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二章 第8話 「わからない」

騎乗訓練が始まってから、一ヶ月が過ぎようとしていた。


午前の竜舎仕事を終え、騎乗用の革具を確かめると、見習いたちはいつものように地竜地区へ向かう。


石床の音が重く変わる頃には、自然と声が小さくなる。地竜の横で騒がないこと。鞍に手をかける前に竜を見ること。触れる前に、一呼吸置くこと。


最初は何度も注意されていたことを、少しずつ身体が覚えてきていた。


けれど、その日は様子が違った。


地竜たちの横に、荷袋や木箱、革紐、固定具が並んでいる。


いつもの騎乗訓練ではない。


見習いたちが足を止める中、クロは地竜地区の奥へ一瞬だけ目を向けた。


濃い茶褐色の地竜。


金色の瞳。


あの日から、あの地竜はクロを見ている。


見ているだけではない。時々、胸の奥に荒い意味がぶつかってくる。




――乗れ。


――こっちを見ろ。


――まだか。




前触れもなく届くたび、身体中の毛が少し逆立ち、尻尾の先がぴくりと動いた。


今日は、まだ来ていない。


そう思ったところで、レイヴンが見習いたちの前に立った。


「今日は荷を載せる」


ざわめきが広がる。


「こいつらは地上の物資運搬に出ている地竜だ。乗れれば終わりじゃねぇ。荷を載せて歩かせる。それも本来の仕事の一つだ」


見習いたちの視線が、四足歩行型の地竜たちへ向く。


地面に近い身体。太い脚。大きな背。速く走るための竜ではない。けれど、重い荷を背負い、長い距離を歩くための竜だった。


「荷は乗せれば終わりじゃねぇ。片側が重けりゃ、竜の足を殺す。緩けりゃ揺れる。揺れりゃ竜が苛立つ。きつすぎりゃ痛める。荷がずれりゃ、乗り手も竜も危ねぇ」


見習いたちは、目の前の荷袋を見た。


ただ括り付ければいいものではないらしい。


「荷を括るのも、竜に触るのと同じだ。見ろ。竜を見ろ。荷だけ見るな」


短い説明の後、見習いたちは組に分けられた。


クロとクレアは同じ組だった。


クロが荷袋を持って近づくと、地竜は鼻先を軽く鳴らし、首だけを少しこちらへ向けた。


クロとクレアは、揃って足を止める。


「見てる」


「では、急がない方がよさそうですわね」


クレアは荷袋を抱え直した。


二人は地竜の視線が落ち着くのを待ってから、ゆっくり横へ回った。


まずは荷袋の重さを確かめ、左右に分ける。

前後の位置を見て、肩や脚の動きを邪魔しないように鞍と装具へ載せ、革紐で固定する。


文章にすれば、それだけだった。


実際には、かなり難しかった。


「こちら、少し重いですわね」


クレアが荷袋を持ち上げて言う。


「重い?」


クロは反対側の荷袋を見る。


「重さは同じくらい。でも、こっちの方が後ろに引いてる」


「位置ですの?」


「うん。足を出す時、少し邪魔になりそう」


クレアはすぐに荷の位置を見直した。


「では、こちらの袋を半手分前へ。結び目も直しますわ」


クロは地竜の顔を見る。


大きな反応はない。ただ、尾の先がゆっくり動いた。


「今の方がよさそう」


「本当に分かりますの、それ」


「たぶん」


「たぶんで荷を固定するのは少し怖いですわね」


そう言いながらも、クレアの手は止まらなかった。


結び目を解き、革紐を通し直す。左右の差を見て、固定具に余計な負担がかからないように締める。手順は丁寧で、無駄が少ない。


クロは地竜の反応を見る。


クレアは荷と紐を見る。


どちらか片方だけでは、少し足りない。けれど、二人で見ると、分かることが増えた。


「こっち、少し嫌そう」


「では、荷の位置を半手分上げますわ。結び直します」


「反対、少し軽い……いや、軽いんじゃなくて、後ろに引いてる」


「重さではなく、固定位置ですわね。こちらの袋を少し前へ」


「うん。今、楽そう」


クレアは手を止め、地竜を見た。


それから、小さく息を吐く。


「……あなたの“楽そう”は、だいぶ信用できるようになってきましたわ」


クロは少しだけ目を丸くした。


「そう?」


「不本意ながら」


「クレアの結び方、きれい」


クレアの眉がわずかに上がった。


「当たり前ですわ。雑に結んでよいものではありませんもの」


そう言う声は澄ましていたが、指先の動きは少しだけ速くなった。


クロはそれを見て、耳を軽く揺らす。


以前なら、言葉を探している間に手が止まっていた。


今は、どちらかが気づいたことを言えば、もう片方の手が自然に動く。


二人はもう一度、荷の左右を確かめた。




荷を載せた状態での騎乗訓練は、いつもの騎乗とはまるで違った。


地竜の背が動く。その後、荷が少し遅れて揺れる。止まる時も、曲がる時も、背の上の重さだけが一拍遅れてついてくる。


「手綱で荷は止まらねぇ」


レイヴンの声が飛ぶ。


「竜の足と、荷の揺れを見ろ。お前だけの重さじゃねぇ」


見習いたちは苦戦した。


歩き出しで荷の揺れに驚く者。止まる時に身体が遅れる者。曲がる時に慌てて手綱を引きすぎる者。


そのたびに、竜舎番の声が飛ぶ。


「引きすぎだ」


「荷を見るな、竜も見ろ」


「固定が緩い。降りて結び直せ」


「竜が嫌がっている。そこの荷、当たっているぞ」


クレアも、最初は固くなった。


荷の揺れは予想以上だった。自分が怖いだけなら、手綱を引きすぎないように気をつければいい。けれど、今は荷がある。荷が揺れ、地竜の身体に当たれば、地竜が嫌がる。


自分だけではない。


竜だけでもない。


背に載せたものまで見なければならない。


地竜が一歩進む。


荷が少し遅れて揺れる。


クレアの手が、反射的に手綱を引きかけた。


だが、止めた。


地竜の首を見る。


首はまだ固くなっていない。歩幅も乱れていない。乱れているのは、自分の肩と、荷袋の揺れだった。


「クレア」


隣を歩くクロが声をかけた。


「今、少し荷が遅れてた」


「右、ですわね?」


「うん。右の袋が少し揺れてる」


クレアは右の荷を見た。


たしかに、地竜の歩みに少しだけ遅れている。


「……見えましたわ。次で少し早めに身体を戻します」


「うん。たぶん、それで楽になる」


「また、たぶんですのね」


「でも、たぶん大事」


「……わかりましたわ。やってみます」


クレアは息を吸い、次の一歩を待った。


地竜が進む。


荷が揺れる。


その揺れが来る前に、身体をほんの少しだけ戻す。手綱ではなく、姿勢で合わせる。


右の荷の揺れが、さっきより少し小さくなった。


クレアは唇を結んだまま、目だけで地竜を見る。


怖い。


難しい。


けれど、見えるものは増えている。


それが、少しだけ分かった。




クロは、荷付き騎乗にも早く順応していた。


左右の荷は遅れて揺れる。止まる時には後から重さが来る。曲がる時には外側へ振られる。


クロはその遅れを見て、揺れが来る前に身体の置き方を少し変えた。地竜を無理に抑えず、荷の揺れが背を叩かないように合わせていく。


見習いたちの中で、クロはまた一歩先にいた。


しかし、騎乗の間に何度も集中を乱してくる者がいる。


奥の区画で、鎖が鳴る。


胸の奥に、荒い意味がぶつかる。




ーー違う。


ーーそいつじゃない。


ーーこっちを見ろ。




クロの背中が、わずかに逆立った。


手綱を握る指が、一瞬だけ止まる。


乗っている地竜の耳が少し動いた。


クロは慌てて息を整える。


「ごめん」


小さく言って、目の前の地竜へ意識を戻した。


今は、この子を見る時間。


そう言い聞かせる。


けれど、また来る。


奥の区画から、金色の瞳が追ってくる。クロが別の地竜の背にいることが気に入らないのだと、意味だけが押しつけられる。




ーーまだか。


ーー俺を見ろ。


ーー俺に乗れ。




毎回はっきり言葉になるわけではない。


けれど、圧は来る。


近い。


荒い。


押しが強い。


クロは何度も肩を跳ねさせた。


そのたびに立て直す。荷の揺れを見る。地竜の足を見る。手綱を引きすぎないようにする。


できてはいる。


でも、削られていく。


レイヴンも、それを見ていた。


「クロ」


訓練の合間、レイヴンが短く呼んだ。


クロは地竜の背から降りたばかりだった。手綱を竜舎番へ返し、軽く息を吐く。


「はい」


「きついか」


クロは少しだけ黙った。


奥の区画で、鎖が鳴る。


肩が小さく揺れる。


「……大丈夫です」


レイヴンはクロを見た。


「無理なら言え」


「はい」


それだけだった。


レイヴンは、それ以上聞かなかった。


けれど、その目は地竜区画の奥へ向いていた。




訓練が終盤に入る頃には、見習いたち全員に疲れが見え始めていた。


荷を載せるだけでも疲れる。載せたまま乗ると、さらに疲れる。竜の背と荷の揺れと自分の重心を同時に見ることは、思った以上に神経を使った。


クロも例外ではなかった。


地竜の背から降りたクロは、手綱を握ったまま少し俯いていた。耳はいつもより低く、尻尾も力なく下がっている。


いつも主張が強いアホ毛も、しなびているように見えた。


クレアは眉を寄せる。


「……大丈夫ですの?」


クロは顔を上げた。


少し遅れて、笑おうとする。


「うん、まだ、平気」


その顔には、はっきり疲労が浮かんでいた。


クレアは納得しなかった。


「“まだ”が付く時点で、平気ではありませんわ」


「でも、今は平気」


「今は、ですのね」


クロは答えなかった。


奥の区画で、また鎖が鳴る。


クロは振り向かなかった。


振り向かなかったのに、金色の瞳がこちらを見ていることだけは分かった。


胸の奥に、短い意味が残る。




ーーまだか。




クロは小さく息を吸った。


「わからないよ……」


声は、自分で思ったよりも細かった。


それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


奥の地竜へなのか。


自分へなのか。


それとも、隣でこちらを見ているクレアへなのか。


クレアは何か言いかけて、結局、口を閉じた。


代わりに、クロの隣へ半歩だけ寄る。


触れはしない。


けれど、離れもしない。


地竜区画の奥で、もう一度、低く鎖が鳴った。

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