二章 第11話 「反省会」
食堂に入った瞬間、声が止まった。
鍋の中でスープが煮える音はしている。誰かが椅子を引く音も、木皿に匙が当たる音もあった。けれど、さっきまでそこにあった私語だけが、ぴたりと消えていた。
クロは入口で足を止めた。
見習いたちの視線が、ちらちらとこちらへ向く。竜舎番の一人も、匙を持ったまま動きを止めている。誰かが何かを言いかけ、隣の者に肘で止められた。
クロの耳が、ゆっくり下がった。
「……クレア」
「何ですの」
「なんか、見られてる」
「でしょうね」
クレアの声は、とても冷静だった。
冷静すぎて、クロの背筋が少し冷えた。
二人はいつもの席へ向かった。足音だけが妙に大きく聞こえる。クロが椅子に座ると、遅れて食堂のざわめきが少しずつ戻った。戻ったと言っても、声は低い。時々、こちらへ視線が飛んでくる。
クロは木皿を受け取り、匙を握った。
今日のスープには芋が多かった。豆も少し入っている。塩は昨日より前に出ている気がした。芋は柔らかい。悪くない。
けれど、それどころではなかった。
ひと口、ふた口と食べるうちに、夕方のことが少しずつ戻ってきた。
グロムに言い返した。
ずっとずっとうるさい、と言った。
君だけ見ていればいいわけじゃない、と言った。
そこまでは、まだいい。たぶん、あれは必要だった。少なくとも、あのまま黙っていたら、クロの頭の中が先に割れていた。
問題は、そのあとだ。
レイヴン教官に向かって、相棒でしょ、と言った。
意気地なし、と言った。
クロの匙が止まる。
尻尾が膝の横で細く丸まった。
それから。
それから、たしか。
「……おたんこなす」
小さく呟いた声に、向かいのクレアがぴたりと止まった。
「食堂で急に何を呟いていますの」
クロは両手で頭を抱えた。
「教官に……」
「ええ」
「教官に、おたんこなすって言っちゃった……」
クレアは、なんとも言えない顔をした。
責めるには、クロがもう十分に青ざめている。慰めるには、事実として言ってしまっている。しかも、おたんこなすだけではなかった。
「意気地なしも言った……」
「言いましたわね」
「相棒でしょって言った……」
「言いましたわね」
「教官、膝から崩れた……」
「崩れましたわね」
クロは頭を抱えたまま、耳まで縮こまった。
「どうしよう」
「しっかりなさい」
クレアの声は低かったが、いつもの刺すような冷たさではなかった。
クロは顔を上げようとして、上げられなかった。匙を握り直す指が震えている。スープの中で芋が一つ、ゆっくり沈んだ。
その時、食堂の入口が開いた。
革靴の音が入ってくる。
「クロ・レインフォート見習いはいるか!」
クロの身体が跳ねた。
椅子も少し鳴った。尻尾はそれ以上に跳ねた。
「ひゃい」
返事は、返事として少し失敗していた。
入ってきた竜騎士団員は、妙な間を置かずに言った。
「レイヴン教官がお呼びだ。食事の後、執務室へ来られたし」
それだけ告げると、竜騎士団員は踵を返した。
食堂がざわついた。
今度ははっきりとしたざわめきだった。いくつもの視線がクロへ集まる。誰かが小さく声を漏らし、別の誰かが肩を寄せて囁きかける。
クレアが、ゆっくり顔を上げた。
その一睨みで、近くの席の見習いたちは口を閉じた。少し離れた席の者も、慌てて木皿へ視線を落とす。完全に静かになったわけではないが、面白がるような声は消えた。
クロは死んだような顔で、匙を持ち直した。
「……食べられるんですの?」
「怒られる前に、食べておいた方がいい気がする」
「判断としては間違っていないですわね……」
クロは青ざめた顔のまま、ぱくぱくと食べた。
芋は柔らかかった。豆は少し眠そうだった。塩は前に出ていた。
けれど、それどころではなかった。
食事を終える頃には、クロの耳はすっかり下がっていた。
廊下へ出ると、夕方の空気が石壁に冷たく残っていた。竜舎の方角から、遠くで低い声が聞こえる。クロの耳が動きかけ、すぐに自分で止めた。
クレアが横から見ていた。
「まず、謝ることですわ」
「うん」
「余計なことを重ねないこと」
「うん」
「おたんこなすの再演をしないこと」
「……うん」
「そこは間を置かず返事をなさい」
「うん」
クロの声は細かった。
クレアは少しだけ息を吐いた。
「少なくとも、退団処分ではないと思いますわ」
クロが顔を上げる。
「……ほんと?」
「たぶん」
「たぶん……」
「あなたの普段使う“たぶん”よりは信用できますわ」
クロは小さく頷いた。
それが励ましになったのかは、クレアにも分からない。けれど、何も言わず歩かせるよりはましだった。たぶん。自分の“たぶん”も、今は少し怪しい気がした。
執務室の前に着く。
扉は閉まっていた。
クロは手を上げたまま、一度止まる。指先がわずかに震えた。
クレアは横で腕を組んだ。
「クロ」
「うん」
「……息をしなさい」
クロは少しだけ目を丸くした。
謝りなさい、でも。
大丈夫ですわ、でもない。
それだけだった。
クロは小さく息を吸った。
「うん。息、する」
そして、扉を叩いた。
「入れ」
中から、レイヴンの声がした。
クロは扉を開けた。クレアも一歩進みかける。
だが、机の奥に座るレイヴンが、顔を上げずに言った。
「レーヴェンハルト。外してくれ」
クレアの足が止まった。
一瞬、何かを言い返しそうになる。けれど唇を閉じた。
これは、自分が横に立ってどうにかする話ではない。黒い竜のこと。レイヴンのこと。クロが聞いたもののこと。夕方、クロが口にした「相棒でしょ」という言葉のこと。
クレアは小さく顎を引いた。
クロは振り返った。
「ごめんね、ありがと」
「……行ってらっしゃい」
「うん」
クロはもう一度頷いて、執務室へ入った。
扉が、静かに閉まった。
レイヴンは机の奥にいた。
机の上には書類がいくつも積まれている。記録板もある。まだ乾ききっていないインクの線が、紙の端で鈍く光っていた。
レイヴンはクロを一瞥した。
少しの間。
「座れ」
「し、失礼します……」
クロはぎこちなく椅子まで行き、そっと腰を下ろした。
膝の上で両手を握る。耳は下がっている。背筋は伸ばそうとしているのに、肩だけがどうしても縮こまっていた。
沈黙が落ちる。
レイヴンは書類を見ていない。クロも顔を上げられない。部屋の外を誰かが通る足音だけが、少し遠く聞こえた。
やがて、レイヴンが口を開いた。
「……前に言っていたな」
クロの肩が跳ねる。
「……はい?」
「黒い竜は、俺と飛ぶのが誇りだったと」
クロは一瞬、きょとんとした。
怒られると思っていた。おたんこなすの話だと思っていた。意気地なしの話だと思っていた。
けれど、レイヴンの声はそこへ向いていなかった。
「……はい。言いました」
「あいつの聲か」
クロは膝の上で手を握り直した。
「はい。言い切ることは、できません。でも……あの日の夜、私の故郷で、黒い竜と一緒にいた時、流れてきました」
レイヴンは黙っている。
クロは言葉を探した。
「教官に、お前って呼ばれるだけで」
そこで一度、喉が止まった。
「翼が、軽くなるみたいでした」
机の上で、レイヴンの拳が止まる。
「教官と飛ぶのが、誇りで」
クロは少しずつ、胸の奥に残っているものを拾った。
「でも、もう飛べないって分かっていて。分かっているのに、認めたくなくて」
膝の上の手に力が入る。
「守れなかった自分を、許せなくて」
部屋の中が、静かになった。
クロは、レイヴンの顔を見られなかった。
「誰かを背に乗せることは、もう教官とは飛べないって、認めることに近かったんだと思います」
レイヴンの義足の先が、床に軽く触れた。
かつ、と小さな音がした。
「だから、誰も近づけなかったのかもしれません」
クロはそこまで言って、ようやく顔を上げた。
レイヴンは拳を握っていた。顔は大きく崩れていない。けれど、机の上の指が白くなっている。
クロは、自分がとても重いものを渡していることに、少し遅れて気づいた。
喉が乾く。
それでも、言わなければならない気がした。
「あの日、教官は、前を向いて飛べって言ったんですよね」
レイヴンの目が、初めて大きく開いた。
その言葉を知っているはずがない。
少なくとも、普通なら。
クロは慌てて続けた。
「教官が悪いって言いたいんじゃないです」
声が少し震える。
「でも、黒い竜には、その言葉が……もう教官とは飛べないって、そう聞こえたんだと思います」
レイヴンは目を閉じた。
長い沈黙だった。
クロは膝の上の手を見つめた。指先が冷えていた。さっきまで怒られることばかり考えていたのに、今は別の怖さが胸に来ている。
自分は、レイヴンの痛いところへ手を入れている。
それも、たぶん、かなり深く。
やがて、レイヴンが静かに言った。
「レインフォート」
「はい」
「礼を言う」
「……え」
クロは間の抜けた声を出した。
礼。
今、礼と言ったのだろうか。
おたんこなすは。
意気地なしは。
教官を膝から崩れ落ちさせた件は。
「……怒られる、ところでは」
「怒る」
「はい」
「それは後だ」
クロは、さらに小さくなった。
レイヴンは短く息を吐いた。
「分かっていたつもりだった」
クロは黙って聞いた。
「あいつは俺を責めていない。自分を責めている。そういうことくらいは、長く組んでいれば分かる」
拳が、少しだけ緩む。
「だが、聞けなかった。そもそも俺には、あいつの聲は聞こえない」
クロは顔を上げた。
「俺と飛ぶのが誇りだった、なんてな」
その声は低かった。低いだけで、揺れてはいない。けれど、机の上に置かれた手は、まだ完全には開いていなかった。
レイヴンは少し間を置いて、続けた。
「……あいつは、名前を嫌っていた」
「名前、ですか」
「前の乗り手から引き継がれた呼び名だ。立派な名だと、周りは言った。だが、あいつはその名で呼ばれるたびに尾を荒らした」
クロは黙って聞いた。
「だから、俺は呼ばなかった。あいつ。こいつ。お前。雑に聞こえる呼び方ばかりだ」
レイヴンは、ほんの少し口元を歪めた。
「だが、それで翼が軽くなっていたなら、悪くなかったんだろうな」
クロの胸に、廃墟の教会で見た夢の残りがかすかに戻った。
お前。
その一言に弾むような、黒い竜の感情。
クロは膝の上で手を握り直した。
「でも、私、言いすぎました」
レイヴンは黙る。
「全部分かっているわけじゃないのに、教官の痛いところに、勝手に手を入れました」
クロの耳が下がる。
「意気地なしって言いました」
少し間が空いた。
「おたんこなすって言いました」
「そこは分けて反省しろ」
「はい……」
クロは深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
レイヴンはすぐには答えなかった。
窓の外で、風が小さく鳴る。
「正しいかどうかは、知らん」
クロは顔を上げる。
「お前が俺の何を分かったかも、分からん。俺とあいつのことは、俺とあいつの間にしかねぇものもある」
「……はい」
「だが、刺さった」
クロの肩が小さく震えた。
レイヴンは、机の上の書類へ視線を落とす。
「刺さったってことは、そこに何かあったんだろうな」
クロは何も言えなかった。
レイヴンはしばらく書類を見ていた。けれど、目は文字を追っていないようだった。
「俺は、あいつを前に進ませるつもりで言った」
低い声だった。
「だが、あいつが前を向くために、俺が後ろを向いたままじゃ駄目だったんだろう」
クロは唇を開きかけて、閉じた。
ここで何かを言えば、また踏み込みすぎる気がした。
「少し考える。あいつと、どう話すかをな」
「……はい」
「お前は、勝手に何かするな」
「はい」
「そこは返事が早いな」
「お、怒られるから……」
レイヴンは、息だけで小さく笑ったようだった。
すぐに声の温度が戻る。
「それと、グロムの件だ」
クロの耳がぴくりと動いた。
「明日から、俺の立ち会いの下で、柵の外から話を聞く時間を作る」
クロは背筋を伸ばした。
「はい」
「時間は短くする。あいつが鎖を鳴らしたら終わりだ。お前の顔色が悪くなっても終わりだ。中には入るな。勝手に触るな」
「はい」
「それと、レーヴェンハルトにも立ち会わせる」
「クレアにも?」
「お前が自分の限界を信用していないからだ」
クロは何も言えなかった。
まだ平気。
そう言えば、本当に平気でいられる気がしていた。
クレアに心配された時も、レイヴンに問われた時も、クロはそう答えた。
自分でも、嘘をついたつもりはなかった。
でも髪は抜けた。
落ちかけた。
あの低い声が、自分の口から出た。
「グロムに言ったこと自体は、間違っていない」
レイヴンが続ける。
「あいつは待つ事を覚えなきゃ、誰も乗せられん。いくら強かろうが、速かろうがな」
「はい」
「だが、次から教官を巻き添えに撃墜するな」
「はい……」
クロはまた少し小さくなった。
レイヴンは書類を一枚、机の横へ寄せた。
「最後に」
クロの背筋が、ぴんと伸びる。
「上官に向かって、おたんこなすは二度と言うな」
「はい……」
「意気地なしもだ」
「はい……」
少しの間。
「言うなら、せめて二人きりの時にしろ」
クロが顔を上げる。
「……はい?」
レイヴンは片目だけを細めた。
「冗談だ。真に受けるな」
「……はい」
クロは、ますます小さくなった。
「行け」
「はい」
クロは椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
「失礼しました」
扉へ向かう途中で、一度だけ振り返りかけた。
けれど、振り返らなかった。
今は、これ以上何かを言わない方がいい気がした。
扉を開けると、廊下の壁際にクレアが立っていた。
腕を組み、背筋を伸ばし、いかにも落ち着いて待っていたような顔をしている。
けれど、手袋の指先は少し乱れていた。
「……終わりましたの?」
「うん」
「怒られました?」
「怒られた」
「当然ですわ」
クロは小さく頷いた。
「でも、礼も言われた」
クレアは一瞬だけ目を丸くした。
「……そうですの」
それ以上は聞かなかった。
クロも、それ以上は言わなかった。
二人は並んで廊下を歩き出した。
クレアは、何度か横目でクロを見た。
「顔色は、食堂の時よりましですわね」
「そう?」
「少なくとも、芋に遺言を残しそうな顔ではありませんわ」
「芋に遺言なんか残さないよ?」
「はいはい」
クロは少しだけ口元を緩めた。
クレアはそれを見て、すぐに前を向いた。
扉が閉まった後、レイヴンはしばらく動かなかった。
机の上に置いた拳は、まだ固い。
お前、と呼ばれるだけで翼が軽くなった。
その言葉が、胸の奥に残っている。
前を向いて飛べ。
そう言った自分の声も、まだ残っている。
レイヴンは目を閉じた。
あいつの背。
あいつと駆けた空。
義足ではもう届かない高さ。
それでも、確かに自分のものだった風。
「……馬鹿野郎」
それが誰に向けた言葉なのか、レイヴンにも分からなかった。




