムの金色の瞳が、ほんの少しだけ後ろへ向く。


見ている。


背の上の小さな重さを、見ている。


クロは息を整えた。


「置いていかないで」


グロムの喉が低く鳴る。


不満。理解。苛立ち。それから、かすかな納得。


全部混ざっている。


でも、前へ飛び出さない。


レイヴンは短く言った。


「曲がれ」


大きくは曲がらない。ほんの少しだけ方向を変える。グロムは首を動かし、肩を動かし、足で土を噛む。曲がることすら、前へ行くための動きに変えようとする。


クロはその力を感じながら、強く止めなかった。


足を殺さない。


けれど、行かせすぎない。


難しい。


グロムだけが試されているのではなかった。クロも試されている。どこまで任せるのか。どこから止めるのか。グロムの足が死なない場所。自分が置いていかれない場所。その狭いところを、背の上で探す。


「止まれ」


グロムは止まった。


今度は、さっきよりも綺麗に止まった。


クレアが、ようやく息を吐く。


「……止まりましたわ」


誰に言ったわけでもない声だった。


クロは小さく頷く。


「うん」


レイヴンは、まだ表情を変えなかった。


「そこまで」




グロムの頭が上がる。


――まだ。


――これからだ。


――走っていない。


――終わるな。


強い聲が来る。


一瞬、クロも同じことを思った。もう少し乗っていたい。もう少し、分かりたい。一歩だけでは足りない。二歩でも足りない。グロムの足は、まだ何も見せていない。


けれど、クロは手綱を握り直した。


「今日は、ここまで」


グロムの尾が土を叩いた。


今度は、はっきりとした不満だった。


それでも、跳ねない。振り落とさない。前へ出ない。


クロは、ゆっくりと鞍から降りた。


足が地面につく。


その瞬間、クレアの肩から力が抜けた。


クロはグロムを見上げる。


グロムも、クロを見下ろしていた。


日の下で見る金色の瞳は、柵の奥で見た時よりも近く、強い。けれど、痛いほどではなかった。


クロは言った。


「また明日」


グロムの喉が低く鳴る。


ーー待つ。


その意味だけは、はっきり届いた。




レイヴンが竜舎番へ目を向ける。


記録板に、いくつかの項目が書き込まれていく。


試験騎乗初日。


歩行。


停止。


短い方向転換。


落下なし。


暴走なし。


鎖の反応なし。


クロ・レインフォート、体調に大きな異常なし。


グロム、強い前進欲求あり。


継続観察。


レイヴンはそれを見て、短く言った。


「明日もやる」


クロの耳が立つのと同時に、グロムの尾が一度だけ土を叩く。


クレアは呆れたように息を吐いた。


「……二人とも、分かりやすすぎますわ」


クロは首を傾げる。


「そう?」


「そうですわ」


グロムが、もう一度喉を鳴らした。


それが返事のように聞こえたのは、クロだけかもしれなかった。




日の傾きかけた訓練場に、濃い茶褐色の地竜が立っている。


走れる足で。


走りたい身体で。


それでも、走らずに。


グロムは、まだ日の下にいた。


鎖のない場所で。


クロを置いていかないまま。

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