二章 第10話 「うるさいってば」
太い柵を挟んで、クロと濃い茶褐色の地竜は見つめ合っていた。
訓練の区切りがついたばかりの地竜地区には、まだ見習いたちの息遣いや、竜舎番が革具を確かめる音が残っている。近くでは二足歩行型地竜が鼻を鳴らし、遠くでは尾が土を擦る音もした。
それなのに、その一角だけが妙に静かだった。
クロは少し息が上がっている。耳は伏せていない。尻尾も膨らんでいない。ただ、目だけが低く据わっていた。
クレアは、その横顔から目を離せなかった。
さっき、クロは言った。
――うるせぇんだよ。
聞き間違いにはできない。
いつものクロなら、そんな声は出さない。少し低めで、淡々としていて、時々ひどく妙な感想を真顔で言う。竜糞を見て感動し、竜肥に腰を感じ、食べ物の匂いにはやけに繊細になる。
そのクロが、あんな声を出した。
クロ自身は、もういつもの顔に戻っているようにも見えた。けれどクレアには、何かがまだ張り詰めているのだと分かってしまった。
奥の区画で、鎖が鳴った。
短く、重い音。
クロの耳は動かなかった。
動かなかったことが、逆に怖かった。
レイヴンも黙っている。眠たげな目は、クロと奥の地竜を交互に見ていた。
濃い茶褐色の地竜は、柵の奥に立っている。
踏み荒らされた土。太い柱。厚い鎖。光を受けると黒い艶を沈める鱗。
その金色の瞳が、ずっとクロを射抜いていた。
クロの胸の奥へ、また意味が来る。
――まだか。
――俺を見ろ。
――乗れ。
クロの口元が、ほんの少しだけ動いた。
次の瞬間、クロはレイヴンを見た。
「教官」
声は静かだった。
静かすぎて、かえって地竜地区の空気を切った。
「なんだ」
「……あの地竜の前まで、行っていいですか」
クレアの肩が跳ねた。
「クロ!?」
クロはクレアを見ない。
レイヴンの眉がわずかに寄る。
「何をする気だ」
クロは、濃い茶褐色の地竜へ視線を戻した。
「言いたいことがあります」
地竜地区が、さらに静かになった。
誰かが息を呑んだ音がした。
レイヴンはしばらく黙った。クロの耳、尻尾、肩、目。それから奥の地竜を見る。
「近付きすぎるな」
「はい」
「中には入るな」
「はい」
「あいつが動いたら下がれ」
「はい」
「俺の声が聞こえたら止まれ」
「……はい」
最後の返事だけ、少し遅れた。
クレアは嫌な予感しかしなかった。
クロは歩き出した。
かつ、かつ、かつ。
小さな靴音が、地竜地区に響く。
地竜の息遣いや鎖の音に比べれば頼りないはずなのに、その場の誰もが、その音を聞いた。
クレアは思わず一歩出かけて、止まる。
今、近づいていいのか分からなかった。
クロの背中に、いつもの柔らかさがない。小柄で華奢な黒猫の背中なのに、近づいたら弾かれそうなものがあった。
クロは濃い茶褐色の地竜の前でぴたりと止まった。
耳も、尻尾も、余計な動きをしない。
震えもない。
感情が、表面からすっと消えていた。
だからこそ、怖かった。
そこに立っていたのは、竜舎仕事で竜糞に感動する少女ではなかった。竜の聲に削られ、眠れず、髪を抜かれ、それでも黙って耐えてきた見習いだった。
クロは腕を組んだ。
足を少し開く。
そして、濃い茶褐色の地竜を真正面から見据えた。
地竜の瞳が細くなる。
その時、レイヴンが低く言った。
「そいつの名は、グロムだ」
クロの耳が、一度だけ動いた。
「グロム」
小さな声だった。
それなのに、その名は柵の向こうへまっすぐ届いた。
グロムが、喉の奥で低く鳴る。
返事ではない。
威嚇でもない。
名を呼ばれた竜が、目の前の黒猫を測り直す音だった。
いつもなら、その瞬間に来る。
胸の奥を殴りつけるような、乱暴な聲。
けれど、来ない。
グロムは、クロを見下ろしたまま動かない。
金色の瞳が、ほんのわずかに細くなる。
押しつけるはずだった圧が、行き場を失ったように、喉の奥で止まっていた。
その一瞬だけ、グロムは黙った。
けれど、すぐに鼻先から熱い息を吐く。荒れた土の上で尾が動き、厚い鎖がわずかに鳴る。
胸の奥へ、また意味が来た。
――遅い。
――やっと来たか。
――乗れ。
クロの眉が、ぴくりと動いた。
ほんの小さな動きだった。
けれどクレアは、その瞬間に息を止めた。
耳は伏せていない。
尻尾も揺れていない。
クロは腕を組んだまま、ただグロムを見上げている。
それなのに、空気だけが重くなる。
さっきまで低く沈んでいた怒りが、胸の奥からせり上がってくるようだった。
レイヴンも、わずかに目を細めた。
グロムの喉が、低く鳴る。
クロの口が開いた。
「だから……」
声が落ちた。
その一言で、クレアの背筋に冷たいものが走った。
「ずっとずっと、うるさいんだってば!! 君は!!」
クロの声が、地竜地区に響いた。
見習いたちが硬直する。
竜舎番が手を止める。
クレアは目を見開いた。
「乗れ乗れって、何回も何回も!!」
クロは腕を組んだまま、グロムを睨み上げた。
「今は別の子に乗ってるの!! その子がびっくりするでしょ!!」
グロムの耳に似た突起がわずかに動く。
「君が強いのは分かった! すごいのも分かった! 走りたいのも、見てほしいのも、ちょっとは分かった!」
クロの声は震えていた。
怒りだけではない。疲れも、怖さも、困惑も、全部混じっていた。
「でも、近いんだよ!! 声が大きい!! しかも急に来る!!」
クレアは息を呑む。
クロの尻尾が、少しだけ膨らんだ。
「怖いし、疲れるし、髪も抜けたんだよ!?」
一部の見習いが、思わずクロの頭を見た。
クレアはその視線に少しだけ殺意を覚えた。
クロは構わず続ける。
「そんなに乗ってほしいなら、ちゃんと待ってよ!!」
グロムの鼻先から、低い息が漏れた。
胸の奥へ、熱が来る。
――俺様は強い。
――俺様に乗れ。
――俺様ならもっと早く走れる。
クロの目がさらに細くなる。
「そういうところだよ!!」
びしり、とクロの声が飛んだ。
「そういうところが、うるさいの!!」
地竜地区の空気が、さらに硬くなる。
クレアは、今度こそ止めるべきか迷った。
クロは怒っている。完全に怒っている。
けれど、ただ癇癪を起こしているわけではない。グロムの圧を受け続けてきたクロが、ようやく自分の言葉で押し返している。
だからこそ、クレアは動けなかった。
その時、レイヴンの声が落ちた。
「おい、クロ」
地竜地区の空気を切る、教官の声だった。
見習いたちは、その一言だけで背筋を伸ばす。竜舎番ですら、反射的に動きを止める。
「そこまでだ」
本来なら、それで止まるはずだった。
少なくとも、これまでのクロなら止まっていた。耳を伏せて、少し考えて、それから小さく頷いていた。
だが、この日のクロは止まらなかった。
クロの目だけが動く。
キッ、と。
クロはグロムではなく、レイヴンを見た。
小柄な黒猫の見習いが、元小隊長の教官を見上げる。
体格も、経験も、積み重ねた戦場の数も違う。本来なら、比べるまでもない。
けれど、その一瞬。
レイヴンは、言葉を継げなかった。
そこには、有無を言わせない迫力があった。
「――教官は」
クロの声が、少しだけ震えた。
それでも止まらない。
「教官は……黒い竜とちゃんと向き合っていたんですか!? 相棒でしょ!?」
レイヴンの顔が、わずかに強張った。
クロは止まらない。
「黒い竜が、竜舎の奥で、なんで人を遠ざけていたのか知らないでしょ!!」
黒い竜。
その言葉が出た瞬間、空気が変わった。
「クロぉッッッ!?」
クレアが思わず声を上げる。
けれど、クロはもう止まらなかった。
「あんな事言われたら傷付くの、分からないの!?」
「教官の大切な相棒だったんでしょ!? ならちゃんと見てあげてよ!!」
それは、グロムへの怒りではなかった。
黒い竜の背で受け取った痛み。
あの大きな黒い身体が抱えていた誇り。
レイヴンの言葉で壊れてしまったもの。
竜舎の奥で、誰も寄せつけず、伏せ続けていた理由。
それらが、今この瞬間に噴き出していた。
クロは、全部を正しく分かっているわけではない。
レイヴンの痛みも、黒い竜の痛みも、本当のところは二人にしか分からない。クロが触れられたのは、そのうちのほんの一部だけだったのかもしれない。
それでも、その一部が熱かった。
痛くて、苦しくて、誇らしくて、好きだった。
その全部が、胸の奥でぐちゃぐちゃになって、レイヴンへ向かってしまった。
止めなければ、と思った。
けれど、もう遅かった。
クロの目尻に涙が光っている。
「教官の意気地なし!!」
地竜地区の空気が止まる。
「おたんこなす!!」
言い切った瞬間、完全に止まった。
見習いたちの息遣いも、革具の金具が鳴る音も、近くの地竜が鼻を鳴らす音も、そこで途切れる。
誰かが息を吸いかけた。
けれど、声にはならなかった。
荒れた土を擦っていた尾の音だけが、遅れて止まる。
次に動いたのは、グロムではなかった。
レイヴンだった。
「ぐっ…ぬぅ……」
短い呻き声が落ちる。
レイヴンの顔から、すっと色が抜けた。
次の瞬間、義足の膝が石床を打った。
がつん、と硬い音が響く。
一拍遅れて、もう片方の膝も床につく。
レイヴンは、両膝を突いて俯いた。
黒い竜の咆哮の前でも倒れなかった男が。
地竜の咆哮の前でも声を荒らげなかった教官が。
黒猫の「おたんこなす!!」で、膝から崩れ落ちた。
けれど、誰も笑えなかった。
レイヴンの顔は、笑えるものではなかった。
義足の先が、石床を小さく叩く。その音だけが、やけに硬かった。
クロは言ってから、自分の声の大きさに少しだけ驚いた。
けれど、止まらなかった。
止まれなかった。
黒い竜の背で聞いた痛みが、胸の奥にまだ残っていた。
クレアは、完全に判断を失った。
止めるべきなのか。
教官を支えるべきなのか。
グロムを警戒するべきなのか。
それとも、いま目の前で地竜と教官を同時に撃墜した黒猫を回収するべきなのか。
選択肢が多すぎる。
しかも、そのすべてが緊急だった。
「クロ……あなた……」
それ以上、言葉が出ない。
奥の区画で、鎖が鳴らなかった。
それが、何より異常だった。
あれほど鳴っていた鎖が。
あれほど胸の奥へ叩きつけてきた聲が。
止まっていた。
濃い茶褐色の地竜は、ただクロを見ている。
さっきまでの圧が、ぴたりと消えている。
――……。
グロムが黙った。
クロは肩で息をしていた。
耳は立っている。
尻尾は少し膨らんでいる。
それでも、目は逸らさなかった。
今まで、胸の奥へ来るものは、勝手に入ってきた。
黒い竜の痛みも。
グロムの圧も。
耳を伏せても、尻尾を膨らませても、止まらなかった。
けれど今、クロはその圧ごと、グロムを真正面から睨み返していた。
喉の奥が熱い。
それでも、声は出た。
「聞いて」
クロはグロムを見据えたまま言った。
グロムは黙っている。
「いきなり胸の中に大声で入ってこないで」
グロムの瞳が細くなる。
「柵の中で暴れないで」
「竜舎番の人たちに警戒されることをしないで」
「他の子に乗ってる時に、邪魔しないで」
「私が来るまで、ちゃんと待って」
その言葉に、グロムの尾が土を打った。
胸の奥へ、低い意味が落ちる。
――来い。
――毎日来い。
――俺の話を聞け。
――俺に乗れ。
クロは眉を寄せた。
「今のままじゃ、無理」
グロムの尾が、もう一度土を打つ。
――来い。
「もぉ〜〜〜!!なんで分からないかな!?」
クロはまた少し声を荒げた。
「私にも訓練があるの!!」
「竜舎仕事もあるし、クレアとも組んでるし、勝手に動いたらまた怒られるの!!」
「君だけ見てればいいわけじゃないんだよ!!」
クレアは、こんな状況で自分の名前が出たことに一瞬だけ反応した。
けれど何も言えなかった。
グロムの鼻先から、熱い息が漏れる。
クロは退かない。
「でも、行ける時は行く」
「ちゃんと許可を取って、君のところに行く」
「話は聞く。乗れるかどうかも、ちゃんと見る」
少しだけ、声を落とした。
「だから、それまで待って」
胸の奥へ、まだ熱が来る。
強い。
速い。
走れる。
だから乗れ。
その理屈は、あまりにもまっすぐだった。
けれど、まっすぐすぎる刃は、相手を見ることを忘れる。
クロは金色の瞳を細めた。
「それだけじゃだめなんだよ」
声は、さっきより低かった。
グロムの喉鳴りが止まる。
「君がどれだけ強くても、君だけで走るなら、それは竜騎士じゃない」
「私がどれだけ乗れても、君を見ないで乗るなら、それも竜騎士じゃない」
クロは、一歩も退かなかった。
「竜騎士は、片刃だけじゃだめなんだよ」
その声は、グロムの聲とは違っていた。
胸を殴りつけるような乱暴さではない。
けれど、有無を言わせない強さがあった。
クレアは息を呑んだ。
レイヴンも、膝をついたまま顔を上げる。
グロムは動かない。
沈黙が落ちた。
長かった。
誰も動かない。
竜も、人も、息を詰めていた。
やがて、クロの胸の奥へ、小さなものが落ちてきた。
――……分かった。
いや、少し違う。
もっと小さく。
もっと不服そうで。
もっと悔しそうで。
それでも、確かに折れた意味だった。
クロには、それがなぜか、こう聞こえた。
――……はい。
クロは小さく頷いた。
「よし」
グロムの尾が一度だけ、土を擦る。
けれど、鎖は鳴らなかった。
柵に体当たりもしない。
ただ、喉の奥で低く鳴っただけだった。
クレアは呆然とした。
あの地竜が、クロに叱られて返事をした。
そうとしか見えなかった。
「……クロ」
低い声がした。
レイヴンは、まだ膝を突いたままだった。
けれど、顔は上げている。
「……後で説教だ」
「あっ」
クロはそこで、ようやく自分が何を言ったのかを思い出した。
教官に。
おたんこなすと。
言った。
耳が、じわじわ下がる。
「……はい」
「だが」
レイヴンは奥の地竜を見る。
「……続けろ」
刺さったものは、まだ抜けていない。
それでも教官として、現場は見ている。
あの地竜が、クロの言葉で暴れなくなった。
その事実を、見逃さない。
レイヴンはゆっくり息を吐いた。
「明日から、俺のいる時間に限る」
クロの耳が立ち直りかける。
「柵の外からだ。勝手に中へ入るな」
「はい」
「聲がきつい時はすぐ言え」
「はい」
「クレア」
「は、はい!」
クレアは声が裏返った。
「お前も近づきすぎるな。こいつが暴走しそうなら止めろ。いや、止めてくれ、頼む」
クレアは一瞬、グロムを見た。
次にクロを見た。
どちらの暴走を指しているのか分からなかった。
「……承知しましたわ」
「それを守れるなら、話を聞く時間を作る」
クロは背筋を伸ばした。
「はい」
グロムが低く喉を鳴らす。
胸の奥へ、さっきより控えめに意味が来た。
――来い。
圧も前よりは小さい。
命令というより、待っている聲に近い。
クロはグロムを見た。
「明日、ちゃんと許可を取って来る」
「だからこれからは、待って」
グロムの尾が、荒れた土の上で一度だけ動く。
それから、さっきより少しだけ低く、身を伏せた。
クロには、それが不服そうな返事に見えた。
でも、暴れなかった。
鎖も鳴らなかった。
クロは小さく息を吐いた。
交渉は、たぶん成立した。
けれど、地竜地区の空気はまだ戻らない。
レイヴンは膝をついたまま、石床を見つめている。
クレアは、何から処理すべきか分からない顔をしている。
見習いたちは、黒猫が地竜と教官をまとめて黙らせた光景を、ただ呆然と見ている。
竜舎番の一人が、ぽつりと呟いた。
「……今の、報告書にどう書くんだ」
誰も答えなかった。
答えられる者はいなかった。
グロムは、柵の向こうでクロを見ている。
さっきまでのように、胸の奥を殴る圧はない。
それでも、金色の瞳はまだ強い。
クロも見返した。
怖さも、疲れも、分からないことも残っている。
けれど、もう一方的にうるさいだけではなかった。
クロはこの日、初めて竜に言い返した。
柵の向こうで、グロムはまだ不服そうに喉を鳴らしている。
けれど、もう鎖は鳴らなかった。




