二章 第12話 「待つこと」
翌朝の竜舎は、いつも通りの匂いがした。
湿った藁と革油、水桶の水気、竜の息。石床をこする尾の音が奥から低く響き、どこかで寝ぼけた竜が喉を鳴らしている。
ただ、見習いたちの視線だけは、いつも通りではなかった。
クロが水桶を持って通路を歩くたび、何人かがちらりとこちらを見る。すぐに目を逸らす者もいれば、何か言いたそうに口元を動かしてから黙る者もいる。
クロの耳は、少しだけ下がっていた。
昨日のことを思い出すだけで、耳の根元がじわじわ熱くなる。
グロムに怒った。
レイヴン教官に、意気地なしと言った。
おたんこなすとも言った。
反省会は終わった。けれど、終わったからといって、周りの視線まできれいに消えるわけではなかった。
クロが耳を下げたまま水桶を置こうとすると、近くの見習いが小さく何かを囁きかけた。
その瞬間、クレアがゆっくり顔を向けた。
何も言わない。
ただ、涼しい目で一度だけ見た。
見習いは、すっと背筋を伸ばし、自分の担当区画へ戻っていった。
「……クレア」
「何ですの」
「ありがとう」
「別に。虫が飛んでいたので見ただけですわ」
「虫」
クロは見習いが去った方を見た。
クレアは手袋の指先を整えながら、澄ました顔で言う。
「ええ。少々、羽音がうるさかったものですから」
「羽、あったかな」
「黙りなさい」
クロは少しだけ口元を緩めた。
そのやり取りを、竜舎の入口近くでレイヴンが見ていた。
眠たげな目。片足に重心を置いた姿勢。いつもと同じように見える。
それでも、レイヴンと目が合いかけた瞬間、クロの胸の奥は少しだけ硬くなった。
昨日、自分はこの人に言いすぎた。
レイヴンはクロをしばらく見て、何も言わずに顎だけで訓練場の方を示した。
「午前の作業を終えたら地竜地区だ。遅れるな」
「はい」
クロは少しだけ背を正した。
レイヴンの声は普段通りだった。けれど、言葉の間に、ごく薄い重さが残っている気がした。
午前の作業を終えた見習いたちは、地竜地区へ集められた。
四足歩行型の地竜たちが並ぶ横には、革袋、木箱、予備の鞍具、砂袋、丸めた天幕、縄束が用意されている。さらに少し離れた区画では、二足歩行型の地竜たちが尾を動かしながら待っていた。
土の床には、低い柵や木製の障害物、ぬかるみを模した湿った土の区画、狭い通路が作られている。
いつもの騎乗訓練より、少し大がかりだった。
見習いたちがざわつく中、レイヴンが前に出る。義足の先が土を軽く叩いた。
「数か月後、南部方面への遠征訓練がある」
空気が変わった。
遠征。
その言葉だけで、見習いたちの背筋が少し伸びる。
「砂漠地帯を、野営を挟みながら踏破する。サハルディア砂王国との関所まで進み、そこで減った物資を補充する。その後、現地側と二泊ほど哨戒を行い、戻ってくる。全行程は、およそ二週間だ」
クロは砂漠を見たことがない。
地図の上では見たことがある。王国南東部へ続く乾いた土地。その先にあるサハルディア砂王国。けれど、地図の色と線だけでは、水の重さも、砂を踏む足の疲れも分からない。
「砂漠じゃ、荷が切れれば終わりだ」
レイヴンは短く言った。
「水、食料、革具、予備装備、薬、野営具。どれも勝手には歩かねぇ。四足型が運ぶ」
四足型の地竜が、ゆっくり鼻を鳴らした。太い首、広い背、重い胴。速さよりも、長く、確実に進むための身体だった。
「二足型は、哨戒、警護、斥候、危急の伝令に回る。隊の前を見に行く。後ろを拾う。危ないものを知らせる」
二足型の地竜が尾を振り、土を軽く叩く。四足型とは違う、細く鋭い揺れが床に伝わった。
「飛べる奴だけで遠征は回らねぇ。荷を運ぶ奴がいる。先を見る奴がいる。後ろを守る奴がいる。全部いる」
レイヴンの視線が見習いたちを順に通る。
「今日は、その真似事だ。四足型と二足型を組ませる。派手に走る訓練じゃねぇ。隊を進める訓練だ」
見習いたちの顔に、緊張が走った。
訓練は、思っていたよりずっと地味だった。
四足型地竜が荷を載せて進む。二足型地竜はその周囲につき、前方の障害物や足場の悪い場所を確かめ、必要なら戻って知らせる。狭い通路では順番を変え、ぬかるみでは荷を運ぶ四足型の歩幅に合わせる。
言葉にすれば、それだけだった。
けれど、隊列になると難しい。
四足型が少し遅れれば、後ろが詰まる。二足型が前へ出すぎれば、荷を運ぶ地竜の足場が分からなくなる。速い竜だけが先へ行っても、荷はついてこない。荷だけ守っていても、前に何があるのか分からない。
土の上を進む列は、ひとつの生き物のようだった。
重い胴を進める竜がいる。
軽く前へ出る竜がいる。
その間で、乗り手が息を合わせる。
誰かが進む間、誰かが抑える。
誰かが戻る間、誰かが止まる。
ただ速いだけでは、列は崩れる。
クロは二足型地竜の背で、その流れを感じていた。
鞍の下で地竜の背が鋭く上下する。尾が動き、重心が少し後ろへ逃げる。前へ出たい足を、急に引き止めすぎないようにする。けれど、四足型の荷列を置いていくわけにもいかない。
クロは少しだけ手綱を緩め、地竜の首が固くならない位置を探した。
遠征は、走れる者だけのものではない。
そう思った時、胸の奥に、低いものが落ちた。
――来たか。
クロの指がわずかに止まる。
奥の区画。
太い柵の向こうに、濃い茶褐色の影がある。金色の瞳が、こちらを追っていた。
――遅い。
胸を殴りつけるほどではない。昨日までの、頭の奥を爪で引っかかれるような強さよりは、少しだけ弱い。
それでも、近い。
クロの肩が少しこわばった。
「クロ」
遠くから、クレアの声がした。
クレアは四足型の上で、荷の揺れと地竜の歩幅を見ていた。肩にはまだ力が入っている。けれど、怖さだけで手綱を引くことは減っている。今も、クロの方へ駆け寄ろうとはせず、乗せてくれている地竜を刺激しない位置に立っていた。
レイヴンも、少し離れた場所からクロと奥の区画を見ている。
クロは息を吸い、今乗っている二足型地竜の首へ意識を戻した。
「大丈夫」
小さく言う。
奥の区画で、グロムは喉を低く鳴らした。
けれど、鎖は鳴らなかった。
訓練が終わる頃には、見習いたちの顔にははっきり疲労が浮かんでいた。
派手に走ったわけではない。高い場所から飛び降りたわけでもない。それでも、隊列を崩さないように進むだけで、背中と肩に重さが残る。荷を運ぶ地竜も、周囲を走る地竜も、鼻先から白い息を細く漏らしていた。
レイヴンは全体を確認した後、クロとクレアを呼んだ。
クロは思わず奥の区画を見る。
太い柵。
踏み荒らされた土。
その向こうに、グロムがいる。
「条件は昨日言った通りだ」
レイヴンの声が低く落ちる。
「柵の外。短時間。中には入るな。勝手に触るな。鎖が鳴ったら終わり。お前の顔色が悪くなっても終わりだ」
「はい」
「レーヴェンハルトも立ち会え」
「承知しましたわ」
クレアの返事は落ち着いていた。けれど手袋の指先が、いつもより少し強く揃えられている。
クロはグロムのいる区画へ向かった。
近づくにつれて、土の匂いが濃くなる。乾いた土ではない。何度も踏みしめられ、削られ、爪で掘り返された土の匂いだ。柵の柱は太く、表面には細かな傷が幾つも走っていた。
グロムは、柵の向こうで低く構えていた。
濃い茶褐色の鱗には、土の色に沈むような黒い艶がある。金色の瞳はまっすぐクロを見ていた。不服そうで、苛立っていて、それでも前のように鎖を鳴らしてはいない。
改めて見ると立派な地竜だった。
クロが柵の外で止まると、胸の奥へ意味が落ちる。
――来たか。
――遅い。
クロは一度、目を細めた。
「今の、まだ声が大きいよ」
グロムの喉が鳴った。
不満げな音だった。土の上で尾の先が少し動く。けれど、鎖は鳴らない。
レイヴンはクロの少し後ろに立った。義足の先が土へ浅く沈む。
「こいつは、何人か乗り手を振り落としてる」
グロムの瞳は、レイヴンへは向かない。
「乗り手が止めようとすると、余計に荒れた。手綱で押さえ込もうとすれば、さらに前へ出ようとした。結果、扱えないと判断されて、奥に置かれた」
レイヴンはそこで一度言葉を切る。
「理由までは知らん」
クロは、グロムを見上げた。
「だが、足を殺されるのを嫌がってるようには見える」
その言葉が落ちた瞬間、グロムの瞳の奥が、わずかに揺れた気がした。
直後、クロの胸の奥へ、別のものが流れ込んできた。
土を蹴る感覚だった。
広い大地。
強い後ろ足。
爪が土を掴み、身体が前へ伸びる。
まだ踏める。まだ速くなる。まだ先へ行ける。地面は途切れていない。足は残っている。身体は、止まっていない。
なのに。
首を引かれる。
流れが切れる。
前へ伸びようとした身体が、途中で折られる。
――走れた。
――まだ、行けた。
――地面は、先にあった。
――足は、死んでいなかった。
――なのに。
――引かれた。
――止められた。
――殺された。
――俺の足を。
クロは息を詰めた。
膝の奥に、土を蹴ろうとして止められた感覚が残る。自分の足ではないのに、足首から腿の奥にかけて、嫌な重さが走った。
クレアが、ほんの少し身を乗り出しかける。
レイヴンは動かない。ただ、クロの横顔を見ていた。
クロはグロムを見上げたまま、ゆっくり息を吐いた。
「……まだ行けたのに、止められたんだね」
グロムの喉の音が止まった。
一瞬だけ、風も土の匂いも薄くなったように感じた。
クロは続ける。
「君が速いのは、分かる。足を止められるのが嫌だったのも、少し分かる」
金色の瞳が細くなる。
クロは耳を伏せなかった。声を荒げもしなかった。
「でも、背にいる人が怖いのも分かる。君が急に行ったら、乗っている人は置いていかれる。怖いから、止めようとする。止められるから、君はもっと嫌になる。君が嫌になって暴れるから、乗っている人はもっと怖くなる」
グロムの尾の先が、土を押した。
土が少し盛り上がる。
「それだと、どっちも走れない」
グロムは答えない。
クロは柵の柱へ手を伸ばしかけた。
けれど、指先が木に触れる前に止まる。握るものを探すように少し丸まり、そのまま胸の前へ戻った。
グロムの金色の瞳は、柵の向こうから動かない。
「君だけが悪いんじゃないと思う。でも、君だけが正しいわけでもないと思う」
胸の奥へ、不服そうな熱が落ちる。けれど、それは前のようにクロを押し倒すほどではなかった。
「乗る人も、君の足を殺さない乗り方を覚えなきゃいけない。君も、背にいる人を置いていかないことを覚えなきゃいけない」
グロムの鼻先から、低い息が漏れる。
「お互いに少しずつ合わせないと、竜騎士にはなれない」
その言葉に、クレアがわずかに目を伏せた。
あの時、クロが叫んだ言葉の続きだと、クレアには分かった。
片方だけでは駄目なのだ。
竜だけでも、人だけでも。
クロは、もう一度グロムを見る。
「私は、君の足を殺したくない」
グロムの瞳が、わずかに動いた。
「君がもっと走れるって思っているなら、それを見たい」
胸の奥に、低いものが落ちる。
前のような命令ではなかった。
殴るような強さでもない。
それでも、熱い。
「でも、君が待ってくれないなら、私は乗れない」
グロムは喉を鳴らした。
不満。苛立ち。納得しきれない重さ。
けれど、鎖は鳴らない。
クロは小さく息を吸った。
「……教官」
レイヴンが片目だけを動かす。
クロはグロムから目を離さないまま言った。
「私は、グロムが待ってくれるなら、乗りたいです」
クレアが息を呑んだ。
グロムの喉が、低く深く鳴る。土の奥を震わせるような音だった。
レイヴンはすぐには答えなかった。グロムを見る。クロを見る。クロの耳、尻尾、顔色まで確かめるように目を動かす。
それから、短く言った。
「俺の一存じゃ決められねぇ」
クロは頷いた。
「はい」
「だが、上に掛け合ってみる」
クロの耳が、少しだけ立った。
柵の向こうで、グロムの尾の先が土を押した。爪が土を削る音はしたが、鎖は鳴らなかった。
その日の終わり、クロたちは試験畑へ向かった。
空は少し赤くなり始めている。竜舎の方からは、夕方の水桶を運ぶ音と、竜たちの低い息遣いが聞こえていた。
昨日はここへ来られなかった。
理由は、言うまでもない。
グロムに怒鳴り、レイヴン教官におたんこなすと言い、執務室で反省会になったからだ。
クロは試験畑の前で、記録板を持つクラインに頭を下げた。
「クラインさん、昨日、来られなくてごめんなさい」
クラインは眼鏡の奥の目を静かに細めた。
「お気になさらず。事情は一部始終うかがっています」
クロの耳が、すっと下がる。
「一部始終」
「ええ。一部始終です」
隣でクレアが小さく咳払いをした。
「……その件について、ここで掘り返す必要はありませんわ」
「そうですね。竜肥の穴は、幸いおたんこなすとは無関係です」
「クラインさん」
クレアの声が少し低くなる。
クラインは何事もなかったように記録板へ視線を戻した。
「失礼。では、観察へ戻りましょう」
クロは耳を下げたまま、穴の縁へ近づいた。
竜肥は、前より静かだった。
熱が頬を押してこない。匂いも、鼻の奥を刺すような強さではない。藁、灰、土、竜糞がそれぞれ別々に立っていた感じが薄れ、ひとつの重さになり始めている。
クロはしゃがみ込み、穴の中をじっと見た。
「……寝てる」
クレアが少しだけ眉を寄せる。
「竜肥が、ですの?」
「うん。竜が寝てる。息はしてる」
クラインの筆が、迷いなく動いた。
「発酵熱は安定。匂いの刺激も低下。配合物の馴染みも進んでいます」
記録板に数行を書き足し、クラインは頷く。
「熟成期に入ったと見てよいでしょう」
「竜糞に熟成という言葉を使う日が来るとは思いませんでしたわ」
クレアがこめかみに指を当てる。
クロは穴の中を見たまま、今日のグロムの瞳を思い出していた。
竜肥は、すぐ土になるわけではない。
でも、暴れる熱は落ち着き始めている。土の中で、少しずつ変わろうとしている。
グロムも、すぐには変わらない。
クロも、すぐには乗れない。
すぐに許可が下りるわけでもない。
それでも、今日は鎖が鳴らなかった。
クロは静かな穴を見つめた。
待つこと。
それは、何もしないことではないのかもしれない。
土になるまで時間を使う。
許可が下りるまで、勝手に走らない。
相手がこちらを見るまで、焦らない。
竜は、土の中で眠っている。
けれど、息はしている。
グロムも、きっと同じだ。
まだ静かではない。
まだ素直でもない。
けれど今日、鎖は鳴らなかった。
それだけは、昨日とは違っていた。




