表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/80

二章 第11話 「反省会」

食堂に入った瞬間、声が止まった。


鍋の中でスープが煮える音はしている。誰かが椅子を引く音も、木皿に匙が当たる音もあった。けれど、さっきまでそこにあった私語だけが、ぴたりと消えていた。


クロは入口で足を止めた。


見習いたちの視線が、ちらちらとこちらへ向く。竜舎番の一人も、匙を持ったまま動きを止めている。誰かが何かを言いかけ、隣の者に肘で止められた。


クロの耳が、ゆっくり下がった。


「……クレア」


「何ですの」


「なんか、見られてる」


「でしょうね」


クレアの声は、とても冷静だった。


冷静すぎて、クロの背筋が少し冷えた。


二人はいつもの席へ向かった。足音だけが妙に大きく聞こえる。クロが椅子に座ると、遅れて食堂のざわめきが少しずつ戻った。戻ったと言っても、声は低い。時々、こちらへ視線が飛んでくる。


クロは木皿を受け取り、匙を握った。


今日のスープには芋が多かった。豆も少し入っている。塩は昨日より前に出ている気がした。芋は柔らかい。悪くない。


けれど、それどころではなかった。


ひと口、ふた口と食べるうちに、夕方のことが少しずつ戻ってきた。


グロムに言い返した。


ずっとずっとうるさい、と言った。


君だけ見ていればいいわけじゃない、と言った。


そこまでは、まだいい。たぶん、あれは必要だった。少なくとも、あのまま黙っていたら、クロの頭の中が先に割れていた。


問題は、そのあとだ。


レイヴン教官に向かって、相棒でしょ、と言った。


意気地なし、と言った。


クロの匙が止まる。


尻尾が膝の横で細く丸まった。


それから。


それから、たしか。


「……おたんこなす」


小さく呟いた声に、向かいのクレアがぴたりと止まった。


「食堂で急に何を呟いていますの」


クロは両手で頭を抱えた。


「教官に……」


「ええ」


「教官に、おたんこなすって言っちゃった……」


クレアは、なんとも言えない顔をした。


責めるには、クロがもう十分に青ざめている。慰めるには、事実として言ってしまっている。しかも、おたんこなすだけではなかった。


「意気地なしも言った……」


「言いましたわね」


「相棒でしょって言った……」


「言いましたわね」


「教官、膝から崩れた……」


「崩れましたわね」


クロは頭を抱えたまま、耳まで縮こまった。


「どうしよう」


「しっかりなさい」


クレアの声は低かったが、いつもの刺すような冷たさではなかった。


クロは顔を上げようとして、上げられなかった。匙を握り直す指が震えている。スープの中で芋が一つ、ゆっくり沈んだ。


その時、食堂の入口が開いた。


革靴の音が入ってくる。


「クロ・レインフォート見習いはいるか!」


クロの身体が跳ねた。


椅子も少し鳴った。尻尾はそれ以上に跳ねた。


「ひゃい」


返事は、返事として少し失敗していた。


入ってきた竜騎士団員は、妙な間を置かずに言った。


「レイヴン教官がお呼びだ。食事の後、執務室へ来られたし」


それだけ告げると、竜騎士団員は踵を返した。


食堂がざわついた。


今度ははっきりとしたざわめきだった。いくつもの視線がクロへ集まる。誰かが小さく声を漏らし、別の誰かが肩を寄せて囁きかける。


クレアが、ゆっくり顔を上げた。


その一睨みで、近くの席の見習いたちは口を閉じた。少し離れた席の者も、慌てて木皿へ視線を落とす。完全に静かになったわけではないが、面白がるような声は消えた。


クロは死んだような顔で、匙を持ち直した。


「……食べられるんですの?」


「怒られる前に、食べておいた方がいい気がする」


「判断としては間違っていないですわね……」


クロは青ざめた顔のまま、ぱくぱくと食べた。


芋は柔らかかった。豆は少し眠そうだった。塩は前に出ていた。


けれど、それどころではなかった。




食事を終える頃には、クロの耳はすっかり下がっていた。


廊下へ出ると、夕方の空気が石壁に冷たく残っていた。竜舎の方角から、遠くで低い声が聞こえる。クロの耳が動きかけ、すぐに自分で止めた。


クレアが横から見ていた。


「まず、謝ることですわ」


「うん」


「余計なことを重ねないこと」


「うん」


「おたんこなすの再演をしないこと」


「……うん」


「そこは間を置かず返事をなさい」


「うん」


クロの声は細かった。


クレアは少しだけ息を吐いた。


「少なくとも、退団処分ではないと思いますわ」


クロが顔を上げる。


「……ほんと?」


「たぶん」


「たぶん……」


「あなたの普段使う“たぶん”よりは信用できますわ」


クロは小さく頷いた。


それが励ましになったのかは、クレアにも分からない。けれど、何も言わず歩かせるよりはましだった。たぶん。自分の“たぶん”も、今は少し怪しい気がした。


執務室の前に着く。


扉は閉まっていた。


クロは手を上げたまま、一度止まる。指先がわずかに震えた。


クレアは横で腕を組んだ。


「クロ」


「うん」


「……息をしなさい」


クロは少しだけ目を丸くした。


謝りなさい、でも。


大丈夫ですわ、でもない。


それだけだった。


クロは小さく息を吸った。


「うん。息、する」


そして、扉を叩いた。


「入れ」


中から、レイヴンの声がした。


クロは扉を開けた。クレアも一歩進みかける。


だが、机の奥に座るレイヴンが、顔を上げずに言った。


「レーヴェンハルト。外してくれ」


クレアの足が止まった。


一瞬、何かを言い返しそうになる。けれど唇を閉じた。


これは、自分が横に立ってどうにかする話ではない。黒い竜のこと。レイヴンのこと。クロが聞いたもののこと。夕方、クロが口にした「相棒でしょ」という言葉のこと。


クレアは小さく顎を引いた。


クロは振り返った。


「ごめんね、ありがと」


「……行ってらっしゃい」


「うん」


クロはもう一度頷いて、執務室へ入った。


扉が、静かに閉まった。




レイヴンは机の奥にいた。


机の上には書類がいくつも積まれている。記録板もある。まだ乾ききっていないインクの線が、紙の端で鈍く光っていた。


レイヴンはクロを一瞥した。


少しの間。


「座れ」


「し、失礼します……」


クロはぎこちなく椅子まで行き、そっと腰を下ろした。


膝の上で両手を握る。耳は下がっている。背筋は伸ばそうとしているのに、肩だけがどうしても縮こまっていた。


沈黙が落ちる。


レイヴンは書類を見ていない。クロも顔を上げられない。部屋の外を誰かが通る足音だけが、少し遠く聞こえた。


やがて、レイヴンが口を開いた。


「……前に言っていたな」


クロの肩が跳ねる。


「……はい?」


「黒い竜は、俺と飛ぶのが誇りだったと」


クロは一瞬、きょとんとした。


怒られると思っていた。おたんこなすの話だと思っていた。意気地なしの話だと思っていた。


けれど、レイヴンの声はそこへ向いていなかった。


「……はい。言いました」


「あいつの聲か」


クロは膝の上で手を握り直した。


「はい。言い切ることは、できません。でも……あの日の夜、私の故郷で、黒い竜と一緒にいた時、流れてきました」


レイヴンは黙っている。


クロは言葉を探した。


「教官に、お前って呼ばれるだけで」


そこで一度、喉が止まった。


「翼が、軽くなるみたいでした」


机の上で、レイヴンの拳が止まる。


「教官と飛ぶのが、誇りで」


クロは少しずつ、胸の奥に残っているものを拾った。


「でも、もう飛べないって分かっていて。分かっているのに、認めたくなくて」


膝の上の手に力が入る。


「守れなかった自分を、許せなくて」


部屋の中が、静かになった。


クロは、レイヴンの顔を見られなかった。


「誰かを背に乗せることは、もう教官とは飛べないって、認めることに近かったんだと思います」


レイヴンの義足の先が、床に軽く触れた。


かつ、と小さな音がした。


「だから、誰も近づけなかったのかもしれません」


クロはそこまで言って、ようやく顔を上げた。


レイヴンは拳を握っていた。顔は大きく崩れていない。けれど、机の上の指が白くなっている。


クロは、自分がとても重いものを渡していることに、少し遅れて気づいた。


喉が乾く。


それでも、言わなければならない気がした。


「あの日、教官は、前を向いて飛べって言ったんですよね」


レイヴンの目が、初めて大きく開いた。


その言葉を知っているはずがない。


少なくとも、普通なら。


クロは慌てて続けた。


「教官が悪いって言いたいんじゃないです」


声が少し震える。


「でも、黒い竜には、その言葉が……もう教官とは飛べないって、そう聞こえたんだと思います」


レイヴンは目を閉じた。


長い沈黙だった。


クロは膝の上の手を見つめた。指先が冷えていた。さっきまで怒られることばかり考えていたのに、今は別の怖さが胸に来ている。


自分は、レイヴンの痛いところへ手を入れている。


それも、たぶん、かなり深く。


やがて、レイヴンが静かに言った。


「レインフォート」


「はい」


「礼を言う」


「……え」


クロは間の抜けた声を出した。


礼。


今、礼と言ったのだろうか。


おたんこなすは。


意気地なしは。


教官を膝から崩れ落ちさせた件は。


「……怒られる、ところでは」


「怒る」


「はい」


「それは後だ」


クロは、さらに小さくなった。


レイヴンは短く息を吐いた。


「分かっていたつもりだった」


クロは黙って聞いた。


「あいつは俺を責めていない。自分を責めている。そういうことくらいは、長く組んでいれば分かる」


拳が、少しだけ緩む。


「だが、聞けなかった。そもそも俺には、あいつの聲は聞こえない」


クロは顔を上げた。


「俺と飛ぶのが誇りだった、なんてな」


その声は低かった。低いだけで、揺れてはいない。けれど、机の上に置かれた手は、まだ完全には開いていなかった。


レイヴンは少し間を置いて、続けた。


「……あいつは、名前を嫌っていた」


「名前、ですか」


「前の乗り手から引き継がれた呼び名だ。立派な名だと、周りは言った。だが、あいつはその名で呼ばれるたびに尾を荒らした」


クロは黙って聞いた。


「だから、俺は呼ばなかった。あいつ。こいつ。お前。雑に聞こえる呼び方ばかりだ」


レイヴンは、ほんの少し口元を歪めた。


「だが、それで翼が軽くなっていたなら、悪くなかったんだろうな」


クロの胸に、廃墟の教会で見た夢の残りがかすかに戻った。


お前。


その一言に弾むような、黒い竜の感情。


クロは膝の上で手を握り直した。


「でも、私、言いすぎました」


レイヴンは黙る。


「全部分かっているわけじゃないのに、教官の痛いところに、勝手に手を入れました」


クロの耳が下がる。


「意気地なしって言いました」


少し間が空いた。


「おたんこなすって言いました」


「そこは分けて反省しろ」


「はい……」


クロは深く頭を下げた。


「ごめんなさい」


レイヴンはすぐには答えなかった。


窓の外で、風が小さく鳴る。


「正しいかどうかは、知らん」


クロは顔を上げる。


「お前が俺の何を分かったかも、分からん。俺とあいつのことは、俺とあいつの間にしかねぇものもある」


「……はい」


「だが、刺さった」


クロの肩が小さく震えた。


レイヴンは、机の上の書類へ視線を落とす。


「刺さったってことは、そこに何かあったんだろうな」


クロは何も言えなかった。


レイヴンはしばらく書類を見ていた。けれど、目は文字を追っていないようだった。


「俺は、あいつを前に進ませるつもりで言った」


低い声だった。


「だが、あいつが前を向くために、俺が後ろを向いたままじゃ駄目だったんだろう」


クロは唇を開きかけて、閉じた。


ここで何かを言えば、また踏み込みすぎる気がした。


「少し考える。あいつと、どう話すかをな」


「……はい」


「お前は、勝手に何かするな」


「はい」


「そこは返事が早いな」


「お、怒られるから……」


レイヴンは、息だけで小さく笑ったようだった。


すぐに声の温度が戻る。


「それと、グロムの件だ」


クロの耳がぴくりと動いた。


「明日から、俺の立ち会いの下で、柵の外から話を聞く時間を作る」


クロは背筋を伸ばした。


「はい」


「時間は短くする。あいつが鎖を鳴らしたら終わりだ。お前の顔色が悪くなっても終わりだ。中には入るな。勝手に触るな」


「はい」


「それと、レーヴェンハルトにも立ち会わせる」


「クレアにも?」


「お前が自分の限界を信用していないからだ」


クロは何も言えなかった。


まだ平気。


そう言えば、本当に平気でいられる気がしていた。


クレアに心配された時も、レイヴンに問われた時も、クロはそう答えた。

自分でも、嘘をついたつもりはなかった。


でも髪は抜けた。


落ちかけた。


あの低い声が、自分の口から出た。


「グロムに言ったこと自体は、間違っていない」


レイヴンが続ける。


「あいつは待つ事を覚えなきゃ、誰も乗せられん。いくら強かろうが、速かろうがな」


「はい」


「だが、次から教官を巻き添えに撃墜するな」


「はい……」


クロはまた少し小さくなった。


レイヴンは書類を一枚、机の横へ寄せた。


「最後に」


クロの背筋が、ぴんと伸びる。


「上官に向かって、おたんこなすは二度と言うな」


「はい……」


「意気地なしもだ」


「はい……」


少しの間。


「言うなら、せめて二人きりの時にしろ」


クロが顔を上げる。


「……はい?」


レイヴンは片目だけを細めた。


「冗談だ。真に受けるな」


「……はい」


クロは、ますます小さくなった。


「行け」


「はい」


クロは椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。


「失礼しました」


扉へ向かう途中で、一度だけ振り返りかけた。


けれど、振り返らなかった。


今は、これ以上何かを言わない方がいい気がした。




扉を開けると、廊下の壁際にクレアが立っていた。


腕を組み、背筋を伸ばし、いかにも落ち着いて待っていたような顔をしている。


けれど、手袋の指先は少し乱れていた。


「……終わりましたの?」


「うん」


「怒られました?」


「怒られた」


「当然ですわ」


クロは小さく頷いた。


「でも、礼も言われた」


クレアは一瞬だけ目を丸くした。


「……そうですの」


それ以上は聞かなかった。


クロも、それ以上は言わなかった。


二人は並んで廊下を歩き出した。


クレアは、何度か横目でクロを見た。


「顔色は、食堂の時よりましですわね」


「そう?」


「少なくとも、芋に遺言を残しそうな顔ではありませんわ」


「芋に遺言なんか残さないよ?」


「はいはい」


クロは少しだけ口元を緩めた。


クレアはそれを見て、すぐに前を向いた。




扉が閉まった後、レイヴンはしばらく動かなかった。


机の上に置いた拳は、まだ固い。


お前、と呼ばれるだけで翼が軽くなった。


その言葉が、胸の奥に残っている。


前を向いて飛べ。


そう言った自分の声も、まだ残っている。


レイヴンは目を閉じた。


あいつの背。


あいつと駆けた空。


義足ではもう届かない高さ。


それでも、確かに自分のものだった風。


「……馬鹿野郎」


それが誰に向けた言葉なのか、レイヴンにも分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ