間幕 「おたんこなす」
音は、遠くにあった。
水桶を置く音がする。藁を抱えた人間の足音がする。どこかの竜が、眠りながら喉を鳴らしている。湿った藁の匂いも、石床に染みた水の匂いも、革油の匂いも、いつも通りそこにある。
音も、匂いも、途切れてはいない。
ただ、そのすべてが、私のところへ届くころには少し沈んでいた。
あの日、私が怒りに任せて砕いた柱からは、まだ新しい木の匂いがした。
折った柵は、以前より太い。鎖も重い。壊したものの分だけ、人間たちは距離を厚くした。
近くに立つ人間は、こちらを見ているようで、見ていない。見ないようにしている。
それでいい。
見るな。
近づくな。
私は藁の上に伏せ、片目を閉じていた。
眠ってはいない。
ただ、目を開けていても、見るものは同じだった。
鎖。
新しい木の匂い。
距離を厚くした人間たち。
首の鎖は重い。
目を閉じていても、竜舎の音は消えない。水桶の底が石を叩く音。藁が擦れる音。遠くの竜が寝返りを打つ気配。外で風が向きを変える気配。
どれも分かる。
分かるが、追う気にはならない。
私が動けば、また何かが壊れる。
だから、伏せていた。
黒猫の足音は、今日もない。
あの男の義足の音もない。
水桶を運ぶ足音。藁を抱えた足音。革具を持つ足音。見張りが立ち位置を変える音。
どれも違う。
聞き分けようとしているわけではない。
それでも、違うものは違う。
私は目を閉じたまま、喉の奥に溜まった息を低く沈めた。
最近、外が騒がしい。
飛竜の気配ではない。翼で風を切るものではなく、土を蹴り、地面を押し返し、前へ前へ出ようとするもの。
地竜だ。
大地に脚を食い込ませて走る竜。重さを逃がさず、下へ沈め、そこから前へ弾く竜。
その気配が、やけに荒い。
見ろ。
乗れ。
待てない。
言葉ではない。だが、意味だけは分かる。地面を爪で掻くような苛立ち。自分の足を信じきった誇り。止まることへの怒り。背にあるものより、自分の脚が殺されることを恐れる熱。
若い。
粗い。
誇りが、外へ出すぎている。
私は鼻先から短く息を漏らした。
その誇りが竜のものだということは分かる。走れる竜が、走れぬことを嫌うのは当然だ。自分の脚を疑わないことも、悪いことではない。
だが、騒がしい。
己の音を小さくすることを知らない竜は、背のものを壊す。
あるいは、自分が壊れる。
そんなことも分からぬのか。
そう思った時だった。
別の気配が混ざった。
小さい。
だが、鋭い。
黒猫の気配だ。
私は目を開いた。
だが、私の記憶にある黒猫とは様子が違っていた。あの黒猫は、妙なところで静かだ。私の前でも、穴の空いた教会でも、空の上でも、恐れているくせにどこか見ている。見すぎる。こちらが沈めたものまで、目の奥で拾おうとする。
その黒猫が、怒っていた。
怒り慣れていない怒りだった。
爪を出すのが下手だ。喉で唸るのも下手だ。けれど、引っ込めることもできていない。胸の奥で押さえていたものが、耐えきれずに外へ出ている。
私は頭を上げた。
鎖が、かすかに鳴る。
近くの人間が動きかけた。私はそれ以上動かなかった。人間も止まった。
黒猫の怒りは、騒がしい地竜へ向いていた。
小さな体の内側で、何かが逆立っている。
押し返す熱だ。
それだけなら、まだよかった。
だが、その怒りの中に、突然、別の気配が混ざった。
私は喉の奥を詰まらせた。
あの男だ。
かつて私の背にいた男。
今は来ない男。
もう、私とは飛ばない男。
届いたものは、会話ではなかった。声の形などない。意味が欠け、熱だけが残り、砕けた石のように胸へ落ちてくる。
相棒。
黒い竜。
向き合って。
意気地なし。
そして。
おたんこなす。
私は一瞬、動きを止めた。
何だ、それは。
意味は分からない。
だが、その音には牙があった。
しかも、その牙は、あの男へ向いていた。
何を言った、黒猫。
喉の奥で音が鳴りかける。
だが、その音は外へ出る前に沈んだ。
黒猫の怒りの奥に、覚えのある熱があった。
私が、沈めたものだった。
空を思い出した。
あの男の重さ。
鞍越しの体温。
飛び立つ前、背の上でほんの少し変わる重心。
それだけで、次にどちらへ風を受ければいいか分かった。
あの男は、無駄に引かなかった。
恐れをこちらへ押しつけなかった。
それがよかった。
私は、前の名を嫌っていた。
前の乗り手が残していった音。
人間たちが、当然のように私へ向けてくる音。
呼ばれるたび、尾が荒れた。
息が濁った。
あの男は、それを見ていた。
だから、呼ばなかった。
あいつ。
こいつ。
お前。
雑な音だった。
けれど、私を縛らなかった。
その音だけで、翼が軽くなった。
空へ戻れる気がした。
その感覚を、黒猫が持っている。
なぜだ。
いつ拾った。
いや、分かっている。
あの廃れた町だ。穴の空いた教会だ。眠りの底で、黒猫は私の中へ触れた。私が沈めたものに、あの小さな手を触れさせてしまった。
勝手に触れるな。
そう思う。
だが、触れさせたのは私かもしれない。
私は、あの日、確かに黒猫を背に乗せた。
お前は悪くない。
もう、前を向いて飛べ。
あの男の声が蘇る。
責める声ではなかった。
怒る声でもなかった。
今なら、それくらいは分かる。
だが、あの時は違った。
もう、この背には乗らない。
そう聞こえた。
あの男の脚では、もう鞍へ上がれない。
蹴り出す前の重さも、風へ入る時の呼吸も、戻らない。
分かっていた。
だから、認めなかった。
別の重さを乗せれば、あの男と飛んだ空が過去になる。
黒猫を乗せた時、体が硬くなった。
あれは、あの男ではない重さだった。
小さく、軽く、震えていた。
それでも離れなかった。
だから、落とさなかった。
町の上を回った。壊れた教会。井戸。広場。崩れた家。黒猫が見ようとしているものを、風の中で見せた。
なぜそうしたのかは、まだ分からない。
ただ、落とせなかった。
それだけだ。
黒猫の怒りは、まだ遠くで揺れていた。
その中に、あの男の痛みが混ざっている。
微かなものだった。人の胸の奥で押し殺され、声になる前に沈むような痛み。黒猫の怒りがなければ、私には届かなかったかもしれない。
あの男も、痛んでいたのか。
あの男も、私との空を失ったのか。
そうかもしれないものが、胸に触れた。
私は、それを受け入れない。
まだ、受け入れたくない。
私の失敗だけで終わらせていたものに、あの男の痛みまで混ざる。
それを認めれば、伏せていたものが崩れる。
だから、動かない。
翼を広げない。
鎖も鳴らさない。
ただ、喉の奥に熱だけが残る。
離れた場所の黒猫へ何かを返そうとした。
怒りか。
否定か。
やめろ、か。
余計なことをするな、か。
それとも、別の何かか。
分からない。
胸の底から、低い音が上がってきた。
怒りでも、否定でもなかった。
礼などでは、なおさらなかった。
どれにもなりきれないものが、喉の奥で重く濁る。
黒猫へ返せば、届いたかもしれない。
だが、私はそれをしない。
翼も動かさない。
鎖も鳴らさない。
音は、聲になる前に沈んだ。
やがて、黒猫の怒りは遠ざかった。
騒がしい地竜の気配も薄れていく。あの大地を蹴る竜は、まだ不服そうだった。だが、最初よりは少しだけ音が小さくなっていた。
あとに残ったのは、湿った藁の匂いと、石床に染みた水の匂いだった。
いつもの匂いだ。
いつもの鎖。
いつもの暗さ。
いつもの、動かない時間。
それでも、私はすぐには頭を伏せなかった。
あの男の声を思い出す。
お前。
ただそれだけで、かつては空へ戻れる気がした。
喉の奥で、低く音が鳴る。
「……馬鹿な男だ」
それが、あの男へ向けたものなのか。
自分へ向けたものなのか。
それとも、遠くで怒っていた小さな黒猫へ向けたものなのか。
私にも、まだ分からなかった。




