二章 第9話 「うるさい」
騎乗訓練が進むにつれ、クロの疲労は少しずつ積み重なっていった。
地竜の背に乗ること自体は、もう問題ではなかった。
四足歩行型も、荷を載せた状態での騎乗も、クロは周囲が呆れるほど早く身体へ馴染ませている。
鞍の上で身体が遅れることは少ない。
地竜の足運びも、揺れも、息の変わり目も見えている。
けれど、できることと、平気なことは違う。
奥の区画で鎖が鳴るたび、クロの胸の奥だけが硬くなった。
それが目に見える形で出たのは、前日の竜肥観察中のことだった。
訓練と竜舎仕事を終えた後、クロたちはいつものように竜肥の試験場へ向かった。
小区画に分けられた竜肥は、以前のように熱を暴れさせることはなくなっている。土と藁とおがくずを抱え込み、ゆっくり、重く、別のものへ変わりつつあった。
クロは穴の縁にしゃがみ込み、しばらくじっと見ていた。
「……少し落ち着いた」
ぽつりと落ちた言葉に、クラインが記録板を構える。
「発熱が下がった、という意味ですか?」
「うん。でも、まだ腰が高い」
「腰」
「土の中で、竜が寝返りを打つ前みたい」
クラインは一度だけ筆を止めた。
「……安定しかけているが、内部に動きが残っている、と」
「たぶん」
「あなた方、もう少し王国語で会話していただけませんこと?」
クレアがこめかみに手を当てた。
その時だった。
ふぁさり。
黒いものが、穴の縁近くへ落ちた。
藁ではない。
土でもない。
「……クロ?」
クレアの声が、明らかに固くなった。
「なに?」
「動かないでくださいませ」
「どうしたの?」
「髪が」
クロは自分の頭に手をやった。
耳の後ろに触れる。
指先が、すかっと地肌を撫でた。
「あっ」
小さな声だった。
けれど、その場の空気は一瞬で凍った。
目立つ場所ではない。髪をかき分けなければ分からない。けれど、耳の後ろには、王国銅貨ほどの丸い地肌がはっきり見えていた。
クレアは、すぐに手を伸ばせなかった。
触れた拍子に、また抜ける気がした。
「……本件は、竜肥観察記録には含めません」
クラインが、そっと記録板を閉じた。
「当然ですわ」
「記録しないの?」
クロが少し困った顔で聞く。
クレアは即座に返した。
「しなくてよろしいですわ!」
「健康状態の観察としては重要ですが、竜肥研究とは別件です」
「それも今ここで真面目に言うことではありませんわ!」
クレアはようやく手を伸ばし、クロの髪をそっと確認した。
乱暴に触れない。強くかき分けない。指先に力を入れない。
それでも、分かる。
髪が、ない。
「……抜けた」
「見れば分かりますわ」
「痛くはない」
「痛いかどうかの問題ではありませんわ!」
クレアの声が、少しだけ上ずった。
クロは返事をしなかった。
自分でも疲れていることは、分かっていた。
けれど、どうしたらよいのかは分からなかった。
その翌朝、クロはいつもより静かだった。
耳は伏せているわけではない。尻尾も膨らんでいない。けれど、全体に力がない。頭の上のアホ毛も、まだ少ししなびているように見えた。
クレアは朝から何度かクロを見た。
声をかけようとして、やめる。
かけすぎれば、きっとクロは困った顔をする。大丈夫だと答える。大丈夫ではない顔で、そう言う。
だから、クレアは何度も言葉を飲み込んだ。
それなのに、クロはふとこちらを見て言った。
「大丈夫だよ」
クレアは眉を寄せる。
「……まだ何も聞いていませんわ」
「あ、そうだった」
クロは小さく瞬きをした。
その様子がいつも通りに見えて、だからこそ、余計に心配だった。
午後の基礎訓練で地竜地区に入ると、見習いたちの足が自然と止まった。
太い柵の前に並んでいたのは、いつもの四足歩行型ではない。
二本の後ろ足で身体を支えた地竜たちが、長い尾をゆっくり揺らしている。
四足型より、背が高い。
それだけで、空気が少し硬くなった。
レイヴンが前へ出る。
「今日は二足型だ」
短い言葉に、誰かが喉を鳴らした。
「四足型と同じつもりで乗るな。歩幅も揺れも違う。尾で釣り合いを取る。そいつを邪魔するな」
レイヴンは二足歩行型の地竜を見た。
「落ちる時は四足型より派手に落ちる。気を抜くな」
見習いたちは硬く頷いた。
クロも地竜を見上げる。
四足型とは、立っている時の重さの置き方から違っていた。
横から、クレアが小さく声をかける。
「本当に大丈夫ですの?」
クロは少し考えた。
「うん。乗れると思う」
「乗れるかどうかではありませんわ」
クレアの声は低かった。
クロはそこでようやく、クレアが何を心配しているのかに気づいたらしい。
「……体のこと?」
「他に何がありますの」
クロは困ったように耳を少し下げた。
クレアは小さく息を吐く。
二足型への緊張はある。怖さもある。けれど、それ以上に今はクロが心配だった。
前日の髪の感触が、まだ指先に残っている。
それなのにクロは、聞かれる前から大丈夫だと言った。
見習いたちは順番に二足歩行型の地竜へ乗っていった。
背に上がった瞬間、足元が遠くなる。
四足型のように、広い背が横から受け止めてくれる感じはない。少し体重を間違えただけで、身体ごと傾く。
歩き出せば、揺れはもっと鋭かった。
下から突き上げられ、尾が動くたびに重心がずれる。止まる時には、身体が前へ持っていかれそうになる。
四足型の感覚で手綱を使うと、首と尾の釣り合いを邪魔してしまう。
当然、見習いたちは苦戦した。
前のめりになる者がいる。尾の動きに遅れて、鞍の上で大きく揺れる者もいる。
クレアも例外ではなかった。
怖い。
背が高い。揺れが鋭い。足元から来る動きが、四足型よりずっと急だった。
それでも、手綱を強く引きすぎない。
クレアは唇を引き結び、地竜を見た。
尾が動く。背の高さが変わる。次の一歩で身体が前へ運ばれる。
怖いまま、見る。
怖いからこそ、見落とさない。
地竜の首がわずかに固くなる前に、指の力を少し抜く。
歩みが戻る。
派手な進歩ではない。
けれど、クレアは落ちなかった。
クロはそれを見て、少しだけ安心した。
そして、自分の番が来た。
二足歩行型の地竜の横に立つと、クロは鞍に手をかける前に、地竜の首と尾を見た。
疲れは残っている。
けれど、地竜を見上げる目だけは、いつものように静かだった。
竜舎番の補助を受けて背に上がると、思った以上に地面が遠くなった。
クロは鞍の上で息を吸う。
地竜が首を動かす。尾が大きく揺れる。その動きの前に、身体の奥で重さが変わる。
歩き出しの癖。
止まる時の反動。
尾が釣り合いを取る前の、小さな沈み。
クロはそれを一つずつ感じ取った。
「歩け」
合図が出る。
地竜が一歩進み、身体が前後に揺れる。
クロは逆らわなかった。
もう一歩進む。
今度は尾の動きに合わせる。
四足型とは違う。けれど、分からないわけではない。
歩いて、止まって、曲がる。
短い距離を進み、また止まる。
見習いたちの視線が集まっていく。
クロ自身も、少し困った。
乗れる。
できてしまう。
そして、できてしまうから。
奥から、来る。
がしゃん、と鎖が鳴った。
一度ではない。
太い柵の向こうで、濃い茶褐色の地竜が土を削る。金色の瞳が、こちらを射抜いていた。
胸の奥へ、荒い圧が叩きつけられる。
ーー見た。
ーー乗れた。
ーーなら、次。
ーー俺だ。
ーー早く。
クロの手がこわばった。
その瞬間、背に乗せてくれている地竜が、びくりと首を上げた。
尾が大きく振れる。
鞍の下で背が跳ね、クロの身体が横へ流れた。
「クロ!」
クレアの声が飛ぶ。
見習いたちが息を呑んだ。
クロは落ちなかった。
鞍の端に膝を押しつけ、手綱を引くのではなく、首の動きから力を逃がす。爪先で鐙を拾い直し、上体を低くする。
地竜が、荒く息を吐いた。
「……ごめん」
クロは小さく言った。
クレアは、まだ息を詰めたままクロを見ていた。
落ちなかった。
けれど、それは結果の話だ。
今、クロは落ちかけた。
地竜の背で身体が遅れることなど、ほとんどないクロが。
四足型にも、荷を載せた騎乗にも、誰より早く馴染んでいたクロが。
一瞬、置いていかれた。
その事実が、クレアの背筋を冷たくした。
前日の髪のことが頭をよぎる。朝から力のない耳も、しなびたアホ毛も見ている。
だから、目を離せなかった。
クロは鞍の上で、短く息を吐いた。
見るべきなのは、背に乗せてくれているこの地竜だ。
奥の金色の瞳ではない。
分かっている。
分かっているのに――
がしゃん。
また、鎖が鳴った。
ーーまだか。
ーーそいつじゃない。
ーー俺を見ろ。
ーー俺に乗れ。
ーー今すぐだ。
クロの耳が、動かなくなった。
地竜の息も、見習いたちの声も、石床を擦る尾の音も、少し遠い。
代わりに、奥から来る聲だけが、頭の内側を爪で引っかいていた。
……うるさい。
もう一度、鎖が鳴る。
……うるさい。
クロの指が、手綱を握ったまま止まった。
強く引いたわけではない。
ただ、止まった。
ぷつり、と、クロの中で何かが切れた。
クロの金色の瞳が、すっと細くなる。
額に、青筋が浮かんだ。
クレアは、クロの横顔を見ていた。
さっき落ちかけたばかりなのに。
息も乱れているのに。
顔色だって悪いのに。
耳は伏せていない。
尻尾も膨らんでいない。
金色の瞳が、低く、冷たく据わっている。
それが怒りだと気づくまで、クレアは一呼吸遅れた。
普段のクロは、穏やかで、どちらかといえば無表情寄りだ。困ると耳を下げ、考えると首を少し傾げる。竜糞を見て真面目に感動するような、どこかずれた黒猫だった。
そのクロが、今。
静かに、完全に、キレていた。
クロの口元が、かすかに動く。
「……うるせぇんだよ」
とても冷たく、低い声だった。
小さな声だった。
けれど、その一言だけ、やけにはっきり聞こえた。
クレアの喉が、ひゅっと鳴った。
一瞬、足元の地竜が唸ったのかと思った。
違う。
今の声は、クロの口から出た。
そう理解した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「クロ……?」
呼んだ声が、少し掠れた。
クロは、まばたきをした。
一度。
次の瞬間、目の温度が戻った。額の力が抜ける。口元も、いつもの形に戻る。
さっきの顔だけが、見間違いだったみたいに消えた。
クロは少し不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
クレアはすぐに答えられなかった。
さっきの顔は何だったのか。
あの声は、本当にクロのものだったのか。
分からない。
けれど、聞き間違いにはできなかった。
「いえ……なんでもありませんわ」
ようやく、そう返した。
クロは小さく首を傾げた。
けれど、クレアの胸の奥には、冷たいものが残った。
今の顔を、見なかったことにはできない。
クロは確かに、怒っていた。
訓練は、その後も続いた。
見習いたちは二足歩行型の揺れに苦戦しながら、何度も同じ動きを繰り返す。
クロも訓練を続けた。
圧が来るたびに身体は少しだけこわばる。それでも、もう、乗せてくれている地竜を見失わない。
クレアはその姿を見ながら、胸の奥に小さな不安を抱えていた。
いつものクロに戻っているように見える。
けれど、さっきの低い声と、据わった目が忘れられない。
訓練の区切りがついた後、クロは地竜の背から降りた。
少しだけ息が上がっている。
足元も、ほんのわずかに揺れていた。
クレアは近づきかけて、足を止める。
奥の区画で、鎖が鳴った。
がしゃん。
さっきよりも、重い音だった。
濃い茶褐色の地竜が、まだクロを見ている。
いや。
見ている、などという穏やかなものではない。
太い柵の向こうで身じろぎもせず、金色の瞳だけでクロを射抜いていた。
そしてクロも、金色の瞳で見返していた。
耳は伏せていない。
尻尾も膨らんでいない。
怯えてもいない。
疲れ切っているはずなのに、膝だって少し震えているはずなのに、その目だけは低く、冷たく据わっていた。
クレアは、思わず息を呑んだ。
さっきの声が、耳の奥で蘇る。
――うるせぇんだよ。
あれは、聞き間違いではなかった。
クロは怒っている。
静かに。
低く。
そして、奥の地竜も退かない。
太い柵を挟んで、金色の瞳と金色の瞳がぶつかっていた。
見習いたちの声が遠のく。
地竜の息も、石床を擦る尾の音も、どこか遠い。
その場で動いているのは、奥の区画でわずかに揺れる鎖だけだった。
クレアは、動けなかった。
クロと、奥の地竜。
そのどちらが先に目を逸らすのか。
あるいは、どちらも逸らさないのか。
分からない。
ただ一つだけ、分かった。
これは、まだ終わっていない。




