二章 第7話 「聲のこと」
地竜地区を出てからも、クロの尻尾は少し太かった。
完全に膨らんだままではない。けれど普段より毛が落ち着かず、歩くたびに先端がそわそわ揺れている。耳も、何かの音を拾うたびにぴくりと動いた。
クレアは、それを横目で見ていた。
レイヴンは、地竜の聲、と言った。
クロは、聲なのかは分からないと言った。けれど、黒い竜の時もそうだった、とも言った。
あの濃い茶褐色の地竜。金色の瞳。クロの尻尾を一瞬で太くした、強すぎる何か。
顔色は戻りつつある。けれど時々、思い出したように肩が小さく跳ねた。
「……今日は、竜肥の観察を休んでもよろしいのではなくて?」
クレアが言うと、クロは少しだけ首を振った。
「見に行く」
「その状態で?」
「見に行く」
同じ返事だった。
クレアはため息をついた。
「あなた、たまに妙なところで頑固ですわね」
「今は竜肥、見たい」
「竜糞に救いを求める発想、私はまだ理解できませんわ」
クロは少し考えた。
「竜肥は、声が大きくない。癒し」
「癒し……とうとうそこまで……」
クレアはこめかみに指を当てたが、足は止めなかった。
止めても無駄だと分かっていたし、クロを一人で行かせるつもりもなかった。
敷地の端へ近づくと、土の匂いが先に来た。
前のように、鼻の奥を押してくる強さはない。穴の中には小さな区画がいくつかできていて、土が多いもの、藁が多いもの、灰を控えたもの、水分を少し変えたものが並んでいる。
まだ畑には使えない。
けれど、最初のように外へ外へと押し出してくる感じは、かなり薄れていた。
試験場のそばでは、クラインがすでに屈み込んでいた。記録板を片手に、土の表面を見比べている。
「お疲れ様です、クロさん、クレアさん」
「クラインさん」
クロの耳が、少しだけ立った。
「今日は、ずいぶん落ち着いているように見えますね」
クラインが記録板を見ながら言った。
クロはすぐに穴へ近づいた。
クレアは慌てて肩を掴む。
「近づきすぎですわ」
「今日は熱、強くない」
「分かるんですの?」
「遠くからでも、あんまり立ってない」
「何がですの」
「竜」
クレアは目を細めた。
「……竜肥の話ですわよね?」
「うん」
クラインは顔を上げ、眼鏡の位置を直した。
「おそらく、熱と匂いの立ち上がりのことですね。実際、昨日よりもかなり落ち着いています」
クロはしゃがみ、竜肥の表面を見た。
湯気はない。
強い熱で空気が揺らぐこともない。
土と藁の間に、竜肥が少しずつ馴染み始めている。まだ独特の強さはある。けれど、前のようにこちらへ押し出してくるものではなかった。
クロは真剣な顔で言った。
「竜が座ってきた」
クラインの筆が止まる。
クレアも止まる。
「……はい?」
「なんていうか、こう、腰が」
クロは腰を突き出し、不思議なポーズをした。
「竜糞に腰とは……」
クレアはこめかみに指を当てた。
クラインはしばらく考え込んだ。
「腰」
「クラインさん、そこを真剣に受け止めますの?」
「“まだ竜のまま”より、だいぶ土寄りですね」
クロが頷く。
「土寄り」
「はい。記録上は、安定傾向とします」
クレアは二人を見比べた。
「竜糞に腰があり、土寄りになる……もう少し、王国語で会話していただけませんこと?」
「王国語」
クロが首を傾げる。
クラインは記録板にさらさらと文字を書き込んだ。
「クロさんの表現をそのまま公式記録に入れるわけではありません。補助記録です」
「補助なら何を書いてもよいわけではありませんわ」
「もちろんです。ですので、本文には“熱と匂いの立ち上がりが落ち着き、土との馴染みが進行”と書きます」
「最初からそう言ってくださいませ!」
クロは竜肥をじっと見ている。
金色の瞳も、胸の奥へ叩きつけられた乱暴な意味も、消えたわけではない。
けれど、ここには、あの強すぎる聲はない。
あるのは、熱と匂いと、土に馴染もうとしている竜の残り香だけだった。
「今日のは、少し丸い」
クロが言う。
クラインは筆を動かす。
「安定傾向、匂いの刺激低下、と」
「丸いも書く?」
「補助記録には」
「書くんですのね……」
クレアは諦めたように息を吐いた。
けれど、さっきより声は柔らかかった。
クロの耳は立っている。尻尾も、ほとんど元に戻っていた。
クラインは穴の縁を確かめながら言った。
「しばらくは、毎日大きく動かす必要はなさそうですね」
「混ぜない?」
「混ぜます。ただ、暴れているものを押さえるためではなく、空気を含ませるためです」
「息をさせる」
「発酵管理です」
「竜肥が息をする」
「表現は独特ですが、方向性は近いです」
クレアは小さく首を振った。
「まだ王国語が遠いですわ……」
クラインは記録板を閉じた。
「今後は、熱と水分を確認しながら、数日に一度混ぜ返しましょう。空気を含ませ、腐敗に傾かないようにする。今の段階では、焦って次へ進めるより、安定させる方がよいです」
クロは頷いた。
「座らせて、息をさせる」
「その理解で構いません」
「それでいいんですの……?」
クロは竜肥を見下ろし、満足そうに耳を動かした。
「よかった」
「何がですの」
「落ち着いてきた」
クレアは一拍置いてから答えた。
「……そうですわね」
それは、竜肥のことだけではなかった。
少なくともクレアには、そう思えた。
その後の作業は、いつもより静かに終わった。
クロは何度か竜肥の区画を見返したが、地竜地区の方へ視線を向けることはなかった。クラインが記録板を閉じ、クレアが道具を片づける頃には、夕方の光が竜騎士団の敷地を斜めに照らしていた。
宿舎へ戻り、夕食を済ませ、湯を浴びる。
部屋へ入る頃には、昼間の騒がしさはすっかり遠のいていた。
クロは、いつもより早く寝台へ入っていた。下段の寝台で毛布を抱え、丸くなっている。耳は起きているが、尻尾は寝台の端から力なく落ちていた。
クレアは上段へ上がろうとして、梯子に手をかけたまま止まった。
このまま眠ってしまえば、きっと今日は終わる。
そう思ったのに、下段の毛布のふくらみから目を離せなかった。
クレアは小さく息を吐き、梯子から手を離した。
聞いていいことなのか。
聞かない方がいいことなのか。
分からない。
けれど、今日のクロの顔を見て、何も聞かないまま眠ることもできなかった。
「クロ」
小さく呼ぶ。
下段で、クロの耳が動いた。
「なに?」
声は少し眠そうだった。
クレアは一度、床へ視線を落とした。
それから、静かに言った。
「あなた、竜の聲が聞こえるんですの?」
部屋の空気が、少し止まった。
クロはすぐには答えなかった。毛布の端を握る指が、ほんの少し動く。
「……聲」
小さく繰り返す。
クレアは、それ以上続けなかった。
急かすつもりはなかった。
責めるつもりもない。
ただ、聞いた。
クロは毛布を抱え直し、天井の板目を見るように目を向けた。
「聞こえる、っていうのと、ちょっと違う気がする」
「違う?」
「耳で聞こえるんじゃないの。言葉が、そのまま来るわけでもない」
クロは少し考えた。
「でも、意味が来る」
クレアは黙って聞いていた。
「胸の奥に、どんって来る時もある。黒い竜の時は、もっと深くて、重くて、痛かった。今日の地竜は……近かった。圧が強かった」
「圧」
「うん。近かった。ちょっと、怖かった」
クロが素直にそう言ったので、クレアの胸が少し詰まった。
「まだ、自分でもよく分からない。だから、どう言えばいいのか分からなくて、自分からは言えなかった」
クレアは寝台の上のクロを見つめた。
耳は、少し伏せている。きっと、黙っていた事に罪悪感を感じているのだろう。
それでも、隠すために黙っていたわけではないのだと分かった。
クレアは静かに息を吐いた。
「クロ」
「うん」
「辛い時は、言ってください」
クロが目を向ける。
竜の聲が聞こえるとは、どういうことなのか。
それがどれほど危険なのか。
クレアにはまだ、何も分からない。
だから、立派なことは言えなかった。
「一人で何とかしようとしないで。無理は、しないでください」
それだけだった。
クロは少しだけ目を丸くした。
それから、毛布の端を握り直し、小さく頷いた。
「うん」
部屋の外で、遠く竜の鳴き声が聞こえた。
低く、夜の竜舎の方から響いてくる声だった。
クロの耳が少し動く。
クレアは思わず身構えかけたが、クロは青ざめなかった。ただ、静かに聞いているだけだった。
「今のは?」
クレアが尋ねる。
クロは少し考えてから答えた。
「普通の鳴き声」
「そう」
クレアは肩の力を抜いた。
それから、上段の寝台へ上がる。
布団に入る前に、もう一度だけ下を見ると、クロは毛布にくるまって、こちらを見ていた。
「クレア」
「何ですの」
「ありがとう」
クレアは少しだけ黙った。
それから、視線を逸らすように上を向く。
「……早く寝なさい」
「うん」
部屋は静かになった。
遠くの竜の声も、やがて夜の中へ沈んでいく。
クロは目を閉じた。
胸の奥には、まだ今日の圧が少し残っている。
けれど、その隣に、クレアの声も残っていた。
辛い時は、言ってください。
無理は、しないでください。
その言葉は、強くも荒くもなかった。
けれど、眠りに落ちる前のクロの耳に、いちばん近く残っていた。




